フィナーレを待たずに
劇中劇はこちらです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Drake_of_England_(play)
巡回公演時のポスターもありました。
https://collections.vam.ac.uk/item/O1248227/poster-design-for-drake-drawing-buchel-charles/
1912年11月のある夜、メラヴェル女男爵ことアメリアとアルバート卿の夫妻を乗せた自動車は、ロンドンのウエスト・エンドにあるヒズ・マジェスティーズ劇場を目指していた。
夫妻にとって久しぶりのロンドン滞在だった。
今はロンドンの社交シーズン外であり、彼らはまだ新婚でもあるので、ここ最近はほとんどバークシャーにあるメラヴェル男爵家の領地に暮らしているのだ。
二人は、その田舎の領地で、新婚生活を楽しみつつ、貴族の夫婦としての仕事やそれぞれの個人的な仕事——アルバートは古典学の研究と執筆、アメリアは探偵としての活動——に勤しんでいた。
そんな折、思いがけずアルバートの次兄ヘンリーから話題の新作劇のチケットを譲り受けた彼らは、数日間だけロンドンに出ることを決め、ついでに買い物などもしようと話していた。
二人ともメラヴェル男爵家の領地での暮らしを非常に気に入っているが、ロンドンの洗練された都会の楽しみも知っている。
そうなれば、女男爵夫妻の気分は多少なりとも高揚しているのが自然だ——が、車内は異様に静かだった。
個室のように仕切られた後部座席に並んで座っている二人は、それぞれ唇を引き結んだまま車窓を流れていく秋のロンドンの風景を眺めていた。
もちろん、互いを無視しているわけではない。
出発前には男爵家のタウンハウス<メラヴェル・ハウス>の玄関ホールで、今夜観る予定の劇——16世紀に私掠船の船長からイングランドの英雄に成り上がったフランシス・ドレイクの生涯を題材にした歴史劇——について会話を交わした。
とはいえ、それを「会話」として数えて良いものかアルバートには大いに疑問だった。
——「ガレオン船の舞台装置が随分と話題になっているね」
——「ええ、楽しみだわ……」
——以上。
アルバートはその短すぎるやりとりを思い出し、外套の襟元から燕尾服の白いタイに触れた。
そのときのアメリアの口調は、決して冷たくはなかった。
だが、明らかに上の空だった。
思い返せば、昨夜、早めにおやすみの挨拶をしたあたりから、ずっとそんな感じだったようにも思える。
自動車がピカデリーに入ったところで、アルバートは隣の妻の表情を窺おうと、そっと視線を向けた。
しかし、彼女の顔は反対側の車窓に向けられていた。
その両手は、まるでワインレッドのイブニングドレスを隠すようにミンクのショールをしっかりと体に引き寄せている。
ついそのまま見つめていると、思いがけずアメリアが彼の方を振り返った。
「あの、アルバート——」
二人の視線がぶつかり、アメリアのヘーゼルの瞳が見開かれた。
まさかアルバートが既に彼女の方を見ていたとは思わなかったのだろう。
しかし、彼女はそれには触れず、ただ今夜の劇場の席を譲ってくれたヘンリーのことを尋ねた。
「ええと……ヘンリーは本当に良かったのかしら? 入手困難なのでしょう?」
「私も詳しく聞かなかったが、外せない用事が入ったらしいよ」
アルバートは気まずく思っていることを悟られないよう視線をゆっくりと車窓に戻した。
アメリアは「そうなのね……」とだけ言った。
穏やかだが、やはり上の空だった。
再び車内に沈黙が流れる。
窓の外を見れば、自動車は既にセント・ジェームズ・スクエアを通り過ぎていた。
劇場まであと数分だ。
***
数十分後、アルバートはアメリアと二人、ヒズ・マジェスティーズ劇場の二階にあるボックス席に収まり、一階の舞台で繰り広げられる冒険を眺めていた。
舞台の上では、勇敢な主人公が貴族の娘と恋に落ちているが、どうも身が入らない。
主人公がその娘と結婚するのは史実を見れば明らかだった——その経緯は随分とスリリングに脚色されているようだが。
それに、アルバートにとっては、舞台上の恋の結末より、隣で僅かに身を乗り出してそれを見守っているアメリアのことの方がずっと気になる。
座席に着いてから開演までの間、アメリアは何度かイブニングドレスの裾を直しつつ、アルバートの方を見ていた気がした。
何か言いかけていたのかもしれない。
——こういうときは、思い切って何かあったのか尋ねても良いものなのだろうか?
