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四:急変、方士、欠片


「なんかよう、刺史様がえらいお静かだって、ほんとかい?」

 イサクの登場から水仙の情報まで、今まで焦るほど何もなかった日々ところへ怒濤のように様々な変化が押し寄せた、その翌朝。貴族街をいつものように探し歩いていると、ふいに興味津々な問いかけが耳に飛び込んできた。 

 貴族の佣人の男が舘の裏門で、大きな荷物を手にやって来た、商家の佣人服の男に尋ねている。配達のついでに雑談を始めたらしい。商家の下働きの男はああ、と大きく頷き、声を潜めた。

「ほんとらしい。ここ最近、ぱったりとお姿が見えなくなったらしい。病気だって噂でな」

「まあ毎日浴びるほど酒飲んで食っちゃ寝してりゃ、そういうこともあるわな」

「けどあんだけ毎日どんちゃん騒ぎしてたのにあまりにも静まり返ってるってんで、お住まいに近い部署のお役人達は『気味が悪くてしょうがねぇ』って怯えてるんだとよ」

「ほんとかよ。ったく、うるさくても静かでも気になるって、困ったお人だよな」

「まったくだよな。あの皇帝陛下の弟君とはとても思えん」

「母親が違うとああまで違うんだなぁ」

「あの方が何かの間違いで帝様になられたら、玄国も終わりだな」

「おい、縁起でもねえこと言うなよ。じゃ、また三日後に」

「ああ。いつもありがとよ」

 笑いながら屋敷の中へ戻っていく佣人とどこぞへ走り去っていく商家の男を見送り、葟杞とバサンは視線を交わした。同じことを考えているのは手に取るようにわかった。

 ―――見つけた。

 だが問題があった。葟杞が機先を制した。

「この先に呂氏の『華屋敷』があるから、そこから韓様にお伝えして手配してもらいましょう。刺史様はすぐには行けない場所にお住まいだから」

 今すぐには無理だという回答にバサンが苛立ったように眉根を寄せた。

「何だと? その刺史とかいうのはどこにいるんだ?」

「お城の中の宮にお住まいなの。入城するには今持ってる手形以外に特別な手形が必要で、すぐには入れない。だから韓様に頼まないと…」

 葟杞とて今すぐ行きたい気持ちはやまやまだったが、現実を考えると城へ突撃しても追い返されるのが関の山である。バサンが本領発揮すればおそらく強行突破も可能だが、さすがの葟杞も城内のことは全くわからないので、迷って捕えられるのがオチだ。ならば多少時間はかかろうとも正攻法を取った方が遥かにましだ。バサンはまた人間はと文句を垂れるだろうが。

 ところがバサンは予想に反して、驚いたように呟いた。

「……城、だと?」

 そして怪訝に北方に聳える平陽城を眺めやり、すぐに、しまったと言わんばかりの表情でくそっと悪態を吐いた。

「城か! 盲点だった」

「え?」

「城だけは有り得ないと思っていた。二重結界があるし、中は方士がとうに捜しているだろうと」

 とりあえずその何たら屋敷に行くぞ、と急き立てられ、最短の経路を選んで道案内をしながら葟杞はバサンに問うた。

「二重結界って、どういうこと?」

「平陽の結界は、大きく分けて二つある。外からの敵を防ぐ、外壁と同じところにあるのが一つ、そしてもう一つは、あの城を護るための結界だ」

 葟杞は目を見開いた。まさか平陽内部に、もう一つ結界があるとは思ってもみなかった。

(……でも、何のために?)

 ふいに疑問が浮かんだ。外敵から都市を護るためなら、外側の結界だけで充分ではないだろうか。…しかし今重要なのはそこではない。葟杞はバサンの説明に集中した。

「俺ですら通り抜けるためにかなり痛手を負った。元々妖魔の奴はもっと酷い有様になるはず。だから結界を二つ連続で突破しないだろうと考えていた。だが――結界は通り抜けてしまえば奴の気配を遮断する盾となる」

「……! だから街ではヒュドラの残滓しか見つからなかったのね」

 探索を始めた初日に聞いた説明を思い出し、葟杞は後を引き継いだ。

「そうだ。それに、これほどの護りの結界を維持しようと思えば、要は結界の内部、できれば中心にいることが望ましい。ということは、二重結界の内側、つまり城の中にあのクソ生意気な方士の根城があるとみて間違いない。この結界の要ならば相当な力の持ち主だ。だから任せておけば問題ないと考えた」

 確かにバサンは一度たりとも城の中へ行きたいと言ったことはなかったが、二重結界の件だけでなくそういう理由もあったのか。方士への感情はさておき、能力は認めているのだ。

 人々が奇異の目を向けてくるが外聞などもはや気にせず、貴族街を飛ぶように走っていく。横を駆けるバサンがぎりと奥歯を噛みしめた。

「…どうりで角の欠片の気配の方も見つからんわけだ」

 一角獣(ユニコーン)の角は神力の源であり、自身の分身とも言えるものだという。その欠片はどれだけ離れていても、解毒などに使われて消えない限り、どこにあるかわかるのだという。

 結界などで遮断されない限りは。

「……くそっ…!」

 もう一度、バサンは悪態を吐いた。おそらくは―――気づけなかった、自分自身に。

 葟杞は何も言わず、ただまっすぐに呂氏の屋敷を目指した。一刻も早く、決着をつけるために。




 目の前に聳え立つ灰色の煉瓦積みの壁は首が痛くなるほど高く、葟杞は思わずごくりと息を呑んだ。ここまで近くに立ったことはない。さすがに圧巻だ。

「人間は時々馬鹿馬鹿しいほど大きなものを造るな」

 バサンが苛立ち混じりで皮肉げに呟く。しかしその中にきちんと驚嘆も交じっているのが、葟杞にはわかった。

 二人は今、長く都城として在り、今は平陽と奎州の役府が置かれている平陽の政事の要、平陽城の城郭の真下にいた。平陽自体も高い外周壁に囲まれているが、平陽城は更に城郭と呼ばれる城壁に守られている。

