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第十九話(最終話)とある古代の背教者


 ユリアヌスが目を覚ますと、そこはローマ軍の宿営地だった。


 手を上げると指がない。切り落とされている。そういえば、腹に刺さった槍を抜こうとして、刃先を握ったような気がする。それで指を切り落としたのなら、不器用極まりない。どこかで兄が笑っている気がした。

「戦況は?」

 ユリアヌスは傍らのトゥルートに訊ねた。彼女は泣き顔で答える。

「ちゃんと勝ってるよ! 馬鹿にするな! お前のローマ軍が負けるはずがないだろう!」

「トゥルート、僕は一兵士ではない。皇帝だ。戦況を正確に判断し、適切な命令を下す義務がある」

「あのな……!」

 すると、一人のローマ将校が進み出た。

「ローマ軍はまたしても勝利しました。残敵掃討も順調、ユリアヌス陛下のお怪我もまだ敵に漏れておりませぬ」

「虚言ならば、厳罰に処するぞ?」

「そも、ペルシャ皇帝シャープールが焦土作戦を選択したのは、ユリアヌス陛下率いるローマ帝国軍に戦術規模では太刀打ちできないと悟ったが故。これは必然の結果です」その将校は(うやうや)しく続ける。「最前線に出られるユリアヌス陛下がいずれ傷を負うのが必然であるのと同じです」

 ユリアヌスは得心して、今度は医師に尋ねる。

「僕の負傷の程度は?」

「……それは……」

「言え! 僕は義務を果たさねばならない!」

 ユリアヌスは怒鳴った。すると腹部に激痛が走る。

 (もだ)え、(うずくま)っていると、ようやく医師は口を開いた。

「内臓に……達しております」

「……つまり、長くはないわけだな?」

「……」

「よし。ならば、主だった者を集めろ。以後の方針を伝えておく」

 ユリアヌスは死に際にあっても取り乱す事がなかった。テキパキと皇帝としての指示を出し続けた。自分でも意外だった。たしかに、このような最期を迎えたいとは考えていた。哲学に没頭したのも、死に際に美しくありたいと思っていたからだ。

 ――だけど、意気地無しのこの僕が、こうも淡々と己の死に臨めるとはな……。

 あるいは戦場で活躍できた事以上に不可思議だった。

 ――いや、毎度の如く、単に現実感がないだけか?

 思わず笑みがこぼれる。結局、この一生は夢物語のようなものかもしれない。

「では、最後の望みだ」

 ユリアヌスはトゥルートに向かって言った。

「僕は哲学者として死にたい。……それぐらい、いいだろう? 元々、僕は皇帝になんかなりなくなかったんだからさ」

 そして、ユリアヌスは軍人を退け、霊魂の不滅を論じつつ、穏やかに死を受け容れた。


 時に西暦三六三年六月二六日。

 享年三十二歳。


   ***


 次期皇帝はヨウィアヌスという例のローマ将校に決まった。

 ヨウィアヌスの前評判はお世辞にも良くなかったが、少なくとも自分の役割はわかっていた。すぐにペルシャ側へ使者を送り、シャープール二世に平身低頭で講和をまとめた。ローマ側が圧倒的に譲歩する講和条件で、事実上の条件付き降伏だったが、状況からすれば、やむなしだ。ユリアヌスならこの決断を支持するだろうと、トゥルートは思った。

 ただ、

 ――ユリアヌスの遺体はキリキア州タルソス市に葬られる。

 と聞いた時には眉を顰めた。

 ヨウィアヌスは言う。

「ローマ皇帝に相応しく、キュドヌス河の堤に壮大な墓標を打ち立てる事にしましょう」

「それがユリアヌス陛下の御心に沿う事か?」トゥルートはつい(たず)ねてしまった。

「いいえ。ユリアヌス陛下なら、壮大な墓標など、虚飾と浪費の象徴と激怒されるでしょう」彼はあっさり認めた。「実際、ユリアヌス様の論敵であったリバニウス殿も、アカデメイアの森にひっそりと葬られるのが質実を重んじた故人の遺志に沿うと(なげ)いておられました。また、ガリア以来の戦友も、遺灰は古代ローマの武威を記念する奥城(おくつき)群に加えられるのが武人だった故人に相応しいと(いきどお)っておられました」

