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二:傲慢、矜持、覚悟


 葟杞の朝は常に早い。

 たとえ昼過ぎからの勤めの日であろうと、いつも夜明けと共に起き出す。どれほど疲れていても、だ。雁翔館に勤め始めて五年、他の佣人達は葟杞が宿舎の朝の鐘が鳴るまで寝ているのを未だに見たことがない。

 今日もいつも通り鐘が鳴るよりずっと早く、曙光を浴びて起き出すと、寮の不寝番の者が用意してくれる廊下の水瓶から盥に水を汲んできて顔を洗い、身を清めた。そして眉間にくっきりと皺を刻みながら身支度を調える合間に、険のある溜め息を吐いた。

(…あのワガママ神獣め…!)

 溜め息の理由はもちろんというべきか、件の一角獣(ユニコーン)である。

 あの池亭を勝手に仮の居と定めて動かなかった彼は、更に葟杞以外に自らに触れることを許さなかったため、韓の采配で葟杞が世話係として傍につくことになった。それからたった二日が経っただけなのだが、既に苛立ちが溜まりに溜っていた。

 葟杞が神話や物語で抱いてきた『聖なる癒し手で清らかで誇り高い神獣』という幻想を初対面で木っ端微塵に砕いてくれた彼だが、その後も口が悪く傲岸不遜な振る舞いは全く変わらない。

(やれ「藁が堅い」だの「実が腐りかけ」だの「砂が混じってる」だのぐだぐだと……都市じゃ当たり前だ! 砂ぐらい池で自分で洗え!)

 ユニコーンは元来森の幻獣といわれるが、彼の要求は都市では叶えにくいものが多かった。いくら商都・平陽といえど、集まるものは人間が必要なものであって神獣に必要なものではない。ないものはないと人間なら納得するが、彼は平然と無茶な要求を続ける。

 業を煮やして一度「今すぐ山にでも行ったらどうですか」と言ったら、彼はこうのたまってふんぞり返った。

「俺とてこんな所になど居たくはないが、用があるから滞在せざるを得ない。だからお前達には俺が快適に過ごせるよう世話をする義務がある」

 本気で殴ってやろうかと拳を握りしめたが、葟杞はなんとか衝動を抑え込んだ。腐っても相手は神獣様である。どんな報復があるかわからない。実際のところ彼にどの程度の力があるのかは目下不明なのだが、少なくともあの角に貫かれれば確実に死ぬ。そんな死に方は御免である。

 彼は自分の基準に達するものしか認めない。呆れるほどに傲慢だ。ある意味『誇り高い神獣』といえるのかもしれないが、振り回される葟杞からすればただの暴君である。

「おう葟杞、おはようさん」

 眉間の皺が消えないまま三階の自分の部屋から降りていくと、食堂の入り口で後ろから声がかかった。振り返った葟杞の顔が、ようやく緩む。

「おはようございます、張兄さん。お役目、お疲れ様でした」 

「ありがとよ。お前は相変わらず早いな」

 ふあ、と欠伸を噛み殺しながら近づいてきたのは、楽屋処の佣人で、出演する芸人のための宿舎で昨夜の不寝番役だった張だった。「腹減ったな~」と厨師(りようりにん)のところへ向かう張の身体から、かすかに女物の香が漂う。確かこれは、昨日が最終公演だった女奇術師のものだ。葟杞は笑いを噛み殺し、張の次に朝餉の膳を受け取ながら澄まして言った。

「張兄さんは相変わらず人気者ですね」

「んん? なんだ、ヤキモチか?」

「全然。遊び人は御免です」

 すげなく断る葟杞に怒ることなく、むしろ「だろうな」とにやりと眉を上げる張と共に朝餉を受け取って席に着く。

 米入りの雑穀粥に雪菜と搾菜(ザーサイ)の漬け物、南瓜の種などを付けただけの簡単なものだが、米が毎日食べられるというだけでも葟杞にとっては幸せだ。手を合わせ、有り難く頂く。

「でもま、お前は俺みたいなヤツはやめとけ。苦労するだけだ」

 粥を吹き冷ましながら飄々と言ってのける張は、なぜか女が寄ってくる男だった。張も気軽に誘いに乗るので、不寝番の仮眠時間に泊まりの芸人と遊んでいることもままある。だが不思議なことに問題を起こしたことは一度もなく、またここぞというときの臨機応変な対応力には一目置かれており、突発的に問題が多々発生する楽屋処では重宝されている。

