嵐のあとの嵐
路上の汚物でも見るようなものすごい目で一瞥してくる兄の横を通り過ぎ、リシェリアは久しぶりに応接間というコミュニケーション不可避の忌々しい空間へ訪れた。
きれいな季節の花を魔法で生けた電灯が吊り下がる応接間は、清潔感に満ちた配色で整えられている。大きめの長椅子がふたつ、向き合って話をできるように設置されており、大きな窓から庭の見える、客人をもてなす気持ちを全面に押し出した部屋だ。
リシェリアは不機嫌そうに眉根を寄せる。基本的に普段は自室から出ないので、我が家ながら他人の家のような居心地の悪さを感じるのである。それに客が誘拐事件の家系のもの、とくればなおさら。
「まことに、申し訳ございませんでした……!」
その少年は、額突かんばかりに身体を折り曲げ、冷や汗いっぱいの顔を真っ青にしていた。うわあ。こいつ、ものすごい見覚えある。
透き通るような緑の髪は、うなじの見えるくらいの短さ。縮こまっていることもあるが、それ以前として全体的に細身で骨っぽい。顔立ちは幼いが、あのキャラクターに違いなかった。
ええと、名前は、そう——
「ジイェン・アヴエスウェルさま?」
「……っ! は、い!」
変わった名前だなあ、と前世でも思った。カタカナって覚え難いよなあ。そのうえ彼はだいたいジイェンと呼ばれていたので、家名はまったく頭に入らなかったのだった。
しかし、そのジイェンがなぜリシェリアを訊ねてきたのだろう。いや、用件は聞いている。理解もできる。しかし、なぜ、よりにもよってジイェンが寄越されたのか。ちらと背後を振り向くと、無言でついてきていた従者はいかにも興味なさそうな視線をくれた。好きにやればよいというところか。投げたな。
んー、と首の後ろを掻く。あの事件のあと、リシェリアはばっさり髪を切った。だいぶ傷んでしまったし、なんだか穢れた気がしたからだ。今は男子でさえしないようなベリーショートだ。この髪型がまた、家族の気に食わないようだが。
「なぜ、あなたがきたのかしらねぇ」
他意のない、ただの一人言だったのだが、これを受けてジイェンはびくっと肩を震わせた。
「あ、お——恐れながら、我が一族のしでかした恥ずべき行いの謝罪を、させていただきに参りました次第でございます……!」
同い年だから、十歳か。こんな年齢でよくそんな難しい言葉を使えるものだ。リシェリアは前世分があるのでアレだが。
「ほ、本当に……本当に、どう償えばよいのか……。一歩間違えば、取り返しのつかないことになっていたと……」
いや、けっこう、だいぶ取り返しのつかない目に合ったような。まあ、貞操も命もいちおう無事だからね。
「ですが、あれは一部の狂信者の暴走であり、誓って我が一族の総意ではありませんでしたことを、どうか、どうかお伝えしたく——」
えーとぉ、とそこで軽く遮る。
「つまり、あなたのお家の企みではなかったから、仕返しとか断罪とかは求めないでほしい、ということでしょうか」
「! ちが、違います!」
下げたままの頭を、全力で彼は横に振った。違うらしい。どう考えてもそうとしか聞こえないんだけど。
「そ、そうではなく、あの、決して、あなた様、ひいてはドッグワーズ家の方々に対する害意などなく、こ、これからも、決して、決してあなた様を傷つけるつもりはないということを、あの、し、信じて、ご安心、いただ、き……たく……」
動揺のためか、立派な口上は崩れ出し、何度も詰まる。さらに、徐々に顔を上向かせ、窺うように、ひどく必死な目でリシェリアを見上げたジイェンは、彼女の頭部を目にして言葉を失った。愕然としている。
「……あの、つかぬことを、お伺い、しますが……御髪、は……」
「ああ、ええ……そのぉ、事件のときに髪を引っぱり回されたり、汚されたりしてかなり荒れてしまいましたのでー……」
蒼白を通り越して真っ白な灰みたいになったジイェンの身体が、カタカタと震え出す。そういえば、彼はずっと頭を下げていたから、リシェリアの頭を今はじめて目にしたのだ。ちょっと衝撃が強過ぎたようだ。ふつう良家の女性はこんなに髪を短くしたりしないから、上流階級に属する彼からするとよけいに無惨に映ったことだろう。
