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三:理由、握手、変化

 

 貴族街に初めて出かけた日から四日が経った。

「おはよう葟杞、大丈夫? なんか疲れてない?」

 挨拶を返そうとした葟杞はうっと言葉に詰まった。葟杞にしては寝坊気味で下りていった食堂には勘定処の朝番の少女達が既に席に着いていて、最初にかけられた声がこれであった。そんなに疲れて見えるのか。

「そ、そう…?」

「いつもよりは。めずらしく髪の毛一筋うなじに残ってるし」

「うそっ! やり直さなきゃ!」

 本気で焦って部屋に戻ろうとする葟杞に逆に少女達が慌てて「待って待って!」と引き留め、にっこりと笑った。

「ほんとちょっとだから、そんな焦んなくて大丈夫! 食べてからでいいって」

「あたしご飯よそってきてあげる! 座って座って!」

 あれよあれよという間に席に座らされ、「忙しいと思うけどごはんはちゃんと食べなきゃね」と心配され、「誰もいないし、髪、今のうちにやったげるよー」と髪をほどかれて梳られるのを戸惑いながらはにかんで受けつつ、気付かれないように嘆息した。

(今、全然働けてないのに…)

 もちろん彼女達の優しさや気遣いは嬉しいが、情けないところを見せてしまった上に案じられて色々としてもらっては、申し訳ないという気持ちが勝る。

「はい、できたよー!」

「うん素敵ー! 葟杞はやっぱまとめ髪が似合うよね!」

「……ありがとう」

 照れたような笑顔に、少女達がきゅんと胸を押さえる。

 ちなみに少女達からすれば、同年代で既に勘定処伙計として雁翔館の一翼を担い、奥方様から直にお声掛けいただけるほど有能で、常にきりりと格好いい葟杞の世話を焼けるのが楽しくて仕方がないのだが、葟杞としてはそもそも少女達の憧れの視線に全く気付いていないので、嬉しそうな少女達に謝りたくなる。

 謝りたくなる理由は、雁翔館の仕事がまったくできていないからだけではない。

(ヒュドラもまだ全然見つけられてないのに…)

 連日、朝から昼過ぎまでは貴族街の近辺、休息を挟んで夕方から深夜にかけては西地区と、ヒュドラの痕跡や奴の手先にした人間、そして消えた人間を捜して文字通り平陽を東西南北駆けずり回っている。――だが、貴族街では初日の最初に運良くヒュドラの『匂い』を掴んだはいいものの、大路の途中でそれがばたりと途切れてしまい、それ以降手がかりは未だに全く掴めていない。西地区に至っては僅かな収穫すらなかった。

 バサンと二人で歩き回るだけでなく、葟杞の商家関係の伝手に尋ねてみたり、韓付き侍女で情報屋の木蘭、張をはじめとする芸人に繋がりのある雁翔館楽屋処の面々、などに頼んで各方面から情報を掻き集めてはいるが、有力なものはまだ一つもない。

 焦りばかりが募り、正直、疲れている自覚はある。精神的な疲労だけでない。西地区は深夜まで動きが止まらないが、貴族街は朝が早い。そのため睡眠時間がかなり削られ、身体も相当疲れていた。だが、平陽の危機にそんなことにかかずらっている場合ではない。もう奴が平陽にやって来て八日目だ。早く、何とかして見つけなければ。

(……唯一進んだのは、天界への連絡だけだし…)

 探索開始初日に韓に頼んでおいた、『平陽の結界の(かなめ)の方士に繋ぎを取り、天界との連絡手段を得たい』というバサンの要望に対する返答は、その日のうちに返ってきた。

 ()(しゅん)(りゅう)、というその方士曰く。

『私共は貴殿と貴殿の取り逃がされた奴が結界を無理矢理通られたせいで修復に追われて大変多忙な上、斯様な危機が迫る今、何人たりとも結界に影響を与えることは許しません。もしどうしても天界へご連絡されたいならば、私共が持つ経路でお送りしますので御伝言をどうぞ。また、奴は私共が探しておりますゆえ貴殿の手助けは全く不要ではございますが、万が一、貴殿が先に奴を御発見なさった暁には後始末のお手伝いは致します』

 バサンが初日以来の怒り心頭の顔でぐしゃぐしゃにして放り投げたこの文を読んだ葟杞は、さすがに唖然とするほかなかった。

 挨拶は一つもなく、バサンの非を容赦なく責め立て、連絡を取るなら自分を通せと命令し、別にお前には期待していないが働く気があるなら勝手にどうぞ、でもどうせ見つけても始末できないでしょうから自分も出ますから、とまで言ってのけ、完全にバサンを見下している。

 神獣たるユニコーンをこの扱いとは、楚舜龍という方士は一体どういう神経をしているのだ。いや、これほどまでに神経が太くなければ平陽を護る要などという大役は務まらないのか…とつい葟杞は悶々と考え込んでしまったものだ。

 それでも彼に頼むより外に道はなく、現状報告と「応援を頼む」という天界への伝言を、バサンは遣いの下っ端方士を絞め殺しそうな目で睨みながら頼んだ。八つ当たりされた彼は真っ青になってガタガタ震え上がっていて、葟杞は同情した。

「はい、どーぞ!」

 陽気な声と共に運ばれてきた朝餉の粥には、なぜか卵が入っていた。高価な卵が朝餉に出ることは普通ない。持ってきた少女を振り返ると、彼女はにっこり笑った。

「これ食べて元気出して!」

「…うん、ありがとう」

 ちょっと泣きそうになりながら礼を言う。また少女達がきゅんと胸を押さえるのを、葟杞は不思議そうに首を傾げた。

「どうしたの? 大丈夫?」

「いやぁ…葟杞はその鈍さがかわいいよねほんと」

「えっ?」

「ううん気にしないで。さっ、食べて食べて!」

「腹が減っては戦はできぬってね」

 にっこりと笑う少女達にもう一度首を傾げつつ、葟杞は「いただきます」と丁寧に手を合わせて食べ始めた。確かに今はしっかり腹ごしらえをして、一日しっかり動けるようにしなければ。やさしい彼女達や奥方様達を護るためにも。

(がんばろう)

 今日こそは手がかりを得られることを祈りつつ、葟杞は璋璋茶館へ向かうと、いつものように籠一杯の野菜や果物を持ってバサンの池亭に運んだ。

「違うな」

 すると開口一番、バサンが眉を上げながら言った。

「………はい? 何がですか?」

「頭」

 単語のみの台詞に数拍考え、葟杞はやっと意味を理解した。髪型のことだ。

「佣人仲間がやってくれたんです」

 葟杞は実は手先が不器用で、身なりに別段こだわりもないので、髪もいつも一纏めに結うだけだ。だが今日は編み込みがいくつも入っていたりと、凝った可愛らしい髪型になっている。慣れなくて少々面映ゆいが、やはり乙女としては嬉しい。

 しかしバサンが気に留めたことで、葟杞は不安になった。籠を置きながら問う。

「……そんなに似合いませんか?」

 少女達はこぞって褒めてくれたが、彼が口に出すということは相当似合わないのではないか。必要のないことは口にしないだけに、わざわざ指摘されたことがとても気になる。

 ところがバサンは「なぜそうなる?」と不思議そうに首を傾げ、真顔で言った。

「悪くない」

「……っっ!」

 ぐわりと頬に熱が昇って、葟杞は思わず全力で顔を背けた。

 もうかれこれ七日ほど一緒にいるので、彼の使う言葉もだいたいわかる。悪くない、とは高慢で滅多に認めることのない彼の――かなり上位の褒め言葉ではないか。

(…いや単に髪型が良かっただけの話で! 無駄に顔がいいから動揺しただけ!)

 自分に言い聞かせながら頬を両手で隠しつつちらりと窺うと、当のバサンはもう朝餉に夢中で、むしゃむしゃと菜っ葉を咀嚼していた。

「…? どうした?」

 視線に顔を上げたバサンが聞いてきた。やはりというべきか、彼は本当に単に思ったことを言っただけで、葟杞の反応など気にもしていなかったらしい。

 だがうっかり赤面してしまった葟杞としては、この全く何事もなかったという態度はいいように踊らされているようで腹が立つ。この神獣様に人間の中でも複雑な乙女の機微を察しろというのは不可能に近いとわかってはいるものの、つい葟杞は尖った声で返した。

「……何でもありませんっ」

「顔が赤いが」

「…っ…! 気のせいです。ええ気のせいですとも!」

「…今日は変だな。おかしなものでも食ったか?」

「…………。いえ、何も問題ありませんのでご心配なく」

 あまりにすっとぼけたバサンに葟杞は脱力した。そして気にするだけ無駄、と心の中で念仏のように唱える。その間に頬と頭に上った熱は冷めた。

(………嬉しかったけど)

 褒めてもらった、その事実だけありがたく受けとっておけばいい。

「…きー? いるー?」

 ふいに誰かの声が、庭木の林の向こうから聞こえてきた。あからさまにバサンが顔を顰める。

 外で仕事をしているときは割り切っているのか平然としているが、それ以外のときは相変わらず葟杞以外には世話をさせようとしないし、この池亭に他の人間が近づくことすら嫌う。なぜそこまで自分に(こだわ)るのか、葟杞には全くわからない。

「葟杞ー? どこー?」

 今度ははっきりと聞こえたその声に葟杞がぱっと破顔した。「すみません、ちょっと外します」と立ち上がって、憮然と食事を続けるバサンを置いて声の方へ駆けつける。

 庭木を回り込んだ先にいた女に、葟杞は嬉しそうに呼びかける。

「木蘭姉さん! おはようございます」

「おはよう葟杞。あら、今日はまた随分と可愛いわねぇ」

 木蘭はにっこりと目を細めて、手のひら一つ分ほど背が高い葟杞の頭を少々背伸びしながら撫でた。美人で常に粋な装いの木蘭に褒められて、葟杞は大いに照れた。かなりうれしい。