 そして葟杞にとっては、兄のように色々と気軽に話せる存在だった。

「ときに葟杞、お前、最近大丈夫か?」

 ぐっと喉に粥が詰まりかけた。気力で何とか飲み下し、引き攣った笑みを浮かべる。

「な、何が…?」

「いや、なんか疲れてるみてぇだし。ちゃんと寝れてるか?」

「………まあ、ちょっとね。でも眠ってるから、それは心配しないで」

 もう少し遠い関係なら大丈夫だと言っただろうが、相手は張だ。葟杞は伏し目がちに答えた。否定せず、曖昧に。

 一昨日からやたらとこうして「疲れてるぞ、大丈夫か」と佣人人仲間に心配される。葟杞が時折璋蓉に(ことづ)かった仕事をしているのは皆わかっているので詮索されることはないが、あまりに案じられるので少々心苦しい。いっそ全部ぶちまけて愚痴りたい。

 ずず…と粥をすする音だけが響く。まだ他の佣人達は来ない。

 ごっそさん、と張が手を合わせた。そして、その手で葟杞の頭をくしゃりと撫で回す。

「あんま無理すんなよ。お前はがんばりすぎるからな」

 素朴な仕草に葟杞は微笑んだ。温かい。

 山から出てきたときは、こんなに恵まれた生活ができるなんて、本当に、想像もしていなかった。

「……ありがとう。でも、お役に立てるのは、幸せだから」

 今回の件は、多忙の璋蓉がわざわざ『必要な手配は全て行うゆえ、くれぐれもよろしく頼む』と直筆の文を下さるほどの重大事だ。どれだけ鬱憤が溜ろうと、やる理由は葟杞にとってそれで十分だ。

 ごちそうさまでした、と全て食べ終えて葟杞も合掌すると、張が目を細めて笑った。

「うん、ちゃんと食ってよく寝ろよ。そんで俺にできることがあるなら気軽に言え」

 張はぽんと葟杞の頭を叩き、さりげなく葟杞の分の食器もさらって洗い場に持っていって置いた。何も言う間もないほどの早業だった。

「じゃ、一日がんばれ。俺は寝る」

 ひらひらと手を振り背中を向けたまま食堂から出て行ったのは、照れ隠しだろう。慌てて「ありがとう!」と声を張ると、また張が手を振って、階段の向こうへ消えた。押しつけがましさのない優しさに自然と葟杞の眉が下がる。

(…よし、行くか)

 表情を引き締め、軽く頬を叩く。気分は出陣である。葟杞は雁翔館の敷地内にある寮に面した小路を歩いていき、星火大路に出た。

 早朝の星火大路は、嘘のように静まりかえっていた。歓楽街であるこのあたりは昼前から深更まで喧噪が止むことはないが、この時間だけは皆が眠りに就くのだ。

 葟杞はこの静かな時間も好きだった。街路樹に蕾ができていたり、路傍に小さな花が咲いていることに気づくことができる。山育ちの葟杞は自然のものを見るとやはり落ち着く。

(もう梅は五分まで咲いたな…)

 白梅をゆるりと愛でながら、件の神獣が居座る、斜向かいの(しょう)(しょう)茶館までの短い道のりを辿る。

 璋璋茶館は名前から判る通り、璋蓉が経営する茶館である。雁翔館と同じくこちらも巷で大人気の(みせ)で、庶民から貴族まで女性客が引けも切らない。

 人気の秘訣は、元々は貴族の屋敷だった広大な敷地を丸ごと典雅な庭院にし、点在する離れや池亭や四阿で季節感と色彩に溢れる景色と食事を同時に楽しめるという、女性の憧れを凝縮した今までにない茶館だからである。平陽の庶民が少しの贅沢に、金持ちが気軽に茶や食事を楽しむためにやってくる一方で、安全快適な宿泊設備を求めて他都市の上流層の婦女が宿とすることも多い。

 王朝が代わってから女性が公に出ることが多くなり、旅行をする女性も増えている。だが、酒楼や茶館などの宿泊処兼食事処のほとんどは未だに男性向きで、女性が気軽に安心して宿泊できる場所は少ない――そこに目の付けて徹底的に女性のための施設を作るのが璋蓉が女傑たる所以の一つであり、葟杞が感服するところでもある。

