## 第1章「破滅フラグは厨房から」
――銀の皿が、床に落ちて砕ける音がした。
「……っ、うそ」
目の前に広がる光景に、私は言葉を失った。
高い天井。金の装飾が施された柱。足元には柔らかな絨毯。そして、私を取り囲む冷たい視線。
これは――断罪イベント。
乙女ゲーム『ルミナス・エトワール』の、悪役令嬢が破滅するラストシーン。
「レティシア・フォン・アルヴェイン。貴様の数々の悪行、もはや見過ごせぬ」
冷ややかな声が、胸を貫く。
アレクシス第一王子。
私の――婚約者。
いや、“だった”人。
その隣には、涙ぐむ少女。淡い栗色の髪を揺らしながら、私を見つめる。
ミレイユ。
この世界の主人公。
(ああ……これ、知ってる)
喉の奥が、ひどく乾く。
(ここで私は、全部を失う)
そして――
――目の前が、暗転した。
◆
「お嬢様? お嬢様、どうかなさいましたか?」
はっとして、私は目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた天蓋付きのベッドと、心配そうに覗き込む侍女の顔。
「……エレノア?」
「はい。朝のお支度のお時間ですが……顔色が優れません」
エレノアは眉を寄せる。冷静で有能な侍女。けれど今は、その声が妙に遠く感じた。
私はゆっくりと上体を起こし、自分の手を見つめる。
白く細い指。傷一つない肌。
(……戻ってる?)
胸が、どくんと大きく脈打った。
「……今日の日付は?」
「王暦一二三四年、春の月の七日でございます」
その瞬間、全身に鳥肌が立った。
(ゲーム開始前……!)
断罪イベントより、ずっと前。まだ全てをやり直せる時間。
私は――
「……思い出した」
「え?」
「全部よ、エレノア」
彼女の手を、ぎゅっと掴む。
「私、このままだと破滅するの」
「……は?」
珍しく、エレノアが間の抜けた声を出した。
無理もない。突然そんなことを言われて、理解できるはずがない。
でも、これは事実だ。
私はこの世界の“悪役令嬢”で、そして――
(前世、日本で料理研究家をしていた)
奇妙な記憶が、鮮明に蘇る。
包丁の感触。火加減の微調整。香りの変化で完成を見極める感覚。
そして、誰かが「美味しい」と笑う瞬間。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
(……あれ?)
その温もりと同時に、ふと違和感がよぎった。
(私、どうして断罪されたんだっけ?)
ゲームのストーリーは知っている。ヒロインをいじめ、王子に嫌われ、最後は追放。
でも、“具体的に何をしたのか”が曖昧だ。
霧がかかったように、そこだけ抜け落ちている。
(……まあいい)
今は考えている場合じゃない。
「エレノア、厨房に行くわ」
「……は?」
「今すぐよ」
私はベッドから飛び降りた。
◆
王宮の厨房は、朝から活気に満ちていた。
大鍋が煮え、香草の香りが立ち込め、包丁の音が規則正しく響く。
「お、お嬢様!?」
料理長のセドリックが、目を見開く。
「なぜこのような場所に……!」
「見学よ」
にっこりと微笑みながら、私は答えた。
本来、貴族令嬢が厨房に立つなどありえない。
でも、そんな常識――今の私にはどうでもいい。
(ここが、私の戦場)
ふわりと漂うバターの香り。焼き立てのパンの匂い。
懐かしい。愛おしい。
「……そのソース、火が強すぎるわ」
思わず口をついて出た言葉に、料理人がぎょっとする。
「え?」
「乳化が分離してる。火加減を落として、少し冷たいバターを加えて」
「そ、そんな素人が……」
「いいからやって」
強く言い切ると、料理人は渋々手を動かした。
そして――
「……あれ?」
ソースが、なめらかに艶を取り戻す。
「な、なんだこれは……!」
「エマルションの基本よ」
口に出してから、はっとする。
この世界に“エマルション”なんて概念はないはずだ。
けれど、誰もその言葉よりも結果に目を奪われていた。
セドリックが、じっと私を見つめる。
「……お嬢様。今のは、どこで?」
「独学よ」
さらりと嘘をついた。
まさか前世の知識です、なんて言えるわけがない。
そのときだった。
「面白いことをしているな」
低く、落ち着いた声が響いた。
振り向くと、そこには――
「アレクシス殿下……」
銀の髪を揺らしながら、彼が立っていた。
整った顔立ち。冷静な瞳。
未来で、私を断罪する人。
(……怖い)
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
けれど同時に、妙な既視感があった。
(この人……こんな顔、してたっけ)
「レティシア。君が厨房にいるとは珍しい」
「……気まぐれですわ」
視線を逸らさず、答える。
逃げたら終わりだ。
「それで、その“気まぐれ”の成果は?」
「お口に合うかは分かりませんが」
私は皿を一つ、彼の前に差し出した。
簡素な一品。
バターと香草で仕上げた、白身魚のポワレ。
けれど――
(これは、“ただの料理”じゃない)
火加減、香草の配合、塩のタイミング。
すべてを計算して、“記憶に残る味”を再現した。
アレクシスは無言でフォークを取り、口に運ぶ。
その瞬間。
彼の瞳が、わずかに揺れた。
「……これは」
低く、掠れた声。
「どこで、覚えた?」
「さあ……どうでしょう」
心臓がうるさい。
彼はもう一口、ゆっくりと味わう。
そして、ぽつりと呟いた。
「……懐かしい」
(え?)
