瑠璃色の惜別
一
甲高いブレーキ音を立てて停まった電車の中で、私はもうすぐ読み終わりそうな本に目を落としていた。何人かの人が乗ってくるとはいえ、まだ人が少ない早朝の車内。ここは私が一番好きな場所のひとつかもしれない。都会で学生生活を送っている田舎育ちの私にとって、この電車が走る田園風景はどこか故郷を思い出させてくれるものだから。喧騒に邪魔されることなく読書に集中できるから。少し前まではそう思っていた。だけど、それだけじゃない。
彼女に会えるから。きっと、これが一番大きい理由なんだと思う。
――もっとも、それは今日で終わりなのだけれど。
「ねえ、瑠璃さん。わたしと出会った時のこと、覚えてますか?」
私の右隣に座っている女子高生。彼女が私にとってかけがえのない人。ずっと思いを寄せてきた人。出会ったのも、一緒に過ごしたのもこの電車の中だった。私の最寄り駅を六時四七分に発車する真っ赤な通勤電車の三号車の、この明るい茶色のロングシート。彼女はいつもそこに座っている。あの日の朝と同じように。
「もちろん。忘れるわけないでしょ?」
二
最初に彼女を見かけたのは去年の秋だった。当時高校三年生の私は、いつも通り文庫本を開いていた。読書好きな私は、本を読んでいる間はいつも周りから取り残されると言っても良いくらい集中している。降車駅を乗り過ごしたこともあるくらいだ。しかしその日の私の目には、なぜか彼女の姿が飛び込んできた。
ごく普通の女子高生だった。背丈は中くらいで、あどけなくも整った顔立ちとポニーテールの黒髪が少し可愛らしい。きょろきょろしていて何となく不安そうに見えるし、この過疎な電車の乗客として見覚えがない顔だから、転校でもしてきたのかもしれないと思った。他に変わっているところは特にない。でも、どうしてかはわからないけれど、彼女はきらりと光って見えた。モノクロの世界に、彼女だけが鮮やかな色を纏って見えたのだ。――きっと新顔だからだろう。私はそう思うことにした。反対側のロングシートに座った彼女から、時折視線を感じたような気がするけれど、それは決して不快ではなかった。むしろ私の方が気になって仕方がなかったくらいだ。電車を降りるまで一時間以上あったはずなのに、もうすぐ読み終わるはずの本が全く進まない。それでも私は彼女を恨めしく思うどころか、どこか嬉しさのような感情すら覚えていた。こんな気持ちになったのは初めてだった。
どうして。この思いは何? ――まさか私は……いや、そんなはずは。
心の中に浮かんだ一文字の言葉。それを当てはめるとぴたりとピースがはまるような気がしたけれど、彼女は同性だ。そういう趣味はないと思っている私はどうしてもそれを認めたくなくて、無理矢理本を読もうとした。彼女を見つめようとする目を抑えて。――だから、読めるはずもなかった。
翌朝。昨日と同じ電車の、同じ三号車に乗り込んだ私は期待していた。また彼女に会いたい。昨日と同じ場所に座っていれば、名前も知らない彼女にまた会えるんじゃないか――そんな叶うはずもない一縷の望みに縋っていたのだ。
そして、それはあっけなく実現する。開いたドアからあの子が乗ってくる。驚き、そして嬉しさと同時に、座席がガラガラに空いていなければなぁ、なんて思ってしまう自分がいた。私の隣だけが都合よく空いていれば――しかし、そんな必要はなかった。辺りを見回したその可愛らしい女子高生は、私の方にゆっくりと歩いてきたのだ。心臓が破裂しそうだった。肺が苦しい。沸騰した海の中に溺れてしまいそう。私の右隣にそっと腰を下ろした彼女は、何やらスマホを取り出したり、私と反対側の窓の外を眺めたりしていた。もう開いた本を読めるはずもなかった。やっぱり私は、彼女のことが。そう思いかけたその時、気づいた。
──彼女が、私を見ている。
どうしよう。彼女の息遣いすら聞こえてきそうなこの距離で、勘違いするはずもない。私は彼女に見られているのだ。そうだ。何か話さなきゃ。何でもいい。何か。何か話さないと。
「お話してもいいですか?」
「えっ……は、はいっ!」
こんなに声が震えたことが、今まであっただろうか。彼女の声は、その容姿に似合った可愛らしいものだった。
「実在するものを題材にしている小説はよくあると思うんですけど、私はそれらに対して『感情の慰み者にしている』と感じる時と『上手くフィクションに昇華されている』と違った感想を抱くことがあるんです。これらの違いは何だと思いますか?」
ちょっ。……初対面の人にどうしてこんな質問をしてるの私!?