「あー、そのぉ」
「我々は、本当にとんでもないことを……!」
「……それはそうなのですけどねぇ。まあ、ほとんどのアヴエスウェルの人間にそういうつもりはなかったのでしょう。お気になさらず」
「そういう、わけには……」
なぜあなたが泣きそうなんだと問いたい。というか、そもそも。
「そもそも、謝罪にくるとして、どうしてあなたのような年少の方がいらしたのです?」
「っ、あ、その……」
「あー、いえ、責めているわけではありませんのよ。ただねえ、本来ならこの件について知らされることはあまりないと思われるような年齢のあなたを、わざわざ代表として仕立てたアヴエスウェルの考えていることが、わたくしには分かりませんの」
曰く。
星喚ばいの使い手の先予視に、悪意はなかった。
その使い手に一族の一部のものは心酔しており、また野心の強い彼らは強襲をはかった。
しかしそんな勇み足を、アヴエスウェル本家——まだかろうじてショーンズウィンの傍系とも言えるので本家という言い方はおかしいかもしれないが——はまったく知らなかった。
彼の謝罪と事情説明を簡単にまとめると、このようなところだった。
しかし、それなら別にもっと事情をわきまえた大人でも良かったのではないだろうか。何もこんな子どもに、こんな厄介ごとを押しつけずとも。ジイェンにしてみればとんだ貧乏くじだろう。
「あ……あの、僕——私、は、アヴエスウェルの星喚ばい、の後継、でして……」
「——後継? あの術を使える人間は、そうポンポン生まれないでしょうに」
「はい……ですが、一代限りにするのは忍びないと、血道をあげているのが現状で。あ、いえ、それはいいのですが、えっと……」
「?」
「わ、我が一族の償いとして、これより先、私ジイェン・アヴエスウェルをお使いいただくことを、お願い申し上げます……!」
…………売り込み、だと?
図太い一族だな! とよろめくリシェリアだったが、ふと思い直す。いやそうではない。つまり、言い方は悪いが下僕になるということだろう。後継の話も、有能なものを寄越した、という主張か。
彼は、生贄なのだ。
「どのようにお扱いいただいても構いませぬと伝えるよう申し付けられております。また、あなた様のご用命とあらば、我が一族伏して従わせていただきます。あなた様がお求めになるものは、我が一族の可能な限り献上致します」
「……ずいぶんと、差し出してくださいますねぇ」
やりすぎとも言えるくらいだ。いくら六家の直系に対する償いとはいえ、元本家たるショーンズウィンでも、二大家でもないドッグワーズに、なぜこうも過剰に接するのか。
「いいえ……っ! 足りないくらいでございます。それに……アヴエスウェルは、いま、増長しすぎております。それゆえこのような事態を招いてしまいましたので……」
ああ、とここでようやく理解が及ぶ。なるほど、内部粛正に見せしめも兼ねているのだろう。誰に手を出したのか——どれほど大それた愚を犯したのかを分からせ、慢心をいさめたいのか。うまく使ってくれるものだ。しかし、それでおさまるだろうか。逆に反抗心に火をつけそうだが。
まあ、そこまで他家のことを気遣ってやることもあるまい。
「言いたいことはわかりましたが……あなたをお預かりする件は、せっかくのご好意に申し訳ないのですけど、遠慮させていただきますわ」
「え……!? な、なぜ、あの——なぜでしょう。私ではやはり不足なのでしょうか」
うろたえるジイェンに首を振ってみせ、リシェリアはゆっくりと腕を組んだ。いかにも大儀そうに目を伏せる。
「そういうわけではありませんのよ、そうではなくて」
「は、はい……」
「——はっきりと申し上げて、わたくし、アヴエスウェルの血族であられるあなたのことを、無防備に傍に控えさせられるほど信用出来ませんの。かといって、寝首をかかれる心配までしてあなたを使いたいとも思えませんし」