「だったら何故?」

「しかし、それが皇帝の義務です」

「義務?」

「紫衣の話を御存知ですか?」

「ああ」

 その話はトゥルートも知っている。というか、事の顛末(てんまつ)を間近で見ている。

 ユリアヌスがコンスタンティウスの後を継いだ時、コンスタンティウスの遺産を相続した。その中には、コンスタンティウスが丹精込めて育て上げた諜報網もある。ユリアヌスも当初はこれに期待した。が、上がってくる報告には失望も多かった。

 どこそこの大商人が服飾店に紫の衣を注文した――そんな報告がその諜報網から、上がってきたのだ。トゥルートには意味がわからなかったが、ユリアヌスにはわかったらしい。ローマ帝国において、紫は高貴な色とされ、皇帝が用いる事になっていたのだ。たしかに紫は染色が難しいので、高貴と言えなくもない。ユリアヌス自身も副帝(カエサル)から正帝(アウグストゥス)になった時に、外套の色を赤から紫に変えている。そして、そんな紫の衣を注文した商人には玉座を狙う野心があるかもしれない……という理屈らしい。

 ユリアヌスはその報告を聞き、大きく溜め息をついた。先帝コンスタンティウス二世は似た報告があがってくる(たび)、そういった『野心があるかもしれない』輩を反逆罪で殺していたのだ。コンスタンティウス二世の警戒心が行き過ぎ、疑心暗鬼となっていた一例である。念のため、ユリアヌスはその商人が私兵や武器を集めているかを調べたが、当然そんな形跡はなく、紫の衣は単なる趣味とはっきりした。

 いい機会だと考えたのだろう。ユリアヌスはその商人へ紫の(くつ)を送った。そして、

 ――「紫の服には紫の靴が似合うだろう」

 と、広く喧伝したのだ。密告や専制との決別を明らかにしたのである。

 ――「皇帝に求められるのは民を(やす)んじる能力だ。服の色などどうでもいい」

 これを評して、ヨウィアヌスは言う。

「ユリアヌス陛下のような天才ならばこその逸話です。私のような凡愚にはまねできません」

 天才――生前のユリアヌスを近くで見てきた身には反発を抱く言葉である。だが、たしかにそれはユリアヌスの一面でもあった。

「ユリアヌス陛下は『能力』と仰いました。なるほど、ユリアヌス陛下はそれをお持ちでした。私などは仕えて日が浅いですが、クテシフォン会戦を見ただけでわかります。偉大なお方です。ゲルマンが自ら膝を折るのも無理はない。かつてコンスタンティウス陛下はユリアヌス陛下の武威に嫉妬していたと噂された事がありますが……いや、実際、嫉妬はされていたはずです。理性によって統御されていただけで。いくら、お二人の皇帝としての性質が真逆といっても、男子ならば、誰もがユリアヌス様のように戦場を駆けてみたいと夢想するものですから」

 女だってそうさ――とトゥルートは思った。

 当人の望みに反し、ユリアヌスが哲学者として評価される事はないだろう。政治家としても功罪相半ばと言われかねない。万人が納得するのはその軍事的才能だけだ。

 逆に、理想を胸に戦場を駆けるその姿だけは、誰もが憧れるものだった。

「けれども、それはあくまで夢想です。そんな『能力』は万人に(そな)わるものではありません。この世界に住まう大多数は(いと)(よわ)き者ですから」

 そして、ヨウィアヌスは自分もまたその(いと)(よわ)き者の一人だと言う。

「だから、私はユリアヌス陛下ではなく、コンスタンティウス陛下のような皇帝を目指します。ああ、親族を粛清するという意味ではありませんよ。そんな事はしたくありません。おそらく、コンスタンティウス陛下もそうであったように。これは無能を権威で誤魔化すという意味です。宦官も多用するかもしれません。そうして、臣下と距離を置き、畏怖の対象を目指します」

「……東方(オリエント)の専制君主のように?」

「はい。能力で判断されては、皇帝の首が幾つあっても足りません。実際、無能とみなされた皇帝が次々と殺された軍人皇帝時代は、結局政権が安定せず、混乱をもたらしただけでした。コンスタンティウス陛下たちが、個人の才覚に依存する能力ではなく、張りぼてでも機能する権威を以って、皇帝の(あかし)としてきたのは、私にはとても賢明に思えます」