 ちなみにこの平陽城も上から見ると正五角形をしており、結界が二重なように、外周壁と城郭も綺麗な二重の五角形を描いている。やはりこの形には特別な意味があるのだろう。

『今、刺史・桀公に近い貴族の屋敷へ潜入していたこの者から、彼が突然気が狂ったように剣を取って佣人を滅多刺しにして虐殺した、との報を聞いていたところでございます。…これは、前兆と考えてよろしいでしょうか』

 突然屋敷に駆け込んできた葟杞とバサンに驚きながら、事情を聞いて、韓は葟杞達より先に室にいた女を指してこう訊いた。

 バサンは是と即答して、時間がないと告げた。西の都市でもそれがヒュドラの宴の前戯だったという。――もはや猶予は残り僅かだった。

 だが、僅かではあるが、ないわけではない。

 韓は即座に平陽城内の呂氏当主兼平陽鎮府次官の史鵬と方士の一族に繋ぎを取り、すぐに城に入れるよう手配してくれた。おそらく二重結界があるから強行突破ができないらだろう、バサンも今度ばかりは無言で大人しく待っていた。足拍子を打って苛々しながら、ではあるが。

 ちなみに突入するにあたって、「そんときは知らせろー」と言っていた天界の武官でバサンの監視役のイサクにも呂氏の最速の伝令を出して探したのだが、なぜか今日に限ってどこの娼館にも見つからず、仕方がないので「見たら今すぐ来い」という文だけ託しておいた。肝心なときにいないとは一体どういうことなのか。バサンはもとより葟杞もさすがにこれには憤りを禁じ得ない。

「バサン様、葟杞、どうぞこちらへ」

 韓が二人を案内したのは、常に人が出入りする三城門ではなく、城郭の西側にある小さな通用門、()(ほう)門だった。

 通常、平陽城の出入りには『三大門』と呼ばれる、星火大路などの三大路の始まりにある門が使われる。ちなみに平陽から外に出るために設けられた外周壁の三つの関門も三大路が終わるところにある。三大路は名実共に平陽の最重要道なのだ。

 だが今回は人目と利便を考慮してだろう、昔は主に後宮の女官の出入りに使われた襲芳門から入ることとなった。目的の、現在、唯一城内に居住が許された人物は、かつて後宮であった宮の一つに住んでいるのだ。

 その人物とはもちろん、皇弟桀(けつ)公―――(けい)州刺史その人である。

 襲芳門を潜ると、広い堀の上に跳ね橋が渡され、更にその先にまた郭壁と門があった。玄国では高貴な建物はほとんどが二重の壁を持つ。平陽城も例外ではなく、城郭と総称しているが実際には堀を挟んで外郭と内郭の二つの城壁がある。

 内郭の門番に韓が呂氏本家の家紋と特別入城手形を見せると、門番は敬礼と共に脇へ避けた。そうして韓の後に続いて、葟杞とバサンも城の中へ足を踏み入れる。

 数十年前まで王宮であっただけあって、宮や殿舎、石畳の道、庭の草木や四阿に至るまで全てが完璧に配置され、どこに目をやっても美しく調えられている。

(………それにしても、人がいない)

 門番と門の近くですれ違った数人以外、人っ子一人見当たらない。被布で半ば顔を隠しているバサンも年若い娘である葟杞も咎められずに進むことができて助かるが、人払いしているような静けさだ。……方士の方が手を回したか。

 と、殿舎の角を曲ると突然、目に痛いほど(きら)びやかな門が現れた。

「あちらが桀公の宮でございます」

 さすが派手好きの道楽皇子の宮門である。昔はもっと上品だったのだろうが、飾り立て過ぎて逆に悪趣味だ。だが普段なら嫌味の三つや四つはこぼすバサンは無言で、ただその宮を睨み付けていた。痛いほど張り詰めた空気が伝わってくる。

 だが――バサンは数拍の後、少しだけその緊張を解いた。

 その意味を葟杞が尋ねようとしたが、バサンの方が先に口を開いた。

「…方士はどこだ」

 だが韓が答える前に、宮の扉がぎぃ、と音を立てて開いた。

(…え?!)

 出てきたのは一人の男だった。ヒュドラの巣窟と思っていた場所から現われた男に、葟杞もバサンも息を呑む。…これが手先か?

「おや、韓殿ではないか」

 だがその男は先頭の韓を認めると驚いたように目を丸くし、少々疲れ気味ながらも気さくな笑顔で声をかけてきた。いたって普通の表情で。

 さっと韓が拱手して膝をついたので、葟杞も反射的に韓に倣って叩頭する。

「これは()(だん)様。お目にかかれて光栄でございます」

 葟杞は韓が跪拝した理由を悟った。どうぞお立ちなされ、とやわらかく深い声で促され、葟杞は立ち上がり、男を――璋蓉の夫と同じく平陽の事実上の最高官を務める韋檀を見つめた。

 年齢は五十後半。武官のような骨太の体躯に厳めしい顔貌だが、丸く大きな目が印象を和らげ、全体的に厳格というより実直そうという印象だ。声の調子といい、目の感じといい――どうにも化け物に操られているようには見えない。

