百合色の留別
一
田舎の駅に停まった車内に、何人かの人たちが乗り込んでくる。気合の入ったスーツ姿の若い男性。朝早くから余所行きの恰好をした中年の女性。皆ガラガラに空いているロングシートに腰を落とすと、ある人は眠そうに目を瞑り、ある人は読みかけの本を開き、そしてまたある人はスマートフォンに目を落とす。彼ら、彼女らの後ろから射す強い朝の光に、わたしは思わず目の上に手をかざした。
プシューッと溜まっていた空気を吐き出した電車は、ゆっくりと駅のホームを置いてゆく。良く晴れた窓の外を流れる田んぼはまだ田植えの途中なのか、緑色は少ない。宙ぶらりんになっている吊革が虚しく揺れる。まだ人の少ないこの細長い空間はただただ静謐で、次の停車駅を告げる機械音声のアナウンスが尚更それを強調しているように思える。わたしはそういう静かさ、嫌いじゃない。
だって、わたしの隣には彼女がいるから。
――もっとも、それは今日で終わりなのだけれど。
「ねえ、瑠璃さん。わたしと出会った時のこと、覚えてますか?」
わたしの左隣に座っている女性。彼女がわたしの憧れの人。大切な人。出会ったのも、一緒に過ごしたのもこの電車の中だった。わたしの最寄り駅を七時十三分に発車する真っ赤な通勤電車の三号車の、この明るい茶色のロングシート。彼女はいつもそこに座っている。あの日の朝と同じように。
「もちろん。忘れるわけないでしょ?」
二
最初に彼女を見かけたのは去年の秋。高校一年生のわたしは、親の転勤に伴って田舎の高校から転校してきたばかりだった。初めて乗る電車に見慣れない人々。前にいたところとはどことなく違う空気感。きょろきょろと周りを見渡していたそんなわたしの目に留まったのが、彼女だった。
一見すると文庫本を開いている普通の女子高生。少し背が高くて、ショートカットの黒髪はどこかボーイッシュでもあるけれど、特徴的なところはそのくらい。でも、なぜか彼女は輝いて見えた。白黒の世界に、彼女だけがカラフルに色づいて見えたのだ。そんな初めての現象に戸惑ったわたしは彼女の隣にずかずかと座れるわけもなく、反対側のロングシートに腰かけて彼女をチラチラと盗み見ていた。電車を降りるまで一時間以上ずっと、わたしは全く飽きなかった。起きているのもやっとな古典の授業の、何十分の一の時間だったような気がしたくらいだ。その間彼女は微動だにせず、ひたすらページを静かにめくっていたけれど、わたしは彼女に思いを馳せるのに夢中だった。いつの間にか降りる駅に着いて、立ち上がったわたしが人ごみをかきわけながら振り返ると、彼女は特に変わった様子もなくさっきまでと同じように本を読んでいた。
翌朝、わたしは同じ時間発の電車の、同じ三号車に乗り込んだ。そうすればまた彼女に会えるんじゃないかと思っていたし、そしてやっぱり彼女は昨日と同じ場所で、昨日と同じように本を読んでいたのだった。座席はがら空きだったけれど、一瞬の逡巡の後、わたしは大きく息を吸い込んで彼女の右隣に座った。それだけでわたしの心臓は持久走を走り終えた時よりも激しく動いて、息も上手く吸えなくなった。使う気もないスマホを取り出してタップする真似をしてみたり、彼女から目を背けるように窓の外を眺めて見たりした。でも、わたしの胸はぎゅうぎゅうと苦しくなるばかり。いてもたってもいられなくなって、とうとうわたしはそっと左を向いた。
──なんて綺麗な横顔なんだろう。
英語の感嘆文の例文みたいな文章が、頭の中にパッと咲く。しかしそれを馬鹿正直に言うわけにもいかず、かといって初めましてとかおはようございますとか言うのも変だと迷いに迷った挙げ句、わたしは震える口を──
「お話してもいいですか?」
「えっ……は、はいっ!」
先に話しかけてきたのは、何と彼女の方からだった。よく通る、綺麗で芯の強い声。
「実在するものを題材にしている小説はよくあると思うんですけど、私はそれらに対して『感情の慰み者にしている』と感じる時と『上手くフィクションに昇華されている』と違った感想を抱くことがあるんです。これらの違いは何だと思いますか?」
想定外のことに困惑しながらも、彼女に見つめられてどぎまぎしたわたしは、事態に追いついていない脳をフル回転させて彼女のなぞなぞのような問いかけの意味を考えた。
「ええっと……感情の慰み者、っていうのは例えばどんな小説ですか?」
「例えば友人の死を題材にした小説で、『なんかこの人……本当に友人の死に感銘を受けたっていうより友人の死を小説にする自分に酔ってない?』みたいな感想を抱くような小説です」
