第32話:静寂の終わり
「……コタロー、待て。……よし、行け」
第1部完結から1ヶ月。初夏の風が草花を揺らし、新緑の香りが鼻をくすぐる。
俺――銀凪綴は、愛犬のコタローと一緒に、いつもの散歩道を歩いていた。
リードを引く手には、1ヶ月前のような震えはない。
ただ、少しだけ指先にマメができていた。……完結後も、俺は結局、書きたい衝動を抑えきれずにキーボードを叩き続けていたからだ。
「クゥン」
コタローが、道端のシロツメクサに鼻を寄せ、尻尾をブンブンと振る。
その無邪気な姿を見ていると、自分が日本中を絶望の渦に叩き込んだ張本人だという実感が薄れていく。
だが、ポケットの中で震え続けるスマホが、容赦なく現実を引き戻した。
それは、円卓のメンバー――軍師、剣呑、ござる、親衛隊、そして俺だけの、配信外グループチャットだ。
【Group Chat: 終末の円卓】
軍師:綴、散歩中か。悪いが、今のうちに今後の展開について少し詰めさせてくれ。
ござる:拙者も同席でござる。例の「コラボ企画」、試作が上がってきたのでござるよ。
綴:ああ。……コタローが道草食ってる間ならいいぞ。
剣呑:ハッ。相変わらずだな。……お前が休んでる間に、俺のジムの門下生が「せいまも」読みすぎて練習中に泣き出したぞ。どう落とし前つけてくれる。
俺は苦笑いしながら、スマホの画面をタップする。
この1ヶ月、俺たちは配信外で密に連絡を取り合っていた。
軍師は、大手まとめサイトの中の人として世論を操作する傍ら、リアルの顔は「国家レベルの防壁を構築するセキュリティエンジニア」だ。
今、俺の自宅のWi-Fiからサーバーに至るまで、彼の手によって「要塞化」されている。
剣呑は、毒舌レビューで30万人の信者を抱えるインフルエンサーだが、その正体は「政財界に太いパイプを持つ大手格闘技ジムの経営者」。
時折送られてくる自撮り写真の背景に、某国のVIPが写り込んでいた時は、さすがにスマホを落としそうになった。
そして、ござる。
匿名掲示板のコピペ職人として、ネットの「空気」を作る彼は、リアルの世界では「創業200年を超える老舗呉服店の若旦那」だ。
ござる:[画像:漆黒の絹地に、銀糸で刺繍された『断罪の百合』の羽織]
ござる:これ、拙者の実家の工房で職人に特注させたものでござる。
ござる:素材は最高級の正絹。銀糸はアルベルトの瞳の輝きを再現した特注色。……これ、100枚限定で「せいまも第1章完結記念」として出そうと思うんだけど、どうでござる?
綴:どうって……これ、一着いくらするんだよ。
ござる:原価度外視で30万でござるな。……だが、既に裏のルート(呉服屋の顧客層)から「家宝にしたい」と500件以上問い合わせが来ているでござる。
剣呑:ははっ! 狂ってるな。……いいんじゃねえか。絶望を纏うには、それくらいの格が必要だ。
軍師:綴。グッズの話もいいが、そろそろ「本題」だ。……今、海外の掲示板を見たか?
軍師が共有してきたリンクを飛ぶ。
そこには、俺の知らない言語――英語、中国語、フランス語、スペイン語。
ありとあらゆる言語に翻訳された『せいまも』のファンサイトが、雨後の筍のように乱立していた。
「……なんだ、これ」
『Isekai Retirement Agent - Albert's Redemption』
『The Fake Saint and the True Queen』
海外の有志――通称「ニキ・ネキ」たちが、俺の文章を一字一句、その言語で最も「毒」が伝わる表現に再構築し、各国の小説プラットフォームに流していた。
コメント欄には、日本以上の熱狂が渦巻いている。
『Holy sh*t! このアルベルトの独占欲、理解できる(I can relate)』
『リリカルを殺さずに、精神を解体する。これこそが東洋の真のホラーだ』
『エレオノーラ。彼女こそが俺たちの真のGoddess(女神)だ』
だが、その熱狂と並行して、不穏な影も差していた。
軍師:翻訳が正確すぎて、各国の「倫理団体」が動き出している。
軍師:特に「聖法正教会」のモデルになったと思われる欧州の巨大宗教団体。……彼らが、この作品を「神聖への冒涜」であり「若者への精神的テロ」だとして、法的措置を検討し始めている。
軍師:俺が構築した防壁に、昨夜から特定不能のパケットが飛んできている。……十中八九、海外の政府系ハッカーだ。
散歩道の空気が、少しだけ冷たくなった気がした。
俺が自室で、コタローの頭を撫でながら書いていた物語が、今や地球の裏側の「国家」や「宗教」を動かす、本物の毒になろうとしている。
「……軍師。そいつら、俺の作品が怖いのか?」
軍師:……ああ。怖いんだよ。
軍師:彼らが何千年もかけて守ってきた「光」や「正義」が、お前の書いた「たった一人の女への偏愛」によって、安っぽく書き換えられていくのが。
剣呑:笑えるな。……俺のジムにも、昨日「銀凪綴の住所を知りたい」っていうスーツ姿の胡散臭い男たちが来たぜ。
綴:え……。大丈夫だったのか、剣呑さん。
剣呑:ああ。……俺の門下生(警察幹部)に頼んで、そいつらの身辺調査をさせた。……今は、地下のトレーニングルームで「誠意」ってやつを教えてやってる。
「……はは、……あいつら、マジで強すぎるだろ」
