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フラスコの中の世界  作者: 瀬野 或
一章
5/7

依り代

 「ただいま」


僕は父さんと二人で暮らしている。母さんは僕が小さい頃、事故で死んでしまった。だから、学校から帰宅するといつも誰もいない家に、僕の間抜けな「ただいま」の声が虚しく響く。靴を脱ぎ、一目散に自室へと向かう。そして、そのままベッドに倒れ込んだ。


『依り代になって欲しい』


冴木先生が言ったこの提案が、僕を悩ませていた。


依り代とは、霊魂を自分に取り憑かせて、心を探す手助けをする存在…だったかな。地縛霊でも依り代さえいれば、依り代に取り憑く事で自由に動き回れるようになる。そう…吉野先輩は保険室に取り憑く地縛霊なのだ。どうしてそうなってしまったのか…は、聞かなかった。何となくだけど、予想出来てしまったからだ。


あの時…冴木先生から依り代の提案をされた時、僕は恐怖を感じた。何が一番怖かったのかと言うと、吉野先輩が心霊になる日が近いからという事。つまり、依り代になった次の日、吉野先輩が心霊になって、僕を襲う…なんて事も有り得るからだ。そんなの絶対に嫌だ。僕はまだ死にたくない。


だけど、どうしても吉野先輩の悲しそうな笑顔が、僕の瞼の裏から消えてくれない。


助けてあげたいという気持ちはある。でも、それに対してのメリットが無い。寧ろデメリットの方が多い。そんな危険を犯してまで、さっき知り合った人…幽霊に親切に出来るか?そんなの無理だ。


「あー…くそ…」


どうしようか、賢汰郎に相談してみるか?いや、賢汰郎に相談しても、どうせろくな答えが返って来ないだろう。イケメンのクセにこういう時に頼りないとか、本当にイケメンは爆発すればいいと思うよ。てか、一度爆発するべきだと思う。


刻々と時間が過ぎる。


部屋の明かりも付けず、真っ暗な部屋の中のベッドに倒れて数時間が経過した。何度自問自答しようとも、答えはイエスともノーとも言えない。でも、僕の偽善的な心が「助けてあげようよ」と耳元で囁く。


「助けてあげたいのは山々なんだよ……」


こんな時、漫画の主人公だったら、きっと僕をみたいにウジウジと悩まず、その場で決断していただろう。でも、実際こんな事が起きたら誰でも躊躇するよね?僕が臆病なだけじゃないよね?


「役立たず…か…」


賢汰郎の事をそう揶揄したが、一番の役立たずは僕だ。取り柄も無いし、切断力も無い。今もこうやってずっと悩んで、悩んで、悩み続けている。


そして、悩み疲れて眠りについてしまった──────。


 * * *


窓から差し込む太陽の光が、僕の顔を照らす。


「うっ…眩しい…」


支度しなくちゃ……気が乗らないけど……。


まだ瞼は半分しか開かない寝ぼけ眼で、よたよたと階段を降りる。


昨日、父さんは帰って来たのだろうか?


そんな形跡は無く、僕はひとまずシャワーを浴びる事にした。


シャワーを済ませ、歯を磨くと、ようやく僕の頭も目を覚ましてきた。取り敢えず朝食を済ませよう。冷蔵庫から牛乳を取り出し、棚にしまってあるシリアルを皿に入れ、牛乳を並々注ぐ。スプーンで掬い、口に入れ、噛み砕く。ゴリゴリとした感触が堪らない。一口噛む度に脳に刺激が与えられ、もうすっかり覚醒状態だ。


食べ終え、食器をサッと洗い、僕は家を出た。


 * * *


「よう。真」


「賢汰郎?どうしたの?」


玄関を開けたら、家の前に賢汰郎が立っていた。


「たまには一緒に行こうぜ?」


「えー」


「露骨に嫌そうな顔するなよ……」


賢汰郎はサッカー部に所属しているので、朝練があるはずだが、今日はサボるのだろうか?


