第八話(A.D.356)籠城結果
彼女もしばらくは白を切ろうとしていた。
だが、ユリアヌスが「筆頭衛士トゥルートよ、こちらも将兵の命がかかっている。この際、腕の一本二本は斬り落としてもいい」と言った途端に扉が開いた。
聞き耳を立てていたシャハラザードはばつが悪そうに部屋に入ってくる。
ユリアヌスはそんな彼女に問いかけた。
「ササン朝ペルシャ帝国非公式情報機関《千物語》所属『シャハラザード』。ね、旅芸人が諜報員を兼ねているの? それとも諜報員が旅芸人を兼ねているの?」
「……そんな事は知りません。仮に知っていても答えられるわけがありません」
シャハラザードはそっぽを向く。
「ただ、後学のために聞いておきたいんですけど、いつからわたしを疑っていたんですか?」
「最初からさ」ユリアヌスは種を明かす。「君が現れた時、僕もトゥルートも声をかけられるまで気付かなかった。僕に気付かれないのはいいけど、トゥルートにも気付かれなかったのは、やり過ぎだったね。我らが筆頭衛士の鋭敏さは人外じみているから」
そんなトゥルートに察知できないシャハラザードの異常さは逆に目立つ。
おそらく情報収集を兼ね、陰に潜んでいたのだろう。故に、シャハラザードが只者ではない――と二人ですぐに結論付けたのだ。
シャハラザードは美しい眉を寄せる。
「……それで私に何かご用でしょうか?」
「郵便配達を頼む。ここに僕が認めた手紙がある。これを一刻も早く届けて欲しい」
「いや、何で私に……? というか、何で私が……?」
「君に頼む理由はローマの通信網が信用できないからだ。君がやってくれる理由は報酬を用意できるからだ。金銭だけでなく、僕の傍に侍る特権を約束しよう」
これまでユリアヌスが出した救援命令に全く反応がない。だから、ローマの通信網が信用できない。おそらくマルケルスか、その背後にいる反ユリアヌス派の手で、情報が握り潰されているのだ。
だから、ローマではなくペルシャの通信網に頼る。隣国ペルシャがローマ国内に張り巡らしている諜報通信網なら、反ユリアヌス派も手は出せないというわけだ。
勿論、ペルシャは隣国であると同時に敵国でもある。だから、博打である事に変わりはない。第一、シャハラザードがこの要請を実行する保証はない。このまま籠城に付き合って死ぬのも嫌だろうから、城外への脱出まではやってくれるだろう。とはいえ、その後、とんずらされる危険がある。
しかし、ユリアヌスは勝算のある博打だと考えた。
ローマもペルシャも敵国だが、共に大国だ。全面戦争をすれば、損耗はお互い激しい。その上、互いに互いの領土の占領が難しい。仮に占領しても維持できない。それよりは、交易して儲け合った方が賢明だ。ペルシャ帝国がパルティア朝からササン朝に代わった今もこの構造は変わっていない。
そんな訳で、国境線をめぐって激しい戦いはあっても(それにしたところで、緩衝国の利権争いという形が多いが)、その間に交易が絶える事もなく、お互いを滅ぼそうなどとは考えていない。
まして、ユリアヌスがいるガリアはペルシャから離れた位置にある。どう考えても、侵略は無理で、直接は関係のない地域だ。シャハラザードが情報を集めていると言っても、おざなりである。だったら、ユリアヌスの側近になり、金銭を受け取り、情報を集め易い立場になった方が得なはずだ。
「加えて、ペルシャとしては、西側の僕に一定強力になってもらった方が好ましいのでは?」
ユリアヌスは踏み込んだ発言をしてみた。サルスティウスの顔が青ざめ、トゥルートはまた首を傾げる。
だが、シャハラザードは
「嫌だなあ。わたしはそこまで愛国心とかないですよ。仕事です仕事」
と真偽のわからぬ事を言った。
「では、この仕事を受けてもらえるね?」
「……乗りかかった船です。承ります。それでどこへ行けばよろしいのです」
「メディオラムヌ(現ナポリ)だ」
ユリアヌスは皇后エウセビアへの手紙をシャハラザードに託した。
***セノネス(現サンス)二十日目***
「やっぱり、意味がわからん」
と、トゥルートは空腹を誤魔化すためにも尋ねてみた。
「何で、正帝本人ではなく、皇后の方に救援を求めるんだ?」
「正帝の皇后エウセビア様は才色兼備という言葉がまさに相応しい方なんだ」
ユリアヌスは恋する乙女のように頬を染める。
「高貴な生まれなんだけど、偉ぶったところはなくて。でも、動作の一つ一つに気品があって、何と言っても、聡明なんだ。トゥルートの判断力とシャハラザードの知識量を兼ね備えていると言えばいいかな? 話しているだけで、思わず平伏したくなる。僕がドキマギしていると、クスクスと笑って、気持ちを和らげてくれて。僕の恐縮が過ぎると、逆に子供みたいに拗ねて見せたりして、僕がガリアに来る時もプルタルコスの【対比列伝】をくれて……綺麗で、いい匂いがして……」