わたしはようやく彼女の言葉を少し理解して、答えを必死に練り上げる。思っていたより彼女がずっとフランクだったことに驚きながらも、これは彼女と仲良くなれる千載一遇のチャンスだと思ったから。同時に、まともな答えを返せなければ相手にされないだろう――そうなったら終わりだという恐怖もあった。
「確かに、死のように重いテーマの場合は難しい問題だと思います」
彼女の目を見られず下を向いたまま、わたしは慎重に切り出した。
「ただ、多かれ少なかれ作家には自己陶酔がある気がします。仰ったようなテーマをフィクションに昇華するのは、実際に経験したことを物語の世界観に落とし込む、あるいは自分という個性を排することかな、と思います。大したことを答えられなくて申し訳ないですが……」
「なるほど、クリアに答えてくれて助かります」
彼女の言葉は安堵感とともに、わたしの胸に突き刺さった。でも、それと同時に、不安にもなった。
「あの……わたし、実は小説書いてるんですけど……よかったら今度読んでもらえませんか? 『感情の慰み者』になっているか知りたいんです」
わたしは少し前から、趣味で小説を書いている。ふと自分の書いた文章がそうなっていないか気になってしまったのだ。彼女に拒絶されるリスクがあることを分かっていながら、それでもわたしは頼んだ。彼女に認めてほしかったのだ。わたしの小説を。そしてわたし自身を。
「わかりました」
彼女は柔らかく微笑んだ。
「あのっ……わたし百合花っていいます。よろしくお願いします」
「自己紹介してなくてごめんなさい。私は瑠璃です。こちらこそ」
それが、彼女――瑠璃さんとの《《本当の意味での》》出会いだった。
三
翌朝。昨日と同じ場所に座っていた瑠璃さんにおはようございますと挨拶して、わたしは遠慮がちに隣に座った。昨日はその後メアドを交換したくらいで、瑠璃さんはまた読書に戻ってしまったから、その邪魔をするのも憚られて他に話はしていない。家に帰ってから、わたしが書いている小説のデータを彼女のアドレスに送ったけれど、結局返信は来なかった。
「ええと……その、わたしの小説、どうでしたか?」
「結論から言えば、『感情の慰み者にしている』ような要素はなかったです。すごく良かったですよ」
──よかった。お世辞なのかもしれないけれど、彼女がわたしの小説を読んでくれて、そう言ってくれただけでも、天まで昇ってしまいそうになる。
続けなきゃ。会話を続けないと、それだけで終わってしまう。
「あの、何の本を読んでるんですか?」
「下村夏樹の『スウェーデンの森』です」
有名な人の有名な作品だから、名前は聞いたことがある。だけどわたしは彼の作品を読んだことがなかった。他に聞いたことがあるのも「騎兵団長殺し」くらいで、詳しくもなんともない。
わたしが自己嫌悪に苛まれている間に、彼女は本の中の世界へと戻ってしまったのだった。
四
それからわたしと瑠璃さんの少し奇妙な関係は、今日に至るまで細々と続いている。出会って一か月くらいした頃から彼女もようやくわたしに心を開いてくれたらしく、わたしたちは少しずつ仲良くなっていった。それがわたしにとって何よりも嬉しかった。仲良くなったと言っても、わたしは彼女がどこの学校に通っているのかも、どの駅から乗ってくるのかも知らない。連絡先は知っているけれど、それを通じて連絡し合ったり、まして一緒に遊んだりしたことなんてなかった。何しろわたしは奥手な性格だし、彼女もそれを察してかわたしのパーソナルな部分にメスを入れるのを避けているらしかったから。
だから、変わらなかった。
何気ない話題で盛り上がることもあったし、わたしの小説を読んで感想をくれたこともあった。でもそれは所詮表面上の関係でしかなくて、結局わたしたちはお互いとも、相手のことについてほとんど知らないままなのだ。つまり、わたしたちの仲は出会ったときから然程進展していない、変わっていないということを示していた。
瑠璃さんにとって、わたしはどのような存在なのだろう?
瑠璃さんには、わたしという人間はどのように見えているのだろう?
瑠璃さんは、わたしのことをどのように思っているのだろう?
わからなかった。一番近くて、一番遠い彼女のことを、思いを、自分は何一つ知らないのだ。もちろん彼女のせいなんかじゃない。もう少し自分が勇気を出せばわかることだ。それなのに口にできない。
――怖いから?
