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第十八話:『借り物の血脈――銀幕の天才、その虚無(前編)』

 ある日の午後、湊の骨董店に、大映映画の古い撮影台本が持ち込まれた。

 すっかり古びて黄ばんだその台本に、湊とリリが同時に指を触れた瞬間、パチンと空間が弾けた。


 直後、店内の空気が一変し、すべての色彩が急速に失われていく。まるでモノクロームの銀幕の中に迷い込んだかのような、冷たく、どこか物悲しくも美しい幻影が目の前に広がった。

 その中心に静かに立っていたのは、端正な顔立ちに、抗いがたいほどの深い虚無と孤独を漂わせた昭和の大スター――八代目市川雷蔵の迷霊だった。


「私は……誰だ。どれほど型を極めても、私には『血』がないのだ……」


 彼の魂はひどく不安定に明滅し、その端麗な顔を苦痛に歪めていた。


 湊は台本を強く握りしめ、〈遺品感応〉を極限まで深めていく。彼の内に濁流のように流れ込んできたのは、雷蔵の華やかな銀幕の姿とは裏腹な、出自にまつわる深い悲哀の記憶だった。


 生後わずか六ヶ月で関西歌舞伎の名脇役・三代目市川九團次の養子となり、後に歌舞伎界の重鎮・三代目市川寿海の養子となって「八代目市川雷蔵」という最高級の名跡を与えられた。だが、その華やかな血統の裏側には、あまりにも根深い闇があった。

 実は二人の養父は、どちらも由緒ある御曹司ではない。「弟子から成り上がった」出自だったのだ。

 そのため、血統と伝統を絶対視する歌舞伎界において、彼らはどれほど実力があっても常に「門閥外」として軽んじられ、冷や飯を食わされ続けていた。養父たちに向けられる冷ややかな視線と、自分自身が抱える「所詮は借り物の血脈」という強烈な劣等感。それらが、雷蔵の心に暗い虚無の影を落としていた。


「どれほど芸を磨いても、本物の御曹司にはなれない……」


 アイデンティティの喪失に苦しむ雷蔵の迷霊を前に、美晴と道徹が動いた。前話の激闘を経て磨きかかった阿吽の呼吸で、美晴が流れるように桔梗印を展開し、道徹が不敵に呪符を構える。


「この虚無の業は深すぎます。浄化の光で包み込むしかありません」


「ええ、一気に祓いましょう」


 二人が同時に術を放とうとした、その時だった。

 骨董店の床から、歌舞伎の舞台さながらに『バタバタバタッ』と激しいツケの音が鳴り響き、おしろいの匂いが重苦しく立ち込めた。雷蔵の背後に、彼を包み込むような巨大で重苦しい「影」がぬうっと出現し、美晴と道徹の放った術を煙のように軽々と弾き返した。


「なっ……!?」


 驚愕する二人の前で、その巨大な影は地を這うような重い声を発した。


『お前は私の息子だ。かりそめの銀幕など捨てて、市川の伝統という檻に戻るのだ』


 それは、彼に名跡を与えた養父――市川寿海の強烈な想念、すなわち呪縛だった。

 寿海自身も弟子上がりゆえの深いコンプレックスを抱えており、「市川雷蔵という最高傑作を作り上げることで、自分を見下してきた歌舞伎界を見返してやる」という凄まじい執念を持っていたのだ。寿海は雷蔵を愛しながらも、同時に「あらかじめ決められたレールを完璧に歩むこと」を強要し、彼を一人の青年である『太田吉哉』ではなく、『寿海の最高傑作としての記号』に閉じ込めようとしていた。


 圧倒的な権威と、養父の愛憎入り混じる重圧。その前に、雷蔵の魂は完全に歌舞伎の舞台へと縛り付けられようとしていた。


 しかし、その重圧の中で、リリが一歩前に踏み出した。

 かつて天海によって「徳川というシステム」に縛られかけた彼女は、血脈という見えない鎖に囚われている雷蔵の姿に、誰よりも強く共鳴していた。


「やめて! 彼は誰の操り人形でもない!」


 リリは巨大な寿海の影に向かって、真っ直ぐに叫んだ。


「彼は、与えられた名前に苦しみながらも、自分で自分の居場所を探したはずだよ!」


 湊はリリの横に並び立ち、深く頷いた。


「ええ、その通りです。リリさん、彼の魂をこの呪縛から解き放つには、彼自身が見つけ出した『答え』を思い出させるしかありません」


 湊とリリは互いの手を強く握り、極限の〈遺品感応〉を発動させた。

 雷蔵が「門閥外」という呪われた血脈から逃れ、自分自身の肉体一つで勝負できる「映画界」という場所に何を求めたのか。二人はその真意を探るため、雷蔵の魂の最深部――大映京都撮影所の喧騒の幻影の中へと、迷いなくダイブしていった。


(第十八話【中編】へ続く)

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