実はこの評価もそれなりに客観的なものだった。後世、皇后エウセビアはほとんどの史家に賞賛される。
だが、トゥルートの感想は簡潔になる。
「……人妻趣味かよ」
「なっ、ち、ちちちちっ違うよ!」
「あー、すまん。そうだな。お前は、年上で頭よくって気が強い女が好みなんだな?」
「○×△■○×△■○×△■○×△■○×△■○×△■!!!」
ユリアヌスは一人錯乱して、意味不明の事を繰り返した。もはやギリシャ語ですらない。
――こいつ、本気で人妻に惚れていやがるのか? 意外と危ない趣味なんだな……。
トゥルートは驚きながらも、肝心な質問をする。
「で、頼りになるのか?」
「う、うん」ユリアヌスは正気を取り戻した。ただ、答えた声は鈍く。「正帝も人を信じようと努力している」
かつての《正帝》コンスタンティウス二世には『信頼できる者』が一人もいなかった。
しかし、今は違う。
たった一人だが、その信頼を受け止められる人間が現れた。
それが皇后エウセビアだという。
「人間不信の正帝もあの皇后様だけには信頼を置くようになった。理由はわからな……いや、少しはわかるかな。エウセビア様も信頼できなくれば……もうおしまいだ」
ユリアヌスが生き残れた事自体、エウセビアの尽力故だという。兄ガルスの死後、弟であるユリアヌスも殺すべきという声は多かった。とりわけ、宦官の讒言と正帝自身の内なる猜疑が甚だしかった。
だが、皇后エウセビアは絶体絶命だったユリアヌスを唯一弁護し、正帝コンスタンティウス二世の信頼を勝ち取ったのだという。
「その後、ガリアに行って副帝になれって言われた時は驚いたけどね。……エウセビア様って、頭が良すぎて、時々、僕の理解が追い付かなくなる」
「……」
逆にトゥルートにはわかる気がした。やはり、宦官対策だ。いつ、その魔の手が忍び寄るかわからないから、それが届かぬガリアにユリアヌスを逃がしたのだろう。
――才能を見抜いていたとしたら、女ではなく、化け物だな……。
いわゆる『反ユリアヌス派』の中には『ド素人に激戦地の皇帝をやらせるのは……』というまっとうな意見もあったはずだ。この点はごり押しした皇后エウセビアの方が異常である。
しかし、今ではユリアヌスも兵士の信頼を集めつつある。奇襲に近かったコローニア奪還をまぐれと疑う者も、このセノネス籠城における拙くも粘り強い堅実さは讃えている。
「それに宦官と外戚というのは、大概仲が悪いものなんだ。はるか東方にあるという【絹之国】ことシナでも、これは変わらないらしい。元々、相補性の関係だしね」
だから、外戚筆頭とも言うべき皇后エウセビアは、宦官の専横を苦々しく思っている。
特に正帝への上奏が宦官の手で『編集』される傾向を危ぶんでいた。勿論、広大な領土からの膨大な情報は正帝一人の手に余る。誰かが取捨選択せねば、正帝が過労死するほど働いても判断が間に合わない。だから、間に宦官が入るのは必要だ。しかし、これでは宦官の『編集』次第で、正帝を操り人形にできてしまう。
「あるいは、正帝が皇后の言葉に重きを置くのも、その自覚がある故かもしれない」
派閥争いが相互監視として機能する典型だ。
そんな訳で、皇后エウセビアは独自の情報網を築いている。シャハラザードが所属しているであろう組織に比べれば、か細い。が、性質は酷似しており、何より、宦官の横槍が入らない。
「それ、逆に言うと、普通に正帝へ助けを求めても、マルケルスみたいに……」
「うん。途中で握り潰される虞が強いって事。僕、一応副帝なんだけどね」
補足すると、メディオラムヌ(現ナポリ)に皇后がいる保証はない。が、そこまで行けば、シャハラザードは皇后の『目』に見つけてもらえるだろう。
「だけど……宦官ねえ。家畜ならともかく人間をわざわざ去勢するのか……」
田舎者のトゥルートには想像できない世界だった。
罪人への刑罰や敗者への処遇ならまだわかる。しかし、自ら望んで去勢したがる者もいるというから、理解不能だ。
この点、トゥルートには宦官の制度へ嫌悪があった。ユリアヌスやサルスティウスらは宦官たちの人格へ嫌悪があるらしいが、正直、それはピンとこない。殺されかかったユリアヌスに同情はする。そこに巻き込まれている以上、好意的にはなり得ない。だが、所詮、遠い世界の話なのだ。そも、宦官と官僚の違いがよくわからない。
――今、宦官が起している権力闘争も、宦官がいなければ、官僚が起こすだけなのでは?