「ええっと……感情の慰み者、っていうのは例えばどんな小説ですか?」
「例えば友人の死を題材にした小説で、『なんかコイツ……本当に友人の死に感銘を受けたっていうより友人の死を小説にする自分に酔ってね?』みたいな感想を抱くような小説です」
大抵の人は意味すらわからないだろう。もっと普通の話をしようと思っていたのに。せいぜい怪訝そうな顔をされるのがオチだ。私って、こんなにコミュ障だったっけ。
「確かに、死のように重いテーマの場合は難しい問題だと思います」
――何と、彼女は私の意味不明な問いに、真剣に答えようとしてくれていた。
「ただ、多かれ少なかれ作家には自己陶酔がある気がします。仰ったようなテーマをフィクションに昇華するのは、実際に経験したことを物語の世界観に落とし込む、あるいは自分という個性を排することかな、と思います。大したことを答えられなくて申し訳ないですが……」
「なるほど、クリアに答えてくれて助かります」
失礼を承知で言うなら、彼女の答えは予想よりも遥かに深いものだった。完全な素人でこんな回答、すぐに作れるはずがない。読書好きなのかな。趣味が合うかも、何て考えてしまう。
「あの……わたしの小説、今度読んでもらえませんか? 『感情の慰み者』になっているか知りたいんですけど……」
彼女は私の予想のずっと斜め上をいっていた。こんなに垢抜けて可愛い子が小説を書いているなんて、意外にもほどがある。読んでもらえませんか、だなんて言われるまでもなく、彼女の書いた小説と言われただけで、私は最初から読む気満々だ。頷いた私に、彼女はその小さな口を開いた。
「あのっ……わたし百合花っていいます。よろしくお願いします」
「自己紹介してなくてごめんなさい。私は瑠璃です。こちらこそ」
明らかに私の方が年上なのに、リードされてしまった。――百合花ちゃん、か。せめてメアドの交換くらいは自分から行こう。
三
昨日と同じ場所で、私と百合花ちゃんは再会した。彼女は少し不安そうに見える。
「ええと……その、わたしの小説、どうでしたか?」
「結論から言えば、『感情の慰み者にしている』ような要素はなかったです。すごく良かったですよ」
お世辞ではない。書くことに関して素人の私より、彼女の方がよほど上手かったのだ。昨日読んだ彼女の作品は恋愛小説――それも女性同性愛、いわゆる百合のジャンルだ。これまで私はその手の作品は読んだことがなかったし、一抹の忌避感すらあったはずなのに、彼女が書いたのだと思うと不思議とすらすら読めてしまったのだから不思議だった。百合を書いているってことは、まさか彼女も――。気になったけれど、あいにく私はプライベートなことをぐいぐい聞けるような性格をしていない。
「あの、何の本を読んでるんですか?」
「下村夏樹の『スウェーデンの森』です」
有名な作品だから知っているかもと期待したけれど、百合花ちゃんは知らなかったようだ。それでも彼女から聞いてくれただけで、私は小躍りしてしまいそうだった。それに、読み手としては負けていないという、謎の優越感さえあった。私は、本当にどうかしてしまったらしい。
四
それから私と百合花ちゃんの少し不思議な関係は、今日に至るまで細々と続いている。彼女の前ではコミュ障になってしまう私も、出会って一か月くらいした頃からようやく慣れてきて、普通に話せるようになった。不甲斐ないけれど、そうして彼女と少しずつ仲良くなってきたことが、私にとって何よりも嬉しいことだった。仲良くなったとはいえ、わたしは彼女がどこの学校に通っているのか、普段どんなことをしているのかさえ知らない。連絡先は一応知っているけれど、それを通じて連絡し合ったり、まして一緒に遊んだりしたことなんてなかった。何しろ私はこういう性格だし、どうやら彼女も受け身な私と似たようなタイプらしかったから。
だから、変わらなかった。
流行りの話題で盛り上がることもあったし、彼女の小説を読んでいろいろ話したこともあった。でもそれは結局のところお互いの表面をさらっているだけで、彼女の深いところについて私は未だにほとんど何も知らない。私たちの仲は出会ったときから然程進展していない、変わっていない。
百合花ちゃんにとって、私はどのような存在なのだろう?
百合花ちゃんには、私という人間はどのように見えているのだろう?
百合花ちゃんは、私のことをどのように思っているのだろう?
