前編
きづいたら、クマになっていた。
水面に映るその姿が、記憶に残るクマそのままだったからだ。
(あらあ。やだわあ。…ええ? クマ? 熊なの? そんな顔してるけど)
その第一印象は、かわいくない、だった。
実際、間近で見てみると驚くほど可愛くない。黒い毛はごわごわしているし、黒目が大きくて感情が読みにくいし、なにより口からはみ出ている牙。何かを喰い殺す用途としか考えられない形状をしている。
ごろごろと、ショッキングな状況に対する行動として、その場で転げ回ってみる。
ごろごろごろごろ。
…これは、かわいいかもしれない。
少し落ち着いたところで、もう一度、川に近づいてみる。
やはりそこにはクマの顔が映っていた。
(これって、クマに生まれ変わったってことかしら…)
自分は以前は人間だったように思う。
それも妙齢の女性。子供もいた気がする。
なにか読み物で、こういった生まれ変わりのジャンルを知っていたような気もする。
記憶が朧気で、あまり思い出せない。どうしてこうなったのかも。
人間だった頃の名前も。なにもかも。
そして少し、物思いにふけったところで。
ーーまあ、いっか。
と頭を切り替えることにした。
思い出せないことを気にしてもしようがない。
現に今、自分はクマなのだ。これからはクマらしく生きていかねばならない。
本能が告げている。生きろ、と。
それは人間だった頃には感じなかった、生物が本来もつものなのか。
これが野生ということなのかもしれない。
これからは気の赴くまま。
家事や仕事に追われることなく、自由にそのクマ生を謳歌していくことになる。
それはいわゆる、スローライフ。と呼ばれるものなのかもしれない。
スローライフ。いい響きだ。ぜひ、ゆっくりと生きたい。
人間ではなくなったショックはある。
しかしその時の記憶がぼんやりなお蔭で、わりとさっぱりと現状を受け入れられた。
これもクマの脳が小さいからかもしれない。
いや、いま人間の思考ができているならこのクマは頭がいいのか。
しかしこのクマはいったい、何クマなのだろう。
詳しくないのでクマっぽい、ということしか分からない。
体はかなり大きい。軽トラくらいありそう。
爪もすごい尖ってる、痛そう。
それから、よくよく周囲を見渡すと。植生がニホンぽくない。
やけに巨大な木が普通に生えている。じっとみていると爪を研ぎたくなってくる。
いけない、野生にもどりそうだ。
ニホンというのが何かもおぼえていないが、人間の時に住んでいたところなのだろう。
ということはここは別の国なのか。
もしかしたら、いわゆる異世界、ということもあるかもしれない。
(…ええぇ? クマでファンタジー的な何かと生存競争しないといけないの?)
早速、クマ生の終了のお知らせが脳内に鳴り響く。
いやいや、早まることはない。記憶に残るクマは強かった。前の世界ではほぼ頂点の獣。人間くらい平気で襲っていた。それが問題になっていた気もするけれど。自分は襲う気はないからそこはOKなはず。
現実問題、この環境下で自分は大体どの程度の生物なのか。
比較対象がいないので、なんともいえない。
以前のクマの記憶もよくわからない。刹那的に生きていて、思い出せるシーンがバラバラなのだ。最近だと、赤い大きめのトカゲを食べて口を火傷してる記憶が新しい。
(火傷するトカゲってなんなのかしら?)
でもとりあえず、ここまで育っているのだから、そこそこ強いはず。
そうそう、そのはず。
ひとまず、お腹がすいたから何か食べよう。そうしよう。
そうして、川で泳いでいるそこそこの大きさの魚をばしゃっと、手で撥ねる。
(あ、これこれ。見た記憶がある。…へえ、こうやるのね。なんか獲る瞬間に時間が遅くなったような気がするわ。すごい。クマすごい)
人間だった頃ではありえない運動能力に感心しつつ、打ち上げられた魚を見る。
びちびちしてる。
…わかっている。このままかぶりつかねばならない。
器用に爪で切り分ける、こともできなくもない気はするけど、する必要性を感じない。
本能で「もう喰っちゃえよ」とクマ脳が言っている。
(でもねえ、生はねえ。…ほら、寄生虫とか怖いし。病気になったらヤダし)
人間の理性が野生の生食を拒否る。
その拮抗が実食を妨げていた。
しかしふと思う。
このなかなかに育ったクマの体躯。
もう色々と生食をし続けたであろうその身体に、もしやいるのではないか、と。
寄生虫くんが。
ゾっとした。クマに生まれ変わったと気づいたときよりゾっとした。
(えええええ! いやだわ、そんなの!! サナダなんとかみたいなのがお腹にいるのかしら)
もはや体内にいるかもしれないそれを追い出そうと身をよじるが、そんなことで出てきてくれるなら寄生虫なんて滅びてる。
ぐぐぐ、とそのあるかもしれない現実を受け入れようと身体に力を込めていると。
ふと、何かを感じた。
お腹の辺りに。何かいる気がする。
今度はゾッとはしない。緊張感とともに慎重さが増した。
いわゆるエイリアン的な何かがお腹から突き破ってでてくる可能性もないことはないかもしれない。
だが、今はまだその兆候はない。
(これはなんなのかしら…)
そのままクマのお腹を注視していると。やがて、反応があった。
『…うるさいな』
言葉ではない。ただそういうイメージが感じられたのだ。
(え、うそうそ。返事した? ええー? ほんとに? あのぉ、あなたはもしかして、寄生虫さん、なのかしら?)
