第十九話 王都の日常
王立学院の合格発表から三日後。
王都ソルレイアは、朝から柔らかな陽光に包まれていた。
春の終わりを思わせる穏やかな風が石畳の通りを撫で、家々の窓辺に吊るされた花籠を揺らしている。街路樹の若葉は陽を透かし、金色にきらめいた。
戦いも、試験も、騒ぎも終わった。
街は再び、王都らしい整った呼吸を取り戻していた。
その朝、宿の一室でルナは鏡の前に立っていた。
白いシャツ。濃紺の上衣。まだ仮仕立ての学院制服。丈は少し長く、袖もわずかに余っているが、それでも胸元に縫い付けられた学院章は眩しいほど誇らしかった。
ルナは鏡の中の自分を見つめる。
奴隷服しか知らなかった少女が、今は学院へ通う。
文字だけなら簡単な話だ。
だが彼女にとって、それは人生そのものが別の頁へめくられたことを意味していた。
「……変、じゃないかな」
おそるおそる振り返る。
椅子に腰掛けて本を読んでいたアルトが顔を上げた。
「よく似合っています」
迷いなく言う。
「本当に?」
「ええ。少し大きいですが、それもすぐ合うでしょう」
ルナは照れくさそうに唇を結び、また鏡を見る。
その横で、セラフィスが冷静に袖口を整えた。
「姿勢を正してください、お嬢様。猫背になると上等な衣服ほど粗が出ます」
「は、はい」
「顎を少し引いて。肩の力を抜く」
言われるまま姿勢を直すと、確かに見え方が変わる。
ルナは小さく感嘆した。
「すごい……」
「衣服とは布ではなく印象です」
セラフィスは当然のように答えた。
ヴァルクは部屋の隅で腕を組み、無言で頷いている。
たぶん肯定なのだろうとルナは思った。
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学院指定の仕立て屋は、王都でも評判の高い店だった。
白壁に青い看板。磨かれた窓硝子。中へ入れば、布地の香りと静かな針仕事の音が満ちている。
店主は老齢の女性で、背筋の伸びた職人だった。
「まあ」
ルナを見るなり目を細める。
「主席合格の子ね。聞いてるよ」
「え、あ……」
「照れなくていい。努力した者は誇っておいで」
その言葉は優しかった。
ルナは胸の奥が少し熱くなる。
採寸は丁寧だった。
肩幅、腕の長さ、腰回り、裾丈。柔らかなメジャーが身体を回り、数字が紙へ記されていく。
「成長期だね」
店主が言う。
「少し余裕を持たせるよ。すぐ背も伸びる」
「……伸びるかな」
「伸びるとも。ちゃんと食べて、ちゃんと寝るんだよ」
ルナはこくりと頷いた。
その様子を見て、アルトは静かに笑う。
ルナは以前より食べる量も増えた。表情も増えた。眠る時に怯えて飛び起きることも減った。
数字では測れぬ成長が、そこにはあった。
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採寸の後、店主は布見本をいくつか広げた。
「普段着も必要だろう? 学院の外で制服ばかりじゃ肩がこる」
柔らかな生成りのワンピース。薄青の上着。動きやすいズボン。簡素だが品のある服たち。
ルナは目を丸くした。
「こんなに、選べるの……?」
「服とは選ぶ楽しみも含めて服さ」
彼女は一枚ずつ触れていく。
布ごとに感触が違う。重さも、光り方も違う。
世界には、こんなにも多くの“好き”を選べる余地があるのだと、ルナは初めて知った。
「これ、どう思う?」
薄青の上着を当ててアルトを見る。
「似合います」
「じゃあ、これは?」
「似合います」
「……全部それ言ってない?」
「全部似合っていますので」
セラフィスが小さくため息をついた。
「主様。審美眼が甘やかしに負けています」
「そうでしょうか」
「そうです」
ルナはくすりと笑った。
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午後、一行は王立学院の敷地へ向かった。
王都中心部から少し離れた高台に建つ学院は、小さな街ほども広かった。
赤煉瓦の校舎。
白い回廊。
鐘楼。
訓練場。
図書塔。
花壇の整えられた中庭。
未来ある若者たちの場所らしく、空気そのものが瑞々しい。
寮は女子棟と男子棟に分かれ、ルナが案内されたのは女子棟だった。
寮母は恰幅の良い女性で、見るからに世話焼きそうな人物だった。
「あなたがルナちゃんね」
「は、はい」
「話は聞いてるよ。主席合格、おめでとう」
「ありがとうございます」
「でもここじゃ肩書きより生活態度だよ。掃除、洗濯、門限、共同生活。勉強だけできても駄目だからね」
厳しい口調だが、眼差しは温かい。
ルナは自然と背筋を伸ばした。
「がんばります」
「よろしい」
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部屋は二人部屋だった。
木製の机が二つ。窓辺の棚。簡素な寝台。陽当たりは良い。
「相部屋の子は来週入る予定さ」
寮母が説明する。
「仲良くやるんだよ」
去っていく背中を見送り、ルナは部屋の中央に立ち尽くした。
ここで眠るのだ。
ここで学ぶのだ。
ここで友人ができるかもしれない。
期待と不安が胸の中で同時に膨らむ。
「……一人で寝られるかな」
ぽつりと零す。
アルトは窓を開け、風を入れながら言った。
「最初は誰でも落ち着かないものです」
「アルトも?」
「ええ。森の初日など、ひどいものでした」
「それはまた別だと思う」
ルナが笑う。
その笑顔を見て、アルトは少し安心した。
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学院を出ると、まだ日は高かった。
