5、君がいない夕方
髪の毛をばさばさ揺らして秘密の路地を通り抜けた。夕焼け色の空き地には、爽太郎の姿はなかった。
爽太郎の特等席には、見知らぬお姉さんが姿勢よく座っていた。凛とした横顔が夕日に照らされている。
このお姉さんは、きっと、サチコだ。理由なんてないのにそう思った。
お姉さんがわたしに気付いて、椅子からゆっくりと立ち上がってふんわりと笑った。「どうしたの?」と、自分の目を指差して首を傾げるお姉さんにハッとする。慌てて、潤んでいた目元をごしごしと擦った。
お姉さんはまたふんわりと笑っていた。夕焼けににじむ影みたいだと思った。なんだか少しだけ、爽太郎に雰囲気が似ている。
「きみ、最近よくこの空き地にいる子でしょう?」
窓からよく見えてたよ、とお姉さんはわたしを真っ直ぐに見てくすくす笑った。爽太郎、ばれてたみたいだ。爽太郎のストーカー人生も今日でお終いだね、とここにはいない爽太郎に心の中で話し掛けてみる。
「この辺の子?」
「知らない人に住所を教えてちゃいけないの」
「ふふ、そうよねえ。きみの言う通りです」
サチコは、爽太郎よりいくつか年上に見えた。ふわふわとした巻き髪、甘い香水の匂い、清楚な純白のロングスカート。大人の女性。…爽太郎は面食いだ。なんだか心臓がモヤモヤとした。なんでだろう、また泣いてしまいそうな気持ちになる。
「懐かしいなあ」
サチコが椅子を触りながら、いとおしそうに笑う。
とてもやわらかな笑い方だった。まるで大切な誰かを想っているかのようなどこまでもやさしいやさしい笑顔。わたし、この笑い方をする人、知ってる。
「私達がここで会ったのも何かの縁かもね」
「そうなの?」
「そうだよ、絶対そう!」
「…そうなのかな」
わたしの両手をそっと握って、きれいな笑顔を見せるサチコの後ろに見える椅子がギシリとさびしい音を立てた。
爽太郎、今日は来ないのだろうか。
「…ろく」
「ん?」
「わたしのあだ名。ろく」
「ろくちゃん?わあ、かわいい!」
「お姉さんは?」
「私は幸子。フツーの名前でしょ?」
ああ、やっぱりこの人はサチコだった。
「ねえ、ろくちゃん。今度はお友達も連れておいで?いつもひとりで遊んでいたら退屈でしょう?」
「え?」
「不思議だったんだ。いつもひとりでここにいるろくちゃんが楽しそうにコロコロ表情変えて笑っているのを、窓から見るたびに」
「ひとり?」
ギシリ、椅子がまた壊れそうな音を出した。そこには、いつもの黒い瞳をやわらかく細めて笑っている爽太郎が姿勢悪く座って、わたし達を見ていた。
「ろくちゃん?」
「サチコ、さんには…あの椅子が見える?」
「うん、もちろん」
サチコが見つめる先には、確かに爽太郎がいるはずなのに。爽太郎はただ黙って、足をぷらぷらと揺らしながらサチコを見つめている。
「あの椅子ね、昔私が使ってたものなんだけれど…あんなになってもまだ捨てられないんだ。なんでだろうね?」
愛着とか思い出があるからかな?と、サチコは伏し目がちに微笑んだ。
「じゃあ、ろくちゃんまたね。暗くならないうちにお家に帰らないとだめだよ?」
白のスカートをひらひらと揺らしながら、サチコは爽太郎と一度も目を合わすことはなく、コーヒー牛乳色の家に帰っていった。
爽太郎がわたしの名前を呼ぶ。カーディガンのポケットから取り出したふたつのビー玉を自分の目の位置にかざして、おどけてみせた。
「な?あいつ、かわいいだろ?」
サチコにしか見せないあの表情を得意げに見せて、笑った。
ねえ爽太郎。爽太郎は何者なの?
「俺は、ストーカーなんだよ」
ねえ爽太郎。
わたし、まだなんにも爽太郎のこと知らないね。
夕方にしか現れない理由も、真夏なのに長袖のカーディガンを着ているのも、どうしてサチコが好きなのかも、どうしてサチコには爽太郎が見えていなかったのかってことも、なんにも知らない。
ねえ爽太郎、教えてくれる?
「しょうがないなあ。…ろくちゃんにだけ特別だよ?」
ビー玉が夕焼け色の影をつくって、やさしく笑った。