第二十三話 届かぬ場所に立つ少女
セシリアは、努力を美しいものだと教えられて育った。
怠惰は恥。
無知は罪。
感情に流されることは未熟。
名門伯爵家の令嬢として、常に優雅で、正しく、誰よりも優れていなければならない。
幼い頃から、そう言われ続けてきた。
朝は礼法。
昼は歴史と政治。
夕刻には魔法理論。
夜には楽器と刺繍。
同年代の子供たちが庭で遊ぶ声を窓越しに聞きながら、セシリアは羽根ペンを握り、背筋を伸ばし、教師の言葉に頷いていた。
泣き言は許されなかった。
疲れたと言えば、母は静かに言った。
伯爵家の娘とは、疲れても微笑むものです。
間違えれば、家庭教師は言った。
あなたは優秀なのですから、この程度で躓いてはなりません。
褒められることはあった。
だが、その褒め言葉にはいつも次がついていた。
よくできました。
けれど、次はもっと上を目指しましょう。
セシリアはそれを当然だと思っていた。
努力して、勝つ。
勝って、認められる。
認められて、伯爵家の誇りとなる。
その道だけが、自分に許された道だと信じていた。
だから王立学院へ入学した時も、彼女は迷わなかった。
自分はSクラスに入る。
そこで上位に立つ。
主席になれなかったとしても、少なくとも誰にも見下されぬ位置に立つ。
そう信じていた。
だが、その場所に先に立っていた少女がいた。
ルナ。
苗字のない少女。
辺境出身。
どこの名門にも属さず、貴族の教育を受けたわけでもないはずの少女。
その少女が、主席合格だった。
そして、学年首位だった。
全属性適性を示し、剣術でも教師を驚かせ、王女と親しく笑い、王家が特別に扱う男の家族になると言われている。
セシリアの努力が一段ずつ積み上げた階段を、ルナは軽々と飛び越えていくように見えた。
それが悔しかった。
許せなかった。
そして、何より恐ろしかった。
⸻
朝の教室で、セシリアはいつもの席に座っていた。
机上には開かれた教本。
だが文字は目に入っていない。
視線は、窓際の席へ向かってしまう。
ルナは今日も、静かに席についていた。
エマと何かを話している。
途中でリリアーナが加わり、三人が小さく笑った。
その笑い声は大きくない。
品を欠くものでもない。
けれどセシリアの胸を、細い針のように刺した。
なぜ。
なぜ、あの子は笑えるのだろう。
あれほど注目され、噂され、羨まれ、妬まれているのに。
なぜ、周囲に人が増えていくのだろう。
リリアーナ王女。
エマ。
市場の娘ミーナ。
騎士家のカイン。
ガルド教官。
気づけば、ルナの周りには少しずつ人が集まっている。
しかも、その関係は権力だけではないように見える。
王女がルナを見る目には、打算より親しみがある。
エマは、地位ではなく友人として隣にいる。
カインは剣を通して彼女を尊敬している。
それが、セシリアには理解できなかった。
自分はずっと、正しく振る舞ってきた。
失礼のない言葉を選び、家名に恥じぬ成績を取り、礼法を守り、誇り高くあろうとしてきた。
それなのに、自分の周囲にいる者たちは、いつもどこか距離がある。
取り巻きはいる。
褒める者もいる。
けれど、友人と呼べる者はいるだろうか。
セシリアはその問いを、すぐに胸の奥へ押し込めた。
考えてはいけないことだった。
伯爵令嬢に孤独など似合わない。
孤独を認めれば、自分が負けたような気がした。
⸻
ルナは毎朝、セシリアへ挨拶をしてくる。
それもまた、セシリアの心を乱した。
「おはよう、セシリア」
今日もそう言われた。
声は小さい。
けれど、逃げていない。
セシリアは教本から顔を上げる。
ルナはまっすぐこちらを見ていた。
恐れていないわけではないのだろう。
その瞳には、少し緊張がある。
それでも、言葉を投げてくる。
毎日。
毎日。
こちらが冷たく返しても。
無視に近い返事をしても。
次の日にはまた。
「……おはようございます」
セシリアは今日もそう返した。
それ以上は言わない。
ルナは小さく頷き、自分の席へ戻る。
その背中を見ながら、セシリアは胸の奥に苛立ちを覚えた。
なぜ続けるの。
私があなたを嫌っていることくらい、分かるでしょう。
そう思う。
けれど同時に、別の声がする。
本当に嫌っているの?