理屈ではなく本能で、そう問い返してみた。
『くそ、急にうるさくなったな。今まで静かだったのに。なんなんだ』
聞こえる。声、のようなものがハッキリと聞こえる。
気色の悪さよりも驚きの方が勝ってしまっていた。
およそ人間だった頃の社交性が目を覚ます。
(あらあ、初めましてぇ、寄生虫さん。宿主のクマです。よろしくー)
『うるさい。お前は今まで通り、黙って喰って、力を育てればいいんだ』
しかし、ぴしゃりと跳ね除けられる。
なにやらこの寄生虫は反抗期の息子のような態度だった。
これには前世のざっくりとした経験が役に立つ。
こういう場合は、そっと見守る。
なんていうことは全くしなかった記憶がある。
生意気なのはシメて理解させてやらないといけないのだ。
(ちょっと、そういう言い方ないんじゃない? 私の身体に間借りしてるんだから。家賃を払ってもらいたいくらいだわ。言葉づかいも乱暴よね? そういうのって社会に出た時に苦労するのよ?)
まくしたてる。相手に一切の反論を許さず口撃の手をゆるめない。
これがシンプルにして、たったひとつの冴えたやり方なのだ。
『ああもう、うるさい! …わかった。理解した。いったい、なにが問題なんだ。…ああ、生で喰うのが嫌なのか。じゃあこれでなんとかしろ』
そういって寄生虫はなにかをしたのか、お腹からせり上がってくるものを感じる。
(え、吐いちゃう?)
と、思ったところ、口から炎が出た。
火炎放射器、のイメージくらいの炎だ。
火を吐くクマ。なんてファンタジーなんだ。
そうか、やっぱりここは異世界なんだ。
まあそもそも寄生虫と意思疎通してる時点でもうそれっぽかった。
そして自分はゲロのかわりに炎を吐くクマなのだ。
これは新たなクマ生が切り開かれた予感がする。
しかし、そう思考している間も火は出っぱなしだった。
(…ですぎじゃない?)
そう思った時にはもう、目の前にあった魚は消し炭になっていた。
長電話していて気づいたら夕飯のおかずがコゲコゲになっていた気分だ。
食料を無駄にした申し訳なさがつのる。
しかし、初めてだったのだからしょうがない。
(…ねえ、失敗したから。もう一回さっきのお願いしていいかしら? 次はもうちょっと火力弱めで。それからどうやって元栓閉めればいいのかしら。説明書とかあればいいんだけど…)
『…なにをしてもうるさいなお前は。口を閉じろ』
そうして、この異世界で前世人間だった現クマのような生き物とその体内に巣食う寄生虫のようなものとの共同生活がはじまったのだった。
◇
クマは大猿と争っていた。
縄張りを、ではない。お互いの生存を賭けて戦っていた。
(キーくん、エナジーお願いね!)
返事はないが、クマのお腹に力が溜まる。それを便宜上エナジーとクマは呼んでいた。最初に魚を黒コゲにしたように、目の前の大猿に向けて、勢いよく口を開ける。
(ファイアブレス【強火】!)
