第9話 守らなくていい
番組のエンディング曲が、静かに流れていた。
スタジオの赤いランプは、まだ灯っている。
瀬川澪はヘッドフォンをつけて、マイクの前に座っていた。
「そろそろ、お別れの時間です」
落ち着いた声で言う。
「深夜二時のラジオ『ミッドナイト・レター』。今夜も、聴いてくれてありがとうございました」
少しだけ間を置く。
スタッフ用モニターには、今夜届いたメールが並んでいる。いつものリスナー、初めての名前、そして、夜更けのリスナー。澪は最後までそのメールを読まなかった。何が書いてあるかはわからない。それでも、その名前がそこにあるだけで、胸の奥が静かに揺れた。
先日の放送後、マイクが切れていると思ってこぼれた独り言。あの言葉を、聴いていた人がいる。そして、その人は、七年前に別れた桐嶋颯だったのだ。
「この時間のラジオは、誰かと会うための場所ではないのかもしれません」
澪はゆっくり言葉を選ぶ。
「でも、同じ夜を過ごしている誰かがいると思うと、少しだけ心が軽くなることがあります」
小さく笑う。
「それでは、また明日」
澪はマイクのスイッチを切った。
スタジオの赤いランプが消え、ON AIRの文字が静かに暗くなった。
澪はしばらく動かなかった。ヘッドフォンを外し、机の上の台本を閉じる。マイクを確認し、機材のスイッチを落とす。
いつもと同じ作業のはずなのに、今夜はどれも少しだけ時間がかかった。ふと、スタッフ用モニターを見る。夜更けのリスナー。その名前が、まだそこにあった。
澪は目を閉じる。七年前、理由も言わずに別れを告げた夜。守るつもりだった。でも、逃げただけなのかもしれない。颯はきっと止めただろう。澪を守ろうとしただろう。それでも、あのときの自分には、それしかできないと思っていた。
澪は小さく息を吐き、モニターの電源を落とした。椅子を押して立ち上がる。
スタジオのドアを開けると、廊下は静まり返っていた。深夜の局にはほとんど人がいない。自販機の白い灯りだけがぼんやりと壁を照らしていた。澪はゆっくり歩いた。出口のドアを押すと、夜の空気が静かに流れ込んできた。
その少し前。
桐嶋颯は夜の街で車を走らせていた。
ラジオから、番組のエンディング曲が流れている。帰るつもりだった。それでいいと思っていた。けれど、交差点をひとつ過ぎたところで、颯はアクセルを緩めた。車をUターンさせて局の前に戻り、エンジンを止める。車内にラジオの音だけが残った。
最後まで、せめて澪の近くで聴こうと思った。それから帰ればいい、そう思っていた。
「でも、同じ夜を過ごしている誰かがいると思うと、少しだけ心が軽くなることがあります」
澪が言ったその言葉を聞いた颯には、声だけでは、もう足りなかった。
ひと目でいい。車の中からでもいい。局のドアから出てくる彼女の姿を、少しだけ見られたら。それで十分だと思った。
「それでは、また明日」
番組が終わっても、颯はフロントガラスの向こうをずっと見ていた。しばらくして、局のドアが開く。
澪だった。
七年ぶりだった。颯は一瞬、息を止めた。次の瞬間、ドアを開けて外に出ていた。自分でも、なぜ降りたのか分からなかった。
夜の空気が少し冷たかった。
澪は、車から出てきた颯を見ていた。
颯の顔を見た瞬間、澪はうまく息ができなかった。変わっていない、と思った。それから、変わった、とも思った。どちらも本当だった。
二人とも、立ち止まった。沈黙が落ちる。
颯が小さく笑う。
「……やっと会えた」
澪はゆっくり息を吐く。
「……うん」
それだけだった。七年分の言葉は、簡単には出てこない。それでも、二人は今、同じ場所に向かい合って立っていた。
「ラジオ、ずっと聴いてた」
澪は驚かなかった。
「「夜更けのリスナー」」
二人の声が揃い、颯は苦笑する。
「バレてた?」
澪は首を振って、少し視線を落とす。
「名前を見て、やっと、分かった」
しばらく沈黙が続いた。颯が先に口を開く。
「……寒いな」
澪は少し笑う。
「うん」
七年ぶりなのに、そんな言葉しか出てこない。
「少し、歩かないか?」
澪は少し迷ったあと、頷いた。二人は駐車場の端をゆっくり歩いた。夜は静かだった。しばらくどちらも話さなかった。やがて颯が言う。
「……どうして」
澪は足を止めた。
「どうして、いなくなった」
七年前の問いだった。
「……守るつもりだったの」
澪は小さく言う。
「あの雑誌の記事、あれは本当のことではないけど、颯の名前まで出てしまっていたから。仕事で迷惑をかけると思った。だから、離れた。あのときは、それしか方法がないと思ったから」
夜は静かだった。颯は少し笑う。
「守らなくていいよ」
澪が顔を上げる。
「守られたかったわけじゃない」
少し息を吐く。
「……ごめん」
澪はようやく、それだけ言った。
「ただ、澪と一緒にいたかっただけだ。その気持ちは、今も変わらない」
澪の目が揺れた。
しばらく、言葉が出なかった。
夜の空気だけが、二人のあいだを静かに流れていく。