——いや……本人が話したくなるまで待った方が良いのかもしれない。
——とはいえ、第一幕が終わったら少し話を……?
——でも、予想以上に深刻な話だったら?
——いくらプライバシーが確保されたボックス席とはいえ、屋敷に戻るまで待つべきだろうか?
逡巡している内に、舞台上の恋人たちは秘密裏に結婚することを選び、主人公が女王の命で世界一周の旅に出るところで第一幕が終了した。
——さり気なく訊いてみて、触れてほしくなさそうであればすぐに退こう。
幕間の休憩時間になると、アルバートはそう決意を固めた。
しかし、檀木の扇で顔を扇いでいるアメリアを見ながら口を開きかけたところで——ボックス席の扉がノックされた。
アルバートは首を傾げたが、アメリアは微笑んでいた。
「きっとセッティンガム卿夫妻よ。さっき反対側のボックスにいるのを見つけたの」
***
やはり訪ねてきたのは、二人の友人、セッティンガム男爵夫妻だった。
数か月前、彼らはアルバートとアメリアに会うために、田舎にあるメラヴェル男爵家のカントリーハウスを訪ねて来てくれていたが、それ以来の再会だ。
「お久しぶりですね、レディ・メラヴェル。ここでお会いできるなんて嬉しい偶然です。君も元気そうだな、ハーコート」
アメリアとアルバートが立ち上がって男爵夫妻を迎えると、まずは、男爵がアメリアの手を取って挨拶し、幼馴染でもあるアルバートには気軽に声をかけた。
皆が一通り挨拶を終えると、この場で社交の主導権を握るべき男爵夫人が話し始めた。
「お二人とも劇を楽しんでいらっしゃいます? 噂通りの大スペクタクルですわね」
「ええ、先ほどの旅立ちのシーンは音楽まで壮大で素晴らしかったわ」
とアメリアが応じ、そのままレディたちは主人公の情熱と豪胆さについて語り合った。
すると、セッティンガム男爵が口を挟んだ。
「やれやれ、ああいう荒っぽい男がレディ方の好みだとすると、私にはまるで人気がないのも納得ですよ」
男爵がわざと悲しげに言うと、レディたちは優雅な笑い声を漏らした。
「まあ、ご冗談を、セッティンガム卿。それに私たちが大胆な主人公を称賛するのは物語だからこそですわ。現実に結婚するならもう少し落ち着いた紳士でないと。毎日冒険に巻き込まれては身が持ちませんもの」
アメリアの言葉を聞いた瞬間、アルバートの心臓が跳ねた。
それを知ってか知らずか男爵が頷きながら言った。
「なるほど。それであなたはハーコートと結婚したわけですね。彼以上に落ち着いた男はそういませんよ」
「彼をよく知っているあなたがそうおっしゃるのならそうかもしれませんわね」
アメリアがレディらしく曖昧に答えた。
「しかし、彼も専門の古典学のこととなると、些か熱くなるところがありますね。イートン時代は、彼の前でキケロとホラティウスの話はするなというのが仲間内での暗黙の了解でした。数時間は拘束されることになりますから」
一度言葉を切ったセッティンガム男爵が口元だけで笑ったのをアルバートは見逃さなかった。
そういう表情をするときの彼は碌なことを言わない。
アルバートは牽制のために一度静かに咳払いをした。
その意図を感じ取ったらしい男爵夫人もレースの扇を開きながら夫に視線を向けたが、肝心の男爵本人は全く意に介さなかった。
「思うのですが、彼はきっとあなたのことについても、キケロやホラティウスと同様なのではないでしょうか? つまり——」
そこで男爵は一瞬顔を歪め、口を噤んだ。
アルバートが視線を落とすと、男爵夫人の薔薇色のイブニングドレスの裾が男爵の足にかかっていた。
どうやら裾の下で夫の足を踏んでいるらしい。
ちょうどそのとき、廊下の方から休憩時間の終わりを知らせるベルの音が聞こえてきた。
下の階の客席にも徐々に観客が戻り始めている。
「そろそろ第二幕が始まりますわね。長々と失礼しました。……参りましょう」
男爵夫人がボックス席の出口へと向かうと、男爵もアメリアに挨拶をしてからそれに続いた。
廊下へと出る直前、一度だけ振り返った男爵にアルバートは非難の視線を向けておいた。
旧友として彼のこういうところにはすっかり慣れているが、一応不満を表明しておかないと更に調子に乗るのだ。