わからなかった。一番近くにいるのに、一番離れたところにいる彼女にまともに近づけない私は、彼女のことを何一つ知らないのだ。年上の私がもう少し勇気を出せばわかることだ。それなのに口にできない。
――怖いから?
ふと脳内に響いた言葉。確かにそうかもしれない。私は怖い。逃げている。彼女の奥に入り込んだ結果、彼女を失うかもしれないと思っているから。
でも、そんな理由で踏み込まなければ、今までと同じだ。何も変わらない。そう分かってはいる。そして、それのせいで今日、私は遂に彼女を失うのだ。
私はこれから半年の間、この電車に乗ることはなくなる。アメリカに短期留学するからだ。昨日までそれを彼女に言い出せなかった私を、誰が擁護するだろう。結果、何かを彼女に言うとしたら、今日が最後のチャンスになってしまった。
でも、私にはわからない。
何を言えば良いのかが、わからない。
自分のせいだ。彼女と自分自身とに向き合ってこなかった自分のせいだ。だから自分は、瑠璃という女は、変わらなきゃいけない。じゃあ、私は今何をすれば良いのだろうか。それがまた、わからなかった。
五
車窓を埋め尽くす灰色のビルの群れ。都会に近づいている車内は通勤ラッシュの人々でぎゅうぎゅうに溢れており、こうなってくるとおちおち本も読んでいられない。私は本をしまって、ぼんやりと天井を見つめていた。
「ご乗車ありがとうございます。次は――」
電車のスピードがゆっくりと落ちてゆく。彼女が降りる駅までは、後もう少しだ。さらさらと零れ落ちてゆく砂時計は、空虚な回転ばかり繰り返している私の脳など待ってくれやしない。
どうしよう。
どうすればいいかわからない。だけど。
このまま百合花ちゃんと別れるなんて嫌だ。
それだけは……絶対に嫌だ!
「あ、あのっ……!」
私が口を開きかけた瞬間、彼女は言った。……まただ。自分は結局のところ、何も変われていない。
──だから、せめて聞こう。今度こそ真正面から彼女と向き合うと、わたしは決めたじゃないか。
「どうしたの?」
「瑠璃さんは、あと何駅乗るんですか?」
「あと三駅、かな」
「じゃあ、わたしもその駅まで乗ることにします」
そう言われて、思わず私は目を見開いた。──それがどこか日常から逸脱した行為のような気がして、小説の中の世界にいるみたいに感じられたから。
六
いつもなら百合花ちゃんが隣からいなくなっている時間帯。今日だけ特別――そう思うと、急に鼓動が速くなった気がする。それに、普段なら嫌になって仕方がないほどの、車内の暑苦しさが感じられない。まるで私と彼女だけを包む空間の中に閉じ込められているみたい。黙りこくった彼女の整った横顔を見た私は、焦燥に駆られる。三駅なんてあっという間だ。神様《百合花ちゃん》がくれたこの時間を無駄にするわけにはいかない。
「……百合花ちゃん」
「な、何ですか?」
「百合花ちゃんはさ……転校してきたときどうやって友達作った?」
この期に及んで何を話していいかわからなくなってしまう自分のコミュ力の低さが嫌になる。違うんだ。私は彼女に、こんなことを聞きたいんじゃないのに。
「心配、なんですか?」
「うん……今までそういう経験なかったし、友達作るのも得意じゃないから」
「何もしなくていいですよ」
私の予想に反してそう言った百合花ちゃんの表情は、それまで見たことがないものだった。彼女の目はどこか遠くを見つめているようで寂しげに見えたのは、私の気のせいだろうか。
「大丈夫です。瑠璃さんならすぐに周りと仲良くなれます」
「そ、そうかな……」
「そうですよ。周りの人たちの方から集まってきますよ、絶対」
自信なさげな私を励ましてくれた彼女。だけどその声は、いつもより少し固くなっているように聞こえた。あるいは自嘲しているというか、自分自身に言い聞かせているというか。どうしてだろう。いつもはあんなに明るい彼女が、今日は何だか暗い。
──百合花ちゃんが黙ってしまうと、私は何も言えなくなってしまう。
そのことを、彼女と別れる直前になってまた認識させられた。それなのに下を向いて口を引き結ぶことしかできない弱い私が、嫌いだ。
彼女は私から目を背けて、窓の外をぼうっと眺めているらしかった。
七
それ以後一言も話せないまま、私たちは最後の駅に到着してしまった。人の波に揉まれているうちに、電車は静かな唸り声を上げてホームから走り去ってゆく。