 広大な茶館をぐるりと囲む白い塀の先にある通用門を開けてもらい、もうすっかり慣れた足取りで庭院を進んでいく。

 葟杞の育った南方の山はひたすら鬱蒼とした深く濃密な山だった。都市育ちならたやすく迷子になるほどの庭院も、葟杞には町中も同然だ。こんなに人の手の入った整然とした庭院で迷っていては、故郷では即座に遭難する。

 互いが見えないよう配置されている幾多の建物を通り過ぎ、途中で洗い上がった衣と(しゅ)(きん)を受け取ってから最奥部に辿り着くと、ぱしゃん、と水音が聞こえてきた。

 いつも通り水浴びをしているのだろうと思いながら門のような庭木の脇を抜けると、やはり、池の中にその姿はあった。

(……綺麗)

 朝の日差しを、長い白金色のねじれ一角が弾いて燦めく。純白としか表わしようのない眩しい白の体躯と虹色の(たてがみ)が、水を浴びてよりいっそう輝く。

 光そのもののような―――麗しき神獣ユニコーン。

 見ているだけなら、溜め息が出るほど美しい。いつまででも眺めていたいと思える。

(これで本性がアレじゃなきゃな…)

 別の意味で葟杞が溜め息を漏らすと、ユニコーンが気付いてこちらを向いた。やって来た葟杞に目を眇め、ざばりと盛大に水しぶきを飛ばしながら角の先まで池に沈む。

 次に水面を割って出てきたのは、まるで人間のような姿だった。

 青みがかった月白色のざんばらな髪。鋭い双眸は驚くほど澄んだ深い紺青色。眉も鼻梁も顎の線までもが西方の彫像のように完璧に整った美貌に、ほどよく筋肉のついた優美な身体。まさに絶世の美男子といえる。―――その額に、白金色の角がなければ。

 葟杞を見るなり彼は言った。

「服」

 単語のみの命令に葟杞はむっと顔を顰めた。いつもながら挨拶はない。

 しかしこの程度ではもう葟杞も驚かない。二度目の溜め息と共に新しい衣と手巾を池の端に置いてやり、そこらに脱ぎ散らかされた衣を拾い集め、一旦その場を離れる。

(…あれは二度と御免だ…)

 最初に水浴びに居合わせたとき、彼は全裸にもかかわらず目の前で平然と池から上がろうとしたため、葟杞は悲鳴を上げてその場から逃げた。以来、衣服を置くと即座に離れることにしている。

(…服を着るっていう習慣があるだけマシだけど……でも服着ることを知ってるなら、『みだりに裸を見せるものじゃない』ってことはなんでわからないかな…)

 最初に遁走した後、彼は「なぜ逃げた?」とこれまた平然と問いかけてきて、葟杞は真っ赤になって「いい大人が異性の前で裸を見せないでくださいみっともないっっ!」と怒鳴りつけた。彼の神獣は『獣』とつくだけあって、色々と感覚が人間離れしている。こういう、恥ずかしいという概念がないところは実に動物的だ。

 下手に美しいだけに、彼の裸体は完全に目の毒である。暴君っぷりに散々付き合わされて辟易している葟杞ですら動悸がする。実は、今も頬が少し熱い。ときめいたのではなく、生理的な反射だ。断じてときめいてなどいない。断じて。…たぶん。

 悶々としながら、近くに置いてもらっている神獣様用の朝餉がずっしり入った籠をえんやこらと持って行くと、彼は「おっ」と嬉しげに眉を上げた。珍しい。

「今日は苺があるな」

「…よくおわかりで」

 一抱えほどある大きな籠には果物や野菜がどっさり入って、確かに今日は苺が数個入っていた。おかげで今朝は機嫌がいいようだ。用意してくれた茶館の佣人を心の中で拝む。

 地べたに座った彼の横に朝餉の籠を置き、葟杞は今度は薬草を取りに行こうと身を翻した。が、裾をぐいと引かれてたたらを踏む。初めてのことに驚いて振り返る。

「話がある。座れ」

 神獣が苺を頬張りながらではあるが、まっすぐに葟杞を見ていた。

 太陽の下で真っ正面から近くで顔を向かい合わせたのはそういえば初めてで、輝くほどの美貌を前にさすがの葟杞も少したじろぐ。

「…話、ですか? あの、あなた様がお食事をなさっている間に薬草を取りに行きたいので、その後ではいけませんか?」

「傷はあらかた治ったからもう要らん。座れ」

 万事自分の好きなようにやりたい御仁である。傷も治ったと言われれば逆らう意味もなく、葟杞内心驚きつつ、正面から少し外した位置に膝をついた。

(もうあの傷が全部治ったの…?)