クマの口から強火と称されるだけある火力が吹き荒れる。
言わなくてもでるのだが、気分がでるのでクマは技名を一緒に言うことにしていた。
なんだか威力も上がる気がするからだ。
豪炎が大猿を包む。あまりの熱に毛皮では防げず、たまらず転げ回る。
隙ありとみたクマは踊りかかった。
その剛腕と爪で容赦なく責め立てる。遠慮なんてしていられない。
やらなければこちらがやられるのだ。
そう、これは野生の戦い。生き残りをかけた真剣勝負。
クマに生まれ変わった元人間は、どっぷりと異世界に適応していた。
しかし大猿もやられてばかりではなかった。
クマを蹴り、距離をあけるや、バチっと音を立てて、毛を逆立てる。
そして一瞬で紫電がクマへと直撃した。
(あいたーーーーーーー!!!)
クマはたまらず、身を翻した。
野生で背を見せるは敗北の証。
しかし都合よく人間の理性を持ち合わせるクマにその解釈はあてはまらない。
止めとばかりにクマの背後から襲い掛かる大猿に向けて、振り返りざま左腕のカウンター。
よくこうやって、台所の黒いアレを新聞紙で倒したものだった。
見事に大猿の顔面に命中。しかしまだ倒しきれていない。
帯電している大猿と接触した左の熊手がしびれる。
(もうっ、乾燥する時期によくある静電気みたいっ!)
そのイメージと実際に攻撃を受けた経験から、クマは新しい攻撃を学んだ。
(えーと、なんだっけ、あれ、ほらなんかネズミっぽいのがやるやつ、…んんんー、ええい! なんとかボルト!!)
結局、技名は決まらず、クマの左熊手から大猿を超える電気が発生した。
バチン、という空気が破裂たような音とともに大猿の頭は黒焦げとなった。
力を失った猿の体躯は、どさりと倒れる。
強敵だった。クマの左熊手もかなり痛かった。
あんたもなかなかだったわよ、と勝負が終わればそこに遺恨はない。
互いの健闘を称え合う。ノーサイドだ。
片方はすでに死んでいるが。残った方が二人分称えればよい。
クマの心に一時の充足感が満たされる。
『よし、そいつをはやく食べろ』
しかしそんな宿主の繊細な心を気にもせず、寄生虫のキーくんは事務的に命令してくる。
(……。)
クマは頭が黒焦げになった大猿の死体を見やる。
この世界にクマとして生まれ変わり、そこそこの月日が流れた。
キーくんに誘導され、そのゆく先々で、この大猿のようなおかしな力を使う獣たちと戦う羽目になった。
風で攻撃してくるデカい鳥とか、岩をくっつけてぶつかってくるデカいアルマジロみたいなのとか。デカいウツボカズラみたいなのはなんだったのか結局わからなかったが。
そのどれをもクマは倒し、そして勝者の権利として捕食した。
死力を尽くし戦い合った強敵と書いて友と呼べる間柄を、食さねばならぬ。
野生とは人間の感情では推し量れぬ冷徹さを内包しているのだった。
そこは生きるために必要な要素なのでクマも引っかかるものを感じつつも、これまでなんとか食べてきた。だが。
(…猿かあ。…ちょっと人間と見た目が似てるのがねえ。今までで一番、忌避感が強いのよねえ。ええぇ、食べなきゃだめ? これ…)
クマの食欲はなきに等しかった。
戦って消耗し、怪我もしている。栄養をとらねばならぬと理解している。
しかし、ここにきてクマの中に残る人間の理性が強めにでていた。
『目をつむればいける』
(いけるか! そんな嫌いなものを食べるときみたいなやり方で、なんとかならないわよコレは! ピーマンじゃないんだからっ)
クマの拒否りぶりにさすがのキーくんも代案を考えた。
『仕方ない。効率は落ちるが、この間の植物の力を使え』
この間の植物というと、でかいウツボカズラしか思い浮かばないクマだったが。あれから何を覚えたのか分からない。なにか使ってただろうか。蔓みたいなのでクマに巻きついてきただけだったように思う。
『鈍いな。あれは接触によるエナジーの吸収を行っていた』
(え、そうだったの? 確かにあのあとダルかった気がするけど。…肩こり腰痛かと思ってたわ)
寄生虫のキーくんはクマ本人よりもクマの肉体のことを理解している。住み心地の良い理想の家をDIYしているようなものなのかもしれない。
キーくんなりの譲歩をされ、それなら仕方ないかとクマも右熊手で大猿の死体にぺたりと触れる。
(んん、吸い取るイメージねえ。食虫植物的なあれかしら。…なんだっけ、あれ、緑色のぶつぶつの敵キャラでそんなのがいたような…)
するとみるみる大猿の死体が萎れていく。
本物かどうかあやしいカリカリの人魚のミイラのようになった。
そしてクマの傷ついた左熊手もそこそこ回復した。
お腹は腹三分目ほど。食べれば八分目くらいだったかと思うと、確かにキーくんの言う通り効率は良くないのだろう。
しかし助かった。本当にこれは人間の理性が全力で否定していたから。
クマはそういう、残っている人間の部分を大切にしたかったのだ。
どうして生まれ変わったかは知らないが。きっと何か意味があるかもしれない。
だからなるべく、完全に野生には戻らないよう気を付けていた。
お肉も焼いて食べるようにしているし。なるべく清潔にしようと毛づくろいや、ノミダニの処理も気を付けている。と、そこであることに思い至る。
体得したての力を使ってみようと思ったのだ。
ばちっと、音をたててクマの身体に微量の電気が帯びる。
するとポロポロと、体にくっついていた虫が落ちていったのだ。
(ちょー、便利じゃない!)