ふと脳内に、自分じゃない自分の声が響く。確かにそうかもしれない。怖い。怖いよ。彼女の奥に入り込んで、もしかしたら彼女を失うかもしれないと思うと、怖い。
でも、そんなことを理由にして踏み込まないことはただの言い訳でしかなくて、怠惰に過ぎないことも分かっている。そして、それのせいで今日、わたしは彼女を失うのだ。
瑠璃さんは半年間この電車に乗ることはなくなる。アメリカに半年間留学するそうだ。それを知ったのもわずか昨日のことで、何かを言うとしたら今日しかない。
でも、わからない。
何を言えば良いのかが、わからない。
自分のせいだ。彼女と自分自身とに向き合ってこなかった自分のせいだ。だから自分は、百合花という女は、変わらなきゃいけない。でも、そのために今何をすれば良いのか、それがわからなかった。
五
田園風景をとうに過ぎた窓の外には、灰色のビル群が所狭しとそびえ立っている。刻一刻と都会に近づく車内は無言の人々でぎゅうぎゅうに溢れかえっていて、こうなってくるとおちおち本も読んでいられないのだろう。瑠璃さんは本をしまって、ぼんやりと天井を見つめていた。
「ご乗車ありがとうございます。次は――」
電車のスピードが少しずつ落ちてゆく。わたしが降りなければならない駅までもう少しだ。頭の中ではカチッカチッと刻まれる秒針の音ばかりが反響しているというのに、肝心のわたしの脳は空虚な回転ばかり繰り返して全く働いてくれない。
どうしよう。
どうすればいいかわからない。だけど。
このまま瑠璃さんと別れるなんて嫌だ。
それだけは……絶対に嫌だっ!
「あ、あのっ……!」
声が震えて、肺が苦しくて、耳に熱が集まってきて。でも、言葉にしなきゃいけない。わたしは、変わるんだ。変わってやるんだ。
「どうしたの?」
「瑠璃さんは、あと何駅乗るんですか?」
「あと三駅、かな」
「じゃあ、わたしもその駅まで乗ることにします」
そう言った時、彼女は目を見開いた。垣間見ることのできた瑠璃さんの新しい一面に、わたしの心はこれまでにないくらい高鳴った。
六
わたしと瑠璃さんの周りだけ、いつもとは少し違う空気に包まれているような気がする。穏やかなのに張りつめていて、涼しいのに何だか猛烈に暑い──いや、《《熱い》》。手を伸ばせば簡単に届くはずなのに、隣に座っている彼女が無性に遠く感じる。四方八方を大人たちに囲まれてしまっているせいで、満足に話せる雰囲気ではなくなってしまった──その《《せい》》だと思い込みたかった。
「……百合花ちゃん」
「な、何ですか?」
「百合花ちゃんはさ……転校してきたときどうやって友達作った?」
口を開いてくれたのは、やっぱり瑠璃さんの方だった。いつもこうだ。わたしは、いつもこう。
──でも、わかる。
瑠璃さんの声が、少し震えてる。
彼女の瞳が、ほんの少し揺れてる。
「心配、なんですか?」
こんなに《《隙のある》》彼女を見るのもまた初めてで、わたしは胸の奥がきゅうっと疼くのを抑えられなかった。
「うん……今までそういう経験なかったし、友達作るのも得意じゃないから」
「何もしなくていいですよ」
何かを考えるより先に、その言葉はわたしの口をするりと突いて出た。身体の中の熱が急速に引いてゆく。赤から青へ。
「大丈夫です。瑠璃さんなら、すぐに周りと仲良くなれます」
「そ、そうかな……」
それはまるで、透明な氷の刃。
「そうですよ。周りの人たちの方から集まってきますって、絶対」
嫌だ。ここにきて、今さらわたしはそんなことを考えてしまうだなんて。
嫌だ。瑠璃さんが友達を作るって、そう言った瞬間、わたしの心に黒い靄がかかるだなんて。
嫌だ。認めたくない。瑠璃さんが誰と友達になろうが、わたしの隣でどんな顔をしていようが、わたしはそれを否定しないし、そうする権利もない。むしろ彼女に友達ができることをわたしは素直に喜ばなきゃいけない。
だけど。
醜い感情だって、わたしなんかじゃ烏滸がましいにもほどがあるって、わかっているのに。
それなのにわたしは、確かに思ってしまったのだ。
――どうしてわたしじゃ、だめなんですかって……。
瑠璃さんは下を向いて口をつぐんだ。
わたしは彼女を直視できずに、顔を背けて窓の外を眺めた。どこまでも無味乾燥な、都市の灰色が流れてゆくだけだった。
七
