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いつでもそばにいるよ。  作者: 大和麻也
全部春のせいにできたなら
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 赤松が東京へ去ってから数か月。

 受験校を決めようという、俺と母と、担任の楠本との三者面談の席でのことだった。

「いままで黙っていてごめんなさい。先生方も、黙らせてしまってごめんなさい」

 涙を流して、母は俺に謝罪した。突然のことに理解が追いつかなかった。

 曰く、俺は重大なことを母から秘密にされていたという。事実、というか、その可能性は漆原と楠本から――特に漆原は、去年担任だったときから指摘していたそうだ――伝えられていたそうだが、両親はそれを俺に伝えることを良しとしなかった。それを知ったら、横柄にしているふうでも気の小さい俺がパニックになるのではないかという心配と、田舎という土地柄、それが噂になるのが嫌で本人である俺にも知らせられないと思ったのだという。


 俺は数の概念を理解できない。


 証拠はたくさんあった。勉強が苦手で成績も悪かったが、そうだとしても数学だけは異常に理解が遅かった。しかも、その程度が並大抵の「苦手」では済まされないものだった。

 数字を見聞きしてそれを具体的に置き換えることが苦手で、指を折って数えないと確信が持てない。数字を見てその大小や連続を理解することが苦手で、数直線が何を表しているのかよくわかっていない。プラスとマイナスの意味がなかなか飲みこめない。俺には自覚がなかったが、それ以外にも指示された個数でモノを持ってくることができないとか、作ったモノや描かれたモノを数えて数として言うことができないとか。それらはすべて、俺が数を用いた考え方を曖昧にしかできないために生じるエラーだった。

 兆候は早くからあったはずだ。小学校中学年くらいになれば、明らかになりはじめていたことだろう。しかし、勉強不足との区別も難しければ、親もそれに理解を示すには抵抗があって、結果として診断を仰ぐこともなく、「勉強ができない」「人の言うことを聞けない」「ひねくれている」といったことにして片づけられてしまった。中学生までに俺が悪ガキのキャラクターで定まってしまったのも、その影響が少なからずあったのだろう。

 漆原は両親の希望から、俺の特性を知りつつもそれを明かすことはせずに、マンツーマンの指導で改善を試みた。来たる受験に備えて、だ。しかし結果は思うように出ず、楠本も交えた話し合いの末、両親は隠し事をやめる決心をしたそうだ。俺が混乱してしまうおそれよりも、自覚して自分と向き合う可能性に賭けて。

 でも、その賭けは悪いほうに出てしまったらしい。

 何度も謝罪されるうち、俺は気がついてしまった。

 俺は赤松と変わらない、障害を持った欠陥品だったのだと。

 そうとは知らず、俺は赤松にとんでもないことをしてしまったと。

 頭がグラグラする。

 計算ができないとか、受験が厳しいとか、その程度は問題でないと感じていた。



「……気がついていたのか」

 一口コーヒーを飲めば気持ちが落ち着くかと思ったが、少しもよくならなかった。

「気がついたといっても、大学生になって教員になるための勉強を始めてからだけれどね。栃尾もそういうことだったのかな、なんてね」

 秘密をこじ開けるまで赤松のことを理解できなかった俺とは大違いだ。違う、あまりにも違いすぎる。

「赤松の言う通り、いまなら、楠本を尊敬する気持ちも理解できる。楠本は一度も、俺のことを欠陥品として扱わなかった。それどころか、褒めてさえくれた」

「その口ぶりから察するに、栃尾も相当苦労したみたいだね」

 その通り。

 数学がほとんど存在しない、単純作業の世界で俺は生きている。無論、困ることは多々ある。自分のことは工場には申し出ていないので、自分の工夫でどうにかしなければならないことのほうが多い。しかし、俺は診断を受けたわけではないし、苦労して手に入れた仕事なので、高い要求はできない。指折り数えて、なんとかする。

 俺の知らないところで、俺の噂を囁かれるよりはマシだから。

「誰が悪いんだろうな、こんなに惨めな思いをするのは。本当のことを言って周りから白い目で見られたくないから秘密にしているのに、何もしてもらわないことにはダメダメで、ダメダメなうちはバカだと思われて嫌な顔をされる。何かしてもらうには、一生、一秒も休まずに自分の秘密を開けっぴろげにしておかないといけない」