「誰だお前は」

 ぬっと現れたひとに、葟杞は本気で驚いた。バサンが仕事以外で自ら葟杞以外の人間に接触しに来たのは初めてだったのだ。仕事中ですら極力自分からは話をせず、ほとんど葟杞に任せっぱなしなのに。

 人前に出るからだろう、わざわざ角をしまって被布までかぶって出て来るとは何事かと、葟杞は目を白黒させるしかない。

「あら、あなたこそどちら様?」

 たいていの女性はバサンの美貌に圧倒されるのだろうがしかし、木蘭は全く動じず、軽快に切り返した。逆にバサンがむっと黙り込み、葟杞に視線を寄越す。説明しろと言いたいらしい。葟杞は溜め息を吐いて、神獣様の無言の要望に応えた。

「バサン様、こちらが色々と情報を提供して下さっている木蘭さんです。木蘭姉さん、こちら、例の件の調査でご一緒させていただいているバサン様です」

「へえ! あなたが例の一角獣様なんですね! さすがに神々しいほどに綺麗ねぇ。妓楼の女でもお貴族でもこんな綺麗な人はいないわ」

「えっ、木蘭姉さんご存じだったんですか?」

「韓様が耳打ちしてくださってね」

 木蘭が片目を瞑ったので、葟杞は苦笑した。韓に報告に行っても常に席を外しているので知らされていないのかと思っていたが、気遣い無用だったらしい。

 バサンはむすりと腕を組んで、鼻を鳴らした。

「一角獣ではない、ユニコーンだ」

「あら、失礼致しました。でも本当に綺麗ねぇ」

 いつもの調子を崩さない木蘭とバサンのやり取りを、そんな砕けた態度で大丈夫なのだろうかと葟杞ははらはらしながら見守る。だがバサンはますます険しい表情で木蘭を凝視しているだけで、特にどうもしなかった。葟杞はほっとしつつ、内心で首を捻った。機嫌が悪いのはよくあるが――どうもいつもと違うような気がする。

 まあどうせ考えてもわからないし、と葟杞はさして気にせず、木蘭に話しかけた。

「でも珍しいですね、姉さんがこちらへいらっしゃるなんて」

「今日は韓様がどうしても手が離せなくて、葟杞に来てもらっても無駄足になるから、その伝言ついでに私が代わりに報告をもらいに来たの」

はっとして葟杞は即座に頭を下げた。

「…すみません、昨日はご報告するほどのことは何も……。わざわざ来ていただいたのに申し訳ありません」

「ああいいのよ、ぶっちゃけ報告云々はついでだから。今日は手土産を持ってきたの」

 鷹揚に手を振る木蘭の言葉に、葟杞は即座に仕事の顔になって聞き返した。

「手土産、ですか?」

「ええ。―――色街に妙なお大尽様が現われたの。有り得ないほど美しい顔の男と背の高い女の子の二人組を探してるっていう男が」

 瞬時に空気が張り詰めた。バサンが鋭く尋ねる。

「どんな男だ」

「相当遊び慣れてるお方のようです。妓女の方がのめり込んじゃうくらいの伊達男で。昨日、いくつかの妓楼に出入りした後に石蕗(しゃくろ)楼へ宿を取り、今も滞在しております」

 バサンの機嫌が急降下した。据わった目で木蘭に問う。

「…特徴は」

「年の頃は四十あたり。黒い波打つ髪にいなせな無精髭、鍛えた体躯と体の無数の傷、そして優雅さな物腰から、おそらく武官経験のある貴族かと」

 途端にバサンが苦虫を噛みつぶすようにぎり…と歯を軋ませた。地を這う声で呟く。

「……………あンの野郎…!」

「え、お知り合いですか?」

「葟杞、案内しろ!」

 木蘭の問いを無視してずバサンは唐突に命令を下し、勝手にずんずん歩き出した。先程からのおかしな挙動の連続に葟杞が咄嗟に動けないでいると、木蘭が「ちょっとちょっと」と顔を寄せてくる。

「随分と気に入られてるじゃない。どうなの、いい感じなの?」

「は…?」

 全く質問の意味がわからず、葟杞はきょとんとして木蘭を見つめた。

「もうっ、鈍い子ねぇ! 向こうは神獣様ったって、人の形してるじゃない。あんな綺麗な男と一緒にいたらそりゃあときめくでしょ」

「……は?」

「ほら、さっきだって、あんたがあたしに目を輝かせてんのが気に入らなかったからわざわざ出てきたじゃない。嫉妬でしょ? あれ。だからどうなのって聞いてるの」

 ようやく木蘭の意図するところを悟って、葟杞は即答した。

「有り得ません。あんな暴君、願い下げです」

 彼にとって葟杞は自分を常に第一として動いてくれる忠臣のようなもので、それが勝手に自分より木蘭を優先したのが気にくわなかっただけだろう。木蘭が勘ぐりは筋違いだ。そもそも平陽に仇なす妖魔(ヒユドラ)を探すという殺伐とした状況の中で、ときめきなどと(うつつ)を抜かす余裕は葟杞には全くない。

 だが木蘭は、はぁ…と嘆かわしげにこめかみを押さえた。なぜそんな反応をされるのか、葟杞には全くわからない。

「おい葟杞! 何をしている!」

 響いてきた苛立った声に今度は葟杞が溜め息を吐き、「今行きますよ」とおざなりな返事をする。そして辞去を申し出ようと木蘭の方を振り返り、どきりとした。

 打って変わった――真剣な瞳。

「……もう一つ、大事な用事があるの。あなたに」

 真顔のまま、木蘭が白く華奢な手のひらに何かを載せて差し出してきた。

 それは、細い革紐で作った簡素な腕飾りだった。しかし葟杞は驚いて木蘭を見上げる。

「奥方様から預かってきたの。身につけてなさい、って」

 やはりと納得しつつ、葟杞は狼狽した。

 確かにその腕飾りは作りだけを見れば、透明な玉が五つ、赤い玉が二つだけの簡素なものだった。が、玉が蜻蛉玉などではなく、本物の水晶と瑪瑙だったのだ。それも巷に出回るような安物ではなく、最高級の品。――佣人が持つような代物ではない。

「そんな…こんなの頂けませんよ」

「いいから受け取って!」

 鋭く木蘭が叫んだ。こんな張り詰めた木蘭を見るのは初めてで、葟杞は息を呑む。

「…これ、魔除けだそうよ。…今回の件は今までと違うって、わかるでしょ…?」

「……姉さん…」

「奥方様も心配されてるの。いくら神獣の要請とは言え、あなたは方士でもないのに、こんな危ないことしてるから。…私も心配なの。――お願いよ。ちゃんと着けて」

 痛いほど強い視線に気圧され、身動きができない。

 葟杞は木蘭が自分の左手を取って腕飾りをはめるのを呆然と眺めていた。木蘭が堅く、ほどけることのないように結びつける。

「……気をつけてね」

 葟杞の手を取ったまま、木蘭は潤んだ瞳で見つめてくる。鳶色の美しい瞳。

 まさに木蘭の名のごとくと謂われ、美と雅を極める妓女の頂点にも立ったこともあり、今も奥方様を支える重要な役目を担うほどの人が――心から葟杞を案じてくれている。

 山から売られてくるとき、人の業はとうに見尽くした。もう自分は物として生きるをしかないと絶望していた。―――なのに、今、こんなに心配してくれる人がいる。

 それだけで葟杞は、何も怖くはないのだ。

 葟杞はふわりと微笑んで、頭を下げた。

「――ありがとうございます。奥方様にも私が筆舌に尽くしがたいほど感謝しております、と御礼をお伝えください」

「……ええ、もちろん」

「では、行って参ります」

「気をつけてね、ほんとにね」

「はい」

 葟杞はしっかりと頷き、早く来い!といきり立つバサンの方へと踵を返した。




 軽やかに駆けていく葟杞の背中を、妹のようにかわいがる少女の姿を、木蘭は熱のこもった潤んだ双眸で見つめていた。

 葟杞ほど自分のことをわかっていない人はいないのではないかと、木蘭はたまに思う。

 どうも本人は、なぜ下賤の身分出身で金で売られ底辺まで堕ちたこともある自分が、純潔を好むという彼の神獣に選ばれたのか、未だにまったく理解できないままらしい。だが、木蘭は当然だと思っている。

 最高位の妓女だった木蘭は、たくさんの人間を見てきた。男も女も若い者も年老いた者も、貴族もそうでない者も。

 だが―――あんなに純粋に人のために尽くせる人間を、木蘭は他に知らない。

 誰よりも奥方様を尊敬し敬愛し、どんな人間にも敬意を払って接し、私利私欲など微塵もなく、いつも誠実で謙虚で何事にも常に力を惜しまず――今も平陽を護るために危険な役目にまっすぐに取り組む葟杞が、木蘭は、皆は、大好きなのだ。

(……奥方様。あなた様が時々恨めしいですよ)

 薄く雲のたなびく青空を仰ぎながら、木蘭は皮肉げにわらった。

 もう昔と呼べるほど前、木蘭は客の貴族の問題に巻き込まれた。官吏に捕縛され死罪になりかけたところを璋蓉に救われ、常に愛想と嘘と体を売っていたときとは比べものにならないほど恵まれた生活を頂いた。深く感謝しているし、尊敬もしている。しかし。

 純粋にひたすらに尽くす葟杞を利用し続ける璋蓉に――時々腹が立つ。

 璋蓉には、平陽の貴族と商人の頂点に立つ者として、そして古来より平陽を愛し守ってきた呂氏の事実上の当主としての、果たすべき役割がある。腕飾りを手配したように、個人としての璋蓉は葟杞をひどく心配している。だがそれでも、葟杞を平然と利用するのだ。平陽の安寧を守るために。

 今回の一件は神獣が勝手に葟杞を気に入ったから葟杞が動くことになったわけだが、そもそも璋蓉の気に入りでなければ葟杞が神獣に会うこともなかったわけで――やはり恨み言の一つや二つは零したくなる。

 勿論、彼の神獣に対しても非常に憎々しくは思っている。璋蓉以上に。なんてことに葟杞を巻き込んでくれたんだ、と。

 だが葟杞は木蘭が止めても、絶対に彼の手伝いをやめないだろう。だから一度、どんな野郎か品定めしてやろうと思って今日ここへ来たのも、実はあったのだ。そして、木蘭は嫌々ではあるが、彼を信じることにしたのだ。

 あれだけ葟杞を気に入って、女である自分にも嫉妬するくらいなら、もし彼女に身の危険があったときには――必ず護るだろう、と。

(……神獣さん、そうでなきゃ許さないわよ)

 そら恐ろしいほど美しい神獣に心の中で脅しをかけながら、木蘭はふうと息を吐くと、帰路に就くため門の方へと歩き出した。




(…どうしてこんなに突然機嫌が悪くなったんだろう…?)

