幸せになりたいだけだった、君と
愛されたかった。
帰る場所が欲しかった。
「大丈夫だよ」って、
抱きしめてほしかった。
でもずっと、
そんな願いを持つ資格なんてないと思っていた。
それでもあなたは、
何度でも私の名前を呼んでくれた。
だから私は、
ようやく願える。
あなたと、
幸せになりたい、と。
春が近づいていた。
冷たかった風は少しずつ柔らかくなり、街の空気も変わり始めている。
駅前の並木には、小さな蕾がついていた。
「もう春ですね」
美桜が呟く。
玲司は隣で小さく笑った。
「早いですね」
二人は新しい部屋へ向かっていた。
ダンボール。
小さな観葉植物。
玲司が抱えたコーヒーメーカー。
少しずつ荷物を運び込みながら、“一緒に暮らす”という現実が形になっていく。
それがまだ少し信じられなかった。
「重くないですか?」
美桜が聞く。
「大丈夫です」
玲司は相変わらず無理をする。
でも最近、美桜はちゃんと言えるようになっていた。
「無理しないでください」
玲司が少し笑う。
「はい」
その返事が愛しい。
部屋へ入る。
まだ家具が少ないリビング。
カーテンのない窓。
新品のラグ。
でも、不思議と温かかった。
ここが、二人の帰る場所になる。
そう思うだけで、胸がいっぱいになる。
「……なんか変な感じですね」
玲司が部屋を見回しながら言う。
「うん」
「本当に一緒に住むんだ」
その声が少し照れくさそうで、美桜は笑った。
「今さらですか」
「いや、実感湧いてきて」
玲司は少しだけ目を細める。
「嬉しい」
その一言が、美桜の胸を静かに締めつけた。
嬉しい。
自分も同じだった。
怖いくらい。
荷物を片づけながら、二人で何度も小さく笑う。
「それそっちじゃないです」
「え、違う?」
「玲司さん絶対説明書見ないタイプ」
「なんとかなる派なので」
「ならないです」
そんな会話さえ幸せだった。
以前の美桜なら、“幸せ”という感情をこんなに素直に感じられなかった。
幸せになれば、失う時苦しい。
そう思っていたから。
でも玲司と出会って、美桜は少しずつ変わった。
怖くても、
愛したいと思った。
失うかもしれなくても、
隣にいたいと思った。
それはきっと、
玲司が何度も「一人じゃない」と伝えてくれたからだ。
夕方。
荷ほどきが少し落ち着いた頃。
二人は床へ座り込みながらコンビニのおにぎりを食べていた。
「引っ越し初日のご飯がこれ」
美桜が笑う。
「将来いい思い出になります」
玲司も笑った。
窓から夕日が差し込む。
オレンジ色の光が部屋を包んでいた。
静かだった。
でもその静けさは、孤独じゃない。
ちゃんと“誰かといる静けさ”だった。
「……ねえ、玲司さん」
美桜が小さく呼ぶ。
「はい」
「私、今でも時々怖いです」
玲司は静かに美桜を見る。
「幸せすぎると、急に全部なくなる気がしちゃう」
その本音を、以前の美桜は言えなかった。
でも今は違う。
怖いと伝えても、
玲司はちゃんと隣にいてくれる。
「うん」
玲司は小さく頷く。
「俺もありますよ」
「玲司さんも?」
「あります」
玲司は少し笑った。
「仕事中、ふと“帰れなかったらどうしよう”って思うこともあるし」
その言葉に、美桜の胸が少し痛む。
玲司の仕事は、今も危険と隣り合わせだ。
その現実は変わらない。
でも。
以前みたいに、“だから離れたい”とは思わなくなった。
怖くても、
一緒にいたい。
その気持ちの方が、今は大きい。
「でも」
玲司が静かに続ける。
「怖いからこそ、ちゃんと帰りたいって思うんです」
その言葉が胸に沁みる。
「美桜いるので」
涙が出そうになる。
何度言われても慣れない。
こんなふうに必要とされることに。
「……私も」
美桜は小さく言った。
「玲司さんいるから、帰りたいって思える」
その瞬間。
玲司が優しく笑った。
その笑顔を見ているだけで、未来を信じたくなる。
夜。
二人で新しいベッドへ入る。
まだ少し新しい匂いがした。
玲司が後ろから美桜を抱きしめる。
その温度が安心する。
「……狭くないですか」
