第十三話 地鳴りの向こう側
王都ソルレイアの夜は、昨夜の喧騒が嘘のように静かだった。
祭りのような勝利の宴は終わり、冒険者ギルドの広間には酒の匂いと、片付けきれなかった余韻だけが残っている。倒れた椅子は戻され、割れた皿は捨てられ、笑い声の代わりに朝の箒の音が響いていた。
だが、人の心というものは、戦いが終わったあとほど騒がしい。
生き残った安堵。
死なずに済んだ偶然。
あの一歩で命が終わっていたかもしれない現実。
それらは遅れて胸へやってくる。
昨夜は酒で押し流せても、朝になればまた戻ってくるのだ。
だからこそ、人は語る。
何が起きたのかを。
誰が何を見たのかを。
あの時、自分はどう思ったのかを。
そして語ることで、ようやく恐怖に輪郭を与える。
これは、王都を揺らした災害級――地砕獣グラズ=ヴォルグとの戦いを、三人の視点から辿る記録である。
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鐘の音で目が覚めた時、ガレスは嫌な予感しかしなかった。
王都冒険者ギルド支部長ガレス。四十を越えた大男であり、古傷の数だけ修羅場を見てきた男だったが、その鐘の鳴り方だけで分かることがある。
火事の鐘ではない。
暴動の鐘でもない。
あれは、“街が終わるかもしれない時”の音だった。
「……ちっ」
寝台から起き上がり、上着を羽織る。窓を開けば、北西の空に茶色い煙が立っていた。
土煙。
しかも、風で流れる形ではない。
何か巨大なものが進軍している時の、濁った筋だった。
「最悪だな」
呟きながらギルドへ走る。
通りはすでに混乱していた。泣く子供、荷物を抱える商人、叫ぶ兵士。昨日まで平和だった街が、数十分で別物になる瞬間を何度も見てきた。
だが王都ほど大きな街でも、人のやることは同じだ。
危機の前では、皆ただの人間になる。
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ギルド本部へ飛び込むと、職員たちが蒼白な顔で駆け回っていた。
「支部長!」
「確認は」
「北西丘陵を越えて災害級接近! 識別名、地砕獣グラズ=ヴォルグ!」
「よりにもよってそいつか」
若い頃、一度だけその名を聞いたことがある。
国ひとつを半壊させ、討伐まで三日かかった怪物。
城壁は紙のように砕かれ、騎士団は潰され、最後は山一つ崩して埋めたという古い記録。
そんなものが、今こちらへ歩いてきている。
「全員聞け!」
ガレスは怒鳴った。
声量だけなら若い頃と変わらない。
「C級以下は避難誘導! B級以上は武装して北門! 逃げたい奴は逃げろ、止めねぇ!」
一瞬、空気が止まる。
誰も動かない。
若い冒険者の喉が鳴る音まで聞こえた。
「……だがな」
ガレスは続ける。
「街ごと潰れりゃ、逃げた先もねぇぞ」
その言葉で、皆の顔が変わった。
恐怖は消えない。
だが、覚悟という別の色が混ざる。
武器を掴む音が連鎖した。
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北門前の平原へ出た時、ガレスは思わず笑った。
「冗談だろ……」
地平線の向こうから、山が歩いてきていた。
それ以外に表現のしようがない。
黒褐色の外殻。突き出た角。背中の岩棘。歩くたびに地面が沈み、振動が足裏から膝へ伝わる。
人が蟻に見える巨体。
剣や矢が通じる相手には見えなかった。
「支部長……あれ、勝てるんですか」
若い冒険者が訊いた。
ガレスは鼻で笑う。
「馬鹿言え。勝つんじゃねぇ」
斧を肩へ担ぎ、前を見る。
「死ぬまで止めるんだよ」
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開戦。
魔導砲の轟音が腹に響いた。
光弾が巨獣へ着弾し、土煙が舞う。だが煙が晴れれば、そこには変わらぬ歩調の怪物がいた。
誰かが絶望の声を漏らす。
「うろたえるな!」
ガレスは前へ出た。
冒険者たちも続く。
自分が下がれば全員が下がる。それだけは分かっていた。
地砕獣の脚へ斧を叩き込む。
痺れるほど硬い。
刃こぼれの音がした。
「くそったれ!」
横から槍が突き、後方から火球が飛ぶ。連携は悪くない。だが相手が悪すぎた。
次の瞬間、尾が薙いだ。
視界が空へ跳ねる。
自分の身体が吹き飛んだと理解したのは、地面へ叩きつけられてからだった。
肺の空気が抜ける。
肋骨が嫌な音を立てた。
「……まだだ」
血を吐きながら立つ。
痛みなど後回しでいい。
今はまだ、門が無事だった。
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戦線は削られていく。
兵士が飛び、冒険者が倒れ、回復術師の魔力が尽きていく。
時間だけが欲しいのに、時間ほど残酷なものはない。
長引くほど人が減る。
地砕獣が突進体勢に入った時、ガレスは理解した。
ここまでだ、と。
門が割れれば王都内部で虐殺が始まる。
民間人の悲鳴が浮かんだ。
受付嬢たちの顔が浮かんだ。
アリスの、あの生意気な笑顔まで。
「……悪いな」
誰へ言ったのか、自分でも分からない。
斧を握り直し、最後の突撃をしようとした、その時。
空が裂けた。
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一閃。
角が飛んだ。
あの怪物の、あの巨角が宙を舞っていた。
「は……?」
ガレスは口を開けたまま固まる。
誰も理解できなかった。
次いで空から四つの影。
蒼天の牙。
王国最強の英雄たち。
歓声が上がるより先に、ガレスは膝から力が抜けた。
「遅ぇんだよ……馬鹿ども」
泣きそうな声だった。
それを誤魔化すように笑った。
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受付嬢アリスは、昔から泣くのが苦手だった。
泣けば何かが解決するならいくらでも泣く。
だが現実は逆だ。
泣いている間に状況は悪くなる。
だから彼女は笑うことを覚えた。
忙しい時ほど明るく。