 内心で首を傾げながらも、常日頃の五割増しで物騒なご面相になっているバサンを葟杞は大人しく案内をした。八つ当たりをこうむったら面倒なので明らかに怪しい藪は突かないに限る。

 石蕗楼は西地区の色街の最も主要な大路で、豪奢な格子の向こうの見世に(おんな)を並べる客引きをすることから、皆が『格子通り』と呼ぶ錦林(きんりん)大路にある妓楼である。高級とまではいかずとも、格の高い妓楼だ。

 辿り着いた石蕗楼の見世には(みせ)の名の通り、鮮やかな石蕗(つわぶき)()や彫刻が咲き誇っていた。だがバサンはそんなものには目もくれず、見張りの男にいきなり吹っ掛けた。

「ふざけた奴が一人泊まってるはずだ。部屋に案内しろ」

「…ああ? なんだテメェ」

 時刻はまだ朝で、ようやく眠ったばかりの色街は静まりかえっている。そこに突然やって来て横柄に命令する、(うすぎぬ)で顔の見えづらいバサンに対し、当然ながらその屈強な見張りの男は不審げにバサンをなめ回すように見下ろした。その左手はいつでも鯉口を切れるよう、既に腰の剣に添えられている。

「きっさま…!」

「――バサン様!」

 既にかっかしていたバサンが爆発する二秒前の気配に、葟杞は強引に身体ごと間に入った。

「見張りのお方、大変失礼いたしました。この方の無礼な振る舞いは、私めが代わってお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした」

 大柄とは言え、葟杞は女である。女にこうも丁重に詫びられては鉾を収めるしかなかったのだろう、深々と頭を下げ続ける葟杞に男は「……とりあえず顔を上げな」と憮然と言った。

「あんた、名は」

「葟杞と申します。雁翔館で勘定処伙計を務めさせていただいております」

「…雁翔館の、葟杞? 聞いたことあるぞ、女だてらに相当切れ者だってな」

「かの名高い石蕗楼のお方にまでご存知いただいているとは…、光栄でございます」

 年長の者に対する正式な立礼をした葟杞に、男は驚いたようにたじろいだ。

 勘定処という重要部署の一端を任される葟杞と見張りにすぎない男では、世間的にかなりの身分差がある。だから男はこうまで礼を尽くされたことに毒気を抜かれた顔で、しかし鋭くバサンを睨んだ。

「葟杞とやら、あんたのことは信頼できそうだ。…けど、このお連れさんはいきなり何だい。喧嘩しにきたんなら、通すわけにはいかねぇぜ」

 バサンは口を真一文字に引き結んで黙り込み、あさってを睨み付けている。その非協力的な態度に久々に沸いてきた怒りを抑え、葟杞は落ち着いた声で番人に告げた。

「私どもは呂氏のご当主の史鵬様、並びに奥方様の璋蓉様の直命にて、とある極秘の件の調査を行っており、お二方からご協力をお願いする直筆の書状をお預かりしております。どうぞお確かめください」

 葟杞が懐から取り出した書状をざっと眺め、それが本物であることを認めて男は目を見開いた。虚勢を張ってはいたが、明らかにたじろぐ。

「…そんで、その内密の件とやらに、うちが関わっているってのか?」

「もちろん違います。…ただ、あなた方のお客様のお一人にお聞きたいことがございまして、こちらへ伺った次第です。年の頃は四十、黒い波打つ髪に無精髭の鍛えた体躯のお方がまだいらっしゃるはずなのですが…」

「…ああ、確かにそういうお客は、一番上の部屋にいるが……」

「では――どうぞご主人にお取り次ぎいただきますよう、謹んでお願い申し上げます」

 三度(みたび)叩頭した葟杞に男は「……わかった。そこで待っていろ」と書状を手に、ふいと中へ消えた。ほっと胸を撫で下ろす。……しかし。

「――何なんですか今のは!」

 葟杞は男が見えなくなった瞬間にぐるんと振り向き、小声でバサンを叱りつけた。

「失礼にもほどがありますよ! 人間は感情的な生き物なんです、頼むときは丁重にといつも言ってるじゃないですか!」

 だがバサンはむっつりと腕を組んだまま、目の前の妓楼を睨み付け、苛々と足拍子を打ち続けている。無視しているのか、単に聞こえていないのかも判別できない。本当に、今日はどうにも様子がおかしい。

(……この人こそ何か変なものでも食べたんじゃ…?)

 段々と心配になってきて大丈夫かと問うかどうか迷っていると、見張りの男と共に、五十がらみの身なりのいい男が出てきた。ここの主人だろう。葟杞は軽く膝を折って拱手した。略礼ではあったが目上の者へ礼に主人が頷く。しかしその顔はひどく硬い。

 当然だろう。まったくわけがわからない、しかも呂家の命を受けた調査が客に入るのだ。彼の頭の中では恐ろしい想像が渦巻いているに違いない。だがそれでも色街の名のある妓楼の主、こちらのことを改めて詮索することはなく、表情と同じく固い声で言った。

「中へどうぞ」

 恐れ入ります、と応えながら、バサンが先走らないように前に立って楼内へ入る。妓楼独特の、化粧や汗や酒肴の入り交じったけだるい匂いに酔いそうになりながら、最上階の部屋へと辿り着く。

 階段や扉の装飾から、泊まるだけで庶民の五年分の稼ぎが吹っ飛ぶ、と葟杞は瞬時に計算した。貴族や商人の中でもそこそこ羽振りがよくなければここには泊まれまい。そんな身分――木蘭の情報では貴族らしき者に、どうしてバサンが会いたがる?

(いやでも捜してるのは向こうだから、向こうが会いたがってる? それもバサンと私の二人に? ………一体どういうこと?)

 今更ながら葟杞は不安でたまらなくなってきた。

 ちりんちりん、と主人が扉脇の鈴を鳴らすとややあってから「…なんだぁ…?」と眠たげな声が返ってきた。つり上がっていたバサンの眦が更に引き攣った。これはまずい。葟杞はバサンの袖を掴んで引っ張る。

「お大尽様、お客様がおいででございます。…ってちょっと何を…!」

 だがバサンは葟杞の無言の制止を振り払い、主人の口上の途中でがっと乱暴に扉を開けた。葟杞や主人の顔からざっと血の気が引く。なんてことを!

 しかし――だからといってこちらが勝手に入室するわけにもいかない。

「バサン様!」

 葟杞が精一杯非難の声を上げるもバサンが止まるはずもなく、ずんずんと脱ぎ散らかされた服を踏みつけて寝台に向かっていく。

「…あぁ…? バサン…?」

 ぼんやりとした声が、その寝台から漏れ聞こえた。バサンは一切の躊躇無く、五人が寝れるほどの大きな寝台の横に立って掛布を掴み、がっと引っぺがした。

「うわっ! 寒い寒い寒い!」

 肌着一枚のだらしない姿で飛び起きたのは、確かに木蘭の情報通りの人物だった。

 黒い波打つ髪、鼻筋の通った彫りの深い顔に無精髭、鍛え上げられた身体に無数の傷跡。今まで相当な数の人間を見ている葟杞だが――こんなに色気のある男性には初めてお目にかかった。大人の男の色香と魅力が体から溢れ出している。

「なんだなんだ、何の騒ぎだこりゃ」

 まだ頭がはっきりしないらしくぼやぼやと目をこするその男を、ついにバサンが怒鳴りつけた。

「さっさと目を覚ましやがれ! この色ボケ野郎!」

「……ん? おやおや…」

 そこでようやく寝台の横に立つバサンに気付いた彼は――あろうことか、にこやかに笑って軽ーく手を挙げた。

「よう、バサンの坊ちゃん。おひさー。元気ー?」

 能天気な挨拶に、ぶちっと何かが切れる音を葟杞は確かに聞いた。

「―――なんっっっで貴様がここにいるッ!」

「なんでって、だって俺、元々救援係に指名されてたじゃん。だからお前の伝言を聞いて、わざわざ来てやったんだけど」

 ドスの利いたバサンの怒声に、しかし男はけろりと笑ったままあっさり応え、それから大儀そうに立て膝に頬杖を突いた。

「しかしまあ、ここに入るのってほんと大変だなー。門前で粘って根比べに勝って『要』の奴に開けてもらったはいいんだけど、嫌がらせされて通るときに傷できちゃってさー、仕方ないから癒されようと…」