まるで白物家電を手に入れたような気分だった。
風も土も、あんまり便利な使いどころがなかったので、これは久々の当たりだ。
電気で他にできることは何かあったかと考えるが、そこはクマの頭脳か記憶の限界かあまり思いつかなかった。電子レンジがどのように出来ているかなんて普通知らない。
『無駄なことにエナジーを使うな』
キーくんはすぐこれだ。QOLを求めることも大事なことなのに。
いつも効率ばかりを重んじていてはクマ生および寄生虫生においての大切なものを見逃してしまう。
という教訓めいたものを過去の引き出しからひっぱりだす。
(もう、キーくんの言う通りに戦ってるんだから。ちょっとは大目に見てほしいわっ。身だしなみは女性にとって大切なことなのよ!)
『競争相手より先んじる方が重要だ。死んでは元も子もない』
その競争相手というのはクマが度々相手にしてきた妙な力を使う獣たちのことだ。
ふんわりと概要だけ聞いたのを覚えているが、どうもキーくんと似たようなのに寄生されるとあの力がつくんだとか。火を吐いたり、電気を出すのはそれだ。
クマの力は相手の力を学習する、とかいうのではなく、ただ単に元が人間だったので普通に痛い思いをして学んでいるだけなのだ。
じゃあなんなの、とキーくんに聞いてみれば「知らない」の一点張り。
クマの体の事を知り尽くしているはずなのに、なんだか歯切れの悪い返答だった。
なんの競争相手なのかと聞いても同じ返事。案外、本当に知らないのかもしれない。
クマとしてもわざわざ危険なことはしたくないのだが、しかしかといってクマに他にやることがあるかといわれれば、ない。
キーくんもどうやら負けない相手をチョイスしている様子でもある。
なのでやりたいことを探すかたわらにキーくんのお願いを聞いてあげている。というのがクマのスタンスだった。
そしてこの数回のバトルを経て、クマは自分に自信を持ち始めていた。
今のところ全勝している。戦うたびに相手の力も真似できるようになった。
これはもう、何が来ても楽勝なのではないだろうか。
そんな風に考えながら、クマたちは川の下流に進んでいった。
進む方向はよほど見当違いでない限りキーくんは何も言わない。
クマ的には、川沿いには文明の兆しが見えるかもしれないという期待があった。
この異世界に人間がいるのかどうか、それを確かめたかった。
前の世界と似たような動物がいるから、いそうな感じはする。
ひょっとしたらグレイ型宇宙人みたいな感じかもしれないが、意思の疎通がとれそうな知能の高い生物とコンタクトしてみたかった。
なにせ今のところクマは、独り言かキーくんに対する念話しかコミュニケーションの利用手段がないのだ。これではかろうじて残っている社交性が死んでしまう。
なので自分は良いクマなのだよ、とアピールしながらお近づきになりたい。とクマは考えていた。
そしてそんな下心満載のクマが更に何日も川をくだったあたりで、まさかの展開に遭遇することとなった。
「#########!!」
人間の少女が悲鳴のようなものをあげ、今まさに狼に襲われそうになっていたのだ。
クマはさすがに都合がよすぎて夢でもみたのではないかと、二度見したのだった。
◇
人間の少女は、複数の狼に襲われていた。
足をひねったのか、腰を抜かしたのか、立てないまま後ろ手に体をひきずっている。
それをじっくりと獲物を追い詰めるスタイルの狼。
別に性格が悪いわけではない。そういう習性なのだ。
獲物が弱り切り反撃の可能性がなくなったとみるや襲い掛かる。
野生の徹底された効率主義をみるようだった。
しばし、その大きな黒目をぱちくりとさせたクマは、やがて正気に戻り。事態の緊急さに気づいた。
少女のあの感じからすれば対抗手段を持たないことは明らかだった。
演技にも見えない。泣きそうなのを必死に我慢してなけなしの抵抗をしている。
クマはそういうのに弱かった。
(ああいうの可哀そうになっちゃうのよねえ)
そしてクマの同情心と初の知的生物(外部)との接触を求める下心とがブレンドされ、目の前の哀れな少女を助けよう、という結論に至った。
(コラァっ、あんたたち! その子に手をだしたら、タダじゃおかないよ!!)
