表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界最強の引きこもりは、人と生きる意味を知る  作者: わまたよ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
64/75

第二十三話 届かぬ場所に立つ少女

 セシリアは、努力を美しいものだと教えられて育った。


 怠惰は恥。


 無知は罪。


 感情に流されることは未熟。


 名門伯爵家の令嬢として、常に優雅で、正しく、誰よりも優れていなければならない。


 幼い頃から、そう言われ続けてきた。


 朝は礼法。


 昼は歴史と政治。


 夕刻には魔法理論。


 夜には楽器と刺繍。


 同年代の子供たちが庭で遊ぶ声を窓越しに聞きながら、セシリアは羽根ペンを握り、背筋を伸ばし、教師の言葉に頷いていた。


 泣き言は許されなかった。


 疲れたと言えば、母は静かに言った。


 伯爵家の娘とは、疲れても微笑むものです。


 間違えれば、家庭教師は言った。


 あなたは優秀なのですから、この程度で躓いてはなりません。


 褒められることはあった。


 だが、その褒め言葉にはいつも次がついていた。


 よくできました。


 けれど、次はもっと上を目指しましょう。


 セシリアはそれを当然だと思っていた。


 努力して、勝つ。


 勝って、認められる。


 認められて、伯爵家の誇りとなる。


 その道だけが、自分に許された道だと信じていた。


 だから王立学院へ入学した時も、彼女は迷わなかった。


 自分はSクラスに入る。


 そこで上位に立つ。


 主席になれなかったとしても、少なくとも誰にも見下されぬ位置に立つ。


 そう信じていた。


 だが、その場所に先に立っていた少女がいた。


 ルナ。


 苗字のない少女。


 辺境出身。


 どこの名門にも属さず、貴族の教育を受けたわけでもないはずの少女。


 その少女が、主席合格だった。


 そして、学年首位だった。


 全属性適性を示し、剣術でも教師を驚かせ、王女と親しく笑い、王家が特別に扱う男の家族になると言われている。


 セシリアの努力が一段ずつ積み上げた階段を、ルナは軽々と飛び越えていくように見えた。


 それが悔しかった。


 許せなかった。


 そして、何より恐ろしかった。



 朝の教室で、セシリアはいつもの席に座っていた。


 机上には開かれた教本。


 だが文字は目に入っていない。


 視線は、窓際の席へ向かってしまう。


 ルナは今日も、静かに席についていた。


 エマと何かを話している。


 途中でリリアーナが加わり、三人が小さく笑った。


 その笑い声は大きくない。


 品を欠くものでもない。


 けれどセシリアの胸を、細い針のように刺した。


 なぜ。


 なぜ、あの子は笑えるのだろう。


 あれほど注目され、噂され、羨まれ、妬まれているのに。


 なぜ、周囲に人が増えていくのだろう。


 リリアーナ王女。


 エマ。


 市場の娘ミーナ。


 騎士家のカイン。


 ガルド教官。


 気づけば、ルナの周りには少しずつ人が集まっている。


 しかも、その関係は権力だけではないように見える。


 王女がルナを見る目には、打算より親しみがある。


 エマは、地位ではなく友人として隣にいる。


 カインは剣を通して彼女を尊敬している。


 それが、セシリアには理解できなかった。


 自分はずっと、正しく振る舞ってきた。


 失礼のない言葉を選び、家名に恥じぬ成績を取り、礼法を守り、誇り高くあろうとしてきた。


 それなのに、自分の周囲にいる者たちは、いつもどこか距離がある。


 取り巻きはいる。


 褒める者もいる。


 けれど、友人と呼べる者はいるだろうか。


 セシリアはその問いを、すぐに胸の奥へ押し込めた。


 考えてはいけないことだった。


 伯爵令嬢に孤独など似合わない。


 孤独を認めれば、自分が負けたような気がした。



 ルナは毎朝、セシリアへ挨拶をしてくる。


 それもまた、セシリアの心を乱した。


「おはよう、セシリア」


 今日もそう言われた。


 声は小さい。


 けれど、逃げていない。


 セシリアは教本から顔を上げる。


 ルナはまっすぐこちらを見ていた。


 恐れていないわけではないのだろう。


 その瞳には、少し緊張がある。


 それでも、言葉を投げてくる。


 毎日。


 毎日。


 こちらが冷たく返しても。


 無視に近い返事をしても。


 次の日にはまた。


「……おはようございます」


 セシリアは今日もそう返した。


 それ以上は言わない。


 ルナは小さく頷き、自分の席へ戻る。


 その背中を見ながら、セシリアは胸の奥に苛立ちを覚えた。


 なぜ続けるの。


 私があなたを嫌っていることくらい、分かるでしょう。


 そう思う。


 けれど同時に、別の声がする。


 本当に嫌っているの?