「……キリスト教も奨励するのか?」

「ええ。キリスト教は素晴らしい。貧しい者の心の慰めであると共に、権力者を無条件で肯定する舞台装置ですからね」

 ヨウィアヌスの認識は、トゥルートには衝撃だった。

 彼によると、キリスト教とは貧しい者を貧しいままで、満足させておくための宗教なのだという。

 これはユリアヌスの(そして、彼に感化されたトゥルートの)認識とはかなりずれている。ユリアヌスは何だかんだでキリスト教を評価していた。とりわけ彼らが発明した《人類愛》を絶賛していた。この《人類愛》とは後世に濫用される空虚な精神論ではない。ガリアで教会が貧民にパンを配っていたような現実の行動である。よそ者であっても、助けを求めていれば、救いの手を伸ばすべき――という具体的な相互扶助である。だから、ユリアヌスは手紙で、『多神教徒もこの《人類愛》を学ぶべき』と記している。その上で、ユリアヌスの理想はこの《人類愛》をキリスト教徒の占有ではなく、社会制度の一環とすることにあったのだ。

 ――しかし、それなら、キリスト教そのものを利用すればいいではないか?

 と西方(オクシデント)にいた頃は思わないでもなかった。実際、コンスタンティウス達も同じ事を考えて、キリスト教を優遇したのだ。この質問に対し、西方にいた頃のユリアヌスは言葉を濁しただけだった。が、キリスト教の(さか)んな東方(オリエント)に来て、その実態を見れば、その意味もわかる。

 ――キリスト教徒の語る《人類愛》とはキリスト教徒だけのものなのかもしれない。

 と思わせる場面に何度も出会ったからだ。トゥルートはキリスト教徒ではない。では、何を信仰しているかと言われれば怪しいが、怪しい時点でキリスト教徒の言う『異教徒(パガヌス)』らしい。

 そして、キリスト教徒にとっての『人類』とはキリスト教徒のみを指し、異教徒(パガヌス)は人類ではないと考えているのかもしれない。たとえ、同じローマ市民であっても。

 ……だから、キリスト教徒が異教徒(パガヌス)の村で、嬉々として略奪や虐殺をしている場面も珍しくなかった。報告を受け、駆け付けると、その足元には輪姦されて屍となった幼い少女の姿すらあった。

 故郷のコローニアを髣髴とさせる光景だった。だが、その時のトゥルートは一介の少女ではない。仮にも現役皇帝の筆頭衛士(プリムス・リクトル)だ。個人的武勇だけではない。社会的地位も、兵士に命令を下す権限も備えている。そんなトゥルートを前に、そのキリスト教徒たちは脅える事も逃げる事もなかった。何故か?

『先帝コンスタンティウスたちがこの手の蛮行を黙認してきたからだ』

 という事情を聞いた時、ローマ帝国に対する信頼が一気に崩れかかった。

『異教徒は邪教徒である。故に滅ぼす事は善行なのだ』

 という理屈を聞いた時、キリスト教徒に対する嫌悪が一気に膨れ上がった。

 勿論、トゥルートの(ドミヌス)はそんな輩を認める男ではない。

 ――「ナザレのイエスは、神の教えに背いてでも、石で撃たれる娼婦を庇ったんだぞ!」

 ユリアヌスは激怒して、即座に罪人の首を()ねた。そして、その場で崩れ落ちては涙した。だが、それでも立ち上がって、歴史に刻まれる勅命を下す。

 ――「帝国全土に全面的な寛容令を出す。以後、いかなる宗教、いかなる宗派であろうとも、法の下に平等である。繰り返す。宗教宗派に関わらず、市民はその権利を認められる。同時に、それを侵害する者は厳罰に処する!」

 そんな若き皇帝を見たユダヤ人などは

 ――「背教者ユリアヌスこそ、真の救世主ではないか?」

 と、かつてのシャハラザードと同じ結論に辿り着いた程だ。

 ユリアヌスがキリスト教を信仰できなくなった理由もおおよそ察する事が出来た。これではユリアヌスがキリスト教から、《人類愛》のみを取り出し、それ以外を放棄したくなったのも、無理はない。

 逆に言えば、これ程の想いをしてもなお、キリスト教徒の語る《人類愛》には価値がある。そう、ユリアヌスは――あるいはコンスタンティウス達と同じく――期待していたのだ。

