(下)
ヴァルダス・デッガーダという男は雄弁ではない。
だがこれまでの彼の人生においてそれはたいしたことではなかった。軽口を叩けぬ事が無能である証にはならない。特殊護衛隊員は秘密裏に事を進める場合も多く任務を遂行する上では利点だとも言える。
だが今は、その口下手さが歯がゆかった。
自宅に帰宅した後も「ごめんなさい」と言い残し、リリィは一人寝室に篭っていた。しんとした彼女の家は冷え切っていて、物音一つしない。
にゃあ、と小さく鳴きながら黒猫のギィが足元に身体を擦りつけてきた。部屋を暖めろと訴えているのだろうか。
いつもならリリィは寝室の扉をうっすらと開き、気紛れなギィは行きたい時にだけそこに身体を滑らせて彼女のベッドに潜り込む。だが今夜のリリィはその習慣すら忘れてしまったらしい。
しばし閉じられた扉を見つめ、ヴァルダスはギィの頭を撫でた。それから暖炉の火を起こし、燃え過ぎることのないよう少しだけ薪をくべた。
リリィのあの様子は愛玩動物を手放した感傷的な落ち込みとは違う。
おそらく自分が想定していたよりもずっと強い思い入れがあったのだ。
母親代わりに(ドラゴンではあるが)子を育てる。
今更ながらその意味をヴァルダスは考えだしていた。
暖炉の前に屈んでいた足元に、再びギィが擦り寄ってきた。
ヴァルダスはもう一度頭を撫でると、窓辺に折り畳んで置いてあるギィ専用の昼寝毛布を持ってきた。暖炉の温もりが届く位置に置いてやり、ミルクを人肌に温めて出してやる。
【集荷チェッカーを護衛し無事親ドラゴンの元へ返却】
その事実を、今は城に戻り報告せねばならぬ。
自分が今日一日彼女に付いていたのは仕事としてだ。前例が無いため初回時同様、詳しい報告書を作成する必要がある。
全てを終え彼女の元に戻る頃には、おそらく日付が変わっている頃だろう。このままそっとしておき、今夜は宿泊所か本来の自宅で暖を取るべきだろうか。
そんな事を考えつつ、ヴァルダスはリリィの家を後にした。
* * *
骨と皮ばかりになった父は、既に何処を見ているのかも分からなかった。濁った瞳に光は無く、うっすらと開いた口は干からびてしまっている。
勤務先から帰宅すると、リリィは幾重にも分厚く腰にあてがった布を取り替え、湯に浸した拭き布で優しく身体を拭って服を着せ替えた。
新しくシーツを張ったベッドの上で少しでも血行を良くしようと手足をさすりながら、リリィはその日起こった出来事を詳しく父に話して聞かせた。ロイが結婚まで秒読み段階である事、フェントンがやらかした失敗話、集荷課に運ばれた変わった荷物の事など。
だが。
『すまない……リリィ』
父の口から溢れるのはそればかりだった。
リリィは謝ってなど欲しくなかった。
少しでも父の傍にいたかった。いて欲しかったのだ。
大好きだった家族は、みんな、みんな自分の元を去っていく。
馬車に跳ねられてしまった母。
家を切り盛りしてくれていた祖母。
誰よりも優しかった父。
そして、自分を母親だと思い込み、全身で愛を求めてしがみついてきたピュルイ。
リリィは枕に顔を埋めていた。
いくら流しても後から後からとめどなく溢れる涙と鼻水で分厚かった拭布はぐっしょりと湿ってしまっている。明日が休みであることだけが救いだった。
ヴァルダスは帰ってしまったらしい。耳を澄ましても隣室からは物音一つ聞こえてこなかったから。
打ちのめされた心は彼の傍にいることを拒んでいた。だがいざいなくなられてしまうと、切り裂かれるような胸の痛みがリリィを襲う。
帰宅して逃げるようにこの部屋に篭った。優しい彼の事だ。きっとその事を責めはしない。だが、不快に思う気持ちに変わりはないだろう。
――ごめんなさい。
リリィは声無く呟いた。
ピュルイがいて、ヴァルダスがいて。皆で笑って過ごした時間は、母が亡くなってからの二十数年の中で最も幸せなひとときだった。
だから、初めから怖かった。必ず失うと分かっていたから。
再びできた私の家族は、もういない。
いつの間にかうとうとしていたらしい。
瞼を開けたリリィはギィに餌も水もやり忘れていた事に気付いた。ハッとして扉を見れば、いつも開けていた隙間が今夜はぴったりと閉じてしまっている。
「ギィ!」
慌ててリリィはベッドから降りると隣室へ向かった。
父を失ってすぐ、カラスに襲われていた子猫を助けたのがギィを飼うようになったきっかけだ。
(そうよ、あの子も私にとって大切な家族の一員じゃない……!)