クマは吠えた。かなりガチ目に。
すると狼たちはびくっと、その体をふるわせ、少女よりもクマに警戒の意識を向けた。
クマが一歩近づくほど、狼たちは下がっていく。
彼我の戦力差を体感し、相手が格上とみるや戦闘の意欲をなくし、そしてぎりぎり逃げ切れる間合いを維持している。野生では無謀な行動は避けるのだ。
(…キーくん。この子たちは普通の獣よね)
『ああ、腹の足しになるくらいだ』
クマ的には犬っぽい狼もあんまり食べたくない。
そのままお帰りいただけないかと、もう一度、少女を背に一喝する。
飼っている可愛めの犬が威嚇するとき、そこそこ野生を取り戻すように。
もうほとんど野生の、可愛くないクマの威嚇は、更にいかつかった。
ぐわっと牙を剥いて、喰い殺すぞ。という心構えを見せる。
威嚇も手を抜いては威嚇にならないのだ。野生はいつだって全力。
そして、狼たちはしゅんと頭を下げたようにみせると、踵を返して一目散に逃げ出した。
偉い。そうやってちゃんと逃げられるならまだまだ生き残れるだろう。
クマは野生0年生のくせに、かなり上から目線だった。
狼たちを見送って、不意打ちがないことを確認すると、いよいよお待ちかねの時間だ。
未知との遭遇。この場合、クマの方が未知よりになるのか。
だが折角、助けたのだから何かお礼が欲しいところだ。
物ではなく、その心とかね。とクマは邪悪に微笑んだ。
振り返ると、ひっ、と小さく悲鳴をあげて少女は固まっていた。
それはそう。狼よりも圧倒的に大きく強いクマを目の前に、少女の顔色は血の気が引いて青ざめていた。12,3才くらいだろうか。きっといろいろな想像をして絶望していることだろう。
かわいそうかわいい。
だがここが正念場。いかにクマが安心安全かをアピールしなければならない。
いくつかパターンを想定していたクマは暫定一位に乗り出していた例のあのポーズを試した。
やはり心と心を通わすという名場面として外せない。
右熊手を少女に差し出し、そのごつい爪を一本だけ伸ばす。
クマからはそれ以上、動かない。
あとはじっと少女の反応を待つ。
(大丈夫よー。怖くないわよー。…ほら、森のくまさんみたいな感じだよー。…ね?)
クマはだいぶと、自分に都合のいい印象を思い浮かべながら待った。
おびえる少女の心がほぐれるまで待つつもりだった。
しかしその均衡を破ったのは違う相手だった。
『どうした。はやくそいつを食べろ』
キーくんがそう訴える。当然のように。
(…え、どうして? …狼たちより食べるとこない、わよ?)
クマはあえてそう答えた。
その続きを、キーくんがいうだろう事を自分で考えたくなかったからだ。
だがそんな宿主の心など気にもせず寄生虫は事実だけを述べる。
『そいつも競争相手だ。食べて力にしろ。向こうは力が弱い、今なら簡単だ』
(……。)
クマはすっと、右熊手を引いた。
その首を空に向かってもたげ、口を開ける。
(なんでよ!!)
思い切り吠えた。先ほどの威嚇すら超える、本気の叫びだ。
足の小指を箪笥の角でぶつけたときや、レゴが足裏に食い込んだときほどの叫びだった。
その咆哮だけで周囲の空気はびりびりと震える。
クマの肺活量は体の大きさに比例して凄まじかった。
ひょっとしたらデカ鳥の風かなにかを使ったかもしれない。
覚えた力がなにかの拍子でもれることはこれまでも幾度かあった。
『また食べたくないのなら、この間のように殺して吸収するのでも構わない』
まったく宿主の心を解さない寄生虫に、クマは怒りを通り越して呆れた。
前世にもこのような経験があった気がする。
感情的になるなよ、というその無神経さがかえってこちらの神経を逆なでしていることに気づきもしない。そうしてお互いに言い合いになって、おタマを持って戦ったのだ。
あれはどちらの勝利に終わったのか、それは思い出せない。
しかしクマの体内にいるこの寄生虫は、いくらムカついても、残念ながらクマとは一蓮托生。切っても切れない間柄。死が二人を分かつまで、一緒にいるルームシェア状態。
歩み寄らねばならない。
結婚はしていないが、似たような状況のふたり?は話し合い、折り合いをつけて共同生活を保っていかねばならないのだ。
しかし相手は心を解さぬ寄生虫。
ここはクマがその前世の経験から、ロジックで相手をやり込めねばならない。
(…キーくん。どうして競争相手と戦って食べるのかしら?)