「だったら! 薬草でもつけて休めばいいだろう! どうしてこんなところで女と遊んで酒飲んでだらだら寝ている!」

「いやぁ、俺にとっては酒と女が一番の薬でねぇ。坊ちゃんも一回体験してみたらいいのに。世界が変わるぜ?」

「…ふッざけんなこのクソ野郎っ! おぞましいこと口にするなッ!」

 葟杞は呆気に取られてぽかんと口を開けた。――バサンがそこらの若者に見える。なんだこの男は。主人もさすがに目を白黒させ、どうしたものかとぐるぐる考えているのが顔に出ている。

「…というわけで彼は私の客だから、ご主人は外していただけるかな?」

 バサンを軽くいなしていた男が入り口の方へ顔を向け、主人に笑いかけた。

「……え、あ、はぁ…お大尽様がそう仰るなら…。お話なさるのでしたら、茶か何かお持ちいたしましょうか?」

「要らん!」

「ご主人、お気遣いなく。何かあれば呼びますから」

 あくまでにこやかに男は応じ、主人は頭を下げてそそくさと階下へ降りていく。葟杞はなんだか取り残されたような気分でついそれを見送った。

「それで君が、バサンのお眼鏡に叶った案内役の女の子かな?」

 すると今度は男が葟杞に声をかけてきた。彼の正体を薄々察していた葟杞は一歩部屋に入って手を組み合わせ、貴人に対する正式な跪拝の礼をして答える。

「お初にお目もじつかまつります、葟杞と申します」

「葟杞! こんな野郎に挨拶なんぞするな!」

 ところがなぜかバサンが激高し、今度は葟杞を怒鳴った。男が呆れたように、しかし愉快そうにバサンを眺める。

「相変わらず生意気だねえ、お前は。葟杞ちゃん、こいつが苦労をかけて悪いね」

「お前にこいつ扱いされる謂われはない!」

 いきり立つバサンと楽しげな男を交互に見ながら「はあ…」と葟杞は曖昧に頷くしかできない。これほど憤激しているのは初対面のとき以来だが、あのときは一応彼なりの理由があった。しかし今回ばかりはなぜなのかまったく見当もつかない。

「この通りバサンは紹介してくれそうにないから、自己紹介でもするかね」

「せんでいい! 葟杞も聞くな!」

「俺は天界の武官で、イサクという」

 男はさらりとバサンを無視して名乗った。葟杞は驚いて思わず感想を漏らす。

「武官の方だったんですか」

「そう。兵団で一軍を預かる将軍ってやつ。今回はバサンの援護兼お目付役の任に就いてて、一時的な上司みたいな感じなんで、天界でバサンの伝言受け取ってここにやって来たってわけ」

 葟杞はもう一度驚いた。話の内容から男が天界のものだとはわかっていたが、てっきり所属部署の同僚かと思っていたのだ。それが軍所属で、しかも将軍にあたる高位の武官だとは。なれば身体にある無数の傷跡も納得である。

 しかし、イサクと名乗った男は完璧に人と変わらない姿に見える。本当の姿が全く想像できない。彼は本来何なのだろう? 葟杞の疑問を読み取ったのか、イサクは微笑んだ。

「俺はペガサスだよ。わかる?」

「! もちろん存じてます! へえ、天馬(ペガサス)様なんですね!」

 葟杞は上ずった声で答え、きらきらと目を輝かせた。

 ベガサスといえば翼を持って蒼穹を駆ける神獣だ。神の怒りの雷を運ぶとも云われ、神獣の中でもかなり神に近いものだ。そして、ユニコーン以外で特に好きな神獣を挙げろと言われれば必ず入れる、憧れの存在でもあった。

 高揚する葟杞を横目に見て、バサンがますます気圧を下げていく。噛み付くのは一旦終了して床に座って胡座をかいているが、光のような美貌ですら霞むほど酷い顔である。ちなみにペガサスに夢中の当の葟杞は全く気付いていない。

 唯一どちらにも気付いているイサクは、ちらりと笑った。面白い二人だ、と。

 そしてけだるげに髪をかき上げ――口火を切った。

「バサン。上はお冠だぞ。いくら追討を命じられたとはいえ、勝手な行動が多すぎるってな。これじゃあこの件を解決しても、しばらく謹慎になるかもしれんぞ?」

「………知らん。俺は、俺のすべきことをしているだけだ」

 さすがにバサンも仕事の顔つきになって、しかしぶっきらぼうにそれだけを返した。イサクは物憂げな仕草で嘆息する。それが見とれるほど様になる男はなかなかいない。

 だがそのイサクが次に吐いたのは、聞き捨てならない言葉だった。

「上は、お前が復讐のために動いていると思ってるぞ」

 復讐? 突然出てきた言葉に、葟杞は止まった。バサンも数拍の間飲み込めず、「……は?」と声を漏らしてようやく反論する。

「おい、なぜそうなる。復讐だと? 馬鹿馬鹿しい。俺は俺の仕事をしているだけだと言っているだろう」

「そりゃ口ではな、そう言うだろうよ。だが、実際にしていることはどうだ?」

 畳みかけられ、バサンは憮然とイサクを睨み付けた。その表情は、答えることすら必要ない、と否定しているようにも――それがどうした、と肯定しているようにも見える。葟杞は落ち着かず、両手をぎゅっと握りしめた。唐突に出てきた復讐という言葉に含まれる意味がわからない。………今までバサンが説明した以外に、何かあったのか?

 だがバサンも、先程までふざけていたイサクすらも張り詰めて睨み合っていて、口を挟める空気ではない。とりあえず成り行きを見守るしかない。

 しばらく無言が続いた。そしてイサクがようやく、動いた。溜め息を吐いて、がしがしと頭を掻く。

「バサン、お前がヒュドラに思い入れるのはわかる。そりゃ憎くて仕方なくて、自分で落とし前をつけたいだろうよ。上の出したヒュドラ追討の命はまだ生きてるから確かにまだお前の仕事ではある。…が、お前が復讐したいがために奴を追っているなら話は別だ」

 イサクはひたとバサンを見据えると、面倒くさそうに――しかし容赦なく言った。

「――私情を挟むんなら、お前を外さざるを得ない」

 バサンが目を剥く。葟杞も息を呑んだ。

「…何だと!」

「…そんな!」

 声を上げたのは二人同時だった。それも葟杞の方はほとんど無意識で自分で自分の行動に驚き、無礼さに気付いて慌てて口を押さえる。バサンがそんな葟杞をやはり驚いて目を見開いたまま眺めている。

「……おや、葟杞ちゃん、何か言いたいことがあるのかい?」

 一人、わずかに眉を上げただけだったイサクは、葟杞にやさしく尋ねた。尋ねてはいるが、言えと命じているのと違わなかった。天界の将軍が相手だと思うと腰が引けそうになったが、こうなれば仕方がないと葟杞は潔く腹を決めた。すうと息を吸い込んで拱手し、まっすぐにイサクを見つめて口を開く。

「…恐れながら申し上げます。バサン様は最初に、この平陽の全ての命を護りたいと仰いました。私はこれまで同行させていただき、その言葉に偽りはないと確信しており、また、詳しいご事情は存じませんが、復讐などという私心の気配は微塵も感じられませんでした」

 バサンの常の態度ははっきり言って傍若無人そのものだ。だがあれだけ人間嫌いにもかかわらず、文句を垂れながらも毎日大嫌いな人の群れの中へ出かけ、黙々と調べを続けている。それは偏にその矜持にかけて、平陽を救うための行動だ。

 復讐などでは、断じてない。

「そのバサン様を、私情を挟んだという理由で外されるのは、僭越ながら、大変理不尽な処分であり―――不当なことこの上ない、とお見受けいたします」

 頭を垂れながら、葟杞ははっきりと言い切った。人間の身で生意気なことと誹られ――手打ちにされるかもしれないということまで覚悟の上で、言い切った。バサンが唖然としているのが気配でわかる。イサクは葟杞の言を吟味するように目を眇める。しばらく、沈黙が落ちた。

 やがて、くっくっく…とイサクの喉から低い笑い声が漏れた。

「気持ちいいのいい啖呵だねぇ。俺は好きだよ、そういうの」

 心底楽しげな声におそるおそる顔を上げると、イサクがにんまりと笑っていた。どうやら怒らせはしなかったらしい。ほっと肩を撫で下ろすと、イサクがにやにやとバサンに顔を向けた。

「随分いー子見つけたじゃねえか。高慢ちきで口やかましいお前さんをここまで信頼してくれるたぁ、相当な器だぞ?」

「………俺が選んだんだ、当然だ」

 からかうような声と台詞に、ぷいとバサンがそっぽを向いた。その耳が微妙に赤いことに、葟杞は気付いてしまった。葟杞の顔にも遅ればせながら熱が昇ってくる。先程の言葉は考える間もなく滑り出てきたから紛れもなく本当のことだが、よくよく思い返すと、本人の前で言ったにすれば、かなり恥ずかしい口上ではないか。

 バサンと葟杞をにまにま一頻り眺めて楽しんだ後、イサクは無精髭の浮いた顎を撫でて何気なく切り出した。

「まあぶっちゃけ俺はお前には同情してるさ。あれは気付けっつー方が無理だし。だが」

 刹那――空気が突然、凍えた。

「死にかけの相棒を殺してその能力を奪ったことに関しては――目付役として俺も追及せざるを得ない」

 刃の切っ先を向けるように、イサクは冷徹に、その言葉を突きつけた。

 葟杞はイサクが告げたことが、何一つ理解できなかった。…バサンが、死にかけの相棒を殺して力を奪った…? 意味が、わからない。

「目的が復讐になってるんじゃないかってこと以上に、上もそこが引っかかってる。お前がヒュドラへの復讐のためにあれの能力を欲して無理矢理、」

「―――黙れッ!」

 バサンが叫んだ。怒っているのではない。

 見たこともないような、酷く青ざめた顔。握りしめた拳が震えている。

「あれは………あいつが――託してくれただけだ!」

 そうバサンが言い放つや、突風が吹き荒れた。反射的に顔を覆う。

 風が消えたとき――バサンの姿は、跡形もなく消えていた。

(……うそ、どこに…?!)

