前編
春先の風がまだ冷たい朝、村の外れにあるうちの道具屋は、いつものように軋んだ扉の音を立てて開いた。
店番をしていた私は、棚に並べた回復薬の小瓶を整えながら、窓の向こうを見る。
村のさらに奥、霧に煙る森の先には、古い小さな迷宮―《スモル・ベック迷宮》があった。
ここは国のはずれにある小さな村ル―ンベック。
迷宮があるおかげで、町には及ばないけど、周囲の村よりも人も多く活気がある。
森や迷宮から採れる魔鉱石や魔物の牙、発光茸、薬草。
そういったものを換金し、探索に必要な道具に変える場所が、私の家がやっている道具屋だった。
村で唯一の道具屋。
そして、いつか私が継ぐ店。
物心がついたころからずっと親に言われ続けてきた。
「お前がこの店を継ぐんだぞ」
「ジェシカがいればこの店も安心ね」
3姉妹の長女。だから私自身もそれを当然のことだと思ってた。
でも、母が亡くなった四年前から、家の空気は少しずつ変わってしまった。
父はだんだん無口になった。妹たちはまだ小さかった。
そのせいか、自然と家の仕事の大半を、私がすることになった。
それでも父が迷宮に潜れていたから、家は何とか回っていた。
だけど二年前、父は迷宮の三層で巨大な魔物に襲われ大怪我を負った。
左脚を深く裂かれ、しばらく寝たきりになってしまった。
怪我が治った後も走ることはできず、村の医者は「もう迷宮は無理だろう」と言った。
そこから家は急速に苦しくなった。
迷宮産の素材が減り、店の商品が減り、客が減った。
借金こそないものの、日々の暮らしで精いっぱいだった。
だから父に替わって私が迷宮に潜ることにした。
次女のジャスミンや三女のデイジーはまだ若く、店を切り盛りするような器量はない。
自分がしっかりしなければ、この家族は路頭に迷ってしまう。
それが私の原動力で、母の残した店を守るためにも、迷宮に潜ることに何の疑問はなかった。
迷宮に潜り始めた当初、父は泣きそうな顔で言った。
「すまんな、ジェシカ。怪我のせいでこんなに若いうちから迷宮に潜らせることになるなんて」
「何言ってるの、お父さん。店を継ぐのは私だもの、当然だよ」
私が首を振ってそう答えた時、父は安心したような顔をした。
その顔を見て、もっと頑張ろうと思った。
―――――
迷宮は生き物のような場所だった。石壁は湿り、階層ごとに空気が違う。
スモル・ベック迷宮は、初心者から中堅の探索者が潜るくらいの迷宮で、そんなに難易度は高くない。
浅層には角兎や毒ネズミしか出ないが、それでも深くなるにつれて魔物は強くなる。
そんな迷宮に、いくら私でも一人で潜るのは無理だった。
迷宮に潜ると決めた次の日、入口に立って中をのぞいただけでおじけづいた私の横に、いつの間にか幼馴染たちがいた。
父から話を聞いて、どうせ自分たちはいつか家から出なくてはいけないからと、私と一緒に探索者デビューしてくれると言う。
彼らの優しさに、胸がじんわりと温かくなった。
剣士のビリ―、斥候兼弓使いのマ―ク、ヒ―ラ―兼サポ―タ―のニコラ、そして魔法使いの私。
年の近い私たちは、幼いころから毎日のように一緒に遊んでいた。
川に魚を取りに行ったり、林に罠を仕掛けて兎を捕まえたり、みんなでビリーの家出に付き合ったり。
四人一緒だったから、迷宮に潜れたと言っても過言ではない。
それに全員初心者の未熟な探索者だったけど、連携は良かった。
それぞれの適正ジョブのバランスがよかったのもあるし、幼いころからの付き合いで言わずとも誰が何をするか、自然とお互いに分かっていた。
たまにもめることもあったけど、そこは幼馴染の仲、言いたいことは何でも言えた。
そうやって、みんなでゆっくり経験を積んでいった。
「前から2体!」
「俺とジェシカは右!マーク左!ニコラは後ろから援護!」
マ―クの声にビリーの指示が飛ぶ。
同時に私が氷槍で飛びかかってきた牙狼の喉を貫き、ビリ―が剣でとどめを刺した。
その横でマ―クの矢が飛び、小柄なもう一体を打ち抜く。
「やったぁ!もう5体目よ!」
ニコラの声が弾む。
「今日は当たりだな!ちょっと早いけど、これ持って帰ろうぜ」
ビリーが剣の血を拭いながら、胸を張る。
牙狼の牙は高く売れる。今日は大猟だ。
私は息を整えながら笑った。
「そうね、薬草も発光茸もかなり採れたし、今日はもう帰ろっか」
「これなら店も助かるだろ」
マ―クの言葉に、私は大きくうなずいた。
助かる。
その言葉が何より嬉しかった。
家族の役に立てている。店を守れている。母が残した家を支えられている。
その実感だけで疲れは薄れた。