だが、男爵はただ肩を竦めただけだった。
二人が行ってしまうと、アルバートもアメリアも元の座席に座り直した。
——「彼はきっとあなたのことについても、キケロやホラティウスと同様なのではないでしょうか?」
先ほどの男爵の言葉をつい反芻してしまう。
さすがに8歳のときからアルバートと付き合いのある彼の言葉は的確だ。
アルバートはアメリアの様子を窺おうとしたが、休憩が終わりに近づくにつれて徐々に暗くなっていく照明の中ではその表情はよく見えなかった。
「ねえ、アルバート——」
アメリアが彼の方に向き直って言いかけたとき、オーケストラが前奏曲を奏で始めた。
二人ともその旋律に促されるように舞台に視線を移した。
第二幕の開始だ。
***
第二幕が開始してもアルバートは劇とは関係のないところで思考を巡らせていた。
とはいえ、舞台上の出来事はしっかりと追っていた。
主人公は女王の命で危険な世界一周の航海に出る——第一幕で秘密結婚した最愛の妻とは離れ離れだ。
更に航海の途中で親友の裏切りが発覚し、彼を処刑することになる。
今、アルバートの妻は隣にいるし、先ほどのセッティンガム男爵のからかいは別に裏切りでも何でもないのだが、何故か身につまされた。
主人公が不在の間に宮廷に陰謀が渦巻くのを横目に、アルバートの思考は、先ほどまでは考えることを避けていた事柄に及びつつあった。
——もう認めるしかない。
——おそらく、全ては昨日の私の振る舞いのせいなんだ……。
昨日の午後、アルバートとアメリアは、今夜の観劇を始めとするロンドンでの予定をこなすために、最小限の使用人を伴ってロンドンの<メラヴェル・ハウス>に到着した。
ディナーまではそれぞれ好きに過ごすことにしていたところ、午後遅くにアルバートに訪問客があった。
彼が古典学のコラムを寄稿している雑誌を発行している出版社の編集者だった。
書斎で面会すると、編集者は一刻も早く知らせたいことがあり、アルバートがロンドンに出て来ていると聞きつけて訪ねてみたのだと語りつつ切り出した。
「実は、昨日の役員との会合で、是非あなたに本を書いていただきたいとの話が出たのです、アルバート卿」
「本? これまでのような雑誌へのコラムや論文の寄稿ではなく?」
アルバートは思わず聞き返してしまった。
「ええ。先日寄稿いただいた古代ローマの身分制度と昨今の英国の階級社会の類似性に関するコラムが思いがけず評判になりまして、同じテーマで本を出せないかと思っているのです」
「しかし、私は在野の私的な研究者に過ぎないが……」
アルバートが努めて冷静に事実を指摘すると、編集者は迷いのない口調で応じた。
「おっしゃる通りですが、今回は専門書ではなく、広く読者の古代への興味を喚起する教養書にしたいのです。なので、大学教授などの学問の権威が書くよりも、一人の貴族として日々階級社会を見ているあなたにお任せするのが一番良いと考えています」
それから編集者は、近く役員から正式な依頼の手紙を送ると言って帰っていった。
編集者を見送った後、アルバートは、思いがけない依頼に暫く呆然としていたが、自然とアメリアの私室に足が向いていた。
私室で趣味の読書に興じていたアメリアは、知らせを聞くとヘーゼルの瞳を輝かせた。
「素晴らしいわ! もちろん、引き受けるのでしょう?」
「まあ……印税を指定の慈善団体に寄付することを了承してもらえるなら、そうしようかと……」
貴族として、報酬を受け取る職業作家になることは避けたいアルバートが一応そう言うと、アメリアはとびきりの笑みを浮かべた。
「良かった。あなたが嬉しそうだと私も嬉しいわ、あなた」
その言葉を聞いたアルバートは初めて自分が嬉しいのだと自覚した。
そして、そのことがこれ以上なく幸福に思えた——。
——もちろん、幸福を感じたこと自体には何の問題もない。
——どうして私はその後余計な一言を言ってしまったのだろう……。
アルバートは眼下の舞台に集中しようとした。
舞台の上では、ようやく英国に帰還した主人公が妻と再会を果たしていた。