 韋檀は少々不思議そうに韓に尋ねた。

「このような場所で、いかがなされた?」

「旦那様のご命令にて、刺史様のご機嫌伺いに参上致しました」

「…韓殿が? いやいや、桀公は今伏せっておられるから、見舞いなど不可能だぞ。どなたも通すなとの仰せだ。私でさえ面会させていただけず、『要るなら何でも好きに使え』と書房の印章を致し方なく勝手に押させていただいておるくらいなのに…」

 疲れ切った溜め息と共に韋檀が愚痴をこぼしたが、すぐに眉間に皺を寄せ――ひやりとした苛立った声で「そもそも」と続けた。

「私は誰の面会も許可した覚えはないが。貴殿のご主人からも何も聞いておらぬぞ。史鵬殿も桀公に関しては、常に私を通して下さっていたと思うのだが」

 璋蓉の夫・史鵬と韋檀は、共に、奎州刺史の次官『(つう)(はん)』と平陽鎮府次官『()(ちゆう)』を兼ねている。そのため史鵬が平陽の治中、韋檀が奎州の通判の職務に重きを置いて職務を分担しており、他方の職域に関わることは事前に相談するのが常だ。韋檀は桀公の面会なども取り仕切るため、史鵬の命だからこそ、何故自分に話が来ていないか訊いているのだ。

 韓が恭しく頭を下げ答えようとした、ちょうどそのとき。

「許可したのは私ですよ、韋檀様」

 いきなり割って入ってきた――あまりにも年若い声に驚いて葟杞は振り向いた。

 建物の陰から現れたのはやはり、その声に見合った年頃の少年だった。

 恐らく十七の葟杞と同じか、一つ二つ年少。黒髪に黒い冠、黒い衣と黒ずくめの装いに、帯や佩玉の黄や朱が鮮やかに浮かび上がる。だが何より目を引くのは、瑕疵一つない端正で涼やかな面立ちだ。

 黒真珠のような切れ長の双眸、桜色の薄い唇、細く長い眉にすっと通った鼻筋。決して女には見えないが――国中探しても女ですらこれほどの顔はいまい。

 葟杞は驚嘆した。神獣であるバサンと並んでも全く遜色がない。こんな人間がこの世に存在するなんて。

「お主は…!」

 韋檀が目を見開いた。少年は高官に対してではなくただ目上の者に対するだけの簡単な目礼だけをして、にっこりと笑った。

「お久しぶりでございます。韋檀様におかれましてはお変わりなくと申し上げたいところですが、少々お痩せになられましたな。まあ桀公の尻ぬぐいばかりしておられては無理もないでしょう。ご心労お察しし――この()(しゆん)(りゆう)、謹んでお見舞い申し上げます」

 ぽかりと葟杞は顎を落とした。仮にも皇弟の刺史に対してこの物言い。不敬罪で打ち首になってもおかしくはない。だが最後の名前を聞いて納得し、別の意味でまた驚愕する。

(…この人が楚舜龍…?!)

 バサンを激怒させた文の送り主で―――結界の要だという方士だ。

 まさかこんなに若いとは。意外どころの話ではない。

 韋は普通ならば叱責するであろう舜龍の慇懃無礼に対して、苦笑を浮かべただけだった。

「…さすがは楚氏本家の跡取りですな。皇弟殿下も懼れぬとは」

「当然です。我々楚氏は、麗しき平陽にのみこの身を捧げておりますゆえ、たとえ皇帝陛下であろうと懼れはいたしませんし―――平陽に害を為す者は何人たりとも許しませぬ」

 穏やかな笑みとは裏腹に、冷々とした声だった。押し殺した怒りがびりびりと肌を刺す。

 一拍置いて舜龍の言葉の意味に気付き、韋はざっと青ざめた。

「……まさか、刺史様は病などではなく…?」

「ええ、我々の管轄です」

 少年は重々しく頷いた。なんと…、と絶句した韋の肩ががくりと落ちる。

「ですから呂史鵬様も、私にご連絡くださったのです。この件は我らが片を付けます。申し訳ございませんが、韋檀様には速やかにこの場からの御退去をお願いいたします。この辺りにいる者は既に避難させております。後は韋檀様のみでございます」

「……承知…しました。後は…頼みます…」

 二回りは年上で高位の官である韋に舜龍は命令を下し、韋も当然のようにそれを受けた。悄然と「まさか…そんな…」などと呟きながら、血の気のない顔で韋がふらふらと立ち去っていく。

 その背が角に消えるのを見計らって、舜龍が葟杞達の方を振り返った。

「それで」

 見事なまでの冷笑に、ぞっと肌が粟立った。顔立ちが涼しげに整っているだけに、心の臟まで凍り付かすような迫力がある。熱い怒りに満ちながら、どこまでも冷たい。

「あなたが自分の都市を滅ぼされるまで魔物に気付かず、更に追い詰めながら取り逃がした挙句、平陽に逃げ込ませてくださったユニコーン様ですね?」

 真っ正面から切り込まれた。慇懃無礼ではなく。

 するりとバサンが被布を取り去った。額に角が現れている。刹那、空気が震えた。何かがぶつかり合う気配に無意識に葟杞は一歩下がった。

 次いで風の波が起こき、舜龍の髪と裾が揺れる。

「―――だから俺はここにいる。責任を果たすために」

 バサンも真っ向から舜龍を見据え、応えた。しばし睨み合いが続き――先に目線を逸らして嘆息したのは、舜龍の方だった。

「……まあ、腐っても神獣ということですか。力は認めます」

「おや、いやに素直じゃないか、舜龍」

 至って平素通りの飄々とした声で、韓がにやりと笑った。葟杞は半ば呆れた。前々から思っていたが、このお人も肝の据わり方が本当に尋常ではない。

 舜龍は韓に身内の年長者への立礼をし、唇を尖らせた。

「失礼ですね、(はく)()大伯父様。僕はいつでも素直です」

「どうだかなぁ。…ああ、バサン様、葟杞、紹介が遅れて申し訳ありません。これは私の従兄弟の息子で、楚舜龍と申します」

「大伯父様、紹介が簡潔すぎます。神祖の代から平陽を護る方士一族、楚氏の総領嫡子で次期当主で、病床の父に代わって大結界の要を担い、狐狸妖怪に関しては官吏・貴族を含む平陽全民に命令できる権限を持ち、その上――花も恥じらう紅顔の美少年である、とここまでは言っていただかないと」