村に戻ると、父はいつも「ご苦労だった」と言ってくれた。
ジュディーも「お姉ちゃんすごい」と尊敬の目を向けた。
ジャスミンは少しわがままだったけど、それでも姉と慕ってくれていると思っていた。
―― グレンも。
村長の次男であるグレンは、幼いころから私と結婚すると言われていた。
「将来は一緒になるんだろ」
「店は安泰だな」
村人たちは当然のようにそう言って笑ったし、
「店を継いだら隣町の道具屋とも商売するのもいいよな」
グレンはそういって私に店の今後を話した。
正式な婚約をしたわけじゃない。でも、誰もがそうなると思っていた。
私もそうだと思っていた。
好きとか、愛しているとか、そういう気持ちはなかったけど、
でも、グレンの隣にいる未来を疑ったことはなかった。
―――――
異変を感じ始めたのは、半年ほど前からだった。
ジャスミンが妙に身なりを気にするようになって、グレンが店に来る頻度が増えた。
前はグレンとも一緒に迷宮に潜ることもあったけど、最近は「店番をしとく」と言って、全然迷宮に行かなくなった。
けれど私はあまり深く考えていなかった。
迷宮探索で毎日疲れ切っていたし、家計は相変わらず余裕があるわけではなかった。
それに、今後も自分が迷宮に潜る時には店の方をお願いすることになると考えると、むしろ自分との未来のためにしてくれているのかと嬉しく思ってさえいた。
その日、私たちは夜遅くまで迷宮に潜っていた。
深層近くでたくさんの魔石を見つけ、リュックははち切れんばかりになっていて、久しぶりの大収穫だった。
「今日は豪華な夕飯かな」
マ―クが笑う。
「期待しすぎよ」
ニコラが呆れたように返す。
私は「久しぶりに父が喜ぶ顔が見られる」、そう思っていた。
家に帰るまでは。
店の灯りはまだついていた。
扉を開けると、父とジャスミン、そしてグレンがいた。
空気が妙に重かった。
「……どうしたの?」
荷物を下ろしながら尋ねた。
父は視線を逸らしながら言った。
「ジェシカ、少し話がある」
その声色に、嫌な予感が走る。
父は長い沈黙のあと、低い声で言った。
「ジャスミンとグレンが……互いに想い合っている」
思考が止まる。
ジャスミンが申し訳なさそうに目を伏せた。グレンは黙っていた。
「だから……二人を結婚させようと思う」
「……え?」
耳鳴りがした。
「それで、店もジャスミンに継がせようと思う」
意味が分からなかった。理解できない。
「待って……何言ってるの?」
声が震える。
「私が継ぐって……ずっと……」
「事情が変わったんだ」
父は苦しげに言った。
「ジャスミンには商才がある。グレンと一緒なら店も安定する」
「じゃあ私は?」
誰も答えなかった。
私はなんだかおかしくなってきて、笑いそうになった。
毎日迷宮に潜って、傷だらけになって、命がけで素材を取ってきて。
それは全部、何だったのだろう。
「……お姉ちゃん、ごめんなさい」
ジャスミンが言う。
その言葉が、逆に胸を裂いた。
グレンが口を開く。
「俺も、最初は混乱した。でも……」
「最初は? じゃあ最初は私との約束を覚えてたんだ」
「ジェシカ……」
「でもジャスミンを選んだんだ」
グレンは黙った。その沈黙が答えだった。
私は立ち尽くした。
すると父が、さらに言った。
「それと……もう一つ言っておくことがある」
嫌な予感が背筋を這う。
「怪我だが……実はかなり前に治っていたんだ。完全ではないが、日常生活に問題はない。迷宮にも浅層なら潜れた」
耳鳴りが止まり、私は言葉を失った。
「でもお前が頑張ってくれていたから…… お前に任せた方が、家も店もうまく回った」
私の視線は、まっすぐに窓の外に落ちた。
―――――
部屋に戻ってから、一睡もできなかった。 頭の中でさっきの言葉が何度も反響する。
父の怪我は治っていた。なのに、家のことも、店のことも、危険な迷宮探索も、全部自分に押し付けていた。
そして店も、グレンも、最後には全部ジャスミンに渡す。
自分に任せた理由。 自分は、ただ便利だったのか。
店のため、家族のため、未来のため
今まで耐えてきたものが一気にとめどなくあふれてこぼれ落ち、一夜で空っぽになった。
朝になる頃には、涙は一滴も出なかった。
―――――
翌朝、探索に向かう前に、三人に昨夜の話をした。
「私、村を出ようと思うの」
私がそう言うと、幼馴染たちは驚かなかった。
「そう言うと思った。」
ニコラは静かにうなずいた。
「ふざけてるよ、あいつら」
ビリ―は拳を握る。
「街の迷宮なら今より稼げるし、四人なら十分やっていけるさ」
マ―クはいつも通り冷静だった。
