第二十九話未完成のレクイエム、あるいは双星(ツインスター)が遺した約束の旋律
#### 【前篇:終わらない無観客ステージ】
静かな雨が、古びた『遺品閣』の硝子窓を叩いていた。
帳場に座る九条湊の前に置かれたのは、どこか焦燥感を孕んだ漆黒と赤のネイルグローブだった。ストーンがいくつか剥がれ落ちたその指ぬきグローブは、かつて数万人を熱狂させたアニソンシンガー「M」が、ステージでマイクを握る際に必ず身に帯びていたトレードマークだ。
「これの、引き取りをお願いしたくて……」
持ち主の遺族だという男は、疲れ果てた顔で俯いていた。
「あの子が亡くなってから、もう何日も経つのに……夜になると、誰もいないあの子の部屋から、地鳴りみたいな重低音と、あの子が泣き叫ぶような声が聞こえるんです。ネットじゃあ、あんなことやこんなこと、好き勝手な噂ばかり立てられて……」
男が置いていった呪わしい遺品を、湊と、その傍らに立つリリが同時に見つめる。
「……リリ」
「うん。感じる。すごく……強い混沌。悲しいんじゃない。何が起きたのか分からなくて、ただ、狂ってしまいそうなほどの――困惑」
二人の指先が、同時にそのグローブに触れた。
――パチン、と。
世界が、激しく爆ぜた。
次の瞬間、静寂だった『遺品閣』の店内は完全に消失していた。
五感を狂わせるような爆音のベース。不気味に明滅する無数の赤いサイリウムの光。そこは、悍ましいほどの狂気を孕んだ「無観客の巨大ライブ会場」へと変貌していた。
その頭上には、ノイズ混じりの巨大な光の枠が浮かんでいる。それは、彼女が最後に笑顔を見せた「YouTubeの配信画面」の歪んだ残像だった。
「キャアアアアアアアアアアアッッ!!」
鼓膜を裂くようなハウリング音と共に、演壇だったはずのステージ中央に、その迷霊は現れた。
胸をかきむしるように押さえ、困惑と恐怖に目を見開いてマイクを握りしめる、Mの魂。
だが、その細い身体には、ネットの心無い書き込みや、彼女の死をゴシップとして消費する言葉が刻まれた、重々しい黒い五線譜の「鎖」が幾重にも巻き付いていた。
「嘘……嘘でしょ!? なんで……なんで私の身体は動かないの……!?」
Mの叫びが、音響の暴力となって空間を激しく震わせる。
「昨日……昨日の夜、みんなに配信で『またね』って言ったばかりだよ!? 次のライブの約束をして、みんな笑顔で、あんなに温かくて……! なのに、なんで朝が来たら、私はここにいるの!? 意味が分からないよ、意味が分からない……!!」
昨日の今日で、突如として断ち切られた命。
現実に心が追いつかないMの魂から放たれる霊障は、彼女自身のスピーカーとなり、ステージを自壊させるほどの衝撃波となって湊とリリを襲う。
「私は、まだ歌い終えていない……! S、あなたともう一度、あの約束のステージで、一緒に声を重ねるって決めたのに……!!」
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#### 【中篇:剥き出しの叫び】
激しい霊障の嵐が吹き荒れる。
いつもなら、安倍美晴の強力な呪符が障壁を張り、蘆屋道徹の冷徹な術式が迷霊の動きを縛るはずだった。だが、今のこの空間には、湊とリリの二人しかいない。守ってくれる盾も、代わりに戦ってくれる剣もないのだ。
大衆の「若くして急逝した悲劇の歌姫」という憐れみのラベル(記号)が、強固な棘となって五線譜の鎖をさらに引き締め、Mの魂を容赦なく引き裂いていく。
その暴走の嵐の中へ、リリは躊躇なく真っ直ぐに歩みを進めた。
「リリ! 離れろ、感応の準備が整うまで――」
「だめ! 今止めなきゃ、彼女の魂が自分自身の叫びでバラバラになっちゃう!」
リリの脳裏に、かつて「生贄の依代」として、自分の人生も、声も、存在さえも他者に奪われかけた過去の記憶が蘇る。
だからこそ、分かってしまう。命の最後の瞬間まで、そして先に旅立った大切な戦友を想ってまで、「自分の声」を世界に届けようとしていたMの、その凄絶なまでの表現者としての執念が。
「もう自分を責めないで……!!」
リリは、Mの身体を締め付ける、呪われた五線譜の鎖を――生身の、素手で掴み取った。
「う、あ……っ!」
バリバリと音を立てて、魂を焼く大衆の呪詛がリリの小さな手を凍らせ、鮮血を散らす。激痛に顔を歪めながらも、リリは絶対にその手を離さない。
「昨日のあなたの笑顔も! あなたが届けた歌も! 全部、全部本物だった……!! 誰も、あなたを『哀れなだけの悲劇』になんかさせない!!」
リリの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。その涙が、鎖の呪詛を焦がした。