 葟杞は言葉を失って辺りを見回す。と、間延びした暢気な声でイサクは笑った。

「あー葟杞ちゃん、心配しないで。風使って飛んでっただけだから」

 そして、見霽かすように窓の方を眺める。

「あーあー…あんな全力で逃げなくても。上が勝手に勘ぐってるだけで、別に俺はそんなこと思っちゃいねえって、伝えそびれたじゃねえの」

 ふう、とイサクが煙を吐く。いつの間にか煙管に火を付けていたらしい。それにしても妓楼に滞在して女を侍らせ酒も煙草も呑むとは、あまりにも俗っぽい神獣である。バサンとは対照的だ。

 混乱が収まると段々とむかっ腹が立ってきて、葟杞はじろりとイサクを睨んだ。

「…先程のお言い回しですと、誤解されても仕方がないかと思いますが」

「まあねー。…実のところ、さっきのはバサンよりも君を試してたんだけどね。全く動じないとは、さすがに驚いた」

「……は?」

 訝しげに葟杞がイサクを見つめる。葟杞を試したとは、どういうことだ。イサクは立て膝に肘をついて煙管をふかしながら尋ねた。

「あいつの相棒が死んだこと、知ってたの?」

「…いいえ、全く」

「じゃ、なんで動揺しなかったわけ? 俺、殺して能力を奪ったって言ったろ?」

 葟杞は思わず軽蔑の眼差しを、神獣であるイサクに送った。だが当のイサクは怒るでもなく唇にうすく笑みを刷いたまま待っている。嘆息し、葟杞は事もなげに答えた。

「山よりも高い矜持を持ち、この私にすら『相棒』だからよろしくと仰ったあの方が、本物の相棒であられた天界の方を殺して能力を奪うだなど……天地がひっくり返っても有り得ませんから。動じる理由がありません」

「………。ほんと、気持ちいいまっすぐさだねえ」

 イサクはゆるりと目を細めた。久しく見なかったものを眺めるように。

(……あれ?)

 葟杞の脳裏を唐突に何かがかすめた。だが――具体的なものは何も浮かんでこず、するりと逃げていった。今のは何だったのだろう。

(……まあいいや)

 一つ息を吐いて、葟杞は立ち上がった。そして冷たくイサクに問う。

「他に何かございますか? よろしければバサン様をお捜しに行きたいのですが」

 バサンとは違って、イサクは葟杞が、というか人間がどんな態度を取ろうとも面白がることはあっても怒ることはないらしい。うーん、と気の抜けるような声を漏らし、無精髭を親指で撫でる。

「そうだなぁ、実は、一つ、気になってることがあるんだけど」

「…何でしょう?」

 応える代わりにいきなり、イサクはぽーんと何かを放った。

 反射的に受け取った葟杞は――それが何かわかった瞬間、全身が総毛立った。だが気力で抑え込み、胡乱な眼差しでイサクに物申す。

「……短刀など、投げるものではないかと存じますが」

「うん。やっぱりそうだ」

 咎める声には耳もくれず――何もかも見透かした双眸で、イサクは訊いた。

「―――葟杞、それで人を殺したことがあるね?」

 がしゃん。

 短刀が手のひらから、滑り落ちた。

「本当に使ったことがあるかないかは、持たせて見ればわかるからね。……それにしても、それでこの清廉さか。本当に面白い子だね、君は」

 楽しげなイサクの声も、葟杞の耳には入っていなかった。

 みるみるうちに、先程のバサンとも張り合えるほど葟杞の顔から血の気が引いていく。足も手も膝も身体中が震え出し、視界が暗く霞んでいく。人。殺した。短刀。単語がぐるぐると頭の中を巡り、一つの光景を結ぼうとする。

(……やめなさい!)

 葟杞は自分で自分を叱りつけた。思い出してはいけない。今は。この、食えない男と、対峙しているうちは。

 ゆっくりと息を吸い、全身に力を込め――葟杞はまっすぐにイサクを見返した。

「……何のことか、わかりません。お話が以上でしたら、失礼させていただきます」

「うん、どーぞ。俺は武官だから奴が出てくるまでやることねーし、監視役なんてもっといらなさそうだから、しばらくここでのんびり傷でも癒してるわ。何かあったら声かけてくれや」

 ひらひらと軽く手を振るイサクに、さすがの葟杞も頭に来た。大人しく辞去するフリをして部屋の入り口まで行き、「あ、そうそう」と何気なく振り返る。

「私共はこの辺りで消える人がいないかを探しておりますので、イサク様もだらだら寝てないで情報収集くらい手伝ってくださいね。女のお相手がお得意なら苦でもないことでしょう。―――でないと色街から完全に締め出されるよう、手配させていただきますので。キリキリ働いてくださいね」

 言い捨てて葟杞は今度こそ部屋を出た。

「…うおいちょっと待てなんだそりゃー! おーい葟杞ちゃーん、そりゃないぜー!」

 階段の上から情けなく焦っているイサクの声が追いかけてきて、葟杞は少しだけ溜飲を下げた。二つ階を降りたところで、立ち止まる。

 …違う。体が、動かなくなった。手すりを掴む指が震えて力が入らない。膝が笑う。全身が強張って言うことを聞かなくなって――どさりと、尻餅をつくように床に座り込む。

『葟杞、それを人に使ったことがあるね?』

 イサクの声が蘇った。耳の中で妙な音がする。どくどくどくと手の先まで血の脈が波打っているのに、寒くて寒くてたまらない。ぎゅっと胸元を握りしめる。

 それを指摘されて狼狽えたわけでは、なかった。

 ただ、短刀を持った、それだけで見抜かれたことに驚愕しただけだ。

 葟杞はその罪を犯したことを、一つも恥じてはいない。恥じる理由がないからだ。だが――罪は罪だと、認めてもいた。もし今ここへ獄吏が葟杞を捕えに来たなら、即座にこの首を差し出す。常にその覚悟を持って、生きていた。

 だからさっきペガサスを相手に生意気な意見を率直に言ったのも、たとえここで手打ちされたならそれは天罰が下っただけで――まったく構うことはない。そう思って動いただけのことだった。

 自分は驪族という元蛮族で蔑まれる身分の出身というだけでなく、罪人で、特別に赦しを得て、今のこの幸福な生を頂いただけ。

 だからいつでも全力で生き――いつ死んでもいいと、葟杞は、心の底から、思っている。

 ゆっくりと深い呼吸を繰り返すと、身体に力が戻ってきた。

 今、立ち止まっている余裕などない。すぐにでもヒュドラを見つけなければ、平陽は終わってしまうのだから。そのために、まずは。

(…バサン様、探さなきゃ)

 最後にひとつ息を吐いて、葟杞は手すりを掴んで起き上がった。そうして確かめるように床を踏みしめながら、階段を下りていった。




 石蕗楼の主人に心労の詫びと彼はただの情報提供者だったことを話して安心させ、礼を言って辞去した後、葟杞は璋璋茶館に向かった。心当たりはそこしかなかったからだ。もう慣れた道を歩いていって、庭木の門を潜る。

 予想通り――池の中に浮かぶ人影が、見えた。

 もう日はすっかり高く、春らしいやさしい陽気が辺りに満ちている。桃や春の花々が美しい咲き姿を見せ始め、草木は冬のくすんだ色ではなく、青々と嬉しそうに芽や葉をのばしている。鴬や目白達の楽しげな鳴き声がそこかしこから聞こえてくる。

 その中で、バサンは人形のまま、死んだように池の真ん中をゆらゆらと漂っていた。日差しを反射して金細工のように燦めく額の角が、いつもよりもくすんで見える。持ち主の気分で変わるのだろうか。

 なんと声をかけていいかわからず、葟杞は淵まで歩み寄って、静かに名前を呼んだ。

「………バサン様」

 応えはなかった。だがぴくりと肩が動いたから、聞こえているのはわかった。ゆるり、春風が頬を撫でていく。

「……気持ちのいい陽気ですね」

「……………………」

「…私、春が一番好きなんです」

 小鳥達が可憐に囀り、空気が軽く柔らかく温かくなって、芽吹き、花咲き――希望が溢れる。今年こそは、と期待を持たせてくれる春は、やさしい。春は皆が笑顔になる。

「………でも、秋は、嫌いです。大嫌いです。気候はすこし春と似ているかもしれませんが、全く違うんです。……特に、私の故郷の村では」

 春は「今年こそはたくさん実ってくれよ」と願いをかける、始まりの季節。

 だが秋は、終わりの季節だ。収穫に肩を落とし、税を搾り取られむしり取られ――ひとり、またひとりと子どもたちが身を売っていく、別れと絶望の季節だ。

「………私、売られてきたんです。秋に、モノとして」

 ぽつり、葟杞は言葉を水に沈めるように、落とした。

 本当はイサクの話を聞かなかったふりをすることも、考えた。しかし――それはバサンから逃げることだった。矜持によって決して嘘を吐けない彼に、嘘を吐くのと同義だった。だから葟杞は、まっすぐに、尋ねようと思った。

 だが、彼のことを――彼の過去のことを知りたいと願ったときに、こちらのことを話さないのは卑怯だ。

 だから葟杞は、先に自分のことを話すことに決めた。

 結果、彼が葟杞を蔑み、お前は要らぬと捨てられることになったとしても―――下賤な罪人がよくも純潔を装ったなと激高した彼にその角で貫かれても、眉一つ動かさずに受け入れる覚悟と共に。