「一緒に来てくれるの?」
マークの言葉に驚いて聞くと、ビリ―が笑った。
「今さら何言ってんだ」
「当たり前でしょ」
ニコラも笑う。
「おまえ一人だと無茶するから」
マ―クは肩をすくめた。
その言葉に、少し泣いた。まだ、頑張れると思った。
―――――
村を出る準備は、思っていたよりずっと簡単に終わった。
装備とかはあるから、あとは路銀くらいなものだけど。
二コラもマークも、意外なことにビリーも、今までの稼ぎをきちんと貯めていた。
「まぁ俺らはいずれ家を出なくちゃいけないって決まってたしな」
「そうそう。だから今回のはちょうどいいきっかけでもあったんだよ」
「だってジェシカがいないと女は私一人になるし…」
そう言って、私の旅立ちを後押ししてくれる。
村を出る前日、私は家族の前で言った。
「私、あした家を出るね。もう戻ってこないつもり」
「……何だと?」
「村を出るの。ビリーたちとみんなで大きな町の迷宮に行くことにしたの」
「そんな危険な!」
思わずというように叫んだ父に、笑いが出た。
「危険?今さら?」
父が言葉を詰まらせる。
「だから、これからは私の稼ぎは当てにしないで」
ジャスミンが顔をしかめた。
「お姉ちゃん、そんな言い方……」
「だって店はジャスミンが継ぐんでしょ?」
静かな声だった。
「グレンもいるし、もう私は必要ないでしょう。私も私の生活があるし」
グレンが苛立ったように言う。
「そんな自分勝手なこと言うなよ」
「自分勝手?」
まっすぐにグレンを見つめる。
「私は二年間、命がけで働いてきたわ」
店の空気が凍る。
「怪我して帰った日もある。熱があっても迷宮に潜った」
父が目を逸らした。
「それを自分勝手だって思ってたの?」
声が震えた。
「私は家族のためだからって思ってたわ。」
その時だった。
開いたままだった店の扉の向こうから、低い声が響いた。
「行かせてやりな、ベン」
振り返ると、近所の老人が立っていた。
その後ろには村人たちがいた。
食堂のおばさん。鍛冶屋のおじさん。畑仕事帰りの男たち。
みんな話を聞いていたのだ。
「ジェシカちゃんを散々働かせておいて、最後に全部ジャスミンに渡すだと?」
「しかも怪我が治ってたって何だ」
「不誠実にも程がある」
父の顔が青ざめる。
「ち、違う……」
「何が違う」
村長まで現れ、厳しい顔で父とグレンを見た。
「お前たちはジェシカに甘えすぎた」
グレンが反論する。
「でもジャスミンと俺は本当に……」
「だからって筋を通さなくていい理由にはならん」
村長の言葉に、グレンは黙った。
村人たちは次々と言った。
「ジェシカちゃん、街で頑張れ」
「あんたならどこでもやってける」
「今まで十分尽くしたよ」
私は呆然としていた。
ずっと、自分は家族のために耐えるべきだと思っていた。でも。ちゃんと見ていてくれる人がいた。
その事実が、胸を熱くした。
「ジェシカ……」
父のつぶやきに、私は首を振った。
もう、私がしてあげることは、してあげたいと思うことは、何もない。
―――――
翌朝、村の入口には多くの人が集まっていた。
荷物を背負った私たち四人を、村人たちが見送る。
ジュディーが泣きながら抱きついてきた。
「お姉ちゃん……元気でね……」
私は優しく頭を撫でた。
「ジュディーも元気で」
ジャスミンは少し離れた場所に立っていた。
何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。
父はひどく老けて見えた。
「……すまなかった」
その謝罪を、私は静かに聞いた。
許せないわけではない。けれど、壊れたものは戻らない。
「さようなら」
それだけ言った。行先は言わなかった。
「行こう」
ビリ―が声をかける。
私は前を向いた。
朝日が道を照らしている。村の外へ続く道。未知の街へ。新しい迷宮へ。
隣町よりさらに遠い、中規模都市アルディア。そこには大迷宮があり、多くの探索者が集まる。
危険も増えるが、報酬も桁違いだった。
不安はあった。でもそれ以上に、胸の奥には、初めて自由になったような感覚があった。
店のためでもない。家族のためでもない。自分自身のために進む道。
私は振り返らなかった。幼馴染たちと共に、一歩ずつ村を離れていく。その背中を、村人たちの声が押した。
「頑張れよ!」
「街でも負けるな!」
「いつか大物になって帰ってこい!」
私は小さく笑った。
――帰ってこないって言ったのに。
でも、嫌ではなかった。
風が吹く。遠くで迷宮の鐘が鳴っていた。新しい人生の始まりを告げるように。
10年位前のネタ。




