七話
嫌な言葉を聞いたとばかりに、マリーエルザが苦い声で呟いた。それから俺の視線に気が付いて、はしゃいだ笑顔を向けてくる。
「噂に違わぬその腕前、間近で拝見できるなんて! わたくし、とてもどきどきしてしまいましたわ!」
身長と同じく、平均よりも豊かな胸の上に手を置いて、マリーエルザはそちらに俺の目線を誘導させようとしてくる。何だ?
「実はわたくし、昨日からどうも心臓に落ち着きがないようなのです。ニア様、貴方の見せてくださる全てが刺激的で、魅力的だからかもしれませんわ」
「そこまで言われるとどうもむず痒いが」
「事実ですもの。その証であるわたくしの心音をお聞かせできないのが残念でたまりません」
安心しろ、聞こえてはいるぞ。実に規則正しく、興奮のかけらもない心音が。
「お疑いかしら? でしたら……確かめていただいてもよろしいわ。貴方になら……」
緊張を滲ませつつ、しかし本心の証明のため――という体で誘ってきた。
「……」
やはりここは乗るべきか。逡巡の間が数秒。
「――ご、ごめんなさい。わたくし、何てはしたないことを」
その空いた数秒で、マリーエルザは我に返ったかのように発言を撤回する。俺が乗ろうと乗るまいと、問題ない返しだ。初めからそうするつもりだったか。
「抱いた気持ちの証明に、変にむきになってしまって……。お恥ずかしいことを申し上げましたわ」
「……いや」
それに一体、どう答えろと?
正解が分からず、答えが曖昧になってしまう。
「ふーん。ニアも大きい胸とか見るんだ……」
リージェがやや、面白くなさそうに後ろで呟く。誘導に釣られたのは失敗だったんだろうが、別に大小が気になって見たわけじゃないぞ。
俺がマリーエルザの行動に対し、ある程度肯定的に返すつもりであることをリージェには伝えた。付随はしているが、それとは別、という気配もある。
人間的に重要な部位なのか? 胸。いや、重要な機能を持つことはもちろん分かっているが、恋愛時についても。
誘惑のために強調してきたマリーエルザのことを考えれば、おそらくそうなのだろう。
……人間の求愛は、多岐に渡っていて難しい。フォニアで求愛と言えば、美声を主張して歌うぐらいだ。
微妙な空気になって沈黙が下りる。何だこれは。
二人は動かないが、時間がもったいなかったので立ち上がる。と、びくりとして見上げられた。
「次に移る」
必要なのは一枚二枚ではないのだから。
「そ、そうね」
「そ、そうですわね」
気を取り直した様子で、二人とも作業に戻って再開する。
自分自身も調合に取りかかりつつ、思う。
――人間の求愛行動について、学ぶ必要がある。
リージェに聞けばいいんだろうか。事情を知っているから、その点では話しやすい。リージェに対して真に求愛を行うときも、当人に聞いておけば間違えなくて合理的だ。
だが実際に話すことを想像すると……ためらいが生まれた。
なぜ、と問われると分からないのだが、どうにも気恥ずかしい。
いや、本当になぜだ。おかしい。求愛は己の意思を示すために絶対に必要な工程であり、別に恥ずべきものでもないはずだ。
などと、集中力を欠いていたのが良くなかった。
「うッ」
マナ経路の結合に失敗する。
実験としての失敗ではなく、単純に操作を誤っての失敗。
こんな単純な作業で失敗するなどいつ以来だ……?