年下の彼女の息遣いを隣に感じながら、私は一歩一歩、重たい足を動かして歩いた。私はやっぱり私だ。静かな空間を好き好むくせに、本を読んでいなければ彼女との静けさにどうしても耐えられないのだから。
人々の頭の向こうに改札がちらりと見えた。このままではもう終わりだ。せっかく彼女が勇気を出してくれたというのに、私はやっぱり、やっぱり何も出来なかった。このまま別れるなんて嫌だ──そう思っているのに。
「ゆ、百合花ちゃん……?」
気がつくと、彼女の左手が私の上着の裾を掴んでいた。雑踏の中で、私は思わず足を止めた。私たちの周りを渦巻き呑み込まんとする群衆に、私は──私たちは必死に立ち向かう。周囲と切り離された二人だけの世界にいるような、不可思議な静寂。そんな感覚に、私はしばらくの間、包まれていた。
「……ごめんなさい」
「えっ?」
「わたしは……わたしは、瑠璃さんと別れたくないです」
彼女はそう言って、私の目を真っ直ぐに見つめている。それだけで私の心臓は今にも破裂してしまいそうだったけれど、もう逃げるわけにはいかない。今度こそ、私が言葉を紡ぐ番だ。
「私もだよ」
「……えっ?」
「本当だよ? 百合花ちゃんが隣にいてくれて、私はすごく救われたの」
カッコつけだって言われてもいい。後で恥ずかしくなって、死ぬほど後悔することになっても構わない。こうして彼女を抱き締める、ただそれだけで、彼女の温かさも、鼓動も、そして柔らかさも、ふんわりとした香りに包まれて、この全身で感じることができるのだから。
「ごめんね。年上なのに、百合花ちゃんに今までずっと無理させちゃったよね」
「そんなこと、ないです……」
「ううん、いいんだよ。私、話すのあんまり得意じゃなくて、あなたから話しかけてくれるのを待ってた。ずるいよね。本当に、ごめんね」
私の目が、こんなにも熱くなるなんて。ここが駅じゃなければ、大声で泣きじゃくっていたかもしれないくらいだ。声が震えて、上手く口が動かない。
「ずるくなんか、ないです。もともとわたしが勝手に話しかけただけで、しかも読書の時間を奪ってしまって……それにさっきだって、瑠璃さんが友達を作るって聞いたら、わたし、何だか……っ」
「嫉妬してくれてたんだ。──嬉しい」
そっか、そういうことだったんだね。納得した私は、思わず百合花ちゃんの頭をそっと撫でていた。ほんと、可愛いなぁ。
「また、会えますか?」
「半年後に必ず帰ってくるよ。約束する」
「たまに連絡してもいいですか?」
「毎日でもいいよ。今度は私からもする」
私たちはゆっくりと離れた。最後くらいは年上にカッコつけさせて貰おうかな──そう思い、私はポケットからお気に入りのハンカチを取り出した。私の名前のように深い青色のそれで自分の目元を拭い、彼女に差し出す。自分の涙のついたハンカチを上げるなんて少し変態だと気づいたのは、彼女にそれを渡してしまった後だった。
「よかったら、これを持っててほしいな」
「……いいんですか?」
「うん」
すると、驚くべきことに。セーラー服を着ている百合花ちゃんも、スカートのポケットから純白のハンカチを取り出し、濡れた目元を拭って、私に差し出してきたのだ。
「じゃあ、よかったらこれを持っててください」
「……いいの?」
「もちろんです」
「白色……百合の花……百合花、か。で、わたしのは青」
「瑠璃色……ですね」
私たちはくすくすと笑った。
「お別れだね」
「はい……でも、待ってます」
「私も、また会えるのを楽しみにしてるね」
「わたしもです」
私は、ゆっくりと彼女に背を向けた。
「じゃあね」
「さよなら。お元気で」
やっぱり、私はずるい女だ。今もう一度振り替えったら、きっと別れたくなくなってしまう──そういう自分の弱さを隠すために、彼女に背を向けているのだから。
改札を抜けた後も、私は前だけを見て歩き続ける。背筋を伸ばして、さっきよりも軽くなった足取りで。
駅構内を流れる朗らかな風が、私の頬を掠める。弱い自分はこれでおしまい。アメリカに行って、私は必ず変わる。絶対に変わってやる。新しい自分になって、新しい百合花ちゃんともう一度出会う。
そして、また恋をするんだ。
――好きだよ、百合花ちゃん。