 相槌の代わりのように、かすかに池の水面に円が広がった。

 それを合図に、葟杞は、静かに語り始めた。

「私が生まれたのはずっと南の山で、この玄国の大半を占める汎族ではなく、()族という元々騎馬蛮族だった民の村で生まれました。

 騎馬蛮族は、西方や北方を拠点として遊牧をしながら時折、中原に住む汎族を襲って食料などを強奪します。だから汎族は本能的に騎馬蛮族が嫌いですし、蔑んでいます。…まあ驪族は遠い昔に山に定住して、汎族の嫁も何人もいますから、血はもう半分以上汎族なのですが、先祖が蛮族であったというだけでほとんどの汎族には憎まれます。

 驪族は故郷の村はに定住して以来、山の斜面に作った田畑を耕して、なんとか暮らしていました。ですが、あるときから『税』というものを払わなければならなくなりました。さほど物が実るところではありませんから、作った米は一粒残らず、国や官吏に持って行かれました。でも、それでも税が足りないときがあります。

 そのときは――人を売るのです。特に子どもを。そして金を作り、米の代わりに納めるます。私も六年前に、人買いに売られました。村の五人の女の子と一緒に。税を払えなければ一家全員が鞭打たれます。年老いた祖母も、生まれたばかりの弟も。…だから私は自分が売られたことを、恨んだことも悔やんだことも、一度もありません」

 ホーッホケキョ、と鴬が鳴いた。

 そういえば以前にこうしてバサンと話し込んだときも、乱入してきた。…あのときは彼にこんな話をすることになるなんて思ってもみなかった。張や雁翔館の仲間にも、木蘭にも、誰にも打ち明けたことのない、平陽に来る前の―――暗闇の過去。

 しかし葟杞はかすかに笑みさえ浮かべながら、続けた。

「…でも、その人買いが、本当に、酷い男達でした。普通人買いは、買った人間は大切に扱います。後で高く売りたいから。…ですがあいつらは、違った。頭をしていたのがね、貴族だったんです――汎族の。もう家が傾いていて、恨みと怒りしか持ち合わせのないその男達は、蔑む『モノ』である蛮族の娘達に手かせを掛け、馬車に二十人ほどをぎゅうぎゅうに詰め込まれ、水と僅かな粥しか与えないまま、毎日毎日、無理な移動をさせらました。……でも、それだけだったら……、まだ、よかった」

 すう、と心臓が凍えていく。未だに思い出すだけで、体が震える。でも彼に悟られたくない。ぎゅっと拳を握りしめ、葟杞は淡々と、告げる。

「四人いた男達はそれぞれ――好みの少女を毎晩、犯しました。泣き叫ぶ子、呆然と宙を見上げる子、色々です。…今でも悲鳴と慟哭が耳に残っています。それも、何人もの声が同時に、聞こえます。村から一緒だった子も、二人同時に相手をさせられたりして、抜け殻のようになりました。可愛い子だったのに。………私達は、畜生以下の存在でした」

 目は絶対に閉じない。思い出すから。地獄のような光景の数々を。

 葟杞は空を仰いだ。うららかな春の空。やさしくやわらかい、希望の季節の空。あのときとは違う――春の淡い色の蒼穹だけを、視界いっぱいに広げる。

「………今でも時々、夢に見ます。泣いて目覚めて、厠で吐いて、それから朝まで、眠ることができなくなります。もう一度見るのが、怖くて。

 あの男達は行く先々で強奪もしていました。村人がそれだけは持っていかないでくれと泣き叫ぶのを、高笑いして取り上げて、殴って捨て置く。…本当に、あいつらこそ、畜生以下の最低な奴らでした。………だから私、バサン様が人間をお嫌いになるのも、わかるんですよ。私も嫌いですから。でも―――私を救ってくださったのも、人間なんです」

 六年前、もう秋も終わる頃。

 夜には霜が降り、凍えるほど寒いのにボロ切れ一つ与えられず、皆で抱き合ってかたまって、必死に暖を取っていた。目の前で繰り広げられる阿鼻叫喚の地獄絵図に、耳と目を塞ぎながら。

 それが終わったのは――晩秋には珍しく生暖かい、どろりと重い曇天の夜だった。

「…ある夜、たまたま商隊の一団と同じ村に泊まることになりました。そんなことは、今まで一度もなくて――今しかないと、思いました。何人かの少女達は衰弱しきって、すぐにでも手当が必要でしたし。……だから、…私、は、」

 初めて葟杞の声が、揺らいだ。

 本当は、ほんとうは、言わずに済むなら、そうしたかった。逃げたかった。それほどに葟杞にとって、そしておそらくこの神獣にとっても、おぞましい事実だった。犯した罪を告白する方が、まだ、容易いほどに。

 だが葟杞は――瞬き一つで、迷いを振り切った。

「……私は、頭の男を、自分から、誘いました。…私はどうも、汎族の方には好まれないんです。体が大きいから、かわいくないって。だからそのときまで一度も相手しろと言われたことはなかったんですが、こちらから誘ったら、たまには違う趣向もいいと思ったんでしょうね。下卑た笑いを浮かべて、乗ってきました。

 私は、夢中になっているそいつの隙を見て、腰の短刀をこっそり奪って―――刺しました。喉に。深々と」

 両手に響いた、ずぶりと重い、肉の感触。――罪の感覚。

「……殺したんです。人を。この手で」

 鉄の臭気を撒き散らしびくりびくりと痙攣し、ごぽりと血泡を吹く男の下から、葟杞は必死で這い出した。どさりと横なぎに倒れ、だらしなく舌を伸ばしてたその男が完全に事切れるまで、息も忘れて、眺めていた。

 目を逸らすことが、できなかった。

 これが自分の決断の結果なら、全てを見なければならないと――思った。

「……そうして、今度は別の少女を組み敷くのに夢中になっていた他の三人を、毒草を塗りつけた刃で刺して、やっぱり殺しました。

 …私があのときそうしなければ、近いうちに少女達が先に死んでいた。確かにそれは事実ではあります。ですが、やはり、言い訳でしかありません。理由には、ならないんです。私は、人を守るためといって、自分が地獄を見続けることができなくて―――あいつらを殺したんです。私はまごうことなき、罪人、なんです」

 バサンは、身じろぎ一つ、しなかった。

 池に浮かび、ずっと反対側の三分咲きの桃の木を見つめたまま、こちらを向くことはない。未だに、奇妙に凪いだ気配のまま。

 だが、耳を塞いでいるわけではなかった。時折池に広がる波紋が、相槌の代わりに、聞いていると告げている。葟杞は一つ息を吐いて、続けた。

「…それから商隊のところへ行って、少女達を買ってくれないかと尋ねました。自分が人買いを殺してしまったから、行く当てがない。頼むから世話をしてやってくれ、と。

 …そのときのことは、今でもありありと思い出せます。突然奥から飛び出してきて、『人なんかわたくしどもは買いやせん!』と怒鳴りつけてきた―――奥方様の姿を」

 自然、葟杞の頬に笑みが宿った。

 商隊は下っ端も身なりがよかったから、相当な金持ちだろうとは踏んでいた。だから貴族装束の璋蓉を見てもやはりとは思っただけだった。

 だがその人の言葉には、心の底から、驚いた。

「奥方様は私の話を自ら聞き、少女達を引き取って、奉公先の世話をしてくださいました。奴隷ではなく、きちんと給金を得て働ける先を。そして、私を―――人を殺した咎を持つ蛮族の娘を、あろうことか、自分の佣人として取り立ててくださいました」

 なんという幸運だったのだろう、と今でも不思議に感じる。あの商隊が呂璋蓉の一団でなければ、葟杞は今こうして、恵まれた生活をしているはずがないのだ。

 役人に引き渡されていたら四人の殺人で死罪以外ありえず、とうに処刑されているし、もし万が一新たな人買いのところへ送られていたとしても、売られた先ではどこでもだいたいあの男どもと大差ない扱いをされる。だから奴隷はだいたい二年も保たずに死ぬ。

 どちらにせよ今はもう死んでいたはずの自分が……六年たった今も、まだ、生きている。

 『人間』として。

 本当に、なんという、幸運。

 あのとき死ぬはずだった葟杞は、璋蓉のおかげで―――もう一度、この世に生を受けた。

 璋蓉が葟杞に謂った言葉の一言一句まで、葟杞は今でもそらで言える。きっとこの先一生、忘れることはないだろう。

『確かにお前は罪人ではあるが、自分の為したことから、まったく目を背けなかった。その不器用なまでの誠実さは、得難い素質じゃ。獄吏に渡してむざむざ死なせるには、あまりにも、惜しい。どうせ死ぬつもりなら――その命、わたくしに預けてみぬか』

 意味がわからず、葟杞は呆然と目の前の貴人を見上げた。

 璋蓉は笑った。昂然と。

『わたくしはどんな過去にも興味はない。今からどのように生きるか、それにしか関心がない。お前は頭も勘もいい。先を見通す力も、決断力も度胸もある。その上、わたくしを引き寄せた運がある。わたくしはわたくしと同じものを見れる者を探していたが、お前にはその素質がある。――死ぬよりも生きたいのなら、わたくしと共に来るがよい』

―――生きたい。

 死ぬつもりだったのに、体の心の底から、その気持ちがぐわりと沸き上がってきた。生きたい。生きたい。生きたい。まだ、死にたくない。

 生きたい。―――この人の、下で。

 ぼろぼろと声もなく泣きながら、必死に「ついて行きたいです」と言い募った。

 よし、と破顔した璋蓉は、何よりも美しく、尊く、気高く―――(とうと)かった。

 貴族とは、本当はこういう人のことをいうのだと、知った。

「……だから私は、奥方様や、私の過去は知らずともこんな私を受け入れてくれてよくしてくださる雁翔館の皆や木蘭さん達が生きる、この平陽を護りたいんです。……誰よりも強く、護りたいと願っています。だから」