「市場へ行きませんか」
ルナが珍しく自分から言った。
「買いたい物でも?」
「ううん。……見たい」
その一言に、アルトは頷いた。
「では行きましょう」
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市場通りは今日も賑やかだった。
果物を積んだ荷車。
香辛料の露店。
焼き菓子の甘い香り。
鍛冶屋の槌音。
客引きの声。
笑い声。
行き交う人々の色と音が、通りそのものを生き物のように脈打たせている。
ルナはきょろきょろと辺りを見回した。
以前なら人混みに肩をすくめていた少女が、今はその喧騒を目で追っている。
「見て、あれ」
小鳥の形をした飴細工。
「あっちは花の冠」
「この匂い、何だろう」
好奇心が恐怖を追い越していた。
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その時だった。
「ルナちゃん!」
明るい声が飛ぶ。
通りの角、パン屋の前で手を振っていたのはミーナだった。
栗色の髪を三つ編みにした、快活な少女。
以前、試験前に知り合った市場通りのパン屋の娘である。
「ミーナ!」
ルナの顔がぱっと明るくなる。
駆け寄る足取りに迷いがない。
ミーナも走り寄り、その手を取った。
「合格したって聞いたよ! しかも主席って本当!?」
「う、うん……」
「すごーい! やっぱりルナちゃんすごい!」
自分のことのように喜ぶミーナに、ルナは戸惑いながらも嬉しそうだった。
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「今日は暇?」
ミーナが尋ねる。
「少しなら」
「じゃあ一緒に回ろ! 新しいお店できたの!」
ルナはアルトを見る。
許可を求めるような視線だった。
「行ってきてください」
「え……いいの?」
「友人との時間は大切です」
セラフィスも頷く。
「門限までには戻るように」
「まだ寮生じゃないよ?」
「練習です」
ルナは笑った。
「じゃあ、行ってくる!」
その声には弾むような軽さがあった。
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ミーナに引かれるように、ルナは市場を巡った。
髪飾りの店。
文房具屋。
香り袋の露店。
古本市。
小さな噴水広場。
ミーナは次から次へと話す。
「学院ってどんな感じ?」
「貴族って本当にいるの?」
「主席って、やっぱり勉強ずっとしてたの?」
ルナは答えながら歩く。
全部を上手く話せるわけではない。
それでも、言葉を返すたびに心の扉が少しずつ軽くなっていく。
「ルナちゃんって最初、すごく静かだったよね」
ミーナがパンを頬張りながら言う。
「そう、かな」
「うん。今は笑うようになった」
ルナは足を止めた。
「……笑ってる?」
「笑ってるよ、いっぱい」
ミーナはあっけらかんと言った。
ルナは自分の頬へ触れる。
笑っている自覚など、なかった。
けれど確かに、胸は軽かった。
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少し離れたベンチで、アルトたちはその様子を見ていた。
「主様」
セラフィスが静かに言う。
「お嬢様は、もう以前のようには戻られません」
「ええ」
「良い意味で、です」
「分かっています」
アルトの視線は、噴水のそばで笑うルナへ向いていた。
あの怯えきった少女が、人混みの中で友人と笑っている。
それは何か大きな奇跡のようにも思えた。
だが本当は奇跡ではない。
誰かが差し伸べ、誰かが受け取り、少しずつ積み上げた日々の結果だ。
人が人を変える。
それを、アルトは学び続けていた。
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西の空が橙に染まる頃、ルナは両手いっぱいに小さな買い物袋を抱えて戻ってきた。
「見て」
嬉しそうに広げる。
栞。
髪紐。
安い焼き菓子。
ミーナとお揃いの小さな鈴。
「楽しかったですか」
アルトが問う。
ルナは何の迷いもなく答えた。
「うん。すごく」
その笑顔は、以前の慎重な微笑みではなかった。
年相応の、屈託のない少女の笑みだった。
夕陽がそれを照らし、瞳の奥に金色の光を宿していた。
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帰り道、ルナはふとアルトの隣へ並ぶ。
「ねえ」
「はい」
「学院、少し不安だったけど……今は楽しみ」
「それは良かった」
「友達、できるかな」
「もう一人います」
「ミーナ以外にも、って意味」
「できるでしょう」
「なんでそんなに言い切れるの」
「あなたが変わったからです」
ルナは首を傾げる。
アルトは続けた。
「人を怖がっていた頃のあなたではなく、人を知ろうとしている今のあなたなら」
しばらく沈黙があった。
やがてルナは小さく言った。
「……ありがとう」
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王都の灯りが一つ、また一つとともる。
明日もまた、多くの人が行き交い、笑い、悩み、生きていく。
その流れの中へ、ルナも踏み出していくのだろう。
守られるだけの少女ではなく。
学び、選び、笑い、誰かと並んで歩く一人の人間として。
その背中を見ながら、アルトは思う。
一人でも生きられる。
だが、誰かと生きる日々は――これほど温かい。