「長すぎる。もうちょっとまとめんか」

 先程から彼には驚かされてばかりだが、今度ばかりは驚嘆すればいいのか脱力すればいいのか葟杞にはわからなかった。自分で言うか。花も恥じらうとか紅顔の美少年とか。否定できないあたりが逆にすごいが。

 どうやら韓と舜龍は身内の中でも親しいらしく、気の置けないやり取りが続く。バサンはまだ舜龍を睨むように見つめているから話しかけるわけにもいかないし、葟杞は一人取り残されたような気分になった。

(……というかこんな悠長なやりとりしてていいの…?)

 猶予は僅かだがようやくヒュドラを発見したと信じてここまで急いでやって来たわけだが、なぜか到着した途端、バサンから焦燥感は消えている。その理由を尋ねる隙間がなく、早く中に踏み込まなくてもいいのかと葟杞の方が焦るばかりだ。

 そのとき、バサンがふいに口を開いた。

「……―――お前、祖先は龍だな?」

 質問でありながら断定するバサンに、舜龍が初めて虚を突かれたように目を瞠った。

「それもこの結界の基礎を築いた水と土の力を持つ、かなり高位の龍だろう」

「………へえ、そこまで見抜くとは」

 くっと喉の奥で笑うと、舜龍の空気がわずかだが和らいだ。感心したらしい。

「ええ、そうですよ。私の祖先はあの山で今も平陽の安寧を見守る四海龍王の末弟――北龍・敖古です」

「四海龍王の敖古?!」

 思わず葟杞は声を上げてしまった。

 四海龍王といえば、天下を守る四人の兄弟龍である。玄国民なら誰でもが聞いたことのある有名な神々だ。だが有名なだけに各地にその名を冠す地名があり――平陽の北にある敖古山も、名を借りただけだと思っていたのだ。

 その敖古がなんとこんなに近くに実在しており、しかも目の前の少年がその子孫と知り、葟杞の胸は我知らず高鳴った。そんな葟杞にバサンはむっと機嫌を降下させ、逆に舜龍はバサンへの冷ややかなものとは異なる、優美な微笑みを浮かべた。

「貴方が葟杞殿ですね。お噂はかねがね。その腕飾りを役立てていただいているようで、光栄です」

「えっ? あ…これって舜龍様が作ってくださったものだったんですか?」

 左の手首に揺れる細革の魔除けの腕飾りに触れ、葟杞は聞き返した。昨日の朝に木蘭が渡してくれた奥方様よりの贈り物に気付いたバサンが、ものすごく嫌そうに腕飾りを睨み付けつつ「…本物だな」と呟いたので方士が作ったことは知っていたが。

「璋蓉様のご依頼とあっては、私が作らぬわけにはまいりません。それに、本来ならば我々楚氏が担うべき危険な仕事を、一介の佣人である貴方にさせてしまったのです。そのような魔除け一つでは到底足りませんので、いずれ正式な詫びと御礼をさせて頂きたく存じます」

「えっ、そんな」

 自分を丁重に扱ってくる舜龍に、葟杞は慌てて首を振った。

「お気持ちだけで充分です。私が平陽を護りたくて、それをバサンが手伝ってくれただけですから」

「……貴方が手伝う、ではなく?」

「ええ。私は自分の意志で動いたんです。バサンはそのために組んだ相棒です」

 不思議そうな舜龍に今度は葟杞がにこりと笑うと、しばらく彼は葟杞を無言で見つめた。そして溜め息のように笑みを零す。

「神獣を相棒とは、葟杞殿はすごいことをなさいますね。……面白い。大変面白いです」

 それこそ花も恥じらうような、綺麗な笑みだった。どくりと動悸がして頬が赤くなるのが自分でもわかる。するとバサンがむっとしたように葟杞の前に立ちふさがった。意味のわからない行動に葟杞が眉根を寄せるのと、韓がにやにやと笑ったのはほぼ同時。

 そして舜龍はふいに明後日の方を振り向いた。バサンもだ。

「…終わったか」

「ええ、完了いたしましたね」

「…あの、何が、ですか…?」

 これを逃したら聞けないと、葟杞はすかさずバサンの背中から抜け出して質問した。間髪入れずに答えたのはバサンだ。

「結界だ」

「え、結界?」

「ヒュドラを封じ込めて中で始末するための結界を、一族の者に張らせていたんです。毒が漏れれば一大事ですから。こればかりは中で戦う私がやるわけにはいかないので、終わるのを待っていたんです」

 舜龍の補足でようやく納得する。それでバサンはここを一瞥した後、少し安堵したように警戒を緩め、悠長なやり取りにも文句をつけずに待っていたのか。

「では、葟杞殿と大伯父様もすぐに避難してください。楚一族(われわれ)が総力を挙げて万全を期してはいますが、念のために」

「わかった。葟杞、行こうか」

「……はい」

 頷きながら、葟杞は宮を睨むバサンを見つめたまま、動けなかった。

 葟杞は、凡人だ。魔物と、それも毒を操る巨大多頭竜(ヒユドラ)を相手と戦う術など一切持たない。守りたいから手伝ってくれなどと偉そうに言いながら、手を取ってくれた彼に任せるしかないのだ。そんなことは知っていたが――わかってはいなかったと思い知る。

