ソルテとマスター
かつて、ソルテは野良猫だった。
自分がいつから野良でいたのかはわからない。野良猫の子なのか、捨て猫なのかすら。ソルテにある最初の記憶では、すでに野良猫として町中を駆け回って生きていた。
それから初めて人間に拾われたのはおおよそ二歳の頃。大きな敷地を持った町で一、二を争う地主の家だった。そこの婦人が大の動物好きを公言していて、野良犬や野良猫を見かけては可哀想だと家に連れ帰っていた。
ソルテもその保護されたうちの一匹である。
とても慈悲深い優しい人に拾われた。
そう思えることだろう。だが実際は、ソルテにとっては辛いものだった。
束縛するのは可哀想だと言って、二十畳ほどありそうな広い部屋で首輪もつけずに放し飼い。ソルテが来た時には犬猫含めてすでに二十匹ほどいた。月に一匹くらいのペースで増えているのだという。
それでもまだ運動に不自由ないくらいには広々としていたが、しかしそれ以上に、ソルテの自由は無いも同然だった。
飼い主の女性は特に深く考えず、大型犬や中型犬などもまとめて一つの部屋に詰め込んでいたのだ。生まれてからずっと一緒にいる犬猫ならば仲が良いかもしれないが、余所者の猫が突然そこに放り込まれても、仲間としてみなされるはずがないのだった。
縄張り意識が強い他の猫や、大型犬たちとの喧嘩が絶えなかったのである。ソルテはまだ他と比べて幼く、餌が足りない野良生活だったせいもあって体が小さかった。必然的に喧嘩には負け、居場所を追いやられていったのである。
額にできた眼のような禿げは、その時の喧嘩で引っ掻かれてできた傷跡だ。負け犬の証のようなものだった。
ソルテを拾った女性はとても慈善的で道徳的な優しい人だった。だが、細部にまでは目が届いていなかった。結果として、ソルテは拾われる前よりも窮屈で苦しい生活を強いられるようになってしまったのだ。
耐えられなくなったソルテは機会を窺って外へと逃げ出した。
一度飼われて餌をもらえる生活を味わってしまうと、野生の頃の感覚を取り戻すのは難しい。すぐに食べるものに困ってしまった。
道を歩いていると黒猫というだけで不吉だと石を投げられることもあった。なにより、額の白傷が眼のようだと化け物呼ばわりされたこともあった。
待っていれば勝手にご飯が出てくる生活とは違う。今日のご飯にありつけなければ明日には死ぬかもしれない。そんな綱渡りの毎日だ。
野良の生活とは、生きているだけで世知辛い。
それからほどなくしてマスターと出会った。彼は不動産会社の男性を引き連れて、ソルテが雨宿りに使っていた廃屋に下見にやって来たところだった。
「それにしても喫茶店ねえ。趣味で始める人は確かにけっこういるけれど、大変だよ」
「ええ。重々承知ですよ。でも、やってみたいんです」
「へえ随分な意気込みで。かねてからの夢だったとか?」
「いえ、僕の場合はそういうのじゃないんですけど。ただ、この前まで毎日のように出社して、家に帰れば眠るだけで、気がつくとまた会社で業務をこなし続けてる日々だったんです。でもある日、偶然立ち寄った喫茶店で飲んだ珈琲がとても美味しくて。その瞬間、全てのことがどうでもよくなったんです。
変な話ですよね。でも、なんだか普段缶コーヒーで飲みなれてるはずなのに、その時のコーヒーだけは物凄く美味しくて。それが――そんな些細なことに美味しいって感動できることが嬉しかったんです。
ずっと働きづめで、きっとこれからも定年まで仕事を続けて、ただただ繰り返す機械のように意志もなく与えられたことだけをする人生になるんだろうなって思ってたんですよ。昔から何もやりたいことはなかったし、高尚な目標なんてものもなかったですから。
でも、僕は初めて夢を持ったんです。あんな珈琲が出せたらいいな。自分も、あの時の珈琲と同じように誰かが何かをするきっかけになれたらいいな、って。一度そう思い始めたら、前までの生活じゃあ満足できなくなってしまって」
「なるほど。人生初の夢ってことかあ」
「そうです。夢を持つのはいつだっていい。焦ることなんてないし、何事も、遅いなんてことはきっとないと思うのですよ。自分がそうしたいと思った瞬間が、きっとベストなタイミングなんです」
そう語る彼の瞳はとても澄んでいて、眩しいくらいに輝いていた。
「……おや、先客かな?」
軒下で身を潜めて様子を窺っていたソルテにマスターが気づき、おもむろに歩み寄ってくる。
他の人間のように三つ目の黒猫を気味悪がって追い払ってくるだろうか、とソルテは固唾を呑んで身構える。だが彼の反応はソルテの想像していないものだった。
「黒猫かあ。これは縁起が良い。きっとここのお店も上手くいくだろう。ねえ、きみ。このお家、使わせてもらってもいいかな」
子どものように嬉しそうな笑顔でマスターがそう言ったのを、ソルテはいまでもよく覚えている。
それからその廃屋のあった所に一軒の喫茶店が建ち、珈琲の香りを漂わせる陽気な場所へと変わった。ソルテも気付けばそのまま居座るようになり、今ではすっかりマスターの世話になっている。
「ここの家主はソルテなんですよ」
マスターはたまに、客にそんなことを言う。
「僕が来る昔からここに居て、僕はここを貸してもらってるんです。だから、使わせてもらっている場代としてご飯を用意してるんですよ」と。
おかしな言い分のような気はするが、悪い気はしなかった。ソルテを束縛せず、それでいてソルテがここにいてもいいと言ってくれているかのようだった。
『ソルテ』とは希望という意味であると、そう名づけたマスターが言っていた。そこにはいろんな意味が詰まっているらしい。その想いを託されて、ソルテは今日もマスターと一緒にいる。




