第五話
一瞬も動揺を見せず、孔攸はぽかんとした後に肩をすくめた。
何を言っている? と言いたげなその仕草は、口で否定するよりも雄弁で、誰が見ても璃桃が馬鹿げたことを言ったようにしか見えない。
だが璃桃は孔攸が宦官ではないことを知っている。
彼は美しい妃嬪がその権を競う後宮で、翠蘭の身を守るために、青鷹に遣わされた。時間差があるのは何故か、設定のミスではなく恐らく二人が出会った直後から青鷹は翠蘭を己の後宮に、と考えていたに他ならない。
(すごい執着だわ)
他人事のように考えつつ目前の男に視線を向ける。
孔攸は元は武官だが、中央から距離もある地に籍を置いていた……筈だ。そのあたりの設定は、翠蘭が孔攸ルートに入ってから暫くして語られていたように思う。
しかも青鷹としてはこの機についでに他の妃を試す心積りだったのだろう。
(その目論見は間違ってはいなかったわね)
後宮を省みない青鷹に失望してか、または見目の良い男性にのぼせ上がったからなのか、孔攸はあちらこちらで袖を引かれている。
いずれ彼女たちは後宮を辞すことになるだろう。
「貴妃は勘違いをなされているのでしょう。そもそもここは百花の園。主上以外の男は入れません。私はここに主上に遣わされたのです。私が貴女の言う処置前であるのなら、主上は決してここに私を連れては来ないでしょう」
穏やかに微笑んだ孔攸に舌を巻く。ぬけぬけと、よく言ったものだ。
「誤魔化すのであれば、それはそれで構わないわ」
黒い瞳が細められる。いつもその辺の宮や院子で見かける柔らかで人懐こい雰囲気はない。どころか、身を切るような視線から、侮れば負けるのは璃桃だとわかる。
黒玻璃を磨いた瞳は、青鷹と同じであるにもかかわらず、同じ冷たさでも色合いが違う。
青鷹の瞳は磨いた玻璃と同じではあるが、どんなに表情に色がなくとも激情を秘めたかのようなぞくりとする艶がある。
だが、孔攸は違う。ただ、温度を感じない。
戦慄く口を叱咤して、無理やり微笑ませる。少なくとも十八年で培われた、悪役令嬢の才能は開花している。
意地が悪そうに歪められた口の端。璃桃お得意の、嫌味な笑顔。
「貴方がどう言おうとわたくしはそれが事実であることを知っているの。でも、勿論それを他の方に言うつもりはないわ。……それはわたくしの侍女を人払いしたことからもわかること」
手を伸ばせば届く距離にいる孔攸の、その筋張った男性らしい手から璃桃は簪の箱を取り上げた。
「とはいえ何の見返りもなくわたくしが黙していると約束しても、貴方信じないでしょう?」
孔攸が瞳を眇めて璃桃を見据える。覗くように見ると訝しさや拒絶などが混じったその目は、明らかに璃桃の言ったことを認めていない。
(説得するのは難しいかしらね、やっぱり)
内心嘆息し、さてどう攻めようかと自分の中の切り札達を確認する。
お互いの沈黙をどうとったのか、孔攸が深く深く溜息をついた。
「…………わたしに何か頼み事ですか?」
ほくそ笑む。
意図した方向ではないが、孔攸の興味は引けたらしい。
「貴妃の言うことには納得出来ませんが、突拍子もないことを言ってまで、何か訴えたいことがあるのでしよう?」
どころか、うんざりしたような声に侮蔑の表情を隠さない孔攸に、璃桃は内心驚いた。
興味を引けたどころではない。
(もう少し抵抗するかと思ったのだけど、意外だわ。認めないけれど、面倒だから話だけでも聞いておこうってところかしらね)
重ねて否定しないし、感情も取り繕わないあたり、投げやりに見える。見えるところまでも演技なのだろう、とも思う。