 と、バサンが急に振り向いた。そして。

「わっ」

 乱暴に、ぐしゃぐしゃと。

 バサンの大きな手が、葟杞の頭を撫でた。――熱い。

 ふっとその手が離れると、まっすぐにバサンがこちらを見据え。

「―――託せ。俺が護る」

 揺るぎない声で、告げた。

 ぎゅっと葟杞は唇を噛む。そうして無理矢理、笑顔をひねり出した。

「――はい。……気をつけて」

「ああ」

 たった二つの言葉に全ての想いを込めて葟杞は返し、バサンはそれを静かに受け取った。後はもう葟杞にできるのは邪魔にならないところへ行くことだけだ。踵を返し、「行きましょう」と韓と共に足早に離れていく。

 どうかどうか、あの高飛車で傲慢で―――誇り高いバサンが元気に帰ってきますように。舜龍様もご無事で、全てが終わりますように。

 やわらかい春の風を感じながら、葟杞は心から祈り続けた。




 悪趣味な門を潜ると同時に、清冽な空気の層も通り抜けた。結界だ。障壁と浄化と魔封じとを兼ねる強力なもの。バサンは隣を歩く舜龍を、胡乱な横目で眺めた。

 何が『中で戦う自分には結界は張れない』だ。この結界もほとんどは舜龍の力で成り立っている。要を他の方士達に任せただけで、結局は舜龍が為したも同然だ。

「何か?」

 視線に気付いた舜龍が問うが、「……いや」と言葉を濁した。らしくない行動を取らされ、バサンはむっつりと口角を下げた。舜龍が相手だとどうしてか調子が狂う。やりにくい。種類は違うが、イサクと同じやりにくさだ。…腹立たしい。

 これまた無意味に飾り立ててた宮の扉を開けると、むっと、湿り気を帯びた不快な風が吹き出した。―――奴だ、とバサンは直感した。その躯に叩き込んだ角の欠片の気配もこの奥からする。間違いない。

「随分と芯の強い方ですね。葟杞殿は」

 ひたすらごてごてと下品な装飾の中を角の気配を辿って進んでいると、唐突に、舜龍が笑みを含んだ声で呟いた。バサンは不愉快さを隠さずに顔を顰めた。

「……なぜ今そんなことを言う」

「暇なので雑談でもしようかと。西方の神獣と話す機会なぞそうないですし」

 それならもっと別の話題があるだろうと、バサンは無視を決め込んだ。やりにくいというのもあるが、そもそも性格自体が合わないようで、どうにも気に食わない。そこはかとなく馬が合いそうにない感じがする。

 だが、舜龍の方が踏み込んできた。

「ユニコーンは純潔の乙女のみを気に入ると聞きましたが、葟杞殿を一目で気に入られたのもそれゆえですか?」

 あまりにも不躾な質問だった。葟杞がいればこんな聞き方はしなかっただろう。この、相手によって態度を変えるところも人間らしくて気にくわない。一瞬本気で苛立ちを覚えたが、バサンは押し殺したように低い声で答えた。

「…俺はあれの心根が気に入っただけだ」

 ユニコーンの中にはおとぎ話というものに出てくるように、純潔の乙女のみを好む者が多いのは事実だ。だがバサンは、どんなに体がきれいでも性根が汚い女を傍に置くなぞ、おぞましくて考えられない。

 バサンの基準はただ一つ―――心が美しいか。それだけだ。

「心根、ですか。まあ確かに、とても可愛らしい方でしたね。素直で、謙虚で。…そして神獣たる貴方を『相棒』として対等にあれるとは、この私も恐れ入りますよ」

「………お前が言うことか」

 思わず唸るように吐いた。にこりと舜龍は笑う。癇に障るほど、爽やかで自信に満ちた笑顔。

「私はこれでも龍の子孫ですから、貴方がたのお仲間でもあります。特に私は先祖返りしたと言われる程度の力はあります。貴方相手にへつらう必要は感じませんね」

 自分でそう言ってのける舜龍にバサンは鼻を鳴らしたが、反論はしなかった。

 なにせ舜龍は、人間のくせに天界で一軍を預かる武官であるイサクと、ほぼ同等の力を持っているのだ。ものすごく認めたくないが――バサンよりも力は上だ。

 あのふざけた酒浸り女好きペガサスがいないと知って正直焦ったが、これなら間違いなく奴を斃すことができる。だから本音を言えば、この小僧と組めるのはバサンとしても有り難い。しかし。

「………なぜお前も気付かなかった?」

 目的語も修飾語も全て排除した短い問いに、舜龍が双眸を鋭く眇めた。どこまで知っている。そう訊いているのは明らかだった。

 奥へ一室進むごとに、様子が変わってきていた。誰かが暴れたように家具の位置がずれ、壊れたものが床に散らばっている。

「ここに張られた結界は、お前が大半をやらねばならないほど急造だった。もっと前に気付いていれば他の人間に任せる余裕があったはずだ。気付いたのは早くても俺達と同じ頃だろう。俺は城の中ならお前が早々に気付くだろうと思って街中に専念したのだが」