「朝練は?サボり?」


「まあ、そんな所だな」


「エースストライカーさんがそんなんでいいの?」


少し嫌味ったらしく僕は言った。


「幾らエースストライカーでも、大切な時にゴールを決められなきゃ意味が無いからな」


「は?」


「昨日、何か悩んでるっぽかったから、心配でな。何かあったのか?」


「・・・・・・」


何かあった……ありまくりだ。


「取り敢えず、歩きながらでいい?遅刻しちゃうから」


僕と賢汰郎は並んで、通学路を歩き出した。

自転車通学をしたい距離だけど、僕は自転車に乗れないので、徒歩での通学を余儀なくされている。賢汰郎はいつも自転車通学だけど、今日は自転車に乗っていない。


「それで、何があったんだ。真」


僕の顔を見ず、賢汰郎はただ前を向いて僕に問いかける。その表情は穏やかで、差して心配をしていないような、そんな印象を受けた。


いつもの、倉持 賢汰郎だ。


「例えばさ……」


賢汰郎でも分かるように、僕は例え話をする事にした。


「例えば、賢汰郎が『お前は世界を救う勇者だ。明日から魔王を倒す旅に出てくれ』って言われたら、どうする?」


「何だよそれ、何の漫画だ?」


「茶化さないで、質問に答えてよ」


「そうだなぁ…俺がやらなきゃならないのなら、やるしかないだろ?」


「命の危険があるのに?」


「まあ、そりゃそうだけど…選ばれるのには、選ばれるだけの理由があるって事だろ?それを伝えた奴だって、まさかこんなガキに世界の運命を託すなんて、どうかしてるって思ってるんじゃないか?だったら、その人の気持ちも汲んでやらないとだし、な」


「簡単に言ってくれるね…賢汰郎は、それで自分が死んでも納得出来るの?」


「死ぬか死なないかは、自分次第じゃないか?まあ、モンスターと戦闘したら、確実に死ぬんだろうけどな」


笑って賢汰郎は答える。


「でも、俺は後悔だけはしたくないからさ」


「・・・・・・」


「俺がそいつの願いを跳ね除けて、いつも通り変わらない生活を送ったら、きっと何処かでまた俺ではない誰かが魔王に戦いを挑むだろうけど、勇者じゃない奴が魔王と戦って勝てるのか?だったら、0.1%でも勝率の高い俺がやった方がいい…と思うんだけどなぁ…」


「それで死んでも本望って事?」


「いや、俺は死にたくないぞ!?だから、死なないように立ち回ってやるさ」


「賢汰郎ってさ、僕よりもたまに馬鹿だよね」


「違いないな。俺は結構馬鹿だぞ?」


「そっか」


賢汰郎と無駄話をしていたら、思いの外早く学校に着いた。


「じゃ、俺は一応部活に顔出しするわ」


「分かった」


賢汰郎は笑顔で「また後でなー!」とグラウンドに走って行く。


朝の学校は、運動部の掛け声や吹奏楽部の朝練の合奏の練習の音で溢れている。部活なんてやって、何になるんだろうか?それを将来仕事に出来る人なんて限られている。賢汰郎は確かにサッカーが上手いけど、高校生レベルだ。賢汰郎もそれを分かった上でサッカーをしている。


ただ、きっと皆、後悔したくないんだろう。


朝練なんてダルいだけだわ…と嘆く奴ほど、一生懸命部活やってたりするものだ。


「後悔だけは、したくない…か…」


賢汰郎が通学途中に言ったこの言葉が、僕の心をざわつかせた。


「なら、僕も…後悔の無い選択をするべきなのかもしれない…」


保健室の前に立ち、僕は運命の扉をノックした。


僕の運命の扉がこんな草臥れた扉だったなんて、ちょっと笑えてくるな。まあでも、相応、かもしれない。


「失礼します」


まるで魔法の合言葉のように、ぽぽぽぽーんと唱えて、保健室に入った。


保健室は昨日と同じ、消毒液のような匂いが漂っている。どうやら保健担当の先生はいないようで、代わりに、その席に座って、ただ優しく微笑んでいるのは、この保健室に留まり続けている先輩、吉野 喩莉だった。


「おはよ。野口君。昨日はちゃんと眠れた?」


心配そうな声で僕に尋ねて来た。


「ええ。まあ…一応…」


「そっか。それなら良かったよ。いきなりあんな事言われたら、悩んで眠れないかもしれないって、ずっと心配してたんだ」


どうして、吉野先輩は笑えるのだろうか?