美桜が聞く。
「ちょうどいいです」
玲司の声が耳元で優しく響く。
美桜は目を閉じた。
思い出す。
玲司と出会った日のこと。
雨の日。
閉館後の式場。
静かなロビー。
あの日の自分は、
まだ“幸せ”を諦めていた。
どうせまた傷つく。
どうせ最後は一人。
そう思っていた。
でも玲司は、そんな美桜の隣へ静かに座った。
無理やり変えようとはしなかった。
ただ何度も、
「一人じゃない」と伝えてくれた。
怖い時は隣にいてくれた。
泣いた日は抱きしめてくれた。
逃げそうになった時も、ちゃんと向き合ってくれた。
その全部が、美桜を変えていった。
「……玲司さん」
「はい」
「私、昔の自分に教えてあげたいです」
玲司が少し笑う。
「何を」
美桜は目を閉じたまま、小さく言った。
「ちゃんと愛される日が来るよって」
その瞬間。
玲司の腕が少しだけ強くなる。
「来ましたね」
涙が滲む。
「うん」
「いっぱい遠回りしたけど」
美桜は静かに笑った。
「でも、玲司さんに会えた」
その言葉が、本心だった。
苦しかった過去も、
寂しかった日々も、
全部。
玲司に出会うためだったと思えるくらい。
「……ねえ、美桜」
玲司が小さく呼ぶ。
「はい」
「幸せですか」
その問いに、美桜は少しだけ目を開けた。
以前なら答えられなかった。
怖かったから。
でも今は違う。
ちゃんと言える。
「幸せです」
その瞬間。
玲司が静かに笑った。
「よかった」
その声が、少し泣きそうだった。
美桜は玲司の手を握る。
温かい。
ちゃんとここにいる。
その事実だけで、胸がいっぱいになる。
「玲司さん」
「はい」
「私たち、これからもいっぱい怖くなると思う」
玲司が小さく頷く。
「うん」
「喧嘩もするかもしれないし、不安になる日もあると思う」
「うん」
「でも」
美桜はゆっくり息を吸った。
「そのたび、ちゃんと隣にいたい」
その瞬間。
玲司は美桜を優しく抱きしめた。
「俺も」
耳元でそう言う。
「ちゃんと隣にいます」
涙がこぼれる。
でもそれは、もう悲しい涙じゃなかった。
安心して流せる涙だった。
窓の外では、春の風が静かに揺れていた。
新しい部屋。
新しい生活。
新しい未来。
怖くないわけじゃない。
でも。
玲司となら。
この人となら。
きっと何度でも、
「大丈夫」を探していける気がした。
美桜は玲司の胸へ顔を埋める。
温かい。
安心する。
「……玲司さん」
「はい」
「私、幸せになりたかっただけなんです」
その瞬間。
玲司は少しだけ笑った。
「知ってます」
涙がまた滲む。
「ちゃんと、なりましょうね」
その言葉を聞いた瞬間。
美桜は静かに思った。
ああ。
私はずっと、
この温度が欲しかったんだ。
愛されたい。
帰る場所が欲しい。
誰かと笑って生きていきたい。
ただ、それだけだった。
「……うん」
小さく頷く。
玲司の腕が、優しく美桜を包む。
怖かった未来は、
少しずつ、
“楽しみ”へ変わっていた。
失う怖さより、
一緒に生きたい気持ちの方が、
今はもうずっと大きかった。
春は、もうすぐそこまで来ていた。
最終ページまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
『幸せになりたいだけだった、君と』は、“愛されることを怖がっていた二人”が、少しずつ「一緒に幸せになりたい」と思えるようになる物語でした。
美桜は、ずっと「失う怖さ」から幸せを遠ざけてきました。
玲司もまた、“人を救う仕事”の中で、自分の幸せを後回しにしてきた人でした。
そんな二人が出会い、
傷を見せ合い、
怖さを共有しながら、
それでも「隣にいたい」と選び続けた。
この物語で描きたかったのは、
“幸せは、怖さが消えた人だけのものじゃない”
ということです。
不安でもいい。
弱くてもいい。
怖くてもいい。
それでも誰かと一緒に生きたいと願えた時、人は少しずつ幸せになっていける。
この物語が、
誰かの孤独な夜に、
少しでも寄り添えていたなら嬉しいです。
本当にありがとうございました。