「…奴を二度も取り逃した貴方に言われたくありませんね」

 バサンの嫌味に、舜龍も皮肉で応戦してきた。バサンもやり返す。

「だいたい、どうしてあいつは二重結界を通り抜けられたんだ。あれを通れなければ、奴はここには来れなかったはずだ」

「通り抜けられて当然ですよ。私の感覚では、妖魔ではなく神獣が二体でしたので」

「……なんだと?」

 しれっと放たれた舜龍の言葉に、バサンが目を剥いた。

「馬鹿な! 奴は妖魔だ。神獣のはずがない!」

「知りませんよ。西方か何処かの馬鹿な神獣が奴に食われでもしたんじゃないですか」

「有り得ん。少なくともここ百年ほどはそんな話も、不可解な行方不明もない」

「あなたが知らないだけじゃないですか。それにもっと昔かも知れませんし。――というかですね」

 物が投げ捨てられ、壁が砕かれ、点々と血の跡が残り、段々と悲惨な様相を呈してきた宮を奥へと進んでいく。妖気は濃くなっていくが、まだ奴の気配は遠い。

「貴方はどうして奴の後を追って無理矢理平陽に降りたんですか。貴方の分の損傷がなければ私はもっと早くに自由に動き回れて、ここももっと早くに発見できたはずです。あと昨日も何処ぞの馬鹿な天馬が通せ通せって門前からしつこくしつこく言ってくるから、このクソ忙しい中、わざわざ時間を浪費してまで『開けて』やったんですよ。ほんとあんた達のためにどれくらい無駄な時間と労力を費やしたと思ってるんですか」

 段々怒りで語気が荒くなっていく舜龍の叱責に、ぐっとバサンは詰まった。こちらにも理由は色々とあるが、反論の根拠にはなり得ない。ヒュドラが西方の都市を滅ぼした時点から、非はバサンの方にある。

「…………………すまん」

 潔く謝罪の言葉を口にしたバサンを舜龍は思わず凝視した。この無意味に矜持の高そうな神獣が素直に謝るとは思っていなかった。「…いえ、こちらこそ」と澄まして応じ、舜龍は冷静な口調で言った。

「誓って正直に申し上げますが、昨日までこの宮にも一切の異常はありませんでした。この件で動いている者は一族の中でも高位の、経験も豊富な方士だけです。見逃すはずがないのに、見逃した。貴方がた天界の官吏と同じように。……本当に、奴は何者なんですか?」

 その問いに答えられるなら、バサンはとうにヒュドラを斃していた。だからバサンは何も答えられなかった。

 そのとき――かすかに毒の匂いが漂ってきた。覚えのある、独特の匂い。

 ちらりと舜龍を見やり、バサンは額の角に手を伸ばしてぱきりと先端を折り取った。

「飲め」

 その欠片を、憮然と舜龍に突き出す。

 角は神力の源だが、全ての部分がそうではなく、根本の辺りの数寸だけだ。それ以外の部分は自分の手でなら簡単に取れるし、取ってもすぐに再生する。爪や牙のようなものだ。だが他者には鋼よりも固く、剛力の神ですら折ることはかなわない強力な武器となる。

 そして体内に取り込めば、万毒の解毒薬となる。

 永久には持たないが――ヒュドラの相手をしている間くらいは余裕だ。

「下さるんですか?」

 舜龍が驚いたように尋ねる。バサンは不本意そうに鼻を鳴らす。

「二度は言わん」

「では有り難く頂戴します。…流石にこれは助かります」

 かなり本気で安心した様子で、舜龍が角の欠片を飲み込んだ。どれほどの神力を持とうが、舜龍の身体は脆弱な人間のもの。奴の毒に触れれば一瞬で命を落とす。いくら術で身を守ろうとも、不測の事態がないとも限らない。

 粉々に散らばる食器と卓子の残骸を跳び越えながら色鮮やかな数珠を取り出しつつ、舜龍が「ついでにお願いなんですが」とバサンに話しかけた。

「この欠片、韋檀様の分も後でくださいませんか? あの方も随分顔色がお悪かった。恐らくこの毒気に当てられているでしょうから」

「わかった」

 ヒュドラを取り逃がして平陽の人間を害させたのはバサンの責任である。本来なら人間ごときに分けてやるものではないが、今回は別だ。後始末にも当然付き合うつもりだった。

 濃くなってきた毒気に、バサンはぶるりと体を振って――本来の姿に立ち戻った。

 真白の体躯に虹色の鬣。人形のときの五倍ほど長い角。舜龍がぱちくりと(またた)く。

「やはりそちらの方が神力は高いんですね」

「当たり前だ」

 人形に転身し続けるのも力を使うのだ。決戦のときまでそれをやる余力はない。

 そもそもバサンは本来の姿であっても、戦闘向きとはいえない。爪も牙もなく、攻撃するための特殊な能力もない。毒の効かない体と鋭く長い一角、淡水を操る力、そして相棒が今際に譲ってくれた――風を操って宙を駆ける力しかない。

(……本当は…)

 差し違えてでも仕留められれば、もういいと思っていた。西の都市を滅ぼし、相棒を死なせた自分には、そんな最期が相応しいと。だがあのとき、あの池亭で差し伸べられた手を見て思った。

 自分が助けた都市を葟杞と眺め―――共に喜びたい、と。

 葟杞は決してきれいな生き方をしてきたわけではない。蔑まれる民に生まれ、故郷からモノとして売られ、人を殺すという罪すら犯した。

 だがそれでも葟杞は――呆れるほど、誰よりもまっすぐだ。

 何からも目を逸らさず、全てを認めて受け入れ、その上で常に何ができるかを探している。まっすぐに恩人を慕い、礼と節を忘れず、ひたすらに前へ進んでいく。

 それはバサンに対しても同じ。最初にひどい言動で傷つけたというのに彼女はバサンの行動を見て無言で許し、あまつさえ、誰にも話したことがないという自分の過去や罪まで話してくれた。