と思う(後にユリアヌスに直問すると「……慧眼だね」と言われた)。
むしろ、一人の男をわざわざ傷付ける行為が制度化されている事そのものに、肉体的嫌悪を覚えるのだ。
ところが、東方育ちのユリアヌスは
「いや、やっぱり、後宮なんかには宦官が必要なんだよ。だって、女性だけの世界だからね」
と制度そのものは理解があるらしい。
「何しろ、力仕事だってあるし……」
「女にやらせりゃいいじゃん」
現にトゥルートの家では女でも力仕事を任されていた。
「それに、書類仕事だってある」
「女にやらせりゃいいじゃん」
現にそのエウセビアは情報網を維持運営しているというではないか。
「……極端な話、治安維持は?」
「女にやらせりゃいいじゃん」
「…………」
後の日本でいう【別式女】の類だ。しかし、こういった『(高貴な)女性に(肉体)労働をさせる野蛮な発想』は、それこそ、日本や西欧のように古代文明の中心地から離れ、それ故『野蛮』だった国々のものだ。いわゆる『文明国』では通用しない。
しかし、トゥルートにはそれがわからなかった。
もっと言えば、東方の文明国とやらは女を甘やかし過ぎに思える。
――結局、あたしは野蛮人なのか?
離れでセヴェルスは「もうすぐマルケルスが救けに来てくれる!」と負傷兵を励ましていた。
***セノネス(現サンス)三十日目***
シャハラザードは帰ってきた。
メディオラムヌ(現ナポリ)まで往復二十日だ。実に凄まじい。
そんな侮れないシャハラザードも、さすがに疲労困憊で汗と埃に塗れていた。日頃の芳香も淑美もない。開口一番「水!」と要求し、トゥルート顔負けの蓮っ葉さで飲み干す。
物資不足の籠城兵が送る視線をものともしないシャハラザードに、
「お疲れ様。君の偉業はマラソン(マラトン)の勇者に比肩するよ。あ、でも、フィリッピデスみたいにはならないでね」と、ユリアヌスは一人で気遣った後、一人で首を傾げる。「ん? エウクレスだっけ?」
「知らないわよ」シャハラザードは書簡三通を手渡す。そして、小声で付け加える。「ウザい。キモい。オタク死ね」
「ええーーっ!」
……なお、書簡は皇后と皇帝からの双方の返事だった。
ユリアヌスは癒しが欲しくて、三通あったうちの一通――皇后エウセビアからの書簡のみを迷わず開封する。
――「ユリアヌス君、頑張っているみたいだね。あなたの評判はあたしの耳にも届いていましたよ。ところが、最近は連絡が途絶えていて心配していたの。まさかそんな事になっているなんて。本当に酷い話です。でも、任せて下さい。必ず何とかして見せます。だって、あたしたちは家族なんだから あなたの義姉エウセビアより」
太陽のような皇后の笑みを思い出し、ユリアヌスの心臓は高鳴った。
「ああ、εὐαγγέλιον(エヴァンゲリオン)! まさに、良き知らせ(エヴァンゲリオン)! この数十年で流行りの福音とは違う! これこそが本物のエヴァンゲリオン(EVANGELION)だねっ!」
「ウザい。キモい。オタク死ね」
隣のトゥルートも舌打ちして、何故かそう呟いた。
***セノネス(現サンス)三十一日目***
結果から見れば、シャハラザードの献身は徒労だったのかもしれない。
何故なら、野蛮人は自ら包囲を解き、いずこかへと去っていったのだ。冬が本格的になってきたので、これ以上の野営は無理という判断だったのだろう。そも、包囲はシャハラザードのように城外との通信が可能な程度だったのだ。彼らは彼らで食料の確保が困難かつ第一だったのだろう。
とはいえ、死地であったのは事実である。
なのに【騎兵長官】マルケルスはのこのことやってきた。敵がいなくなってから、大軍を引き連れてやってきたのだ。
ユリアヌスは前置き抜きで伝える。
「マルケルス、君を【騎兵長官】から解任する。後任はセヴェルスだ」
この場からはあえて遠ざけているものの、セヴェルスの力量には文句がない。後を任せるに不安はない。満場一致の判断だった。
前任者と後任者の当人二人を除いて。
「な、何故……」
「命令不服従」
「私は私で必死に……」
「ならば、無能が罪だ」
ユリアヌスは簡潔に答えた。救援に来なかったのなら、命令不服従が罪である。救援に来れなかったのなら、無能が罪である。
言外の意図が伝わったかはわからない。ただ、元騎兵長官マルケルスは不満を隠さなかった。
「このような横暴……正帝コンスタンティウス様が……」
――それが理由か……!