 出会い頭にあれだけの怒鳴り合いを演じたが、実はそのとき彼は腹と足に相当な深手を負っており、その傷を目の当たりにした葟杞はさすがに血の気が引いた。しかし彼の言う通りに薬草を用意したら、ものの二日で完治したことになる。やはり神獣は身体の仕組みが違うのだろう。

 ちなみに彼が怪我をしていることを意識からすっ飛ばして怒号合戦に応じてしまったことは反省しているが、その原因は全て彼にあるので謝るつもりはさらさらない。

「お前、名は」

 神獣が菜っ葉をむしりながら尋ねた。ものすごく今更な問いだったが、葟杞は彼にまだ名乗っていないかった。聞かれなかったし、わざわざこちらから名を教える必要もなかったからだ。初対面で下郎とか下衆とか散々罵倒されていたので彼にとっては人間は下僕扱いで名を聞く価値もないのかと思っていた葟杞は、訝しみながら答えた。

「…葟杞、と申します」

「葟杞か。俺はバサンという。知っての通りユニコーンで、西方から来た」

「西方ですか」

「そうだ。この玄国西方の遠大な砂漠の更に向こうに、こことは全く違う森林の広がる土地がある。俺はそこからやって来た」

「はあ」

 想像もつかず、葟杞は曖昧に頷いた。しかし今までまともな会話なぞしたことがないのに、一体何の話をするつもりなのだろう。この流れだと身の上話か。

(まさか…ようやく神獣らしく冒険譚でも語る…とか…)

 うっかり葟杞はそんなことを考えてしまったがしかし、彼は―――バサンはやはりここでも全力で予想と期待を裏切った。

「俺は天界にある大地管理庁、淡水部門、湧水担当の官吏だ。ここへはとある調査の仕事で来た」

「………………………………………は?」

 葟杞はいつもなら直視できない神獣の美しい(かんばせ)をまじまじと見つめながら、彼の台詞を三回頭の中で繰り返した。だがまったく理解できず、ぽかんと口を開けることしかできなかった。庁やら部門やら官吏やら、何かこう、やたらめったら現実的な単語が並んでいたような気がするのだが――頼むから気のせいであってくれないだろうか。

 しかしバサンは至って真面目に続ける。

「だから俺は、天界に所属する官吏だと言っている」

「…………………」

「天界は地上その他の世界の全てを監視し、随時適切な処置を施して管理する役目を負っている。そのため我々のような神獣などが各々の生まれ持った能力や適性に応じて、大地管理庁、海洋管理庁のどちらかに振り分けられ、各地で監視や調査などの仕事にあたる。俺はユニコーンだから淡水の泉や井戸などの湧き水の調査や浄化などを主に担当している。本来もっと西方の区域を任されているが、こちらに済ますべき仕事ができ、来た」

 どこにも冗談の欠片もない堅苦しい解説に、葟杞はくらりと眩暈を覚えた。

 なんという、なんという夢のない話だ。もっとこう、何かあるだろう。幻想的な身の上話をしろとは言わないが、なぜ官吏。なぜ仕事。人間でもないのになぜそんな世俗的すぎるみみっちい理由しかないのだ。

(…せめて美しい乙女に騙されてやって来たとか…!)

 数年来泣くことなど忘れていたけれど今回ばかりはちょっと泣きたい、と葟杞は本気で落ち込んだ。何故ひたすらこちらの夢を潰していくのか。何か恨みでもあるのか。

 しかしあの神仙やあの幻獣達が皆全て天界の官吏として働いているなんて、信じたくない。たのむから嘘だと言ってくれという藁にもすがる気持ちで、葟杞は恐る恐る尋ねた。

「……あの、一つ質問なのですが」

「何だ」

「…その、神々やあなた様のような神獣は皆が皆、天界の官吏として働いていらっしゃるのですか…?」

「もちろん違うが、人間のいう『いい神々』というのは、大体そうだな。そもそも、大昔は個々がそれぞれやっていたことを、今は天界がまとめて状況を把握し、最も効率よく行えるようにしただけだ。世界に人間ができる前からやっていることと別に変わりはない」

「…………………そうですか…」

 言われてみれば確かにその通りだ。だがしかし――なんだこの夢のない現実は。

(…ああもう、西方の吟遊詩人達がどうしてこれをちゃんと伝えてくれなかったの…! あとユニコーンの本性もちゃんと教えてくれていたら…!)