俺はコタローを呼び寄せ、家路を急いだ。
静かな日常。だが、その背後では、俺を守るために現代の最強軍団(円卓)が物理的にも、電脳的にも戦っている。
「……よし、書くか。……待ってる奴らが、世界中にいるんだ」
部屋に戻り、俺は一条さんに連絡を入れた。
「先生。……お帰りなさいませ。……素晴らしいニュースと、最悪なニュース、どちらからお聞きになりたい?」
「どっちも、似たようなもんだろ」
「ええ。……素晴らしいニュースは、海外版の反響を受け、隣国の『聖法正教会』に酷似した団体から、正式に抗議文が届きましたわ。……そして最悪なニュースは、彼らが国際的な出版差し止め請求の準備を始めたこと。……つまり」
「……俺たちが、世界を相手に『ざまぁ』をする舞台が整った、ってことだな」
一条の愉悦に満ちた笑い声が、スマホ越しに響く。
俺はデスクに向かい、第2部のプロットを広げた。
【小説内パート:『せいまも』第2部 第31話「辺境の残照」】
舞踏会の狂乱から一ヶ月。
帝都から遠く離れた辺境伯領、ヴィルト卿の別邸。
そこには、王都の「毒」など一切届かないような、穏やかで厳しい自然が広がっていた。
アルベルトは、庭園の東屋で、一冊の本を開くエレオノーラの横顔を眺めていた。
彼女の銀髪が、涼やかな風に揺れる。
リリカルの魅了によって、あんなにも傷つけられ、罵倒されていた彼女の横顔には、今、穏やかな安らぎが宿っていた。
「……アルベルト。どうかしましたか? 私の顔に、何かついていますか?」
エレオノーラが本を閉じ、悪戯っぽく微笑む。
その微笑みに、アルベルトは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「……いいえ。……あまりに美しかったので。……つい、見惚れてしまいました」
「……もう。貴方は、魅了が解けてからの方が、口が上手くなりましたね」
エレオノーラが頬を赤らめ、視線を落とす。
(……違うんだ。エレオノーラ様)
アルベルト――俺は、心の中で呟く。
(……俺は、ずっと貴女だけを見ていた。
……洗脳されていた振りをしていたあの地獄の1年間も、俺の網膜には貴女の涙しか映っていなかった。
……俺が今、こうして貴女と笑い合えていることが、いまだに奇跡のように思えてならないんだ)
だが、その平穏は、アルベルトが常に展開している「魔力センサー」によって破られた。
(……来たか。……「光」という名の、厚かましい侵略者が)
上空。
辺境の空を切り裂くように、白い翼を広げた伝令鳥が飛来する。
その脚に括り付けられた筒には、隣国「聖法正教会」の紋章が刻まれていた。
それは、和平の使者ではない。
『魔女エレオノーラの即時引き渡し、及び、聖女リリカルの解放を命ずる。
……さもなくば、神の名において、この地を火の海に変えるであろう』
アルベルトは、その書簡をエレオノーラに見せる前に、指先から放った小さな雷撃で、塵一つ残さず焼き尽くした。
「……アルベルト? 今、何か……」
「……いいえ、エレオノーラ様。……ただの羽虫です。……気にする必要はありません」
アルベルトは、彼女の手を優しく、だが力強く握った。
その瞳には、かつて王太子を廃嫡に追い込んだ時以上の、暗く、昏い決意が宿っていた。
(……教会の連中。……エレオノーラ様を、またあの「聖女」の引き立て役にしようってのか?)
(……あんな性格の終わった女を、まだ聖女として利用するつもりか?)
(……いいだろう。……お前らが、世界中の信者をバックにつけて『正義』を語るなら。
……俺は、世界中の絶望を味方につけて、お前らの神を、その王座から引きずり下ろしてやる)
アルベルトの脳内では、既に「世界汚染」のための新しい術式が、高速で構築され始めていた。
配信画面。
俺が久しぶりにボタンを押した瞬間、コメント欄は瞬時に「祭り」の状態になった。
【コメント欄】
:::きたあああああ!!
:::待ってたぞ綴!!
:::海外から来ました(翻訳)! あなたの作品は最高だ!
:::Holy Cow! 第2部始まったぞ!!
:[軍師]:……フッ。挨拶はいらん。綴、見せてやれ。
:[剣呑]:おい、外人のアンチども。……ここからは、俺たちの領域だ。震えて待ってろ。
:[ござる]:「ぬおおおおお!! 拙者の特注羽織、世界同時受注開始でござる!! 全世界の絶望よ、纏え!!」
「……あー。お前ら。……久しぶり。
……なんか、俺が寝てる間に、世界が騒がしくなってるみたいだな」
俺は、いつものようにキーボードに指を置いた。
「……正義の味方さんたちが、俺の物語を『不謹慎』だって怒ってるらしい。
……いいぜ。……なら、教えてやるよ。
……本当の不謹慎ってのは……
……お前たちが信じている『綺麗な物語』の裏側で、俺たちが、どんな顔をして笑っているかってことだ!!」
カチッ、とマウスをクリックする音が、世界同時配信のゴングとなった。
銀凪綴の第2部。
それは、一人の騎士が、最愛の女性を護るために、世界そのものを解体していく。
日本一の「毒」が、今、海を超えて世界を汚染し始めた。
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