「! そ、そんなこと、決して——」
焦ったように反駁するジイェンの言葉を、軽く頷いて遮る。
「ええ、あなたにも、あなたのお家にも、そのような気持ちはないのかもしれません。謝罪は受け入れますので、そういう意味ではあなた方の誠意は信用させていただきましょう。ですけれど、近くにおくのは信頼するものにしたいのです。わたくしには野心も向上心もありませんから、裏切る可能性があっても有用ならば雇いたい、と思うほど血気盛んにはなれませんのよ。つまりね、あなたがアヴエスウェルであることより、会ったばかりのよく知りもしないあなたを間近においておけない、ということの方が大きい」
ジイェンは反論しようとして、けれど何も出てこなかったらしい、顔中を苦しげに歪めて立ち尽くしていた。きついこと言って申し訳ないが、本心である。
「それに、わたくし、よく知らない殿方は、まだちょっと……受け入れられませんので」
濁すようにつけたすと、彼はハッと頬を強ばらせた。相手が男に襲われたばかりの少女だと、今更突きつけられたかのように。ちょろいな。いや嘘でもないんだけど。
「……わ、わかり、ました。お気持ちを考えもせず、失礼を申し上げました。本当に申し訳ありませ、」
「謝罪は受け入れましたから、もう繰り返さずともよろしいわ」
「は、はい! あの、お傍にはべることは諦めます。ですが、どうか私どもにできることでしたら、なんでもお申し付けください。伝達を使っていただけましたら、すぐさま駆けつけます。遠方よりあなた様にお仕えすることだけは、ご容赦くださいませんか」
ぱちくりとリシェリアは瞬いた。斜め後ろで我関せずと黙している従者を振り返り、顔を見合わせる。リシェリア様のご随意に、という視線を送られる。また投げられた。ジイェンに視線を戻す。彼は真っすぐで真剣な目をしている。……。なぜこの少年は、こうまでして身を差し出したがるのだろうか……。
「……はあ、まあ。つまり、一方的なお願いをきいてくださるということでよろしいのでしょうか」
「はい、それはもちろん、我が一族すべてにおいて。それとともに、私個人を、あなた様のお役に立たせていただきたいのです」
「はあ……」
「お願い致します!」
「まあ、それでしたら、よろしいですけれど。あなたはよろしいの、それで」
せっかく尻拭いを放棄できるチャンスだっただろうに。なんかそんな重大なお役目として賜ってきたんですか? 仕えないと家で怒られるとか? あるいは結局野心なのかしら。
疑問符で頭をいっぱいにするリシェリアに向かって、ジイェンは落胆を滲ませた苦笑を浮かべる。
「いえ、もちろんお傍近くにはべらせていただくことが一番ですが。少しでもお役に立つことお許しいただけるだけで充分です」
「そ、そう……」
分からん。
この少年の考えていることが分からん。アニメではのんびりした穏やかキャラから鬼畜狂人へと変化した、ある意味分かりやすいひとだったのだが。なんなの? マゾなの? グラズリーの主君馬鹿主義みたいなものだとしても、まさかリシェリアに忠義を抱くことなどないだろうし。責任感が強いというべきか、謎に頑固というか。
ジイェン・アヴエスウェルは、そうして深々と頭を下げて去っていった。どうやら下僕を一匹手に入れてしまったらしい。まるで使いどころがない。
「いったい、なんだったのかしらねぇ……」
首を傾げながら自室へ続く廊下に出る。彼女の怪訝げな呟きに、ナスティが口を開いた。
「リシェリア様、狂信者を手に入れたのでは?」
「は?」
「どうも思い込んだら一直線という感じの方でしたし、そもそもあの家の星喚ばいに対する熱心さは異常でしょう。ショーンズウィンの方も興味の対象に傾倒されるのが普通ですし、もともとそういう家系なのでは」
なんだと!? 新発見だが言われてみれば納得である。
「いえ、そうではなくて……狂信って、わたくしに対して?」