 ふわりと、葟杞は笑った。やわらかく――強い意志を秘めた微笑み。

「許されるのであれば、バサン様と共に、この平陽を護りたいと思っています」

 そう、葟杞は結んだ。

 文字通り、命を賭けるほど切実なる願いを、あなたと一緒に叶えたいと――何があったとしてもバサンを信じているという揺るぎないこころを込めて。

 鴬がまた可愛らしい鳴き声を響かせ、そよ風に花が揺れた。

 音もなく、バサンが起き上がった。

 水面の上に胡座をかいて座りながら、ぽたぽたと雫を滴らせ、じっと葟杞に視線を据える。見定めるような、探るような目。葟杞は初めて、瞼を伏せた。

 自分の心が凪いでいるか確かめると、ゆっくりと、開く。

 まっすぐに――光輝くほどに美しい神獣の姿を、視界に捉える。

 彼は、ただ静かに葟杞を眺めていた。何の軽蔑も、怒りも、他の感情すらなく。奇妙に凪いだ表情のまま。

 二人の眼差しが重なり合って、どれくらいたっただろう。

 ふいにバサンが視線を逸らした。

 水面に広がる波紋を眺めながら、バサンが吐息のように、呟いた。

「………俺も、都市と、相棒を、殺した」

 今度は葟杞が聞く番だった。ただ静かに、耳を傾ける。

「最初に言ったな。ヒュドラはまず、人間を操る。互いに争わせ、殺し合わせ、負の空気を作る。気の済むまでそれを味わった後は、都市を丸呑みするまでに、一日とかからない、と。……俺は人間同士の争いだと気にも留めず、それを見逃した。だから―――あの都市と土地を殺したのは、俺でもある」

 小さな声だった。いつも尊大で高飛車でふんぞり返っている彼が、小さく小さく吐き出した、本当の心。

「俺たちは単独で一つの区域を見ることはない。必ず違う性質を持つ複数で担当を受け持つ。その滅びた都市を含む区域の担当の中で、俺と相棒が奴を追討せよと命を受け、ヒュドラを追った。俺が選ばれたのは毒に耐性があり、とどめをさせるがゆえ。そして相棒が選ばれたのは、つむじ風を操り空を飛ぶ能力を持つがゆえだった。

 相棒の種族は、フォレッティという。六歳ほどの人間の子どもの姿で、陽気で、楽しい奴だった。風を起こして女に悪戯するのにだけは辟易したがな」

 彼の悪戯を思い出したのか、バサンが眉を顰めつつ、しかし唇を緩めてすこし笑った。好きだったんだろう、その相棒だった彼が。楽しげな笑みを浮かべるほどに。

 だが、その表情はすぐに、暗く沈む。

「俺と相棒はここからそう遠くはない西の砂漠の岩場で、ヒュドラを追い詰めた。そう、思った。―――だが、それは、罠だった。あいつは罠かもしれないと言ったのに、俺が、大丈夫だと、言った。……あいつの言う通りだった。罠だった。だから俺が、あいつの言う通りにしていれば、あいつは……!」

 バサンが、拳を水面に叩きつけた。水飛沫が跳ね上がる。池の中に沈んだ拳の周囲に細波が生まれる。…震えている。

「……相棒は俺をかばって、ヒュドラの牙を受け、死んだ。殺したのはヒュドラだ。だが、俺が油断しなければ、俺が死に、あいつは今も生きていた。だから………俺が――殺したんだ」

 血を吐くような、声。酷く歪んで、今にも泣きそうな、必死で堪えている顔。

 ぱしゃん、バサンの感情に水が反応して、跳ねた。ぱしゃん、ぱしゃん、と池のあちこちから波紋が広がり、奇妙な文様を描く。

 葟杞のことはもう、とうに終わったことだ。苦しくとも、話すこと自体が難しかったわけではない。…だが、バサンの出来事は、つい先日のことだ。人間の感覚で推し量るのはおかしいかもしれない。それでも――どれほどの痛みと悲しみを堪えて、あんなに平然と、平陽を守るために動いてくれていたのか。

 相棒のことなどきれいに押し隠し、天界の官吏として、守るべき存在は、命あるものは全て―――護る、と、本心から言い切れるものは、どれくらいいるのか。

「…相棒は」

 ようやくバサンが重い口を開いた。

「相棒は今際の際で、俺の角を掴んで言った。『俺の代わりに、あいつを斃してくれよ。俺の力を、託すから』と、血と毒泥にまみれながら笑った。―――俺は相棒を失った代わりに、風を操るあいつの能力を得た。あいつの代わりに、ヒュドラを斃すために。

 …だが、イサクが言ったように、天界はそれを疑った。天界のものとて万能ではない。運悪く相棒の死の間際の出来事は誰も見ていなかった。だから相棒が死んだ後、我を忘れたようにヒュドラを追跡し始めた俺に、不審を抱いた。奴を殺すために瀕死の相棒の能力を奪い、結果、殺したのではないか…と。だから新たな援護を派遣するまでは止まれと言われたが、俺はそれ無視した。……確かにあのときは、相棒の死で、頭に血が上っていたのだろう。俺は自分の力を見誤った。一人で斃せると盲信し、奴を捜し出し……ようやく、この平陽の西の山の一つで、奴を追い詰めた。

 あいつの風の力を借りて、俺はヒュドラに何度も角を突き刺し、奴の頭を避け、突き刺した。何度も何度も。…だが互いに血みどろになっても、奴はまだ死ななかった。そしてまた逃げられて―――平陽に入り込むことを、許した」

 春の風がさやさやと頬を撫で、池にゆるりと波が広がっていく。

 長い、長い息を吐いて、バサンが自嘲するように笑った。

 力なく、乾いた笑み。

「これで…わかっただろう。あの方士が書いて寄越したように、俺が、この都市を危機に陥れた。だからお前達平陽の民には俺を罵る権利がある。……だが、俺は、奴を捜し出すことをやめはしない」

 池の水面の上で、バサンはゆっくりと顔を上げて、葟杞を見据えた。強くまっすぐで、高い矜持に満ちた――深い湖の紺青の双眸。

 額の角が日の光を浴びて、金色に燦めく。

「俺だけで奴を斃すことはできない。それはもう思い知った。だから天界にも援護を頼んだし、必要ならばたとえあの方士だろうと誰の手でも借りて、決着をつける。今度こそヒュドラを斃し、平陽を救うことは俺の義務で、相棒に対する―――唯一の手向けだからだ」

 ざああ…と風が吹き荒れた。

 木々が揺れ、水面が揺れ、空気が揺れる。花びらが、舞う。

(………そっか…)

 今更ながら葟杞は、気付いた。

 結界の要だという方士の手紙にバサンが怒り狂ったのは、お前はすっこんでろ、と蚊帳の外に放り出されたからだ。確かにバサンは西の山では感情のままに動いていたかもしれない。だが今の彼は、自分の力量を正確に判断し、無闇にヒュドラを追いかけ回すことはなく、確実に仕留めるために動いている。

 彼の矜持にかけて、彼の相棒の今際の願いのため、今度こそ――ヒュドラの息の根を完全に止めるために。

 そして――彼の話を聞いて手助けをすると決めたとき、彼がどうしてあんな表情で『相棒』と口にしたのかを、ようやく理解した。

 束の間、葟杞は目を伏せた。

 そうして、心を、決めた、

「………バサン様。こちらへ、来ていただけますか」

 葟杞は水面に座す神獣に、静かに呼びかけた。

 バサンはゆったりと身を起こすと、水面を土の上のように歩き始めた。水を操るというのを目に見えるようにやると、こういう風になるのか。やっぱり神獣様なんだなぁと、葟杞はかすかに笑った。苦笑のようにも、微笑みのようにも、泣いているようにも、見えた。

 やがて岸まで辿り着いたバサンを、葟杞はとっくりと眺めた。光を放つような神々しい美貌、深い蒼の双眸、燦めく額の一角。バサンも同じように、葟杞を見つめる。大柄だがしなやかな体、怜悧さの滲み出た顔、強い意志を秘めた黒の瞳。

 その瞳が、ゆるりとやさしく笑んでいくのを、バサンはじっと目を逸らさずに眺めた。

「……バサン、手伝って」

 葟杞が右手を差し伸べた。対等な者として。―――相棒として。

「私、平陽を護りたい。あなたの力が必要なの」

「―――ああ。俺もだ」

 バサンはその手を、迷わずに取った。お互いの願いを果たすために。

 二人はただまっすぐにお互いを見つめ、ゆっくりと、確かに、確かめるように笑った。互いの存在を。互いの理由を。そして、互いの固い決意を。

 その光景を、鳥たちだけが見ていた。




 もう(ひる)近い時刻になっていたが、改めて相棒として平陽を救うために動き出した葟杞とバサンは、いつも通り貴族街まで足を運んだ。痕跡探しと手先捜しの方では成果ははなかったが――しかし夕方から出かけた西地区の方で、ようやく一つ、手がかりを掴んだ。

葟杞とバサンは、張が指摘していた吉佐小路を一つ東側に入った、富三(ふぞう)小路に来ていた。

 安宿も高級酒楼も、玄国の宿泊処はほとんどが食堂併設だ。むしろ食堂に泊まれる部屋がついている、といった方が正しい。また住人でも家族のある者は家で食べることが多いが、独り者は外食が普通だ。

 この富三小路も吉佐小路と同じく、小さな二階建ての一階が食堂、二階を細かく衝立で仕切って宿泊できるようにした安宿ばかりが立ち並び、合間の家も部屋貸しの下宿が多い。住人すらも隣の建物が家か安宿か把握できず、人が消えても最もわかりにくいと言われるだけあるくらい、複雑に入り組んでいる。