「ニアが失敗するところ、初めて見た……」
「まあ」
リージェからの視線が痛い。そしてマリーエルザは自分が与えた影響に満足した声を出した。
断じてマリーエルザの誘惑で動揺したわけではないが、釈明はできない。俺にとっても好都合な誤解であるし。
予定通りであると言っていいはずなのに、失敗している感が拭えない。
面倒になっても、路線を変更するべきだろうか。真剣に迷うぞ、これは。
どうも集中できそうにないので、息を付いて一旦調合から手を引く。まずはしっかり意識を切り替えよう。
俺だけでなくリージェやマリーエルザも集中していないようだから、いっそ丁度いいかもしれん。
「リージェ、マリーエルザ」
「な、なに?」
「はい、ニア様」
作業よりも俺に集中していた二人は、呼びかけにすぐに反応した。
「唐突で悪いが、午後からは二人で作業を進めておいてくれ」
「いいけど、ニアはどうするの?」
「出来た柵を設置しに行く」
性質上、一分一秒長く設置しておいた方が力を多く溜めて、目的の効果を高めてくれる。
「でしたら、荷運びにはわたくしの家から馬をお貸ししましょう」
「それは助かる」
カルティエラに頼んでも問題ないと思うが、これからも頻繁に借りることになるだろう。
人を介さずに動かせるマリーエルザから借りた方が効率的なのは間違いない。ついでに接点も作りやすくなるし。
「そのあと木材を取りに行くから、こちらには戻らない。今気になる点はあるか?」
「大丈夫。拡張予定地か採集地周辺にいるってことでしょう? 問題が起こったら聞きに行くし」
「そうしろ」
ここから先は単純作業なので、早々問題も起こらないと思うが。
「馬を帰すときは、貴女の屋敷に連れて行けばいいか?」
「ええ、お願いできますか?」
「問題ない」
馬の世話をしたこともなければ学んだこともないので、預かることはできない。なるべく日が残っているうちに戻ってきて、帰すとしよう。
「ニア様はわたくしの家をご存じありませんわよね? では馬をお貸しするときに一緒に参りましょう」
「頼む」
昨夜盗聴した感覚から大体の位置は分かるが、知っているのは不自然だ。素直に案内してもらうことにする。
「……」
何も口にはしなかったが、俺とマリーエルザの会話中、リージェの瞳が少しだけ怖がるような色を宿したのは気付けた。
「リージェ」
「あ、な、何?」
声をかけてから、迷う。どう伝えればリージェの不安を払拭できるのか。
話しかけておいて長々と沈黙し続けるのも不審だ。考えた末――
「……心配するな」
そんな曖昧なことしか言えなかった。
「――うん」
抱かせた不安を払うには、何もかもが足りない言葉だったはず。人間であるリージェが、俺の声から意思を正確に読み取れたはずもない。
だが、応じたリージェの声に嘘はなかった。
少しだけ俺の言葉を咀嚼する間を開けてから、リージェは自身の不安より信じる方を選んでくれた。信じようとしてくれている。
それは強さだ。同時に俺への信用でもある。
心が生じさせた己を護るための本能よりも、俺への信用を優先させたこと。それをとても――嬉しく感じだ。
元々裏切るつもりなどなかったが、より強く思う。
――絶対に裏切れない。
「……」
その俺とリージェの様子を見て、マリーエルザは少し考える素振りを見せた。互いに好意を寄せているぐらいは察した気配がある。
マリーエルザの篭絡にある程度乗る振りをするには、おそらく気付かれない方が良かったんだろうが……。
これで手法を変えられても、後悔はない。
マリーエルザから馬を借り、荷運びを手伝ってもらって、予定通りの工程まで作業を終えることができた。
昼に打ち込んだ柵は早くも神力を溜め始め、じんわりと属性値に変化を与え始めている。
拡張予定地を通り抜け、町の外門を潜る。町の敷地に足を踏み入れると、門衛から声を掛けられた。
「お疲れ様です。――あの木がある辺りまで町、広げるんですよね?」
「そうなる」
俺ほど町の出入りが頻繁な町人はノーウィットでは少ない。門衛とは大分顔馴染みになりつつある。
「俺が小さい頃から、町と外の境界って言ったらこの壁だったのに、何だか奇妙な気分です」
「時を経れば変わるものだろう。改めて見直せば町の中だって、色々変化はあるんじゃないか」
「……そうですね、言われてみると」
自らが護る町へと目を向けて、しみじみとした口調で同意した。
近頃、彼の職場の側では特に変化が多いし大きいから、余計に強く感じるのかもしれない。変化の一つが今も外壁の上で働いている衛兵の増員だ。
俺が視線を上げたのに気付き、門衛も同じ高さまで目線を上げ、同じものを見詰める。
「最近は物騒な話が多いので、見張りの増強は町の人たちには好評みたいですね。志願者も少なくないとか」
特に、護りたい大切な相手がいる相手ほど積極的だ。
「魔物大氾濫も経験したばかりだ。備えが厚くなれば安心感も増す。そして民心の平穏は町の発展に不可欠だ」
とはいえ、急増の増員に実際に魔物と戦うことは期待していない。今の彼らの役目は魔物の襲撃をいち早く発見、報告し、いざ有事となれば人々の誘導を行うことのみ。
ノーウィットは然程魔物被害の多い土地ではないが、長年兵士として対応してきた人材もそれなりにいる。今回も、基本は彼らの采配に頼ることになるだろう。
「魔王が発生した、なんて話もちらほら聞きますし。訓練とか、増やした方がいいですかね……」
「いいか悪いかで言えば、いいと思う。これから先、魔物の活性化は避けられない」
「します。訓練」
断言した俺に、やや頬を引きつらせて門衛はうなずいた。
彼と別れてアトリエに戻り、採ってきた木材を降ろして貴族街へと向かう。マリーエルザの元に馬を帰しに行かなくては。
市民街とを区切る階段近くまで来て、奇妙な状況に気付く。境界を見張っている衛兵がいない。昼間はいたのにな?