セシリアはその声を押し殺す。
嫌いだ。
嫌いでなければならない。
あの子は、自分の努力を否定する存在なのだから。
⸻
授業は進んだ。
魔法理論では、ミレディアが複合属性の応用について説明していた。
セシリアは誰よりも美しい字でノートを取る。
理解も速い。
質問にも正確に答えられる。
自分は優秀だ。
それは間違いない。
だが、難問になると、ミレディアの視線は時折ルナへ向く。
そしてルナは答える。
少し考えて。
的確に。
教師が満足げに頷く答えを。
セシリアの羽根ペンを握る指に、わずかに力が入る。
まただ。
また、ルナ。
自分も分かっていた。
答えられた。
でも、先に呼ばれるのはルナ。
それが悔しい。
自分の方が長く学んできたのに。
自分の方が、この学院にふさわしくあるために努力してきたのに。
なのに、どうして。
羽根ペンの先が紙に強く当たり、インクが少し滲んだ。
セシリアはそれを見て、表情を整える。
乱れてはいけない。
自分は、完璧でなければならない。
⸻
昼休み。
セシリアは取り巻きたちと食堂の奥の席に座っていた。
皿には上品に盛られた料理がある。
周囲では令嬢たちが試験の話や次の礼法実習の話をしている。
その中で、誰かがルナの名を出した。
「ルナさん、次の剣術評価も上位確実でしょうね」
「全属性だけでなく、剣までお出来になるなんて」
「でも、少し怖いですわ」
「公爵家の後ろ盾もありますし、近づきづらいですわね」
言葉は柔らかい。
だが、その奥には嫉妬と羨望が混ざっている。
セシリアは黙って紅茶を口へ運んだ。
味がしない。
すると一人の令嬢が、気遣うように言った。
「でも、セシリア様も素晴らしい成績でしたわ。二位ですもの」
二位。
その言葉が、胸を刺す。
笑う。
伯爵令嬢として、優雅に。
「ありがとう。ですが、二位では足りませんわ」
令嬢たちは少し慌てたように口を閉じた。
セシリアは食堂の窓際へ視線を向けた。
ルナがいた。
エマとリリアーナと、楽しそうに食事をしている。
少し遅れて、カインも何かを話しかけている。
ルナは困ったように笑い、それから小さく頷いた。
その表情を見た瞬間、セシリアの中で何かが揺れた。
羨ましい。
そう思ってしまった。
自分が欲しかったのは、首位だけではなかったのかもしれない。
誰かに自然に笑いかけられること。
失敗しても許されること。
努力以外の自分を見てもらえること。
そんなものを、知らないうちに欲していたのかもしれない。
セシリアは唇を噛みそうになり、慌てて紅茶の杯で口元を隠した。
違う。
自分はそんな弱い感情に動かされているのではない。
これは誇りだ。
伯爵家の娘として、負けたままではいられないだけだ。
そう自分に言い聞かせた。
⸻
放課後。
セシリアは訓練場へ向かった。
人の少ない時間だった。
夕方の光が白砂を淡く染め、訓練用の木剣が壁際に並んでいる。
彼女はひとり、木剣を手に取った。
剣術は得意科目ではない。
だが不得意でもない。
幼い頃から護身術として学んできたし、貴族令嬢として必要な程度以上には鍛えてきた。
しかし、ルナの剣を見てから、自分の剣が急に薄く感じられた。
形は整っている。
礼法としては美しい。
だが、実戦の重みがない。
そう認めるのは悔しかった。
セシリアは木剣を構え、振る。
一度。
二度。
三度。
剣筋は乱れない。
だが胸の中は乱れていた。
ルナ。
また、ルナ。
魔法でも。
試験でも。
剣でも。
人間関係でも。
彼女は、自分の届かない場所へ立っている。
ならば。
セシリアは剣を止めた。
ならば、一度、真正面から向き合うしかない。
逃げるのでもなく、陰で嫌味を言うのでもなく。
自分の悔しさを、自分の形でぶつけるしかない。
それが模擬戦という形であっても。
決闘まがいと言われても。
セシリアは、ルナと向き合いたかった。
負けるかもしれない。
いや、たぶん負ける。
だが、このまま何もせずに胸の中で腐らせるよりは、ずっとましだった。
⸻
翌日。
Sクラスの授業が終わった後、セシリアは立ち上がった。
教室の中にはまだ多くの生徒が残っている。
リリアーナ、エマ、カインもいる。
ルナは机の上の教本を整理していた。
セシリアはゆっくりと歩み寄った。
足音が静かに響く。
数人がその動きに気づき、会話を止める。
教室の空気が少しずつ変わっていく。
「ルナさん」
セシリアの声は澄んでいた。
ルナが顔を上げる。
「セシリア」
その呼び方に、セシリアの胸が少しだけ揺れた。
自分は何度も冷たくしたのに、ルナは名前をそのまま呼ぶ。
