第10話 深夜二時、もう一度
夜はまだ静かなままだった。
「その気持ちは、今も変わらない」
颯の言葉のあと、二人のあいだに沈黙が落ちた。
澪は何も言わなかった。
ただ少しだけ息を吐いて、それからゆっくり歩き出した。
颯の隣に、そっと並ぶ。
駐車場の端を、そのまま二人で静かに歩いた。
颯が少し戸惑ったように口を開く。
「……それって」
澪は視線を前に向けたまま、小さく言う。
「うん」
それだけだった。
それ以上の言葉は必要なかった。
夜の空気は少し冷たくて、静かだった。
七年という時間は長かった。
けれど、今こうして並んで歩いていると、不思議と遠い出来事のようにも感じられた。
それから少し時間が経った。
すぐに何かが変わったわけではない。
二人はときどき会った。
夜に少しだけ歩いたり、コーヒーを飲んだり。
話すことはたくさんあったはずなのに、言葉はゆっくりとしか出てこなかった。
七年の時間は、急には埋まらない。
ある夜、颯が澪の仕事帰りに待っていた。
局を出た澪の顔を見て、颯が言う。
「遅かったな。連絡くらいしてくれよ」
澪は少し驚いて、それから何気なく返した。
「別に、関係ないじゃない」
一瞬、空気が止まった。
颯は黙っていた。
少しだけ間があって、静かに言う。
「……関係ないは、言いすぎだろ」
澪は、自分の言葉の軽さに気づいた。
怒っているわけじゃない。
ただ、傷ついた、という声だった。
「……ごめん」
小さく言うと、颯は少し息を吐いた。
「いや、俺も急に来たから」
それだけだった。
ケンカとも言えない、言い合いとも言えない。でも、そういう夜を重ねながら、少しずつ距離は近づいていった。
別の夜、颯が仕事の話をしていた。
新しいアーティストとの制作のこと。
音楽が変わってきたこと。
澪はコーヒーカップを両手で包みながら、その話を聞いていた。颯の声は、昔よりも落ち着いていた。
澪はふと、口にした。
「あのころと、変わったね」
颯の言葉が、少しだけ止まった。
澪は気づいた。
余計なことを言った、と思った瞬間、颯が静かに言う。
「……七年あったから」
短い言葉だった。
澪は黙った。
謝る言葉も、フォローする言葉も、どれも違う気がした。
しばらく沈黙が続いた。
それから颯が、ほんの少しだけ笑った。
「でも、悪くない七年だった」
澪は目を伏せた。
自分の七年は、悪くなかったとは言えなかった。颯のいない時間を、ずっとどこかに抱えていたから。
それからも度々、颯から「迎えに行く」と短いメッセージが来た。
二人は離れなかった。
それだけのことが、澪には少し不思議で、心に温かさが残った。
こうして、少しずつ二人の距離は再び近づいていった。
ある朝、颯の部屋で目が覚めた。
カーテンの隙間から光が差していた。颯はまだ眠っていた。澪はしばらく天井を見ていた。七年前には、想像もしなかった光景だった。
そのとき、颯が目を開けて、少し笑った。
「おはよう」
「……おはよう」
それだけだった。それで十分だった。
そんな朝が重なったある日、颯が言った。
「俺のこと、ラジオにゲストで呼べる?」
澪は少し驚いて、颯を見る。
「呼べるけど……どうして?」
颯は少しだけ笑う。
「音楽プロデューサーのゲストってことで。新しい曲の話とか、できるし」
澪はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり息を吐く。
「……考えておく」
数日後、澪は番組の台本を見ながら言った。
「ゲスト、本当に来てもらえる?」
颯は少し笑った。
「もちろん」
そして、放送の日。
スタジオの赤いランプが灯る。
ON AIR。
「こんばんは」
澪はいつもの声で言う。
「深夜二時のラジオ『ミッドナイト・レター』。パーソナリティの朝倉ナオです」
少しだけ笑う。
「今夜は、ゲストをお迎えしています」
スタジオの空気は静かだった。
澪は隣を見る。同じマイクの前に、颯が座っていた。七年前には、想像もしなかった光景だった。
「音楽プロデューサーの桐嶋颯さんです」
颯が軽く頭を下げる。
「こんばんは」
それは、いつものゲスト回のような放送だった。
音楽の話。
制作の話。
深夜に聴きたくなる曲の話。
リスナーからのハガキやメールも紹介する。
番組は静かに進んでいった。
そして、放送の終わりが近づいたころ、颯が言う。
「最後に、一通だけ」
澪が少し驚いて颯を見る。
颯は笑っていた。
「夜更けのリスナーから」
澪の手が一瞬止まる。
颯は続ける。
「最後のメール」
スタッフ用モニターには、短い文章が表示されていた。
澪はそれを読む。
静かな声で。
「ラジオネーム、夜更けのリスナーさん」
一度、息を吸う。
「『深夜二時のラジオへ』」
少しだけ間があく。
「『同じ夜を過ごしてくれて、ありがとう』」
澪は読み終えて、小さく笑った。
「こちらこそ」
それだけだった。
「それでは、そろそろお別れの時間です」
澪はいつもの声で言う。
「深夜二時のラジオ『ミッドナイト・レター』」
少しだけ隣を見る。
「今夜も、聴いてくれてありがとうございました」
スタジオの赤いランプが消え、ON AIRの文字が、静かに暗くなった。
スタジオに静けさが戻る。
片付けを終えてスタジオの外に出ると、廊下に二人の影が並ぶ。
深夜の局は、相変わらず静かだった。
でも、もう一人ではなかった。