一番辛いのは、吉野先輩のはずなのに。


「ごめんね」


「え?」


「だって、朝から保健室に来たって事は、私の事を心配して来てくれたんだよね。私、幽霊なのに…ごめんね」


そんな事……


「野口君。嫌なら断っていいよ。だって、もし引き受けたら、きっと辛い事も起きると思う。もしかしたら、最悪、命を落とすような事にもなり兼ねないかもしれない」


吉野先輩は、それでも笑顔を崩したりしない。

僕にだって分かる。その笑顔は無理して作り出している作り笑顔だって事くらいは。


「きっと、何とかなるから。もう心配しなくていいよ。大丈夫!私は大丈夫だから!」


そんな事を言われたら……

もう、答えは一つしか無いじゃないか。


「吉野先輩って、ズルいですね」


「え!?何で!?」


「そんな風に言われたら、断れないじゃないですか」


「あ…そ、そうだよね…ごめんね」


「まあ、元から引き受けるつもりで来たんですけど」


「そうだよね。やっぱり無理だよね…え?引き受ける?」


「はい」


「いいの…?野口君。本当に私の依り代になってくれるの…?」


「まあ、あれですよ。吉野先輩可愛いですし、そんな可愛い幽霊と一緒に行動出来るって事は、僕にとっても万々歳と言いますか…」


何を言ってるんだろう、僕は……。


「 吉野先輩が例え他の人から視えなくても、僕としては彼女みたいな?そんな感じ?で、えっと……それから……」


「ありがとう…野口君…」


目の前にいる吉野先輩は、もう先程の笑顔は無く、代わりに、その瞳からは涙が溢れていた。


「ありがと…本当にありがと…私、怖くて…もうどうしたらいいか分からなくて…りょーちゃんも色々してくれたんだけど…どうにもならなくて…ありがと…ごめんなさい…」


「わ、分かりましたから、もう泣かないで下さい…」


「うう…の゛く゛ち゛く゛ぅ゛ん゛…」


「はいはい…野口ですよ…」


どうすればいいのか分からず戸惑っていると、後ろにある保健室の扉が『ガラガラッ!!』と勢いよく開け放たれた。


「騒々しいぞ、保健室では静かにしないか!!…ん?どうした野口…いや、野口。これはどういう状況なのだ?説明したまえ…」


入って来たのは冴木先生だった。

助かった…と、僕は心底胸を撫で下ろした。


「僕が依り代を引き受けたんです」


「なるほど…それでこの騒ぎか…。然し、本当に良いのか?」


「だって、僕しか依り代になれないんですよね?」


「ああ、そうなのだが…。依り代は霊感を持つ者は引き受ける事が出来ないから、私がなる訳にもいかなくてな…」


「それで、霊感ゼロの僕が適任だと、そういう事ですよね?」


「そうだな……詳しい事は昼にまた説明しよう。取り敢えず、そこで大号泣している吉野を連れて行ってくれないか」


「え?連れて…?」


「もう君は吉野の依り代だ。依り代と霊は一心同体みたいなものだから、離れる事は出来ない。つまり、四六時中吉野に憑き纏われるって事だ」


四六時中…だと…!?


「えっと…それは、その…健全たる男子高校生には、プライベートな時間も必要でして…」


「野口」


「は、はい」


「諦めろ」


「そんな馬鹿なあああああああッ!!」


こうして、僕は大号泣している吉野先輩をなだめて、保健室から連れ出す事となった……。

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