 あまりの衝撃に、葟杞は全く関係のないところに非難をまとめて横滑りさせた。現実逃避であることはわかっているが、長年の憧れを悉く粉砕された傷は深く痛い。

「俺はこの都市に降りて以来、妙な結界に阻まれて天界と連絡が取れない。だが事態は一刻を争い、また、早期解決には人間の協力が必要不可欠だと判断した。だから」

 どこまでも乙女の夢と期待と想像を裏切り続けるバサンは、悲嘆にくれる葟杞に気づきもせず。

「――葟杞、俺が仕事を片付ける間、俺の案内役になれ」

 事もなげに、命じた。威張るでもなく頭ごなしにでもなく脅すでもなく、自分の要求は全て叶えられるのが当然と思っている態度で。

 意思も感情も許されない奴隷に命じるように。

 初対面のときよりも遥かに大きく―――何かが切れる音がした。

 葟杞はにっこりと笑った。

「お断りです」

「………何?」

 予想だにしていなかった返事にバサンが目を剥いた。

「…貴様、天界の官吏で神獣たる俺に――断る、だと?」

「ええ断固お断りです。絶対嫌です。どっか他当たってください」

 いっそ清々しいほどの笑顔で葟杞は再度答えた。目が完全に据わっている。あまりにも怒りに満ちるとこういう顔になるのか、と葟杞はあまり知りたくなかった新たな自分の一面を発見した。

 だがバサンはふんと馬鹿にしたように鼻を鳴らして、まったく堪えていない様子で人参を囓った。気づくと山盛りだった籠の中身はほとんど消えている。いつの間に。

「生意気な。そもそもお前に拒否権などない。俺はお前以外認めない。この都市の人間で俺が傍に(はべ)るのを許すのは葟杞、お前だけだ。それの何が不満だ?」

 呆れるほど傲慢で誇り高いこの神獣が、葟杞だけは認めている。璋蓉や他の誰をも差し置いて―――葟杞だけを。以前なら昇天する心地だっただろう。

 だが葟杞は、些かも動じなかった。

「不満ではなく、そんなものは要らないだけです。天界のお官吏様がどれほど偉いのか知りませんけど、顔洗って出直してください」

「顔を洗えばいいのか?」

 真顔ですっとぼけたこと尋ねるバサンに、ぎりぎり保っていた理性が、弾け飛んだ。敬語も何もかも忘れて怒鳴りつける。

「―――いい加減にして! 死んでも嫌だっつってんのわかんない!?」

 傲岸不遜で侮辱を何より嫌うバサンが葟杞の剣幕に呑まれ、無意識に腰を引いた。

 あれ、これちょっとやばいんじゃ…?と頭の片隅で思いながら、葟杞は自分を止められなかった。

「命令したら私のこと思い通りにできると思った? 残念大間違い。あなたには取るに足らないだろうけど、人間には人間なりの矜持があるし、意思も感情もあるのよ。私はあなたの奴隷でもお人形さんでもない。あなたに今まで尽くしてあげたのは、神獣であるあなたが私を選んだからじゃない。あなたが雌豚とか罵った私の主が、あなたを丁重にもてなすよう頼んできたから。それだけよ。あなたは奥方様を無視して侮辱したのに、あの方は勝手に落ちてきたあなたを『神獣だから』って丁重に扱ってくださったのよ。よかったわね? 神獣様で。でも、私はそんなものには従わない」

 止まらない。目の前が真っ赤に染まって、傍にあるはずのバサンも池も池亭も何も見えない。見えるのは、ただ、自分の怒りだけ。

 衝動のままに、叫んだ。――ちっぽけでも譲れない自分の矜持をかけて。

「私の意思も感情も大切なものも何もかも無視するあなたの命令には、絶対に、死んでも―――従わない!」

 葟杞は雁翔館の佣人だ。

 奴隷ではなく、雇われて働く者なのだ。

 国民の大多数を占める汎族は古くから、北方や西方の騎馬民族の強奪や侵略に何度も辛酸を舐めてきた。ゆえに蛮族を、そしてその血が混じる者を憎み、蔑む。その最たる例が人買いに売られるような貧しい蛮族出身者を、奴隷とする習慣だ。王朝が代わって公的には奴隷が禁止されて多少状況が変わってきたが、積み重なった偏見も差別も習慣も早々変わることはない。