無言のまま、電車はついに三駅目に到着。自動ドアから吐き出される人の渦に呑み込まれるようにして、わたしたちはホームに降り立った。固いコンクリートの地面が、わたしをしっかりと支えてくれる。
瑠璃さんの隣で歩きながら、わたしは静かに深呼吸する。階段を上って線路の上を横切り、押し流されるようにして下った。こういう静かさは嫌いだ。喋るな、話すな、そういう同調圧力を感じてしまうから。
奥に改札が見えてくる。わたしにはもう時間がなかった。このまま瑠璃さんは新しい世界へのゲートに吸い込まれて、わたしとは別れることになる。このままいけば、何も話さずに彼女と離れることになってしまう。
「ゆ、百合花ちゃん……?」
気づけば、わたしの左手は瑠璃さんのカーディガンの裾を掴んでいた。わたしの足が、続けて彼女の足が、ぴたりと止まる。改札へ向かう人の流れに、圧力に、わたしは──わたしたちは必死に抗う。動き続ける周囲の人々の中で、二人だけまるで時間が止まってしまったかのようだった。
「……ごめんなさい」
「えっ?」
「わたしは……わたしは、瑠璃さんと別れたくないです」
息を止めて、わたしは彼女の目を真っ直ぐ見つめる。早鐘を打つ心臓にわたしの声は震えていたけれど、それでも言葉を紡いだ。
「私もだよ」
「……えっ?」
「本当だよ? 百合花ちゃんが隣にいてくれて、私はすごく救われたの」
ほんの少しわたしより背の高い彼女に、ぎゅっと抱き寄せられる。ふんわりとした香りと温かく柔らかな瑠璃さんの身体に、わたしは溺れてしまって息も吸えない。
「ごめんね。年上なのに、百合花ちゃんに今までずっと無理させちゃったよね」
「そんなこと、ないです……」
「ううん、いいんだよ。私、話すのあんまり得意じゃなくて、あなたから話しかけてくれるのを待ってた。ずるいよね。本当に、ごめんね」
彼女は話しながら目を閉じていた。その隙間から透明な雫が光る。わたしも眼の奥から込み上げてくる熱を抑えきれない。
「ずるくなんか、ないです。もともとわたしが勝手に話しかけただけで、しかも読書の時間を奪ってしまって……それにさっきだって、瑠璃さんが友達を作るって聞いたら、わたし、何だか……っ」
「嫉妬してくれてたんだ。──嬉しい」
わたしの頭に彼女は手をのせ、そっと撫でた。全身から力が抜けてゆく。この時間が永遠に続けばいいのに。
「また、会えますか?」
「半年後に必ず帰ってくるよ。約束する」
「たまに連絡してもいいですか?」
「毎日でもいいよ。今度は私からもする」
わたしたちはゆっくりと離れた。瑠璃さんはポケットからハンカチを取り出してわたしの目元を拭うと、それを差しだした。どこまでも深く青い、大海原の色。
「よかったら、これを持っててほしいな」
「……いいんですか?」
「うん」
わたしもポケットから真っ白なハンカチを取り出して、彼女にされたようにその目元をそっと拭いた。
「じゃあ、よかったらこれを持っててください」
「……いいの?」
「もちろんです」
「白色……百合の花……百合花、か。で、わたしのは青」
「瑠璃色……ですね」
わたしたちはくすくすと笑った。
「お別れだね」
「はい……でも、待ってます」
「私も、また会えるのを楽しみにしてるね」「わたしもです」
瑠璃さんは踵を返し、ゆっくりとわたしに背を向けた。
「じゃあね」
「さよなら。……お元気で」
わたしは言うことを聞かない表情筋を必死に動かして、何とか笑顔を作った。これまでも、これからも、これが人生一ぎこちない笑顔だと思う。
彼女のショートカットの黒髪が、構内を流れる暖かな風にふわりと揺れた。その姿にもう迷いはない。わたしは彼女のしゃんと伸びた背中を見つめていた。
――好きです、瑠璃さん。
喉の奥からせり上がってきたその想いは、言葉にできなかった。
だから、わたしは変わる。今度こそ必ず変わってやる。新しい自分になって、新しい瑠璃さんともう一度出会う。
そして、今度こそ想いを告げよう。
彼女が改札を抜けて見えなくなるまで、わたしはずっと立っていた。瑠璃さんは一度もこちらを振り返らずに、颯爽と群衆の中へ消えた。
「わたしも頑張らなきゃ」
スクールバッグを肩に担ぎ直して、わたしも振り返る。この後いつもとは逆の電車に乗って、学校に向かわなきゃいけない。遅刻が確定したわたしを、さっきよりも高く昇った朝陽が眩しく照らした。