 セシリアはその声を押し殺す。


 嫌いだ。


 嫌いでなければならない。


 あの子は、自分の努力を否定する存在なのだから。



 授業は進んだ。


 魔法理論では、ミレディアが複合属性の応用について説明していた。


 セシリアは誰よりも美しい字でノートを取る。


 理解も速い。


 質問にも正確に答えられる。


 自分は優秀だ。


 それは間違いない。


 だが、難問になると、ミレディアの視線は時折ルナへ向く。


 そしてルナは答える。


 少し考えて。


 的確に。


 教師が満足げに頷く答えを。


 セシリアの羽根ペンを握る指に、わずかに力が入る。


 まただ。


 また、ルナ。


 自分も分かっていた。


 答えられた。


 でも、先に呼ばれるのはルナ。


 それが悔しい。


 自分の方が長く学んできたのに。


 自分の方が、この学院にふさわしくあるために努力してきたのに。


 なのに、どうして。


 羽根ペンの先が紙に強く当たり、インクが少し滲んだ。


 セシリアはそれを見て、表情を整える。


 乱れてはいけない。


 自分は、完璧でなければならない。



 昼休み。


 セシリアは取り巻きたちと食堂の奥の席に座っていた。


 皿には上品に盛られた料理がある。


 周囲では令嬢たちが試験の話や次の礼法実習の話をしている。


 その中で、誰かがルナの名を出した。


「ルナさん、次の剣術評価も上位確実でしょうね」


「全属性だけでなく、剣までお出来になるなんて」


「でも、少し怖いですわ」


「公爵家の後ろ盾もありますし、近づきづらいですわね」


 言葉は柔らかい。


 だが、その奥には嫉妬と羨望が混ざっている。


 セシリアは黙って紅茶を口へ運んだ。


 味がしない。


 すると一人の令嬢が、気遣うように言った。


「でも、セシリア様も素晴らしい成績でしたわ。二位ですもの」


 二位。


 その言葉が、胸を刺す。


 笑う。


 伯爵令嬢として、優雅に。


「ありがとう。ですが、二位では足りませんわ」


 令嬢たちは少し慌てたように口を閉じた。


 セシリアは食堂の窓際へ視線を向けた。


 ルナがいた。


 エマとリリアーナと、楽しそうに食事をしている。


 少し遅れて、カインも何かを話しかけている。


 ルナは困ったように笑い、それから小さく頷いた。


 その表情を見た瞬間、セシリアの中で何かが揺れた。


 羨ましい。


 そう思ってしまった。


 自分が欲しかったのは、首位だけではなかったのかもしれない。


 誰かに自然に笑いかけられること。


 失敗しても許されること。


 努力以外の自分を見てもらえること。


 そんなものを、知らないうちに欲していたのかもしれない。


 セシリアは唇を噛みそうになり、慌てて紅茶の杯で口元を隠した。


 違う。


 自分はそんな弱い感情に動かされているのではない。


 これは誇りだ。


 伯爵家の娘として、負けたままではいられないだけだ。


 そう自分に言い聞かせた。



 放課後。


 セシリアは訓練場へ向かった。


 人の少ない時間だった。


 夕方の光が白砂を淡く染め、訓練用の木剣が壁際に並んでいる。


 彼女はひとり、木剣を手に取った。


 剣術は得意科目ではない。


 だが不得意でもない。


 幼い頃から護身術として学んできたし、貴族令嬢として必要な程度以上には鍛えてきた。


 しかし、ルナの剣を見てから、自分の剣が急に薄く感じられた。


 形は整っている。


 礼法としては美しい。


 だが、実戦の重みがない。


 そう認めるのは悔しかった。


 セシリアは木剣を構え、振る。


 一度。


 二度。


 三度。


 剣筋は乱れない。


 だが胸の中は乱れていた。


 ルナ。


 また、ルナ。


 魔法でも。


 試験でも。


 剣でも。


 人間関係でも。


 彼女は、自分の届かない場所へ立っている。


 ならば。


 セシリアは剣を止めた。


 ならば、一度、真正面から向き合うしかない。


 逃げるのでもなく、陰で嫌味を言うのでもなく。


 自分の悔しさを、自分の形でぶつけるしかない。


 それが模擬戦という形であっても。


 決闘まがいと言われても。


 セシリアは、ルナと向き合いたかった。


 負けるかもしれない。


 いや、たぶん負ける。


 だが、このまま何もせずに胸の中で腐らせるよりは、ずっとましだった。



 翌日。


 Sクラスの授業が終わった後、セシリアは立ち上がった。


 教室の中にはまだ多くの生徒が残っている。


 リリアーナ、エマ、カインもいる。


 ルナは机の上の教本を整理していた。


 セシリアはゆっくりと歩み寄った。


 足音が静かに響く。


 数人がその動きに気づき、会話を止める。


 教室の空気が少しずつ変わっていく。


「ルナさん」


 セシリアの声は澄んでいた。


 ルナが顔を上げる。


「セシリア」


 その呼び方に、セシリアの胸が少しだけ揺れた。


 自分は何度も冷たくしたのに、ルナは名前をそのまま呼ぶ。


