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キッチンには卓上のIHクッキングヒーターが備え付けられていて、部屋探しをしていた時から気にはなっていたのだけど、実際暮らし始めると特に冬場はその不便さが際立ってくる。
不便さというのは一口しかないクッキングヒーターのことで、ケトルとフライパン、もしくは炒め物と鍋で汁物を作る、といった同時作業のことで、今もわたしはペンネを茹でる鍋の側で潰したニンニクの一片と刻んだ赤唐辛子の乗ったまな板シートをそのままに、他にすることもなく手持ち無沙汰な自分に不安を感じ始めていた。
効率の悪い料理の仕方から、わたしを惨めにさせるような言葉を脳内で展開させるものは母親の声によく似ていて、その声に萎縮したわたしは何故かどうでもいい反論をしてしまう。
これはわたしが悪いのではなく、一口しかないクッキングヒーターのせいだから、わたしの要領が悪いのではなく、段取りよくやりたくても出来ない状況にあるからなのだ、わたしのせいじゃない、と。
こういった例の声に反論を加えている時のわたしはその後罪悪感に苛まれ、それからしばらくの間たまらなく他人を遠ざけたくなるのだった。それは構内でも同じように展開され、ついこの間も学食でお昼を取っていた際、後から来た三人連れの、名前と顔だけは知っている程度の彼女達に相席を求められ、その際に連絡先の交換を求められたけど、わたしからは何も発信するものはないだろうという言葉を奥底に仕舞い愛想笑いしている自分にとって、そのお昼の出来事は劣等感を呼び覚ますだけの時間でしかなかった。
彼女達は何も悪くないのにそれすらも、わたしを傷つける者みたいに精神的な抵抗を無意識にみせていたに違いなく、実際一度遊びの誘いがあったのをありきたりな用事があるという理由もならない言い訳で断った後は、全くの他人に戻ってしまったように、彼女達と食堂で会うことさえなくなっていた。
高校までのわたしなら、そっちから話しかけてきたのに、と途中で関係を絶った相手を責めていただけだろうけど、一人暮らしを始めて一年経った今では、彼女達ではなく問題はわたし自身にあるのだということが、理屈でも、感情の上でも理解できるようになっていたから、食堂での一件もあらかじめそういう結末に持っていくつもりでの行動だったことが後になってから分かるくらいには自己評価も出来るようになっていた。
なのでそういう対応の仕方を覚えてからのわたしは周りから、暗い奴もしくは付き合いの悪い奴、人間関係に責任を持てない奴という認識に落ち着いてしまう結果にも納得はしていたし、その結果に見合うような振る舞いも意識的にとれるほどにも、人付き合いに自分なりの方法論も見いだし始めていた.
けれど、バイト先ではわりとおしゃべりな方で、特に気を遣って軽い口調で話しかけてくれる店長とは、わたしから冗談を言えるくらいには打ち解けていたから、時々学内での暗い女という周りの認識に戸惑う瞬間が出てくるようになり、最近ではそのギャップにわたし自身苛立つことが多くなっていた。
確かに根暗な人間のやる行動をとっているのだから、そう決めつけられても仕方ないと分かっていても、自分の中の明るい一面を見せている時ほど苛立ちは恥の感情を伴ってわたしを責め立ててくるのだ。それはちょうど中学に上がり、女性としての身なりに気を使い始めた頃母親から性的な嫌みを初めて言われ頭の中が負の感情で一杯になった時の再現のようで、わたしはそれに近い状況に置かれると思考がまるっきり働かなくなり、誰に対しても、それが相手の思い過ごしや見当違いの怒りでも、無抵抗な態度しか取れなくなって一方的に傷つけられるがままになってしまうのだった。
こんな時他の人はどうやって感情の整理をつけているのだろうか、と最近よく考えることが増えていた。わたしから見たら皆うまく人生を送っているようで、わたしだけが何か世渡りの講習を受け忘れていることに気がつかないまま生きているのでは、と不安にもなる。誰もわたしに教えてくれないのは、わたしが嫌われているからなんて妄想まで信じ込んで仕舞いかねないのだから笑えない。
焦げたニンニクの臭いで目の前の現実に向き合うと、とっくにザルに上げたペンネをフライパンの中へ投入すると、ソース状になったトマトが、部屋着代わりにしていたグレーのパーカーの袖に飛び散りると、わたしはいてもたってもいられなくなる。
ヒーターの電源を止めバスルームへ向かいパーカーを脱いだ。潔癖症ではないのだけれど、時々発作みたいにちょっとした汚れが気になりわたしはその汚れを落とさない限り他のことが手につかなくなることがあった。トマトの飛び散った箇所を洗剤をつけたテッシュで軽く叩きながら、あの会社員風の男性のことが頭に浮かんできた。男性の一人暮らしってどういう風なんだろうか。あの人からはいつも自炊してるような几帳面さが感じられた。今同じように料理の最中なのだろうか。こんなことになったら男性ならそのままにしておくのかな。でもあの人はこうやって同じように汚れを落とすことを優先させてそうだな、とあの男性のことを考えていたら自然に心の中が穏やかになっていくわたし自身の心境の変化に気づき、今まで体験したことのない不思議な戸惑いを感じていた。