客観的に見れば、とんでもない言いがかりをつけて宦官を従わせようとしている妃嬪だ。
予定していた展開とあまり差はないので、押し問答を続ける気は璃桃にもない。
(ならばそれに乗ってやろうじゃない)
迂貴妃は我儘なのだ。高位の妃で、宦官の口答えなど許さない。
「翠ら……いえ、崔淑妃に伝えなさい」
それとも他に何か考えていることがあるのだろうか? 頭の中であらゆる状況を検討しながら、それでも自信と誇りと気位の高さを忘れさせない声音で璃桃は言葉を紡ぐ。
「牡丹の宴で赤い襦裙を着るのはやめて他の色になさい、とね」
「は?」
「そうね……青を基調としたものもだめよ、後は確かそう橙。えぇ……その三色以外なら、どうにでも誤魔化せるでしょう」
璃桃は去年、真紅の生地に華やかで精緻な牡丹の刺繍がこれでもかと施された襦裙を着た。今年もそれを使い回す予定だ。
勿論、本来なら新調するのが妃嬪として正しいのかもしれないがそんな気分になれなかったし、そもそも今の璃桃は日常の襦裙すら庶民が幾月もかけて得る収入に等しいことを知っている。
後宮を出る、と決めたのだから、民の税を浪費することは気が引けた。
「何故、とお聞きしても?」
「貴方、わたくしに問える立場なの?」
孔攸は一瞬苦々しく表情を深めた。
紅い唇から溢れたのは思った以上に硬質な声だったが、孔攸は怯まないし、このぐらいで躊躇わせるとは璃桃も思っていない。
「わたしは若輩ですから。貴女が崔淑妃と個人的に交流を持つ利点が思い浮かびませんもので、よろしければご教授を」
璃桃は扇を口元に翳すとゆっくり目を伏せた。考え事の最中に心根を読まれても困る。
その仕草は取り繕ったものではなくひどく自然だった。もう骨の髄まで叩き込まれた優雅な所作は、前世の記憶が一つ二つ増えたところで変化するようなものではない。
「…………そうね、確かに簡単に首肯することは出来ないことよね。でも、それが一番利にかなうのよ」
「貴女のですか?」
「いいえ、崔翠蘭のよ」
広げていた扇をパチリと閉じると、璃桃は衣擦れの音もさせずに優雅に立ち上がった。
「これ以上の質問は許さないわ。わたくしの言葉を伝えること――まずはそれだけ守って頂戴。貴方が内心どれだけ腹を立てようとも現状ではわたくしの立場の方が上」
孔攸を思い切り見下ろしながら婉然と笑う。
「勿論、無視するならばすれば良いわ。それはそれで構わないの。でも貴方――翠蘭を好ましく思っているのでしょう?」
半ば断定するように璃桃は孔攸を見据えた。勿論、彼の返事を聞く気はない。
今はどうであれ、いずれ必ず孔攸は翠蘭に好意を抱く。
ここがゲームの世界である以上、そう決まっているのだから。
「顔色が悪くてよ、陶武官」
ここぞとばかりに揺さぶりをかけ、璃桃は含み笑いをする。
「ああ、迂貴妃が気味悪いと主上に泣きつくのもいいかもしれないわね?」
ぱらり、ぱらり、扇を弄びながら、孔攸から目を離さない。
「でも――そんなことをしたら翠蘭は手に入らないわ」
「――っ!? なんて恐れ多いことを」
孔攸が勢いに任せて立ち上がる。
背筋に這うような震えが昇るが、気取られるようなことはしない。彼は真実、武官だった。
座っていて良かったと思う。腰が抜けそうな、殺気だった。
「全ては牡丹の宴が終わってから教えて差し上げるわ」
熾火のような静かな怒りの気配が伝わってくる。
「簪はとても素敵。有り難く頂戴するわ――他意はないのでしょう?」
璃桃はその背に孔攸の視線を感じながら、室を後にした。