 だが、ヨウィアヌスによると、キリスト教はこれからその美徳すらかなぐり捨てるという。さらに、ローマ帝国はそんなキリスト教と一体化するという。

「既にローマは老いさばらえたのです。『パンとサーカス』のような社会福祉制度を通じた《人類愛》を実現する力は失われました。だからこそ、『神の国』に代表される来世の希望に(すが)るしかないでしょう」

「来世だと?」トゥルートは呆れた。同時に空恐ろしさに震えた。それは光り輝く太陽の下を自由に走り回る古代が失われ、暗黒の中世が忍び寄る気配そのものだった。「つまり、現実の苦難に立ち向かう能力はもうないのだから、幻想の希望に溺れていればいいと?」

「ユリアヌス様には現実の苦難に立ち向かう能力がありました。これは断言できます。まさにあの方こそ、最後の希望でした。ローマ帝国がやり直す、最期の機会でした。しかし、それも今や失われたのです」

「それでは……! ローマは……!」

「ますます、衰退するでしょうな。はい。私もそう思います」

 ヨウィアヌスは否定しなかった。ただ、諦観を表すのみだった。

 それは老いていく文明の姿そのものに思えた。破局に抗う気力そのものを失っている。神の裁きと言われれば、己の一人子(ひとりご)さえも、生贄(いけにえ)に捧げるだろう。

 ――《黄昏時代(ラグナロク)》とでもいうのか!?

 今は遠いトゥルートの故郷の言葉が嫌でも思い起こされた。しかし、この男にゲルマン語で怒鳴ったところで文字通り理解されまい。だから、せいぜい文明人らしく振舞ってやる。

「……酒と女に溺れる放蕩児と聞いていたが、随分と明晰な論理を組み立てるものだな」

「あなたこそ、槍働きのみが取り柄の野蛮人と聞いていましたが、それだけではありませんね。あるいはこれがユリアヌス陛下の薫陶ですか?」

 ああ、そうだ――と彼はそこで手を打った。

「あなたが皇帝になるという選択肢もありますね?」

 まだ、私の即位は暫定的なものですし――と彼は気楽に言ってのけた。

「なっ、何を馬鹿な……!」

「ゲルマンだから? 人種差別はいけません。多民族国家であるローマの精神に反します」

「い、いや、そうではなく……!」

「それとも、あなたが女だからですか?」

「……!」

「いいんじゃないですか? ここいらで《女帝(アウグスタ)》というのも悪くない。見目麗しく、凄まじい槍使いの美人皇帝です。頭の固い元老院はともかく、兵士や大衆には受けますよ」

 トゥルートは思わず目を逸らす。

「あたしは……ユリアヌスのようにはできない」

「だから、言っているでしょう! 私だって、あの人みたいになんてできないですよ!」

 ヨウィアヌスは絶叫した。それがこの男が初めて見せた本性だった。

「何故、我々が撤退しているか、お分かりですかっ?」

「それはユリアヌスが……」

「そうです! ユリアヌス様が、皇帝という名の、たかだか一人の人間が死んだからです! その一人に全てを(ゆだ)ねていたからですっ! 誰も彼もが、皆、あの方に(すが)りつくばかりだったからです! 違いますかっ!?」

「…………」

 トゥルートには返す言葉がない。

「……失礼」ヨウィアヌスはそこで息を整える。「とどのつまり、これが君主制の限界ですよ。独裁者も皇帝も所詮はただの人間なのです。ただの人間にそこまで依存している時点で、構造的に敗北しているのです」

 だから、時勢には逆らえない。逆らわない――それがこの新皇帝の意思らしい。

「そうか……だが、あたしは沈む船に乗り続ける趣味はない」

 トゥルートはローマ軍を去る決意をした。


   ***


 荷物をまとめていると、背中に気配を感じた。

「シャハラザードか?」

「……御明察」

 物陰から、シャハラザードが現れる。

「身を隠していた理由は……聞くまでもないな」

 交代時間だったトゥルートにすら、筆頭衛士としての責任を問う声がある(ローマ軍を去る事にも追放処分の意味がある)。ユリアヌスが最期に庇ったシャハラザードなら、尚の事だ。その上、シャハラザードはペルシャ人として、遠征中は道案内を務めていた。焦土作戦に苦しめられたのも、単独皇帝に槍が当たったのも、このペルシャ人が敵に内通していたからでは?――という陰謀論は(まこと)しやかに囁かれている。