独りよがりな感傷に浸っている間、ギィはずっと空腹だったのだ。暖炉に火も起こしていないためきっと寒がっているだろう。
「ギィ」
呼びながら扉を開けると、ふわりとした温もりを頬に感じた。パチパチと薪の爆ぜる音の前でギィが丸くなって眠っている。その傍らには空になった皿が置かれていた。
リリィの視界が、再びゆっくりと滲んでいく。
ああ、何が年上だ……。
私は彼よりずっと幼く、彼は誰よりも大人だ。
「……ヴァルダス」
リリィは膝から崩れ落ちながら、その名を呼んだ。
「ヴァルダス、ヴァルダス、ヴァルダス……!」
がたり、と音がした。リリィが顔を上げると、歪んだ視界の中ヴァルダスがこちらに近寄ってくるのが見えた。
差し伸べられた大きな手にリリィはしがみついた。引き上げられながらもどかしく唇を求め、言葉の代わりに懸命に愛を伝えた。
愛しているの。
誰よりも好きなの。
だから怖い。
あなたが戦いで傷付くのが。私の前から去る日が来るのが。
「……ど……して……」
長い長い口付けの後で顔を離し、リリィは呟いた。隣室に気配が無かったのは確かだ。耳が痛くなるほど静かだったこの家で彼がずっといた筈がない。
「城に報告に行っていて、たった今戻ってきた。起こすつもりは無かったのだが。すまない」
「謝らないで!」
リリィは叫んだ。
「お願いだから、私に、謝らないで……」
ヴァルダスは僅かに目を開いたものの、何も言わなかった。
そのまま彼女の身体を抱き抱えて寝室へ行くと、ヴァルダスは毛布を取り暖炉の前まで戻ってきた。リリィの身体をすっぽりと毛布で包んで座らせ、吊り下げ鍋にミルクを入れてしばし火にかける。
やがてマグカップに熱々のホットミルクが注がれて渡された。泣き疲れた喉に蜂蜜の甘味が程良くしみる。
「明日は」
両手でマグカップを持ちぼんやりしているリリィに、ヴァルダスが言った。
「日の曜日だから、ピュルイに会いに行こう」
いきなりの提案にリリィの腫れあがった瞼が限界まで持ち上がる。
「えっ? あの、流石にいきなり過ぎるわ、失礼じゃないかしら?
それにヴァルダスは明日もお仕事なんでしょう?」
「『いつでも来い』と言われている。
休暇に関してはこれからは君と一緒だ。報告書を提出する際、休日変更を申請し了承を得てきた。
『日の曜日毎に養母が訪れるようにとドラゴンより強い要請を受けた』と」
「……それって、嘘の報告じゃ」
「たまにはこの性格も役に立つ。口下手で嘘なぞつけないと思われているからな、すっかり信じ込まれた」
「…………ああ、ヴァルダス!!」
マグを床に置くと、リリィはその胸に飛び込んだ。
「――リリィ。家族になろう」
ヴァルダスがリリィの髪留めを外しながら呟く。緑の長い髪が彼女の肩に落ち、調合する香草の香りが鼻に届いた。
「婚約でも恋人でもなく、本物の家族にだ」
見上げるリリィの唇が小さく震える。ヴァルダスは手を取ると自分が贈った銀色の指輪をなぞった。
澄んだ灰色の瞳には心を読み取る力がある。
けれど彼女は自分に向かって一度もその力を使っていない。
だから、直接言葉で伝える。
「決して君より先には死なない。戦場に出ても必ず帰ってくる。
――俺の妻になって欲しい」
ゆっくりと、白い頬に涙が伝っていく。
「子供を作ろう」
引き寄せて、ヴァルダスはリリィの耳元で囁いた。
「一人じゃなく三人、いやできれば四人作ろう。それなら俺がいない間でもきっといつでも賑やかだからな。休みの日には家族揃ってドラゴンの家に行きピュルイと思いきり遊ぶんだ。あの子は賢いから、もしかしたらいずれ人型を取りここまで遊びに来るかもしれん。そうしたらピュルイも連れて皆で祭りに行こう。踊って遊んで大騒ぎして、旨いものをたらふく食って、死ぬほど笑って」
ふふっ、とリリィが小さく笑った。
「饒舌なヴァルダスって、珍しい」
「……俺も驚いている」
二人は目を合わせると、微笑みあった。
「――私、いいお母さんになれるかしら?」
ゆっくりと押し倒されながらリリィが訊ねると、
「この一年で実証済みだ」
と返ってきた。
(そうね……)
爆ぜる薪の音を聞きながら、リリィは火に照らされた恋人――いや、これからは夫となるのだ――の顔を、じっと見上げた。
本当に、彼の言う通りの家庭が築けたら。
それはどんなに素敵で幸福な日々だろう。
「あなた」
愛する人の初めての呼び名を、リリィはそっと囁いた。
* * *
「――全く。どれだけ育ての母に会いたいのだ」
呆れ声で呟くと、赤のドラゴンは息子を見た。
泣いて泣いて泣き叫んでいつまでも叫び止まなかった子を慰めるため、とある事ができたら遊びに行けるぞと教えてやったのだ。
そうしたら一晩で習得してしまい、今では機嫌良くゴムまりで遊んでいる。
「流石、我と彼女の子よ」
そこまでして育ての母に会いたいかと少々妬ける気持ちになるが、優秀な息子だと分かり誇らしくもある。
「まあ、人の世は一瞬だ。存分に甘えるといい」
寛大さを見せてやりながら赤のドラゴンは「行くぞ」と手を差し出した。
大喜びで駆け寄り、握ってきたもみじのようなその掌は温かい。
人間の執事や女中に変化したしもべ達が世話を焼くべく控えている。
サークレットを付けた赤髪の男と青髪の幼い男の子はしっかりと手を繋ぎ合い、重い扉が開くのを待っていた。
<集荷チェッカーと約束の日 おわり>
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。