「すみません、最近見ない人とかいませんか?」

「見ない人ぉ?」

 葟杞とバサンは食堂を一軒一軒訪いながら、丁寧に尋ねて回った。

 あいつ見ねぇなあ、いやこないだ首都の商隊に入るっつってたぜ、あの歌い手は、南行くって旅立ったな、などほとんどが気をつけて聞けば誰かが消息を知っていたが、こちらが聞かない限りは皆、今いない者のことなど忘れている。この状態では確かに誰が帰って来ずとも全く気にならないのは道理である。

「ねえ、そこのお嬢さんとお兄さん」

 とある食堂に入ると、ぽろん、という場違いな音と艶のある声に呼びかけられた。

 振り向くとこんな辺りには珍しいほどの佳人が、ゆるりと目を細めてこちらを眺めていた。三十は過ぎているだろうに、桜の唇と抜けるように白い肌、薄茶の髪と目が相まってどこか浮世離れした仙女のような美しさだ。

「…お呼びになったのは、私達ですか?」

「そうさ。この辺りじゃ珍しい、毛並みのいいお二人さん」

 佳人も充分この辺りでは珍しい存在だと思ったが、葟杞は勾欄・雁翔館の者として、つい腕の中の楽器に目が引き寄せられた。真円の胴に細い首のついた月琴(げっきん)は丁寧に手入れされており、高級とまではいかないが上質の品。この裏通りには似つかわしくない。

「あんた達、こないだから毎日いるらしいね。何嗅ぎ回ってんのさ」

 佳人が歌うように尋ねながら、ぽろぽろん、と爪弾いた。けだるげに弾かれる音はしかし、決して単なる音にはならない。桜の花びらが舞うように、音がゆるりと落ちていく。葟杞はすこし瞠目しながら、答えた。

「最近、見ない人がいないか、調べているんです」

「なんだい、お役人様かい?」

「いいえ、雁翔館の者です」

「じゃあ呂家の下っ端だろ。似たようなもんじゃないか」

「…あなたは、南からいらしたんですか?」

 質問に全く別の問いをかぶせた葟杞に、佳人が片眉を上げた。一度流れを切りたかっただけで警戒させたかったわけではないので、葟杞はにこりと笑って、どうしてわかったと眼差しで訊いてきた佳人に種明かしをした。

「私も南の出身ですので、懐かしい抑揚だなと」

「…なるほどねぇ。でも、消えた人間なんて探してどうすんのさ? この辺りじゃ、人間なんていつでもふらっといなくなるもんだよ。みんな根無し草だからね」

「もちろんそれは存じていますが、私達は家出人や旅人を捜しに来たのではありません。文字通り、消えた人間を捜しています」

 すう、と佳人の目が細まる。ぽろん。今度は冷たい音が響く。

(…相当な腕だ、この人)

 いかに難しい旋律を弾きこなそうと、感情のない演奏をする者など山ほどいる。技術を身につけるより音で心を伝えることの方が、遙かに難しい。だが彼女は、爪弾く音にさえ、色をつけられる。―――雁翔館の舞台に立っていてもおかしくない腕だ。

(…それにこの人、何か知ってる…)

 葟杞は笑顔を保ったまま、佳人の前の椅子に座った。バサンも隣に腰掛ける。

「私は葟杞といいます。あなたのお名前は?」

「…このあたりじゃ、水仙と呼ばれてる」

 芸人は本名を名乗る者の方が少ない。通り名さえ聞ければ充分だ。

「では水仙さん。…あなたのお客さんの中で、突然消えた人がいるんですね?」

 迷わず断定した葟杞に、数拍置いて、佳人は嘆息した。

「…ああ。いるよ」

「やはり…。よろしければ、詳しくお話をお聞きしたいのですが…」

「…まあ、いいさ。こんな話をわざわざ聞きに来る物好きは、あんたらくらいだろうからね。……いつからだったかな、最近、旅に出るって話も聞かないのに消える人間が急に増えた。一人二人ならいいさ。…けど、あたしが気付いただけで、もう七人になる。いくらなんでも、こりゃあちょっと、おかしい」

 緩やかな旋律を奏でながら、水仙は答えた。涙の落ちるような、悲しげな切ない音色。心配する想いが切々と伝わってくる。葟杞は存分にその音を味わいながら、聞くべきことはしっかりと尋ねた。

「その最近というのは、ここ七、八日ほどの話ではありませんか?」

「そうだ。……あんた、何か知ってるのかい?」

 探るように葟杞を見やる水仙に、葟杞は可能な限り誠実に答えた。

「…事情があって、詳しくは申し上げられません。ですが、その質問の答えは、是です」

 水仙は鼻を鳴らした。ビン、と月琴が鋭く鳴る。怒ったのだ。

「お偉いさん方はいつもそれさ! あたしらみたいな底辺のやつらは馬鹿だから、何にも知らなくていいって思ってんだ。馬鹿にすんじゃない!」

 憤りを露にした乱暴な、それでいて美しい旋律。

「あたしらは虫けらじゃない、ちゃんと心を持って、底辺でも人間として生きてんだ! それを何にもわかってないみたいにのけ者にするんだ。あんたはちょっとまともかと思ったけど、やっぱり違うんだね。期待したあたしが馬鹿だったよ。ほら、さっさと消えな!」

 ベン!と一際大きな音をかき鳴らして、水仙はしっしと葟杞達に向けて手を払った。起伏の激しいお人だ。しかしこういう人だからこそ、これだけ豊かな音色を奏でられるのだろう。その方面の才能はこれっぽっちもない葟杞には、少しだけ、羨ましい。

 少しだけ目を伏せると、葟杞は落ち着いた口調で尋ねた。

「水仙さん。驪族を、ご存知ですか?」

「…驪族…? って、あの、驪族かい…?」

 唐突かつ予想外の質問に、水仙は思わず釣られて応えた。はい、と葟杞は頷く。

「私は驪族の出です。だから本来、あなたたちよりももっと底辺にいた人間です」

「…………そういや、あんた、汎族にしちゃごついね」

「ええ。だから、できれば、怒らないでいただけたら嬉しいです。さっきの答えも、どうしてもああとしか、言えなくて…。申し訳ありません」

 頭を下げた葟杞を、水仙は品定めするように睨んだ。そして、ゆるりとまた旋律を奏で始める。子守唄のような、離れた恋人への想いを歌うような、優しさと切なさを内包した音色。……本当に、良い腕だ。

 隣を見やると、あのバサンがまっすぐに水仙を眺め、味わうようにその月琴を聴いていた。いつもなら人間のたくさんいるところでは不機嫌そうに顰められてるその顔に浮かんだ感嘆の色に、葟杞はそんな場合ではないのに、すこし、嬉しくなった。

 始まったときと同じように、ゆるりと、その曲は終わった。

「……ありがとうございます」

 水仙からの謝罪の曲を受け取った葟杞は笑って、立ち上がった。

「もし、何かお気づきのことがあれば、雁翔館か璋璋茶館までお知らせいただけませんか? 葟杞に、と言付けていただければ通じますので」

「わかった。気をつけとくよ」

「ありがとうございます。…それと」

「何だい?」

 聞かずに去ろうかと思ったが、やはりどうしても言ってみずにはいられなかった。バサンが隣でまだ何かあるのか?と言わんばかりに眉根を寄せるのを一旦無視し、葟杞は水仙に切り出す。

「…これは雁翔館の者としての質問なのですが、」

「ああ、いい、言わなくてもわかる。―――あたしはここが好きなのさ」

 その気があるならお館頭に紹介したい、という提案は、水仙が先に封じた。その指先から、けだるげな、しかし優しい音色が零れ落ちる。

「あたしは流れで自由に、何やってもいいとこで、気楽に弾くのが好きなのさ。あんな大舞台じゃ、客と話もできやしない。決まったものをやらなきゃならない。そういうのが嫌いで、自分で決めてここで楽しくやってるのさ。だから放っといておくれ」

 さっきのような拒絶ではなく、水仙はその申し出をただ断った。

 芸人も色々いる。上をひたすら目指す者、稼ぐことを目的とする者、楽しむためにやっている者。どれだけの腕を持とうと、本人が決めた道を誰かが無理矢理外させたが最後、皆―――転げ落ちるだけだ。

 水仙は、可憐ながら、毒を持つ水辺の花。美しくも支配を嫌う彼女によく似合う。

 ちゃりん、と銀銭を三枚置いて、葟杞は立ち上がった。曲と情報の礼だ。

「お話、ありがとうございました。また月琴も聴かせてください。個人的に」

「いつでも歓迎するよ。そっちのお連れさんもまた一緒に来ておくれ」

 被布をかぶったままでは暗い店内では顔は全く見えなかっただろう。だが気配で感嘆していることに気付いたらしい。本当に、いい弾き手だ。

 葟杞は感謝の気持ちを込めて頭を下げ、バサンと共に店を出た。次の店に入るまでの短い間に、ふと聞いてみたくなって、口を開いた。

「水仙さんの月琴、気に入った?」

「悪くない音だ。…人間は基本的にろくでもないが、音楽は認めてもいい」

 いつも高飛車なバサンの悪くない、はかなり高位の褒め言葉だ。そういえば今朝も、この言葉から始まった。あのときは互いの一番痛いところを晒し合い、こんな風に相棒として共に取り組むなんてまったく思ってもみなかった。

 ……それは、今まで誰と仕事をしていても一人だった葟杞にとって、とても大きな出来事で。そんな場合ではないのに、少しだけ―――嬉しい。

 葟杞はかすかに頬を緩め、しかしすぐに気を引き締め直し、次の店に足を踏み入れた。




 翌朝、バサンが平陽に墜落して九日目。事態は一気に動き出す。


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