『それが目的だからだ』
(じゃあ別に、今すぐ食べなくてもいいわよね?)
『それではこの個体が成長し、負ける可能性が微増する』
(…それって競争相手が襲ってくる前提の話よね?)
『我々は基本、そうなるようになっている』
(でもこの子は、私に襲い掛かる風じゃないわよ。それはどうしてかしら?)
『寄生した生物の知能に左右されるからだ。我々の本能が覚醒していない』
なるほど、とクマは一旦、間をあける。
キーくんはなんというか前から思っていたが、「ヘイ、なんとか」と呼ぶアレに非常によく似ている。そしてなんとなくだが最後の台詞にこの原因が詰まっているような気がした。
キーくんはおそらく自分で思考していない。クマの脳を間借りして伝えているのではないだろうか。
だから返答もクマの知能に左右される。クマが考えられる以上の難しいことを話してこない。つまりこれはディスカッションのようにみえてひどく遠回りな、独り言なのだ。
クマは切なくなった。
獣に生まれ変わり、よくわからないものに寄生され。しかし話せば反応がある相手として残った人間性を潤してきた。だがそのどれもがクマの一人芝居だったかもしれないとは、なんと物悲しいものか。
しかし、相手にたとえ脳がなくても。その生存を真っ向から否定することはない。ミジンコだって生きているのだ。寄生虫だって生きていい。
これは知能を獲得したクマの驕りなのか。そんな難しいことはわからない。
魂とかスピリチュアルな内容でもない。ああいうのとは縁遠い人生だったように思える。
いま、一匹のクマとして。寄生虫を内包する生物として。力強く生きていく。
それがクマの野生と人間性のマッチアップだ。
ややこしいことは知らない。だってクマだもの。
だから都合よく、どちらの有用性も使い倒していくのだ。
(…キーくん、共生って言葉を知ってるかしら?)
『他種の生物と協力関係を結ぶ行動、か』
(そうそう、だからこの子ともそうしようかな、って思うのよね)
『費用対効果が釣り合わない』
(そうかしら? だってこの子は襲ってこないのよ? だったら協力できるんじゃない? ほら、これで戦力が二倍になるわよ)
『単純な計算ではない。こちらの負担が大きい』
このままでは平行線。クマもそれはわかっている。
そしてここからが今までと違うところなのだ。
(わかってないわねキーくん。やるのよ。主導権は私にあるの。あなたは私の考えを察して協力するしかないの。…いいわね?)
『……わかった』
その少しの間の返答にキーくんの寄生虫格を感じてしまうのはクマの錯覚なのか。
しかしクマだって分の悪い賭けをしようとしているわけではない。
人間は社会性の生物だ。
単体では弱くても、早々に手を出せば一個体でしかないクマはすぐに殺されるだろう。その危険は冒せない。
キーくんはその場その場の判断しかしない。将来を見通すことはクマの仕事になる。
だからこれは役割分担なのだ。
それがきっとクマと寄生虫の正しい付き合い方になるのだろう。
そうして話が決まったところでクマは早速、未知との遭遇イベントを再開しようとした。
しかしそこで、ようやく気付いたのだ。
少女が失禁して失神しているという、現実に。
(……。)
確かにクマは本気で吠えたけれど、それは少女に向かってではない。
流れ弾のようなものなのに、少女の精神はもたなかったようだ。
キーくんに共生とか言ってみたが、これは早々に放流する方が無難かしら。とクマは考える。
そして、ここからどうやって印象を挽回するか。
それは子育て経験を微妙に憶えている、クマのママみにかかっているのだった。
読んでいただきありがとうございます。
後編は明日投稿予定です。
よろしければ引き続きお付き合いください。
連載中の「ママはネクロマンサー」もありますので、よろしければそちらもどうぞ。




