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第六話:『黄金の盃、父の慟哭』


記憶を失った少女・リリが、九条くじょう みなとの骨董店に身を寄せてから数ヶ月が過ぎていた。

「自分が何者なのか、どこから来たのか」――その不安は、時折彼女の笑顔に深い影を落としていた。


そんなある日、常連の客から出所不明の古い盃が持ち込まれた。葵の紋がかすかに擦り切れたその盃に、湊とリリが同時に触れた瞬間、パチンと空間が弾け、店内の空気が一変した。


重厚で張り詰めた気配とともに現れたのは、質素ながらも威厳のある着物を纏った中年の武士だった。

「……また、酒を飲み過ぎたと、あやつに怒られるであろうか」

 ぽつりと、愛妻であるごうを懐かしむように呟いたその男は、徳川幕府の第二代将軍、徳川とくがわ 秀忠ひでただの迷霊であった。


湊は〈遺品感応〉を深め、彼の生涯を読み取っていく。

 偉大な父・家康と、才気溢れる息子・家光。その狭間で「凡庸」と評されがちな秀忠。しかし彼の実像は、二百六十年に及ぶ泰平の世を「揺るぎないシステム」へと昇華させた、冷徹なまでに優秀な実務家であった。私生活では浅井三姉妹の末妹・江を深く愛し、彼女との間に多くの子宝を設けた穏やかな父親でもあったのだ。


しかし今、秀忠の魂は悪霊の一歩手前で黒いもやを漂わせている。


「私は天下の安寧のために、すべてを法で縛り付けた。……だが、あの黒衣の僧の狂気だけは、止めることができなかったのだ」


湊の脳裏に、南光坊天海なんこうぼう てんかいという禍々しい名とともに、凄惨な記憶が流れ込む。

 江戸の霊的結界を強固にするため、純粋な魂を持つ娘を「人柱」として差し出せという天海の要求。将軍という絶対権力者でありながら、システムの維持という大義名分の前に、愛する娘を犠牲にすることを黙認せざるを得なかった、一人の父親としての引き裂かれるような無念。


「江よ……すまぬ。私には、あの子を守れなかった……!」

 盃から溢れ出す冷たい酒の幻影が、秀忠の涙のように店内を濡らしていく。


「おっと、これは厄介な案件だ。処理費用が嵩みますよ、九条さん」

 ビジネスライクな声を響かせ、呪符を指に挟んだ男――芦屋道満の末裔、道徹どうてつが目を細めた。彼が冷徹に術を起動しようとした、その時だった。


リリが、フラフラと秀忠の前に歩み出た。

 彼女の大きな瞳からは、理由もわからないまま、大粒の涙が次々とこぼれ落ちていた。


「……泣かないで」

 リリは怨念の風を恐れず、秀忠の幻影の頬に触れた。

「あなたは、冷酷なんかじゃない。……家族を、誰よりも愛していたはずだから」


その声を聞いた瞬間、秀忠の目が見開かれた。

「お前は……まさか、生きているのか」

 秀忠を渦巻いていた黒い靄が、リリの魂に触れて、ふわりと温かい光に変わっていく。

「そうか……天海の術を、お前は自力で……」

 秀忠は何かを悟ったように優しく微笑み、その表情は一国の将軍から、不器用な父親へと戻った。


「湊とやら。……この娘を頼む。あやつらの血を絶やしてはならぬ」

 そう言い残し、秀忠の魂は眩い光となって彼岸へと旅立っていった。


静寂が戻った店内。リリはその場にへたり込み、胸を強く押さえて泣きじゃくっていた。

「湊さん……どうしてこんなに悲しいの? 『お父様』って、呼びたくなったの」


湊は黙ってリリの背中をさすった。

 秀忠が守れなかった「娘」。そして、湊自身の血脈に刻まれた「浅井」の記憶。三姉妹の次女であり、調停者として生きたはつ――彼女がもし現代にいたならば、何を成しただろうか。


天海という巨大な闇と、リリの記憶の核心。運命の歯車が、いま、音を立てて回り始めた。

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