己の傷を顧みず、リリは渾身の力でその鎖を引きちぎる。
「彼女は、突然の死に怯えるだけの人形じゃない……! 最後の瞬間までファンを愛して、明日の希望を信じてマイクを握り続けた、本物のディーヴァよ!! 歌わせて……彼女に、最後の曲を!!」
リリの気高き叫びと涙が、ついに霊障の嵐を真っ二つに切り裂き、Mの目の前に一本の道を拓いた。
血を流す手を伸ばし、リリが振り返る。
「湊――!!」
「……ああ。ダイブする。突然奪われた時間の、その先にある真実へ!」
湊の双眸に、極限の遺品感応の光が宿った。
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#### 【後篇:約束の旋律】
湊がネイルグローブから引き出し、Mの魂へと最大出力で逆流させたもの。
それは、「配信の翌日に死んだ可哀想なシンガー」という大衆の憐れみのラベルを完全に吹き飛ばす、『彼女が遺した音楽と笑顔が、今も世界を照らし、紡ぎ続けている未来の光』だった。
まばゆい光の霧の中から、透明で美しいドレスをまとった、もう一人の幻影が姿を現す。
「――M」
「……あ……S……?」
それは、一足先に旅立っていた、Mの最愛の戦友「S」の魂だった。Sは優しく微笑み、Mの震える手をそっと包み込むように握りしめる。
二人の魂が触れ合った瞬間、湊の感応が「現代の世界」の真実の光景を、彼女たちの脳裏にダイレクトに流し込んだ。
そこに見えたのは、彼女が恐れていた「自分の死によってすべてが未完成のまま闇に消え、ファンが絶望した世界」ではなかった。
彼女たちが命を吹き込んだ数々の楽曲は、彼女たちが旅立った後の現代でも、世界中で再生され続けていた。
絶望に震える若者が、孤独に泣く夜に、Mの激しく熱い歌声に救われ、今日を生きる活力を得ている。
YouTubeの配信アーカイブには、今この瞬間も、世界中から絶え間なく温かいメッセージが届き続けていた。
『あなたの最後の配信は、今も私の宝物です。悲劇なんかじゃない、あなたは最後まで最高の輝きをくれた』
『未完成じゃない。二人の歌は、私たちの心の中でずっと響き合っている双星です』
「あ、ああ……」
Mの瞳から、恐怖と困惑が消えていく。
「みんな、泣いてばかりじゃないんだね。私の歌を、私の『またね』って言葉を……ずっと胸に抱きしめて、生きてくれているんだ……」
「うん、M。あなたの情熱は、何一つ無駄になってないよ」
Sが優しくその肩を抱き寄せる。
「さあ……一緒に歌おう? 私たちの、続きのステージを」
Mの瞳から温かい涙が溢れ出ると同時に、彼女に絡みついていた黒い文字の鎖は、まばゆい純白の紙吹雪へと姿を変えて舞い散った。
霊障のノイズは完全に消え去り、世界で最も美しい静寂が訪れる。
そして――『遺品閣』に響き渡ったのは、Mの力強く地を這うような情熱的な歌声と、Sの天上の清らかさを思わせる歌声が完璧に重なり合う、美しく澄み切った最高のデュエットだった。
かつて果たせなかったはずの約束の旋律が、今、時を超えて完成する。
二人はリリと湊に最高の笑顔を向け、しっかりと手を繋いだまま、ファンたちの温かい光のサイリウムが照らす、美しい星空の彼方へと、静かに、そして誇り高く旅立っていった。
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#### 【エピローグ】
激しい音も、光も収まり、元の静けさを取り戻した『遺品閣』。
カウンターの上にぽつんと残されたネイルグローブは、剥がれていたストーンがまるで新品のように美しく輝きを取り戻していた。
外では雨が上がり、雲の隙間から青空が覗き始めている。
リリはお茶を飲みながら、まだ少し赤くなった目で、窓の外を見上げていた。
「ねえ、湊。突然お別れが来ちゃうのはすごく悲しいけど……でも、最後の最後まで誰かを笑顔にしようとした人の想いって、本当に不滅なんだね。二人の声、すっごく綺麗だった……」
「ああ」
湊は静かに微笑み、リリの隣に腰を下ろした。そして、呪いの鎖を掴んで少し傷ついてしまったリリの小さな手に、いつものように優しい手つきで包帯を巻き直していく。
「肉体が滅んでも、その情念が誰かの救いになり、絆が繋がっている限り、その表現者は生き続ける。俺たちの仕事は、そのバトンを次の時代へ、汚さずに繋ぐことだ」
「うん……!」
リリは嬉しそうに包帯の巻かれた手を胸に当てた。
雨上がりの光が差し込む店内で、二人は、MとSが遺してくれた温かい旋律の余韻を、いつまでも深く、深く噛み締めるのだった。