 嫌味もなく。


 恐れも隠しながら。


 真っ直ぐに。


 セシリアは背筋を伸ばした。


「あなたに、申し込みたいことがあります」


「申し込み?」


「ええ」


 教室の視線が集まる。


 リリアーナがわずかに眉を寄せた。


 カインは真剣な顔になる。


 エマは不安げにルナを見る。


 セシリアは周囲の視線を感じながら、それでも逃げなかった。


「私と、模擬戦をしていただけませんか」


 静寂。


 空気が一瞬で張り詰めた。


 模擬戦。


 その言葉は学院内では珍しくない。


 剣術や魔法実技の授業でも行われる。


 だが今の申し込みは、授業ではない。


 成績確認でもない。


 セシリアの声には、もっと個人的な熱があった。


 決闘まがい。


 誰もがそう感じた。


 ルナは少し目を見開いた。


「どうして?」


 セシリアはすぐには答えなかった。


 言葉を選ぶ。


 ここで「あなたが気に入らないから」と言うのは簡単だった。


 だが、それでは違う。


 自分の感情をまた浅い嫌味に逃がすことになる。


「確かめたいのです」


 セシリアは言った。


「何を?」


「あなたと、私の差を」


 教室がさらに静まる。


 セシリアの指先はわずかに震えていた。


 しかし声は崩さない。


「私は、あなたに負けています。試験でも、魔法でも、剣でも、きっと多くの面で」


 その言葉に、取り巻きたちが息を呑んだ。


 セシリアが自分から負けを認めるなど、誰も想像していなかった。


「けれど、私はまだ納得できていません」


 セシリアの目が、ルナをまっすぐ射抜く。


「あなたが嫌いなのか、悔しいのか、羨ましいのか、自分でも分からない」


 ルナの表情がわずかに変わった。


 それは驚きだった。


 セシリアは胸の奥が痛んだ。


 こんなことを言うつもりではなかった。


 もっと優雅に、もっと誇り高く申し込むはずだった。


 だが、言葉は止まらない。


「だから、戦ってください。私があなたをどう見ているのか、私自身が知るために」


 沈黙が落ちた。


 教室の中で、誰も動かない。


 ルナはセシリアを見ていた。


 その瞳には、怯えもある。


 戸惑いもある。


 けれど、拒絶はなかった。


「……本気で?」


「ええ」


「怪我は、しないように」


「もちろんです。教師立ち会いの正式な模擬戦として申し込みます」


「決闘じゃなくて?」


 ルナの問いに、セシリアは一瞬だけ目を伏せた。


「……決闘にしたい気持ちも、ありました」


 正直な言葉だった。


「でも、それは違うと思いました」


「どうして?」


「あなたを傷つけたいわけでは、ないからです」


 言ってから、セシリア自身が少し驚いた。


 そうか。


 自分はルナを傷つけたいわけではなかったのか。


 勝ちたい。


 認めさせたい。


 自分の悔しさをぶつけたい。


 けれど、傷つけたいわけではない。


 そのことに、今初めて気づいた。


 ルナはしばらく黙っていた。


 そして、ゆっくり頷いた。


「分かった」


 エマが小さく息を呑む。


 リリアーナがルナを見る。


 カインも表情を引き締める。


 セシリアは問い返した。


「受けてくださるの?」


「うん」


 ルナは静かに言った。


「私も、セシリアのことをもっと知りたい」


 その言葉に、セシリアの胸が強く揺れた。


 知りたい。


 ルナはそう言った。


 嫌っている相手ではなく。


 敵ではなく。


 知りたい相手として。


 セシリアは何も返せなかった。


 代わりに、丁寧に礼をする。


「ありがとうございます」


「こちらこそ」


 ルナも小さく頭を下げた。


 教室の空気は、まだ張り詰めている。


 だがそれは、単なる敵意の緊張ではなかった。


 何かが始まろうとしている。


 誰もがそう感じていた。



 放課後。


 セシリアは一人で廊下を歩いていた。


 胸はまだ激しく鳴っている。


 申し込んだ。


 言ってしまった。


 逃げ道はもうない。


 怖い。


 負けるのが怖い。


 自分の努力が届かないことを、真正面から突きつけられるのが怖い。


 だが、不思議と少しだけ軽かった。


 陰で憎むよりも、正面から向き合う方が、ずっと苦しいのに、ずっと息がしやすい。


 窓の外では、夕暮れの光が学院の庭を染めている。


 セシリアは立ち止まり、空を見た。


 ルナ。


 あなたは何者なの。


 その問いは、ずっと胸にあった。


 けれど今日、少し変わった。


 あなたを知りたい。


 そう思ってしまった。


 その事実を、セシリアはもう否定できなかった。


 模擬戦の日は、近い。


 そこで自分は、きっと何かを失う。


 あるいは、何かを得る。


 そのどちらであっても、もう逃げない。


 セシリアは静かに拳を握り、歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