「多少、誇張表現かもしれませんが。あなたを終生かけて守り、尽くし、償わなければならない対象だと認識なされたのではないでしょうか」
「……ええぇ」
リシェリアはげっそりした。またなんか厄介なことに。恨みを買うよりは良かったのかもしれないが、どうにも面倒臭い感がぷんぷんする。ジイェンは遠距離からどうリシェリアを支援しようとしているのだろうか。情報とかべつにいらないから……わたくし引きこもりだから……。
「そんなに気になさらずとも良いのではないですか。意外と役に立つかもしれませんよ」
「役に立つ人材なんてわたくしにはいらないのだけどねぇ……」
「ですがまたああいったことが起こったときに、僕ひとりであなたを守りきれるか分かりませんから。丁度良いですよ」
それはそうかもしれない。
ナスティがどんなに優秀でも、身体はひとつしかない。あっちもこっちもと同時に対処することは物理的に難しいだろう。ドッグワーズに手配を回しても従ってくれるか分からない。敵が目の前だけならともかく、違う場所から異なる手を取られたら困る。ナスティの言うことは尤もだった。
きた廊下の角を曲がり、一段暗く光のあまり入らない方へ進む。暗緑色のと褐色の絨毯がじっとりと暗闇に溶けている。
「だからおまえ、そんなに反対してなかったのぉ? ずいぶんとわたくしを放ってくれたじゃないの」
「彼をどうするかはリシェリア様の決めることですから」
「むっかぁ……助けてくれたっていいじゃないの、むしろせっかくの働き時でしょうがぁ……。綺麗に知らん顔してくれてぇ」
「どうせ傍にはおかないだろうと思ってましたし」
辿り着いた自室の扉を、ナスティが押し開ける。リシェリアの部屋には、ナスティの他に使用人がいない。前はひとりだけ部屋女中がいたのだが、一度お茶に毒を入れてきたのでやめさせた。以来、父に何も言ってないので誰もこないという状態のままで保たれている。洗濯や食事の配膳は他の担当女中が行ってくれるので問題はない。
リシェリアは気に入りの長椅子にフラフラと吸い寄せられ、そのままばたんと倒れた。だるい。久しぶりに移動して疲れた。
「ちょっとやめてくださいよ、せめて着替えてからダラダラしてください。服に皺が寄るでしょうが」
母親のようなことを言う従者である。しぶしぶ起き上がり、胸元のリボンを解く。今日は客人と面会する、ということだったのでわりあいきちんとした服を身につけていた。人の手を借りねば着脱不可能である複雑怪奇な流行りのドレスではないが、それなりに手間のかかるワンピースだ。濃紺のシャツに白いリボン、上に合わせた深緑のワンピースは腰元でゆるやかに締まり、モスリンフリルを隠したスカート部分がふんわりと広がる。さらにふくらみをもたせるため、中にパニエのようなものを履いている。ので、さらに歩き辛い。
「ん? あれ、あれぇ……?」
「……座ってください」
呆れたようにナスティが嘆息する。リシェリアは大人しく座る。ぱちん、ぱちん、とどこの部位か分からない場所の釦や金具をナスティは流れるように外していった。おおお、すごい。女中仕事もできるとは。さすがだな、従者どの。内心褒めたたえていると、おおいかぶさるように首に腕を回された。どうやら背中を外してくれているらしい。
「後ろ向いた方がいいかしらぁ」
「いえ、このままで」
いやでも、なんか落ち着かないんですけど。こう、その……抱きしめられてるみたいで。
ナスティの顎が肩にあたる。髪が触れる。息遣いが近い。ナスティはさほど特徴的な匂いはしないのだけれど——たとえば花とか蜜とか——なんとなく温度のある匂いがする。やわらかく、どこか湿っているような、逆に渇いているような、そのひとの生活に寄る匂いだ。
ああ。
気まずい。
面倒がらず、女中を新しく頼むべきだったかと今更ながら思う。今日は連絡がてらやってきてくれたひとが着つけるだけしていってくれたのだが——できればアフターケアもしてほしいものだった。着せっぱなしじゃないですか。
「はい。あとはご自分でできますよ」