 それがわかっているのだろう。シャハラザードが悲しい目で訊ねる。

「あなたは疑わないの?」

「……あの【擲槍(ゲル)】にそんな【意思(トゥルト)】は込められていなかったよ」

 トゥルートは断定する。もし、投げ手に殺意があれば、トゥルートはそれを読み取り、防ぐ事ができた。……できなかったという事は、少なくとも殺意はなかったという事だ。

「それ……本当なの?」

「くどい。あたしは槍女神(ゲイルスケグル)の末娘、槍乙女ゲルトルートだぞ?」

 だから、間違いない。己の存在意義(イデンティタス)を誤るはずがない。

 しかし、この単純明快な理屈に、何故かシャハラザードには苦笑いする。

「その理屈、さっぱりなんだけど……。いや、でも、あなたの人外じみた槍働きを考えれば、信用するしかないのかな……?」

「疑っていたのか?」

「……だから、調べていた」

「結果は?」

「【背教者ユリアヌス(ユリアノス=アポスタテース)】は唯一絶対なる《神》への反逆故に、天使が放った槍に貫かれました。哀れな悪魔の(しもべ)ユリアヌスはその死際(しにぎわ)にこう呟いたそうです。『ガリラヤ人(≒キリスト)よ、(なんじ)は勝てり』と」

「下らん。まるでユリアヌスが書いていた同人誌だ」

 そんな迷信が蔓延るのではローマ帝国も終わりだ。ヨウィアヌスの諦観も無理なからぬ話か。

「わたしは深読みした。キリスト教徒による《背教者(アポスタタ)》暗殺計画があったんじゃないかって。焦土作戦で兵士の不満もたまっていたし……」

「だが、お前でも裏付けは取れなかったんだろう?」

「…………」

「……サルスティウスの親父(オヤジ)を連れて来なかった時点で、遅かれ速かれこうなっていたさ」

 この時期、サルスティウスは遥か西方のガリアを治めている。おかげでトゥルートの故郷は安全安泰だが、ユリアヌスの負担は厳酷苛烈だった。仮にあの槍がなくとも、過労死は自然な話だった。それがわかっていたのか? サルスティウスはわざわざガリアからペルシャにまで手紙を送り、ユリアヌスに遠征を思いとどまるように諫言している。

「…………」

「…………」

 それっきり、女二人の間に沈黙が続いた。ああ、今思えば、トゥルートをシャハラザードと結びつけていたのも、ユリアヌスに他ならなかった。

 トゥルートは大きく溜め息をついた。そして、

「あたしはアレクサンドリアに行くよ。そこにでかい図書館があるんだろ?」

「アレクサンドリア図書館に? たしかにあそこは世界最大の図書館ですが……」

「ほう。そうなのか?」

「一般常識です」シャハラザードは心底呆れたようだった。「ていうか、そんな事も知らないトゥルート姉さまがアレクサンドリア図書館に何の用ですか?」

招聘(しょうへい)されたんだ。そのアレクサンドリア図書館とやらに」

「はああああああああ?」

 シャハラザードは心底驚いたらしい。「な、なんて(うらや)ま……こほん、で、その理由は?」と続ける。

 トゥルートは黙って、紙切れを渡す。

 シャハラザードもさっと目を通して、その紙切れに書いた図面に気付いたらしい。

「な、何これ……錬金術?」

「これは『酸っぱくなった葡萄酒を美味くする装置』だ」

「……(なまり)(なべ)の事?」

 言うまでもなく、葡萄酒も腐ると酸っぱくなる。この原因物質は酢酸なのだが、この酢酸を鉛と化合させると、酢酸鉛になる。そして、この酢酸鉛は甘い。そのため、『酸っぱくなった葡萄酒を美味くする装置』として、この頃、鉛鍋が重宝されていた。しかし……

「違う」

 とトゥルートは首を振る。シャハラザードも図面が只の鉛鍋でない事は見向けているらしい。

「そうよね。これは……どちらかというとアリストテレスが語っていた『海水を蒸留すれば、真水が手に入る』装置に近い気が……」

 トゥルートは見えない角度で微笑した。シャハラザードの反応が一々かつてのユリアヌスにそっくりなのだ。結局、この二人は教養人という点で、性別も人種も超えて、同族なのだろう。