その言葉に、私の呼吸が止まる。
「昔、どこかで……いや、そんなはずは」
彼は額に手を当て、苦しそうに目を閉じた。
まるで、忘れていた何かを無理やり引きずり出されるように。
(なに、これ……)
ぞくりと背筋が震える。
ただ料理をしただけ。
それなのに――
(記憶に、触れた?)
「レティシア」
名を呼ばれ、顔を上げる。
彼の瞳が、まっすぐに私を捉えていた。
さっきまでの冷静さはない。
どこか、焦燥にも似た色。
「君は……」
距離が、近い。
手を伸ばせば触れられそうなほどに。
心臓の音が、耳の奥で反響する。
「――誰だ?」
「……え?」
一瞬、意味が分からなかった。
婚約者に向かって、何を言っているのか。
けれど彼の表情は、本気だった。
混乱と、戸惑いと、そして――わずかな期待。
(これって……)
ゲームには、こんなイベントはなかった。
料理で、王子の記憶が揺らぐなんて。
(つまり)
ゆっくりと、口角が上がる。
(運命、変えられる)
胸の奥で、小さな火が灯る。
恐怖ではない。
確かな、手応え。
「秘密ですわ、殿下」
私は一歩、彼から距離を取る。
わざとらしく、優雅に微笑んだ。
「ですが――またご用意いたしますわ。もっと“思い出深い一皿”を」
彼の視線が、鋭くなる。
「……約束だ」
「ええ、もちろん」
くるりと背を向ける。
震える指先を、ぎゅっと握りしめながら。
(いける)
断罪エンドなんて、まっぴらごめんだ。
料理で、記憶を揺らし、運命を歪める。
その先にあるのは――
(私の、生き残る未来)
だけど。
厨房を出る直前、ふと気づいた。
さっきまで笑っていた料理人たちが、妙に静かだ。
誰かが、ひそひそと囁く。
「……今の、見たか?」
「殿下が、あんな顔を……」
「ただの料理で、あれは異常だ」
そして、セドリックが低く呟いた。
「……お嬢様」
「なにかしら?」
「その料理、“どこまで影響する”おつもりで?」
振り返ると、彼の目は真剣だった。
まるで、危険なものを見るように。
(……影響?)
その言葉の意味を考えるより早く――
遠くから、甲高い声が響いた。
「アレクシス様ぁ〜!」
甘く、よく通る声。
振り向かなくても分かる。
(来た)
ミレイユ。
ゲームのヒロイン。
そして――私を破滅へ導く存在。
彼女が駆け寄り、王子の腕に触れる。
「こんなところにいらしたんですね!」
「ああ……少しな」
アレクシスの視線が、一瞬だけこちらに向く。
迷うように、揺れていた。
(……面白い)
胸の奥で、何かが静かに燃え上がる。
ヒロインが現れても、なお残る違和感。
それが意味するものは――
(運命は、もう壊れ始めてる)
私はそっと微笑んだ。
そのとき。
ミレイユの視線が、こちらに向いた。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ。
その瞳に――
“理解できないものを見るような恐怖”が宿った。
(……え?)
ぞくり、と背筋が凍る。
次の瞬間には、彼女はいつもの無邪気な笑顔に戻っていた。
けれど。
(今の、何……?)
違和感が、消えない。
まるで――
私の存在が、“想定外”であるかのような。
厨房の熱気の中で、ひとりだけ冷たい空気に包まれた気がした。
そして、どこかで確信する。
これはただの恋愛ゲームじゃない。
もっと、歪で――
もっと、危険な何かだと。
私は静かに息を吐いた。
そして、呟く。
「……面白くなってきたじゃない」
――だって。
私の料理は、まだ“序の口”なのだから。
次に出す一皿で、何が起きるのか。
それは、私自身にも分からない。
だからこそ――
**この物語は、まだ始まったばかりだ。**