 天界が彼を疑い、監視役まで寄越す中、彼女だけがただまっすぐにバサンを信じてくれた。それがどれほど難しいことなのか、彼女だけが、知らない。

 そのまっすぐで美しい心にバサンがどれほど救われたか―――彼女は知らないのだ。

(……心配するな。今度は大丈夫だ)

 立ち去る直前の葟杞の顔が蘇り、バサンは心の中で呟いた。

 先刻も自分が何の力も持たない人間であるにも拘わらず、戦いを手伝えないことを恥じていた。馬鹿馬鹿しい。葟杞達を守るために天界の官吏たる自分や、このクソ生意気な方士がいるというのに、なぜ守られることを恥じる必要がある。

(……俺が、護る)

 ―――葟杞を。そして葟杞が護りたがっているこの平陽を。

 いつの間にかヒュドラを斃す一番の理由が変わっていることに、バサンは気が付いていなかった。




 結論から述べれば、存外あっさりとヒュドラ退治は完了した。特に何度も戦っているバサンはかなり拍子抜けしたと言ってもいい。

 勿論、弱かったわけではない。九つもの頭を持ち、毒を撒き散らすヒュドラは強敵ではあった。だが舜龍の術で足止めをし、風のように宙を奔る相棒譲りの力を駆使してバサンが角で突き、弱った頭をすかさず舜龍が燃やして一頭ずつ殺いでいくという作戦で、ほとんどこちらには損害なく斃すことができた。

 おかげで戦闘後に「なぜこれをここまで逃したのですか?」とまた舜龍にぶつぶつ嫌みを言われる始末。龍の子孫だからかもしれないが、あの小僧は本当にクソ生意気で腹立た

しい。が、こればかりは言い返すこともできず、甘んじて受けざるを得なかった。

「まあ、二人とも無事で何よりだわ」

「…だが何か、妙だ」

 微笑む葟杞を横目に、星火大路を南下しながら、バサンは憮然と腕を組んだ。

 平陽城へ登ったのが(ひる)前で、退治は後片付けも含めて羊の刻の鐘が鳴る頃には終わった。

 とりあえず毒を広げないようにする処置が終わり、役府への対応は舜龍ら楚氏の方士達に任せるのでやることがなく、更にバサンは天界の方へ報告を入れないといけないため、一旦璋璋茶館に戻ることにした。舜龍がいつもの池から天界と連絡を取れるよう、結界を調整してくれたのだ。

 退治劇があっさり終わった要因の一つは、平陽へ入る前にバサンがかなりの傷を与えていたことだろう。更に結界が張り巡らされ、魔物たるヒュドラの動きを制限していたこともある。だが、どうにも釈然としない。

 しかも何が引っかかるのか、まったく掴めないのだ。気持ちが悪い。

 ふと視線を落とすと、葟杞の左手が目に入った。細革の魔除けの腕飾り。むっとバサンが眉間に皺を寄せる。あの小僧が作ったものが葟杞を守っているかと思うと――小癪に障る。

 ちょうど璋璋茶館に辿り着いて、いつものように門番に出迎えられ、中に入った。池を目指して庭院を歩くも、ちょうど夕刻の賑わい前の準備で忙しい時間帯で誰もいないのをいいことに、バサンはするりと被布を取って角を戻した。

「え、どうしたの?」

 戸惑う葟杞に構わず角に手を伸ばすと、ぱきりと欠片を折り取る。葟杞が驚いて目を見開いて、尋ねた。

「…角って取れるの? すごく固いんじゃ」

「自分の一部は自分で取れる。―――持ってろ」

 憮然とバサンは角を握った手を突き出した。

 本音を言えばそんな腕飾りなんぞさっさと外してこれにしろ、と言いたかったが、どうやらあれは主からの贈り物らしいから取り上げたら葟杞は確実に怒る。だからバサンは妥協して、自分の角を渡すだけにしたのだ。

「…ええと、持ってろって、私が?」

「そうだ」

 だが葟杞はバサンの顔と手を交互に見て目を白黒させたまま動かない。

「なんだ、さっさと取れ」

 不機嫌にもう一度拳を突き出すと、ようやく葟杞は両手を出した。その手のひらの上に、ころりと、角の欠片が落とす。

 葟杞はしばらく、驚いたような戸惑ったような表情でその欠片を見つめ。

「……ありがとう。大事にするわ」

 ふわりと笑って――大事そうに懐にしまった。その様にバサンは満足げに頷く。

「…さーん、葟杞さーん?」

 と、そのとき足音と呼ばわる声がして、葟杞が慌ててバサンに被布をかけた。

「はーい、徐さんですか?」

「あ、いたいた。あの、今さっき、葟杞さんを尋ねて来た人がいてまして。奥の路地の角で待っているとの伝言を承ってきました」

 現れたのは先程門を開けてくれた若い門番だった。怪訝に葟杞が首を傾げる。

「ここに、ですか? 雁翔館ではなく? しかも、路地の角ですか?」

「雁翔館に行かれたそうですが、こちらにいると言われて来られたそうで。中でお待ちをと言ったのですが、高くて堅苦しいところは苦手だからと、逃げるように出て行かれてしまって…。水仙だって言えばわかるとのことで」

 バサンが眉を上げた。葟杞も驚いて聞き返した。

「水仙さん? 本当に水仙さんと名乗られたんですか?」

「はい。すごい美人でしたけど、どこの人ですか?」

 門番が鼻の下を伸ばして聞いてくる。ということはほぼ間違いなく、先日の吉佐小路の安宿で会った月琴弾きだ。彼女なら確かに、中より路地で待つ方を選ぶだろう。水仙が気になる門番を「後でね」とあしらって帰し、葟杞は後ろ髪引かれながらバサンに言った。