嫌味もなく。
恐れも隠しながら。
真っ直ぐに。
セシリアは背筋を伸ばした。
「あなたに、申し込みたいことがあります」
「申し込み?」
「ええ」
教室の視線が集まる。
リリアーナがわずかに眉を寄せた。
カインは真剣な顔になる。
エマは不安げにルナを見る。
セシリアは周囲の視線を感じながら、それでも逃げなかった。
「私と、模擬戦をしていただけませんか」
静寂。
空気が一瞬で張り詰めた。
模擬戦。
その言葉は学院内では珍しくない。
剣術や魔法実技の授業でも行われる。
だが今の申し込みは、授業ではない。
成績確認でもない。
セシリアの声には、もっと個人的な熱があった。
決闘まがい。
誰もがそう感じた。
ルナは少し目を見開いた。
「どうして?」
セシリアはすぐには答えなかった。
言葉を選ぶ。
ここで「あなたが気に入らないから」と言うのは簡単だった。
だが、それでは違う。
自分の感情をまた浅い嫌味に逃がすことになる。
「確かめたいのです」
セシリアは言った。
「何を?」
「あなたと、私の差を」
教室がさらに静まる。
セシリアの指先はわずかに震えていた。
しかし声は崩さない。
「私は、あなたに負けています。試験でも、魔法でも、剣でも、きっと多くの面で」
その言葉に、取り巻きたちが息を呑んだ。
セシリアが自分から負けを認めるなど、誰も想像していなかった。
「けれど、私はまだ納得できていません」
セシリアの目が、ルナをまっすぐ射抜く。
「あなたが嫌いなのか、悔しいのか、羨ましいのか、自分でも分からない」
ルナの表情がわずかに変わった。
それは驚きだった。
セシリアは胸の奥が痛んだ。
こんなことを言うつもりではなかった。
もっと優雅に、もっと誇り高く申し込むはずだった。
だが、言葉は止まらない。
「だから、戦ってください。私があなたをどう見ているのか、私自身が知るために」
沈黙が落ちた。
教室の中で、誰も動かない。
ルナはセシリアを見ていた。
その瞳には、怯えもある。
戸惑いもある。
けれど、拒絶はなかった。
「……本気で?」
「ええ」
「怪我は、しないように」
「もちろんです。教師立ち会いの正式な模擬戦として申し込みます」
「決闘じゃなくて?」
ルナの問いに、セシリアは一瞬だけ目を伏せた。
「……決闘にしたい気持ちも、ありました」
正直な言葉だった。
「でも、それは違うと思いました」
「どうして?」
「あなたを傷つけたいわけでは、ないからです」
言ってから、セシリア自身が少し驚いた。
そうか。
自分はルナを傷つけたいわけではなかったのか。
勝ちたい。
認めさせたい。
自分の悔しさをぶつけたい。
けれど、傷つけたいわけではない。
そのことに、今初めて気づいた。
ルナはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「分かった」
エマが小さく息を呑む。
リリアーナがルナを見る。
カインも表情を引き締める。
セシリアは問い返した。
「受けてくださるの?」
「うん」
ルナは静かに言った。
「私も、セシリアのことをもっと知りたい」
その言葉に、セシリアの胸が強く揺れた。
知りたい。
ルナはそう言った。
嫌っている相手ではなく。
敵ではなく。
知りたい相手として。
セシリアは何も返せなかった。
代わりに、丁寧に礼をする。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
ルナも小さく頭を下げた。
教室の空気は、まだ張り詰めている。
だがそれは、単なる敵意の緊張ではなかった。
何かが始まろうとしている。
誰もがそう感じていた。
⸻
放課後。
セシリアは一人で廊下を歩いていた。
胸はまだ激しく鳴っている。
申し込んだ。
言ってしまった。
逃げ道はもうない。
怖い。
負けるのが怖い。
自分の努力が届かないことを、真正面から突きつけられるのが怖い。
だが、不思議と少しだけ軽かった。
陰で憎むよりも、正面から向き合う方が、ずっと苦しいのに、ずっと息がしやすい。
窓の外では、夕暮れの光が学院の庭を染めている。
セシリアは立ち止まり、空を見た。
ルナ。
あなたは何者なの。
その問いは、ずっと胸にあった。
けれど今日、少し変わった。
あなたを知りたい。
そう思ってしまった。
その事実を、セシリアはもう否定できなかった。
模擬戦の日は、近い。
そこで自分は、きっと何かを失う。
あるいは、何かを得る。
そのどちらであっても、もう逃げない。
セシリアは静かに拳を握り、歩き出した。