「あー、ありがとうねぇ」
「着替えはそちらに」
「はいはいぃ」
さっと離れたナスティは、てきぱきと指示を出すと背を見せた。いちおうレディ扱いしてくれるようだ。この男の淡々とした視線に下着姿まで晒すのはどうにも気が進まなかったので、ありがたいことである。淡々としながらじっと見るのやめてほしいよね。なんか変な汗出る。
リシェリアはさくさくと面倒な服を脱ぎ捨て、ゆったりとした部屋着をひっかぶるみたいにして身につけた。楽である。胸から腹あたりまで連なる釦をぷちぷち止める。
「もういいわよう」
振り向いたナスティはリシェリアの姿を見て沈黙した。
「なにぃ?」
「あなたほんと駄目ですよね」
「んな……」
ナスティは長椅子に座るリシェリアの前に跪き、「失礼」とひと言、彼女の三番目あたりの釦に手を伸ばす。
「……あ」
ずれてる。
リシェリアは頬を引き攣らせた。まさか慣れた服ですらこんなミスを犯すとは。きまり悪げに目を泳がせる主人の釦を、ナスティは特に面倒がるでもなく直していく。なんだか申し訳なくなったので、悪いわねぇ、とつぶやいた。いえべつに、と彼はいつもの調子だ。
「さきほどの話ですが」
「んん?」
「あなたが彼の最初の要求を押切られそうになったら、口を挟みましたよ」
「要求……って、ああ……売り込みのあれ……、」
釦が止められ終えた。ナスティの腕がリシェリアの耳の横を過ぎ、彼は長椅子の背に手をつく。一瞬世界は真っ暗になった。まったくなにげない動作で、彼は僅か頭を傾け、リシェリアの口を塞いでいた。
キスをされている。
触れる——いや、食まれるだけで終わったくちづけを、そうと認識したのは、彼の顔が離れていってからのことだった。
「あなたの従者は僕だけで充分です」
跪く体勢に戻り、軽く目を伏せて彼は言った。
「……そうねぇ」
詰めていた息を細く吐き出し、疲れた心地で同意する。まあ、それはそうだ。身の回りの護衛も、世話も、彼がいれば事足りるだろう。しかし、それにしても。
「………同意を得るくらいしても良いんじゃないの?」
はあ、と分かっているのかいないのか微妙な相槌を返される。ナスティは少し考えるような間を置き、おもむろにリシェリアを見上げた。金灰の瞳が冷えた熱を持つ。
「では、もういちどしてもよろしいですか」
「……何故」
「着替えの手伝いで、抑えがきかなくなったので」
言うなり、ナスティは片膝を長椅子に乗り上げ、今度は両手で椅子の背を掴み、囲うように——つまり逃げ道をふさぐようにしてリシェリアにくちづけた。
慎重に、甘噛みする猫のように。幾度も唇を擦れさせ、食んでいく。
全身が熱い。沸騰するようだ。目の前がぐらぐらする。
やわらかい唇の皮が熱を分け合う。洩れた吐息が密に触れ合う。やさしく煽る接触に瞼が震える。
「……ふ」
やっと離れた男は、しばらく彼女のことを見上げていた。たぶん自分はいま、多少なりとも赤い顔をしているのだろう、と予想がつく。微かに息を乱すリシェリアと違い、ナスティはまったく変化がない。いったい、それの、どこが、抑えのきかなかった状態なんだ。忌々しい。
「満足?」
「はい」
「あ、そう。じゃあ、紅茶とケーキ、用意してちょうだいな」
はい、とこれまた平静な声で答え、ナスティは簡易魔法を使って姿を消す。やけにあっさり部屋を辞す従者だが、護りの術はすでに張られているのだろう、その気配は感じ取れた。そつのないことである。
束の間の平穏に、リシェリアは思い切り深く溜息を吐いた。
(お、おそろしい……! なんなの、あれ! ジイェンよりよっぽどあいつの方が厄介だよ!)
こらえていた動悸息切れがどっと押し寄せてきて、ぐったりと長椅子にすがってしまう。あの襲撃の日以来大人しくしていると思いきやこれである。あああもう、こわい。ほんとこわい。
でも喜んでいる自分が嫌すぎる!
真っ赤になる顔を覆い、リシェリアはそれこそ年相応の子どものようにぎゅうっと身を縮めたのだった。
壁ドンならぬ椅子ドンちゅー。でした。