「じゃあ私、水仙さんの方へ行ってくるわ。その間に連絡を済ましてくれれば…」

 このときばかりは、バサンにも葟杞が何を気にしているのかわかった。天界との連絡には水鏡を使ってこちらと相手の顔と声を転送し合う、という話は前にしたことがあり、珍しく葟杞が目をきらきらさせていたのを覚えていたのだ。笑って告げる。

「どうせもうしばらくはここにいる。連絡するところなら、次のときに見せてやる」

 葟杞はどうしてわかったの、と言わんばかりに口をぽかりと開け、そうして――ためらいがちに頷いた。

「……うん、見せてもらえるのなら、ぜひ」

 はにかむような微笑みに、バサンが目を瞠った。

 こういう表情は今まで見たことがなかった。怒らせてばかりだったし、ヒュドラの件で張詰めていたのは葟杞も同じだった。葟杞はこういう顔もするのか。―――もっと見たいと、思った。ふと考えが浮かんでくる。

(……後始末が一段落したら、近くの山頂まで連れて行こうか)

 平陽に来てから外へ出たことがないという葟杞に、無事に助けることが出来たその壮大な都市の姿を見せてやりたい。大きな怪我はないし、後始末もさほどバサンがやれることはない。すぐに解放されるだろう。となれば、葟杞と共に出かけるのもすぐのはず。

 ならば――簡単に、皆無事で終わったのは悪くない。たとえクソ生意気な小僧の力を借りていても。

 バサンは目を細め、それからついと手を伸ばして、葟杞の頬をさらりと撫でた。

「用が終わったらすぐ来い。待っている」

 そしてさっと踵を返し、池の方へ向かっていった。




 葟杞は呆然とバサンの背中を見送った。

(……くそ、反則だあんなの…!)

 顔が赤いのが自分でもわかる。以前もあの恐ろしく麗しい顔を憎たらしく思ったものだが、今は別の意味で憎い。なんだ今の笑顔は。なんだ今の仕草は。

 あんな美貌の男にあんなことされたら――うっかり勘違いしそうになるではないか。

(…いやあれは動物的な親愛の情みたいなもので、人間的なものに換算しちゃだめだ……そう、あれよ、猿がやる毛繕いみたいなもので……)

 無理矢理な理屈を自分に言い聞かせながら、葟杞は早足に小路を東に歩いていく。

 璋璋茶館は星火大路の東沿いに位置し、大ざっぱに言えば中央道の未央大路との間にある。茶館が元々貴族の舘であったように、古くはこの辺りまで広がっていた貴族街の名残がそこここにあり、大路沿いでなくとも高い壁に囲まれた大がかりな建物が未だに多い。

 茶館の裏路地も例に漏れず、木や漆喰など材質の違いこそあれ、四方を高い塀に囲まれている。ちょうど日が傾いてきて陰ができているところに、見覚えのある人影があった。

「水仙さん。お待たせして申し訳ありません」

「ああ…葟杞……」

 壁にもたれるように立っていた水仙はけだるげに顔を上げ、力のない笑みを浮かべた。 どことなく、様子が変だ。

「……あの、水仙さん? 今日はどうなさったんですか?」

「ああ…葟杞…ちょいと、頼みがあるんだよ…」

 頼みと聞いて、葟杞は驚いた。人に頼ることを良しとしないであろう誇り高さを感じていたからだ。だが、と葟杞は眉根を寄せた。声にあのときの覇気がなく、陰でわかりづらいが、顔色が悪い。もしや――病か何か?

「どうしたんですか、体の具合でもお悪いんですか?」

「葟杞…頼みがあるんだよ」

 ぼんやりとした目で、水仙が葟杞の手首を掴んだ。

「…っ!」

 葟杞の口から短い悲鳴が漏れた。

 見るからに細い繊手には有り得ないで、水仙がぎりぎりと手首を締め上げてくる。慌てて振り払おうとするが全くびくともしない。水仙は虚ろな表情で歩き出す。葟杞の腕を掴んだまま。

「水仙さん! 痛いです放してください! 水仙さん!」

 呼びかけながら必死に足を踏ん張るが、全く歯が立たない。ずるずると引きずられていく。葟杞の方がよほど大柄だ。華奢な水仙が片手一本でこんな風に無理矢理牽()いていけるわけがない。

 おかしい。

「…っ誰か―――――っ、助けて―――ッ!」

 咄嗟に大声で叫ぶが、どこからも反応はない。

 そして葟杞はようやく――通常少なくとも数人はいる見張りや用心棒がどこにもいないことに気付いた。どれほどの異常事態なのかを悟り、ざっと青ざめる。

(なんで?! どういうこと?!)  

 全力で水仙を振り払おうともがきながら、葟杞は助けを求めて叫び続ける。

 不意に、水仙が振り返った。

 ―――真っ暗な、何もない目。

 全身が総毛立つ。反射的に身を引くが、手首を捕えられていて、逃げられない。

「ぐはっ…!」

 とんでもない力で腹を殴られ、衝撃に膝が抜ける。だが微妙に急所からは外れたのか、意識はぎりぎりで残った。

 倒れ伏した葟杞の耳が、規則的な足音を捉える。誰かが近づいてくる。

 やがて――抑えた色味が上品な沓が、視界に入った。

「…悪いが、あのユニコーンに気に入られたが定めと、諦めてくれ」

「…あな、た…は…!」

 睨み付けようとして、途中で頭を殴られた。

 葟杞の記憶はそこで途切れた。


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