そして日常は続いていく
「もう一生男なんているかー! こっちから願いさげじゃー!」
帰り道の途中、陸橋の上で、沙織がたった一人で何かを叫んでいた。
マスターは苦笑を浮かべながら「聞かなかったことによう」と通り過ぎた。
クリスマスの夜。
街は静かに眠りについていく。
ゆっくりと、今日という一日が終わる。
シャッターの下りた宝くじ売り場の看板をなにか待ち遠しそうに眺めているおばあさん。
駅前で別れの時間を惜しみながら楽しそうに話をしている、褐色肌の背の高い短髪の女の子と優しそうな男の子の高校生カップル。
街角にはいろんな色彩に溢れた光景が広がっていた。
喜怒哀楽。
様々な感情を足跡の轍に募らせながら、十人十色の今日が終わる。
なんでもない一日が。大切な一日が。終わってまた、明日が来る。
「もう来年まで後少しか。お前も僕もじきにまたひとつ歳をとってしまうな」
白い息を吐きながらマスターが言う。
「お前と一緒に店を始めて四年。素人の思いつきだけで起業してどうなることかと思ったが、どうにか賑やかにやれているよ」
マスターがソルテの頭を優しく撫でた。
目のような額の白い傷跡を指が掠め、ソルテはこそばゆくて首を振る。
「僕はとても運がいいようだ。黒猫は幸運の象徴とも言われている。きっとお前がいろんな福を呼び込んでくれているんだな」
マスターが優しく微笑んできた。
だがソルテは呑気に欠伸を返す。
別にソルテが自分で幸運を引き寄せているわけでも、福を招いているわけでもないからだ。他の誰が幸せになろうがソルテの知ったことではない。
『幸せってなんだろう』
きっと人間の誰もが一生に一度はそれを思う。
けれどもソルテは知っている。
幸せなど、本当に些細なことで得られるということを。
「そういえば」と、マスターが美咲から受け取ったプレゼントを取り出した。
「開けてみようか」
サンタにプレゼントを貰った子どものような無邪気な声でマスターが言う。
袋のリボンが開かれると、中から出てきたのは真っ赤なマフラーだった。ソルテのプレゼントも一緒に開ける。そちらも、少し小さめの猫用の赤いマフラーのようだった。
「おそろいだねえ」
嬉しそうに声を弾ませてマスターがマフラーを巻く。ソルテの首にも小さい方をそっと巻きつけてきた。
もふもふ、ぬくぬく。
暖かくて、風も防げて、肌触りもやわらかくて心地よい。
「良い物をもらっちゃったね。あとでまたお礼を言っておかないと。それとお返しもだね」
マスターはそう言うが、ソルテはプレゼントを貰ったくらいでそう簡単に美咲を見直すほど軽い猫ではない。そもそも首には首輪があるし、猫は人間のように服がないのだ。首だけをマフラーで守ったところで高が知れている。
そうソルテが思っていると、不意に頭に何かを被せられた。
「これも入っていたよ。可愛い帽子だね」
被せられたのは猫用に小さく作られた毛糸の縞模様のニット帽だった。
目の上からをすっぽりと覆ってジャストフィットである。頭部の風除けになって、これが存外暖かい。マフラーと合わさって保温効果もばっちりだ。寝床で毛布に包まっているように心地よくなり、ソルテの丸い瞳が柔らかく細まっていく。
――まあ、少しは美咲を褒めてやらんこともないだろうか。
この献上品に免じて、明日一日くらいは、ちょっかいをかけてきても許しておいてやろう。
決してなびいたわけではない。ソルテは寛大なのである。
「あ、見てごらんソルテ。年末特売半額セールだって」
マスターがふと雑貨屋の前を通り過ぎる。そこには安売りのゴンドラが置かれていて、そのセール品の中に猫用のおやつがあった。
「いくつか買っていこうか。明日のおやつにしよう」
「にゃあっ!」
やった、とソルテは心を躍らせた。
黄色の瞳が大きく見開き、薄闇に浮かぶ様に輝く。
大量のおやつをゲットである。
ああ、なんと明日が楽しみなことか。どんな香りがするのだろう。どんな味がするのだろう。どんな食感なのだろう。これで今日は胸を一杯に膨らませてほくほくと眠れること間違いない。
ソルテの幸せは単純で明快だ。だから簡単に心が弾む。
それぐらいが丁度いいのだ。そんなちょっとした喜びが積み重なって、ソルテの生涯は幸福に満ち溢れていくのである。
幸せなんてものは意外と身近にあるもので、些細なことなのだ。それに満足できるかどうかはその人次第。だが、ソルテには不満などありはしない。
何も願うことはない。
美味しいご飯を貰って屋根のある家で眠る。
それ以上はこれといって望んではいないのだ。
ソルテの毎日はそれで満ち足りてる。
生き物としてこれ以上の幸いがあろうものか。
いや、無い。
しいて願うというならば、この不満のない日々が末永く続いてくれることくらいだろうか。
気を軽く持て。
夢などすぐに必要ではない。
目標など置いておけ。生き急ぐ必要など微塵もない。
ただこの一度の『いま』を愛し、存分に生き尽くすのだ。。
ここにいられること。
それこそがソルテにとっての最高の幸せなのである。
故にソルテの日常は平凡であり、それでいてこの上なく幸福なのだ。
今日が満足な一日であれば、それ以上に他はない――。
終




