第八話:大清帝国の残り火
家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず 法あれども正しきを得ず 冤あれども誰にか訴えん
記憶を取り戻したリリ――いや、徳川の姫君である「初姫」の瞳には、かつての怯えは完全に消え去り、静かで揺るぎない覚悟が宿っていた。
湊もまた、自身の血脈に連なる宿命を受け入れ、天海の「封印の地」を探し出すための準備を静かに進めていた。
「湊さん、お嬢さん。また面白いものが手に入りましたよ」
夕暮れの骨董店に、蘆屋道徹が足音もなく現れた。
彼がガラスケースの上に置いたのは、旧日本軍のエンブレムが刻まれた、古びた革の手帳だった。
「戦時中、旧日本軍は江戸幕府が遺した『霊的結界』を軍事利用しようと、極秘に発掘調査を行っていました。これは、その調査に関わっていた特務機関の遺品です」
湊とリリは顔を見合わせ、同時にその手帳に指を触れた。
瞬間、パチンと空間が弾け、重苦しい軍歌と硝煙のむせ返るような匂いが店内に立ち込めた。
「私は誰の道具でもない! 清朝を復興させるのだ!」
激しい怒声とともに現れたのは、軍服に身を包み、鋭い眼光を放つ男装の麗人だった。
彼女は、日本人の養女となり「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた時代を象徴するスパイ――川島芳子であった。
湊は完子の末裔としての感応力を極限まで研ぎ澄ませ、彼女の悲壮な過去を読み取っていく。
十七歳で「女を捨てる」悲痛な決意とともに髪を切り、男装をして満州国で英雄視された日々。しかし、敗戦後は国民党から「漢奸」として裁かれ、銃殺された激しい無念が、凄まじい霊障となって渦を巻いていた。
「家あれども帰り得ず、涙あれども語り得ず――!」
日本人にも中国人にもなりきれず、国家の都合の良いスパイとして利用され尽くした孤独と絶望。その悲痛な叫びが、激しい怨念の風となって店内を揺らす。
道徹が危険を察知して呪符に手を伸ばすが、リリが一歩前に進み出てそれを制した。
「……わかるよ。自分の命が、誰かの都合の良い『道具』として消費されることの無念さが」
徳川の天下という国を永遠のものにするため、天海の「生贄(要石)」として命を奪われかけた初姫。時代は違えど、国家の思惑に翻弄された二人の「姫君」の魂が、深く共鳴した。
リリは吹き荒れる怨念の風を恐れず、真っ直ぐに彼女の前へ歩み寄った。そして、あえて「川島芳子」という偽りの名ではなく、彼女が幼い頃に奪われた本来の、誇り高き名前を口にした。
「……愛新覚羅顕玗様」
その名を聞いた瞬間、男装の麗人の肩がビクッと跳ね、軍歌の幻聴がピタリと止んだ。
「私も、国のために命を奪われそうになった。……でも、あなたは違う。どれほど歴史の荒波に揉まれようと、あなたは最後まで『愛新覚羅の皇女』としての誇りを捨てず、たった一人で戦い抜いた。あなたの心まで、誰かの道具にされたわけじゃないわ。あなたは、立派に生き抜いたのです」
初姫としての気高さと、同じく国主の血を引く者としての深い共感。スパイとしての名ではなく、奪われたはずの本当のアイデンティティを全肯定してくれたリリの言葉が、彼女の頑なな心を激しく揺さぶった。
男装の麗人は目を見開き、目の前に立つ少女が自分と同じく「血筋の宿命に翻弄されながらも、己を見失わなかった姫君」であると悟る。
「……ああ。私は、ただの都合の良い『人形』ではなかったのだな」
ふっと憑き物が落ちたように、彼女の顔から険しさが消え去り、その瞳に清朝最後の皇女としての、凛とした輝きが戻った。
彼女を縛り付けていた重苦しい軍服が光とともに溶け落ち、その後ろ姿には、かつて失われたはずの、美しく気高い民族の正装が幻影のように重なっていく。
「私がかつて、軍の極秘任務で探っていた記録が、その手帳の暗号に隠してあるわ。……あなたたちの役に立つかもしれない。どうか、あなたは自分の命を取り戻して」
愛新覚羅顕玗は穏やかな微笑みを残し、眩い光の粒子となって静かに彼岸へと旅立っていった。
霊障が収まった店内。湊と道徹はすぐさま、彼女が遺した手帳の暗号解読に取り掛かった。
やがて浮かび上がったのは、誰もが予想しなかった驚愕の真実だった。
「これは……『徳川埋蔵金』の調査記録ですか」
湊が息を呑む。
幕末以来、日本中で探し求められている赤城山などの徳川埋蔵金伝説。しかし、彼女の残した機密情報が示していたその正体は、金銀財宝などではなかった。
「ダミーだったんだ」
道徹が面白そうに目を細めた。
「天海が徳川の世を永遠にするために作り上げた究極の霊的要石――つまり、初姫様の肉体が眠る『真の封印の地』から人々の目を逸らし、欲深い者たちを呪い殺すために仕掛けた、巨大なフェイクだったというわけだ」
手帳の最後のページには、ダミーの埋蔵金伝説の裏に隠された「真の封印の地」――赤城山の地下深くに広がる隠し領域の正確な座標が記されていた。
「私の体が、そこに……」
リリが祈るように両手を胸の前で組んだ。
「見つけましたよ、リリさん」
湊は手帳を閉じ、決意を込めた真っ直ぐな眼差しでリリを見つめた。
「ええ。何百年も待たせちゃったけれど、今度こそ迎えに行くからね」
数百年の時を超えて、天海との永きにわたる因縁を断ち切るため。
一族の血を継ぐ案内人と、記憶を取り戻した気高き姫君は、迷いのない足取りで最終決戦の地へと向かう覚悟を固めた。