怖い時ほど元気よく。
それが彼女なりの戦い方だった。
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北門後方救護所。
布を張っただけの仮設天幕の中は、血の匂いで満ちていた。
「次の担架こちら!」
「止血帯! 早く!」
「この人、呼吸浅いです!」
叫び声が飛び交う。
兵士の腕はあらぬ方向へ曲がり、冒険者の顔面は裂け、土と血で誰が誰かも分からない者までいる。
アリスは手を止めなかった。
包帯を巻く。
水を飲ませる。
名前を呼ぶ。
それだけでも、人は生きようとする。
「大丈夫です。まだ意識あります、しっかり!」
自分でも嘘だと思う言葉を、何度も口にした。
だが必要なのだ。
希望という虚構でも、人は掴めば立ち上がる。
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外から地鳴りが響くたび、天幕の支柱が震えた。
地砕獣の一歩だと誰かが言った。
そのたびに心臓が縮む。
もしここまで来たら、自分たちは潰されるだけだ。
それでも手を止めれば、その前に目の前の誰かが死ぬ。
だから働く。
考えないために。
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担架で運ばれてきたのは、顔見知りの若い冒険者だった。
「ロイ……!」
受付で何度も絡んできた青年だ。
軽口ばかり叩く癖に、依頼失敗の新人へこっそり飯を奢るような男だった。
腹が裂けている。
「アリスさん……俺、格好悪いっすか」
「最悪です」
即答した。
「こんな時に寝転んでるなんて」
青年が笑う。
血泡が口端に滲む。
「……よかった。いつも通りだ」
「喋らないで」
「今度、酒……」
「喋らないで!」
声が裏返った。
回復術師が来るまで、彼の手を握り続けた。
震えているのが相手か自分か、分からなかった。
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外で悲鳴が上がる。
次に、門へ何かがぶつかるような衝撃。
天幕の布が揺れ、薬瓶が倒れた。
「門が……!」
誰かの声で、場が凍る。
終わる。
そう思った。
この王都も、自分も、ここにいる全員も。
怖かった。
怖くて、吐きそうだった。
それでも彼女は叫ぶ。
「まだ諦めないでください!」
誰へ向けたのか、自分にも分からない。
自分自身へだったのかもしれない。
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その直後だった。
歓声が起きた。
最初は幻聴かと思った。
だが次第に広がる。
叫び。泣き声。笑い声。
天幕の外へ飛び出す。
遠く平原で、巨獣が崩れ落ちていた。
蒼い外套の四人が立っている。
そして王都中が、助かったことを理解し始めていた。
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膝が抜けた。
その場へ座り込む。
涙が勝手に落ちた。
「……ああ、もう……」
泣くの苦手だったはずなのに。
止まらなかった。
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近衛副団長レオンハルトは、生涯で二度だけ恐怖を認めた。
一度目は初陣。
二度目が、この日だった。
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城壁前広場に整列した近衛兵団を見渡し、彼は思う。
若い者が多い。
まだ髭も薄い新兵もいる。
本来なら王城警備や儀礼任務から育てる者たちだ。
それを前線へ出す時点で、事態は詰んでいる。
だが王都にいる以上、逃げる道理はない。
「敵は災害級」
声を張る。
兵の瞳が揺れる。
「勝利を望むな。時間を稼げ」
これは真実だった。
嘘で鼓舞するより、現実で腹を括らせる方がいい。
「我らの背後には民がいる」
剣を抜く。
「ならば死ぬ場所は前だ」
兵たちの喉が鳴り、それでも剣が上がった。
十分だった。
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戦場では、理想など一撃で砕ける。
魔導砲は効かず、槍は折れ、盾兵は吹き飛んだ。
レオンハルト自身も脚へ斬り込み、岩のような外殻に火花を散らしただけだった。
それでも諦めるわけにはいかない。
後退命令は、王都への死刑宣告だ。
「前衛交代! 陣形維持!」
怒鳴る。
血で喉が焼ける。
部下が倒れるたび名前を覚えてしまう。
それが嫌だった。
死者に顔があると、指揮官は迷う。
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地砕獣が突進した。
盾列が割れた。
ここで終わる、と確信する。
だが身体は勝手に前へ出た。
剣を構える。
一人で止まるわけがない。
知っている。
それでも、兵とはそういうものだ。
死ぬと分かっていて前へ出る職業なのだ。
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風が変わる。
直感した瞬間、角が飛んだ。
次いで四人の着地。
蒼天の牙。
彼らの名は知っている。
だが実戦を見るのは初めてだった。
凄まじかった。
速さ、判断、連携、無駄のなさ。
自分たちが泥の中で命を削って稼いだ数十分を、彼らは三十秒で終わらせた。
悔しさはあった。
同時に、清々しいほどの納得もあった。
世界には本物がいる。
それだけのことだ。
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巨獣が倒れ、歓声が広がる中、レオンハルトは剣を地へ突き立てた。
足が震えていた。
疲労ではない。
安堵で、ようやく身体が戦いを終えたのだ。
「副団長!」
部下が駆け寄る。
「ご無事で!」
「……うるさい」
そう言って笑った。
今日初めての笑みだった。