吐き気がした。籠城末期にはユリアヌスも兵士たちも等しく鼠を食って飢えをしのいだ。しかし、どぶ臭い鼠を口にした時ですら、ここまでの吐き気はしなかった。
――セヴェルスは最後まで君を信じようとしたんだぞ!
「あの方は市民を守る……ローマの皇帝だッ!」
ユリアヌスは叫びながら、例の二通目を突き付けていた。
開封した正帝からの書簡にはかくのごとくあった。
――「援兵必要ならば、直接要請すべし。遠慮や婉曲は無用である前に有害である。貴殿は副帝であり、その権限がある。また、ガリア、ブリタニア及びヒスパニアは貴殿に統治責任がある。従って、人事一切も貴殿に委任している 正帝コンスタンティウスより」
すなわち、正帝による全面支持といってもよい内容である。
マルケルスから余裕が消えた。
そもユリアヌスにすれば、勝算があったからこその博打だったのだ。
かつて、コンスタンティウスが親類縁者を皆殺しにした時、親類縁者は皆殺しにした。が、無関係な兵士を巻き込みはしなかった。……少なくとも、市民を巻き添えにはするまいとしていたのだ。
逆に兄ガルスを殺した理由も、兄が市民を殺めたからだ。その方法もまず兵権を解いた後、不必要な犠牲を出さないようにした上での裁判だった。
だから、ユリアヌスを殺すにしても、ユリアヌスのみを殺すだろう。命令通りガリアを平定している以上、ユリアヌスを殺す理由はないというだけでない。仮に殺すにしても、無関係なローマ兵士を巻き添えにするはずがない。
……わかっていた。あの正帝は家族の仇であり、猜疑心の塊である。
しかし、同時に、職務への責任に苦しむローマ皇帝でもあるのだ。
正帝は慎重というよりも臆病な男だ。いつも見えない恐怖にがたがた震えている男だ。あの皇后の前では赤子のように泣きじゃくる男だ。
そんな意気地無しが、しかし、ローマ皇帝としての己を人前では取り繕っているのだ。
――僕と同じだ。僕と同じローマ皇帝なんだ。
「あの方は市民を守るローマの皇帝だ」ユリアヌスはもう一度繰り返した。「貴様とは違う」
その一言でマルケルスは狂った。
正帝からの書簡を奪おうと手を伸ばす。だが、ユリアヌスが躱す必要もなく(正確には躱す能力がなかったのだが)、マルケルスは部下に取り押さえられた。
ユリアヌスの部下ではない。マルケルス自身の――数瞬前までの――部下に拘束されたのである。
――何故?
と問うまでもなかった。サルスティウスの推測は的中していたのだ。ユリアヌスの救援命令を握り潰していただけではない。自力で副帝の危機を察知した部隊もあったのだ。彼らは当然救援に行こうとした。それをマルケルスは騎兵長官の権限で押し止めていた。「セノネスには親父もいるんです。助けに行かせて下さい!」と叫ぶ部下を『命令』で黙らせていたからだ。
あの時、生まれた怒りが、今、芽生えたのだ。
……マルケルスは何年かぶりに、一兵卒として仲間達を見る事になった。
兄弟なのか、城外と城内の兵士が抱き合っていた。お互いの無事を知り、泣いていた。
マルケルスには軽蔑の視線を送る新兵がいた。ユリアヌスには尊敬の視線を送る老兵がいた。
過去に兵士と共に辛苦を背負ったマルケルスは、しかし、それ故に現在の辛苦を厭った。
そんな過去がないユリアヌスは、しかし、それ故に兵士と共に現在の辛苦を背負った。
だから、彼らは今、この若き皇帝を支えようとしている。
……もう二度とマルケルスがあんな声望を集める事はない。
一つ悟った。
旧友セヴェルスがこの場にいないのは、この若き皇帝の慈悲だったのだ。
そして、若き皇帝ユリアヌスは三通目の書簡を開く。
「【戦友諸君】よ、この冬は大いに英気を養い、訓練に励みたまえ。夏にはゲルマン民族への拠点攻撃が始まる。正帝陛下の部隊も既に動いている。これがその証だ」
三通目の書簡――正帝部隊の進路予定表を見せられた兵達の士気はいやがうえにも、高まる。
そして、自分と他人の中にある不安を拭うため、あえて正帝を強調した。
「そうだ。これは正副両帝東西共同作戦、帝国総力を結集した一大反攻作戦である!」
ついに《ローマの平和(パクス=ロマーナ)》を取り戻す夏が始まるのだ。