 ユリアヌスが死に際に語った哲学論義――実のところ、トゥルートにはさっぱりだった。

 しかし、もしも、あの場にシャハラザードがいれば、ユリアヌスの最期の叡智を後世に残す事ができたかもしれない。

 それが何故か無性に悔しい。だから、トゥルートは顔を見せずに言葉を続ける。

「鉛鍋で煮ると酒精が弱くなるだろ? だから、あたしは酒精が弱くならずに、いや、むしろ、酒精を強くして、『酸っぱくなった葡萄酒を美味くする装置』がないか、昔から考えていた」

「……何でそんなに酒精にこだわるの? というか、いつから酒を飲んでいたの?」

 シャハラザードのツッコミはこの際無視する。

「蒸留機ってあるだろ?」

「ああ、花の蜜から、香水を集める時に使う機械ね」

「あたしは葡萄酒をある種の蒸留機にかけると、美味くなる事に気付いたんだよ」

「な、何ですってー!」

 これは後世なら、『ワインを蒸留するとブランデーになる』と、一言で片づけられるだろう。しかし、この時代、そういった原理の抽象にはまるで至っていない。この時点でトゥルートは五百年以上、時代を先取りしているのだ。

「そ、そういえば、エチオピアで麦酒を蒸留する話を聞いた事があるわ……」

 というシャハラザードの独白が示すように、あくまでも断片的、偶発的な事例にとどまっている。だが、トゥルートの考案した『酸っぱくなった葡萄酒を美味くする装置』には、これを普遍化できる可能性が秘められている。

「ああ、麦酒(ビール)をこの装置にかけたら、ローマ人が言う生命水(アクアビット)――あたしらの地元で言う【ウイスゲ・ベーハ(ウイスキー)】になったぞ」

「…………!」

 トゥルートが説明すると、シャハラザードはそれこそ酔ったかのようにふらついた。

 情勢が比較的安定している頃、トゥルートはこの装置を自作した。そして、古くなった酒を安く買い集めては、一人で蒸留して痛飲して楽しんでいたのだ。それがある時、ユリアヌスに見つかり、今のシャハラザードと似たようなやりとりの末、知り合いの錬金術師とやらを紹介された。

 錬金術師は当初この成果を独占しようとしたらしい。トゥルートから、大まかな手法を聞きとった後、資料や機材が揃ったアレクサンドリアで再現実験を試みた。しかし、それは一定の成果は上げたものの、トゥルートが作った装置の性能には及ばなかったらしい。

「だから、あたしにアレクサンドリアに来て欲しいんだってさ」

「……あなたって、お酒の事になると、異様な情熱と才能を示すわね」

「ガリア育ちだからな」

 いわゆるガリア人は大変な酒好きだった。あのユリアヌスも剛毅木訥と質実剛健を地でいくガリアの気風を愛してはいたが、飲酒が(はなは)だしい事だけは、何度も愚痴っていたぐらいだ。「ま、いいけど、お腹に子供がいる間だけは一滴たりとも飲んじゃ駄目よ」

「……気付いていたのか?」

「この非処女め」シャハラザードは毒づく。「ユリアヌス様もそうだったけどさ、わたしの事、処女だからって馬鹿にしていない? はっ、どうせわたしはエセ売女(ばいた)ですよ。二十歳過ぎても男性経験皆無な喪女ですよー」

「馬鹿になんてしていないさ。むしろ、尊敬しているよ」

 この時点でトゥルートは察していた。所詮、トゥルートは野蛮人だ。ユリアヌスの後継者になれるはずもない。現ローマ皇帝であるヨウィアヌスですら、自分には無理だと言っていた。

 しかし……、

「あたしは、あいつの遺児を(そだ)てる事しかできない。でも、お前なら、あいつの遺志を(はぐく)む事が出来るかもしれない」

「……自信がない。だから、手伝って――って言う心算(つもり)だった」シャハラザードは膝をつく。涙は随分前に枯れ果てていたらしい。「はっ。わたしって、いつもこうね。結局、誰かに縋りついてばかり。自らの足で立とうとしない」