愛し合う二人は舞台の中央で熱い抱擁を交わしている。
——「愛してる、アメリア。心の底から愛してる」
昨日、自分の口から出てしまった言葉が彼の胸を刺した。
逃げ道を求めるように舞台上の二人の台詞を聞き取ることに集中したが、二人は互いへの愛を伝え合ってはいるものの、昨日のアルバートの言葉ほどの直接的な表現はない。
——これまでだって、彼女に「愛してる」と言ったことは何度もあったはずだが……しかし……。
しかし、これまでにそれを言ったのは、少なくとも昼間の彼女の私室ではなかった。
私室といっても、女男爵の私室は親しい客人を迎えることもできる半ば公的な場だ。
「心の底から愛してる」がその場に相応しい節度ある言葉ではなかったことは明らかだった。
——彼女にとっては、緊急事態でもないのに、夫が昼間から節度に欠けたことを口走ったということになる。
——あの場では、レディらしく何も言わずにただ微笑んでくれたが、内心では深く困惑していたに違いない。
——そう考えれば、昨夜から今日にかけての落ち着かない様子にも説明がつく……。
アルバートは無意識に右手で額を押さえそうになったが、すんでのところで耐えた。
隣のアメリアがこちらを向き、口元に扇を広げた気配がした。
彼が少し身じろぎしたのを不審に思って、どうかしたのか尋ねようとしているのかもしれない。
アルバートは観劇に集中しているように装おうと、依然抱き合っている舞台上の夫婦を見つめた。
すると、アメリアが扇の陰で囁いた。
「『私もよ、あなた』……昨日言えなくてごめんなさい」
アルバートは急に舞台上の夫婦の台詞が聞き取れなくなった。
***
普段は優れた記憶力を発揮するアルバートだが、それからのことは正直よく覚えていなかった。
気づいたときには、舞台では、エリザベス女王の祝福により主人公夫妻の結婚が正式なものとなり、更には船上で女王から直々にナイトの位を授けられていた。
そこで第二幕は終わりを迎え、劇場が割れんばかりの拍手に包まれる中、幕が下りた。
アルバートも隣のアメリアと同様に拍手を送っていたが、彼の思考は先ほどの彼女の言葉に支配されていた。
「さっき君が言ったこと……」
幕間の休憩時間に入るなり、アルバートが乱れてもいない上着の襟を直しながら切り出すと、アメリアは小さく頷いて応じた。
「ええ、昨日あなたが言ってくれたことに対してよ。あのときは微笑むのが精一杯になってしまったの……あまりに嬉しかったから……」
そう言ってアメリアは再度顔の前に扇を広げた。
透かし彫りの扇越しに僅かに見える頬が少し赤い気がした。
「本当はあなたがもう一度同じことを言ってくださったときに言おうと思っていたのだけど、それを待っていたら落ち着かなくて……」
アメリアが顔を扇ぎながら言った。
アルバートはゆっくりと立ち上がって彼女に手を差し出した。
「あら? ホワイエに出て社交をした方が良いかしら?」
アメリアは自分の手を彼の手に重ねながら言ったが、アルバートは首を振った。
「いや、もう帰ろう」
「でも、第三幕がまだ……」
「後のことはわかりきっているよ、マイ・ディア。サー・フランシス・ドレイクがスペインの無敵艦隊を撃破し、皆が我が国の勝利を称えて大団円さ」
「それはそうなんでしょうけど……」
アルバートは彼女が戸惑いつつ立ち上がるのを助けると、その手をとって自分の腕にしっかりと掴まらせた。
「それよりも私は、もう一度君に同じことを言ったら、君が何と返してくれるかの方が知りたいんだ」
そう言ってアルバートはボックス席の出口へと歩き出した。
アメリアも少し笑いながら彼に続いた。
「それだって、わかりきっているはずよ、あなた」
「それでも知りたいんだよ、アメリア」
廊下へと踏み出した彼らは、冷静で穏やかな貴族の夫妻の表情を取り繕った。
劇場の出口へと真っ直ぐに向かう彼らを見た人々は、夫妻には早く帰らなければならない正当な事情があるのだと思っただろう。
ただ一つ取り繕えなかったのは、腕と手が伝え合う互いの体温だった。
そして、密かにその熱を分かち合っていることが、二人にとってこれ以上ない幸福だった——。




