表へ
名前を呼ばれた。
女は、自分のことだと分かっていながら、一拍遅れて顔を上げた。
会場と呼ぶには少し狭い部屋だった。
前方には簡易的なスクリーンと演台が置かれ、長机が三列ほど並んでいる。集まっているのは数十人。同じ業界で働く者が多く、受付でもらった名簿には見覚えのある会社名もいくつかあった。
女は立ち上がり、前へ出た。
スクリーンに自分の名前が映っている。
誰かの紹介ではない。
誰かの隣でもない。
自分の名前で呼ばれ、自分がしてきたことを話すために、ここに立っている。
女は話し始めた。
仕事のこと。
失敗したこと。
何度やってもうまくいかなかったこと。
そこから何を変え、何を試し、何を捨てたのか。
格好のいい話ばかりではなかった。
失敗した数字も出したし、遠回りしたことも隠さなかった。
話しているうちに、最初は資料へ落ちていた視線が、少しずつ自分へ向いてくるのが分かった。
質問も出た。
分かることには答え、分からないことには分からないと答えた。
最後の質問に答えると、一瞬だけ部屋が静かになり、それから拍手が起きた。
女は頭を下げた。
席へ戻ろうとした時だった。
「少しいいですか」
振り返ると、知らない男が立っていた。
「先ほどのお話、面白かったです」
「ありがとうございます」
差し出された名刺を受け取る。
「実は、○○さんからもお話を聞いていまして」
男が口にした名前を、女は知らなかった。
「その方は?」
考えるより先に聞いていた。
男は少し笑った。
「ああ、△△の関係の方です。今度お会いするんですよ。今日のお話にも興味を持つと思います」
知らない人間だった。
けれど、男の話を聞くうちに、その人物の輪郭より先に、その周囲にあるものが気になった。
何をしているのだろう。
何を知っているのだろう。
この男と、どうやってつながったのだろう。
その人間の周りには、他にどんな人がいるのだろう。
もっと、聞きたい。
その時だった。
腹の奥底が、僅かに疼いた。
痛いわけではない。
空腹でもない。
ただ、何かを欲しがるように、奥の方がほんの一度だけ収縮した。
女は無意識に腹へ手を当てかけて、やめた。
「興味あります?」
男に聞かれ、顔を上げる。
「あります」
声は、いつもと変わらなかった。
「じゃあ、今度お声掛けしますね」
「ありがとうございます」
女は笑った。
男も笑った。
それで会話は終わった。
男が離れていく。
その途中で、別の人間に呼び止められた。
二人が話し始める。
女は席へ戻ろうとした。
その時。
男の口から、また知らない名前が聞こえた。
足が止まった。
ほんの一瞬だった。
振り返りもしなかった。
聞き耳を立てたつもりもない。
それでも、その名前だけは、周囲の話し声に紛れず、妙にはっきりと耳に残った。
何者なのだろう。
そう思った瞬間。
腹の奥底が。
また。