 皆、同じだ。

 キリスト教徒は神に縋り、トゥルートやシャハラザードはユリアヌスに縋った。

 その結果がこれなのだ。ヨウィアヌスの言葉が嫌でも甦る。誰もユリアヌスのように運命に立ち向かおうとはしなかったのだ。

 ただ、唯一シャハラザードにはまだ光が残っていたらしい。再び訪れた沈黙を破ったのは、黒髪の彼女の方だった。

「――わたしは《千夜一夜物語(アルフ・ライラ・ワ・ライラ)》に行く」

 そう言って、シャハラザードは一人立ち上がった。

「アラブ民族クライシュ派解放戦線……か?」

 対ペルシャ戦闘では、アラブ民族もローマ軍団と肩を並べて戦った。とりわけ、アラブ民族クライシュ派解放戦線《千夜一夜物語(アルフ・ライラ・ワ・ライラ)》などはササン朝打倒を理念としており、元々の利害が一致していたのだ。が、シャハラザードが駆けずり回って、ツテを用意してきた事も大きい。そして、その秘密結社との繋がりもまだ消えていないらしい。

「うん。今のアラブ民族はゲルマン民族並みの野蛮人だけどさ。ローマやペルシャも超えて、次の叡智を切り拓けるとしたら、それは、ああいう連中かもしれないしね」

 相変わらず、底知れない女だ。あるいは、シャハラザードの名はユリアヌスの名よりも世に鳴り響くかもしれない。

 思い起こせば、トゥルートがユリアヌスと出会った時、彼は二十四歳だった。その歳まで、兵舎を見た事すらなかった童貞野郎が、たった十年で世界の流れを変えかけた。今のシャハラザードもちょうど二十四歳である。……この処女に同じ事が出来ない理由はない。

「ま、当分は文字通り雌伏の予定だから、ユリアヌス様の伝記を書いていますよ」

 シャハラザードは(かた)()らしい事を言った。実はアンミアヌスも似たような事を考えているらしい。だが、シャハラザードは彼よりも、ずっと通俗的に書いてみたいそうだ。読み易さを重んじる。だから、会話文を多くする。オッサン連中を控えめにして、美少女分を多めにする。できれば、挿絵も付けて、十代少年少女の冒険心をくすぐるようにしたいという。

「ん? それなら、あたしにも読めるか?」

「アレクサンドリア図書館にいらっしゃるなら、献本しますよ。姉さま」

「題名は? もう決まったのか?」

「そうですね……題名は……」

 多分著作は散逸するだろう。実際、トゥルートの革新的な蒸留装置ですら、この後に訪れる暗黒時代に失われてしまう。この五十年後にアレクサンドリア図書館が青少年健全育成を(うた)う狂信的キリスト教徒の手で、放火され破壊されるからだ。

 ――終焉戦争(ラグナロク)

 トゥルートの故郷に伝わるそれは、キリスト教徒たちの言う善悪の最終戦争(ハルマゲドン)とは違い、勝利者のいない、ただ終焉に至るためだけの戦争だ。善悪の最終戦争(ハルマゲドン)は何だかんだで、唯一絶対の全能神の勝利とその後の理想郷が約束されている(そんなに全能なら、戦争を省略して、理想郷とやらを出してくれよ――と言いたくなるような)必要過程でしかないらしい。が、終焉戦争(ラグナロク)は違う。永久(とこしえ)に雪が積もり続ける冬のように、すべてが等しく滅びる。それがヒトと神々の黄昏(ラグナロク)なのだ。

 そんな黄昏(たそがれ)の時代、中世暗黒時代はこれから始まる。

 ――ああ、そうか。ユリアヌスはこれを避けるべく、あんなに必死に戦っていたんだ。

 トゥルートは、手遅れになってから、ようやく理解した。

 これ後、西欧世界は人口も国内総生産(GDP)も激減する。当然だ。発掘遺物が石器時代にまで引き戻されるのだから。イギリスなどは千年かけても人口回復すら成し遂げられなかったのだから。


   ***


 ……しかし、それでも、はるかな未来にその息吹が残ればいい。ユリアヌスが生きた時代が古代と呼ばれるような世界で語り継がれればいい。

 シャハラザードは意識してドヤ顔を作っていた。かつてのユリアヌスがつまんない同人誌を発表した時のように。厨二病(ヒュブリス)に罹患していた頃の黒き情熱を魂に(とも)して!

「そう、さしずめ――『とある古代の背教者(アポスタタ)』!!」


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