 ちょっとでも秘密にしている時間があったら、そのあいだは白けた冷たい視線を浴びせられる。もちろん、その気持ちもわかってしまう――バカな奴をからかいたい気持ちも、助けてほしいくせに黙っている奴に苛立つ気持ちも。

 先生、教えてくれないか? ……俺は赤松に向けて、心の中でそう付け足した。

 でも、彼女はまた同じ表情を浮かべるだけ。俺はそれを見て、その意味に気づけずにいたことを悔いる。彼女はずっと、中学生のころからいままで「そうじゃない」と黙って言い続けてきたのだ。バカだと言われたときも、怒っているかと問われたときも。

 彼女もまた、絶えず自分を暴露しなければならなかった。それが言葉だとか本心だとかと一致しているとは限らないし、時に本心とは反対向きに表出されることもある。全部強いられているから、何もかもすんなりと腑に落ちるようにはならない。コントロールすることができない。

 許されていないのだ。



 秘密を知ってしまった。俺は後悔している。


 違う、そうじゃない。

 俺が後悔しているのは、そのことではない。



「少しだけ思うことがあるんだ」

 誰が悪いのか、という俺の問いに、赤松先生は直接模範解答を述べるのとは違う形で、ひとつの答えを示そうとしていた。

「栃尾がもう少し早く、自分のことに気がついていたらどうなっていたのか。もしくは反対に、私も気がついていない立場だったら何を思っていたのか。反実仮想の虚しい遊びだよね。でも、その中に意味ある結論がひとつだけあったとするなら――いまとは違う関係になっていただろうなってこと」

 ようやく、俺は彼女の発言が俺を責めるものではないと感じられるようになっていた。

 たぶん、最初から彼女は俺を責めてなどいない。自然体で俺と向かい合ってくれている。俺が相手なら、一方的に秘密を曝け出す立場でなくてもよいのだから。その自然体を引き出したのが、あのとき俺が秘密を強引に暴いた悪行なのだとすれば、あまりにも皮肉ではあるが。

 責められてなどいなくても、俺は謝らなくてはならない。漆原に忠告されてもそれをせず、二年間も彼女に借りを作ってしまった。その借りは七年間も未済のままで、俺の手に負えないほどの利子がついている。

「ごめん、俺がバカだった。取り返しのつかないことをして、何度も傷つけて、本当に申し訳ないと思う。赤松が引っ越してからの俺の苦労は、きっと天罰だったんだ」

「だから、謝ることではないし、自分をバカだと言ってはいけません」

 未熟な俺を指導する、心優しい先生の口調だった。

「大丈夫、栃尾は成長しているよ。欠陥品なんかじゃない、私とこうして穏やかに話せていることが何よりの証拠」

「…………」

 敵わないな。

 読み書きが極度に苦手な彼女は、教壇に立っても苦労が絶えないに違いない。教科書の記述を読んで聞かせるとか、板書するとか、プリントを作るとか、文字と向き合わずにこなせる仕事ではない。でも、教師が彼女にとって天職であることに疑いはない。

 謝罪は欲していないというのだから、俺が言うべき言葉は何だろうか。ぼんやりとは思い浮かんでいるが、それを言うにはちょっと勇気が要りそうだ。でも、それが思い浮かぶあたり、俺はこの瞬間にもわずかながら成長し続けている。そして、赤松はそれに気づいて認めてくれている。

 今度は、逃げない。

「なあ、そういうわけで俺は計算が苦手だ。だから、計算高いことは抜きに、直球勝負で言いたいんだけど――」

 後悔は先に立たない。

 でも、後悔しないように生きることはできない。どんなことでも、将来悔いるタネになってしまう。その代わり、これなら後悔しないと確信できることを、丁寧に選び取って行動することなら、不可能ではないはずだ。

 窓に風が吹きつけて、その向こうで数輪の桜色を付けた枝が揺れている。

 それを眺めるときには、ふたりの視線は同じ向きを向いていた。



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