これまで俺が通ったときには必ず一人以上誰かがいたものだが……。いないときもあるのだろうか。
町の警備に詳しくないので、これが異常か正常かも判断できない。ただ、珍しいことだけは確実だ。
不吉なものを感じて周囲の魔力を探ってみるが、これと言って怪しいものは感じなかった。
首を傾げつつ、とりあえず目的を果たすためにマリーエルザの屋敷へと向かう。
現在マリーエルザが住んでいるのは、長らく放置されていた屋敷の一つを購入、急ぎで改装して暮らせるように間に合わせたもの。
ただ、さすがに貴族の意地と言うべきか。ぱっと見での傷みは見受けられない。
塗り直した壁と、取り換えたばかりの門扉の側で、男性一人、女性四人が固まって相談をしている。
おそらくだが、屋敷の住人全員が集まっているぞ。何事だ?
「――どうかしましたか」
「え、いいえ何も……。あらっ、昼間のお客様」
どう見ても何事かがあったようにしか見えないのに、白を切ろうとしたメイドらしい女性の一人が俺を見てはっとした顔をした。
「お借りしていた馬を帰しに来ました」
「これはこれは。ご苦労様です。私がお預かりいたしましょう」
手綱を受け取って馬を引き受けたのは、唯一いた男の使用人。世話をしているのも彼なのか、馬は安心しきった様子で大人しい。
「ところで、何事かがあったようにしか見えませんが。マリーエルザ様はどちらに」
「……」
再度問いかけると、使用人たちは困ったように全員で顔を見合わせる。それから。
「実はまだ、戻っていらっしゃらなくて」
マリーエルザと共に王女の依頼に従事している人間、という認識でいるためだろう。使用人たちの警戒は見知らぬ他人に向けるよりもやや薄く、事情を口にしてくれた。
貴族の未婚女性であるマリーエルザだ。何事もなく陽が落ちた時間帯に外出するとは考え難い。
使用人たちが戸惑うのも当然と言える。
境界に衛兵の姿がなかったことも一緒に思い出された。普段ないことが重なって起こっているなら、それはもう異変が生じていると考えるべきだ。
「マリーエルザ様はインペリアルカードをお持ちでは? 連絡はしてみたのですか?」
「いえ、それが。わたしたちはマリーエルザ様の識別番号を存じませんので」
それができれば――というようにメイドは答える。
確かに、ここにいる使用人たちの身分は低そうだ。本来なら主と直接言葉を交わすことさえ珍しいのかもしれない。
そして初めて知った。カードに通知を行うには、先方の識別番号とやらが必要らしい。
「あの、貴方はご存じでしょうか。それならば……」
「いえ、俺も伺っておりません」
「……そうですか」
少しだけ落胆しているが、初めから期待はしていなかったと思われる。当然の答えを聞いた、納得の色合いが濃い。
「ともかく、足取りを追って探してみます」
「助かります」
馬を帰したらすぐにアトリエに戻って調合を進めるつもりだったのに、いきなり厄介ごとが舞い込んできた。