 だから驪族出身の葟杞は、犬や物と同じように一生、奴隷として死ぬまで酷使されるはずだった。

 そんな数ならぬ身の人間を璋蓉は救い上げ、真っ向から佣人として認めて取り立て、時にこうして頼りにしてくれる。――目の前の神獣とは、違って。

『奴隷なぞ、支配と快楽ばかりを求める愚かな男どもの作った最低の制度じゃ』

 生粋の貴族でありながら、璋蓉は平然とそう言い切る。

『どのような出自であろうと人間は皆、女が腹を痛めて命を懸けて産んだ子ども。男は産む痛みを知らぬから、同じ人の子を牛馬と貶めるような恐ろしい真似ができるのじゃ。わたくしはそのような、男が作った馬鹿げた慣習なぞ、一つ残らず破ってやるわ』

 女でありながら、いや女だからこそ玄国の生命線ともいえるこの商都・平陽に君臨する女傑がこの言を破ったことは、一度たりとも、ない。

 葟杞のような者にとって、その存在は何よりも美しく、気高く―――神と同じほど、(たつと)い。

 だから葟杞は、血が沸騰して我を忘れるほど憤激した。

 璋蓉の手でようやく『人間』になれた自分を、全て否定するバサンに。

「……………………………悪かった」

 肩で荒く息をする葟杞に、その言葉は、投げられた。

 一瞬、何を言われたのか本気でわからなかった。―――今、確かに、悪かった、と聞こえてきたような気がする。

(………空耳?)

 葟杞が思考停止に陥っていると、もう一度、ぶっきらぼうにバサンは告げた。

「……悪かった、と言っている」

 幻聴ではなかったらしい。あの傲岸不遜で高慢で、俺様何様神獣様、全て俺様に従え、を地でいくユニコーン様が、……謝った?

 ただただ信じられず、呆然と葟杞はバサンの方を見た。

 バサンは組んだ手の上に顎を載せ、仏頂面であさっての方を眺めながら、口を開いた。

「……今まで言われたことがなかったから気付かなかったが、確かに、俺はお前達人間は俺達に黙って従うのが当然だと、疑うことはなかった。だが俺に意思と感情と矜持があるように、お前にも同じものがあるのなら……それは尊重すべきだった」

 訥々と語られた言葉に、葟杞の目も口もがぽかんと丸く開いていく。

 正直、あそこまでぶちまけてしまった時点で殺されても仕方ないと覚悟していた。だが、まさか、全面的に非を認めた上で謝罪されるとは。想定外もいいところで、何か応じなければと思うのに驚きすぎて頭が働かない。

 動けないでいると、バサンがゆっくりと、身体ごと、葟杞に向き合った。

 真っ正面から、まっすぐに葟杞を見つめて。

「…葟杞、お前に協力を要請する。――このままだと、この都市のものは皆殺しになる」

 淡々と、言った。

 葟杞がバサンの告げた内容を理解するのに、しばらくかかった。理解して、刹那のうちに喉が干からびた。

「……みな、ごろし?」

 からからの声で葟杞が聞き返すと、バサンは「そうだ」と頷いた。平坦な声で続ける。

「俺がここへ来たのは、大罪人を追って来たからだ。俺の管轄の西方の都市が一つ、消えた。ちょうどこの平陽ほどの大きさの都市だったが、毒の泥海と成り果てた。そこにいた人間も動物も皆、毒泥に沈んで、死んだ。土地もな。少なくとも向こう百年は天界の力を以てしても再生できぬほど徹底的に、其奴は何もかもを殺戮していった」

 とある都市の最期。

 それは平陽の未来だと神獣は告げる。淡々と。冷徹に。

「其奴はまず人間を操る。負の空気を作り、互いに争わせ、殺し合わせる。気の済むまでその惨劇を味わった後、都市を丸呑みするまでに、一日とかからなかった。―――そうなるのを見たくないなら、協力してくれ」

 一度下がった怒りが、またその一言で沸騰する。握りしめた拳が震える。結局、そうやって脅して葟杞を思い通りに動かそうとしてるバサンを、殴りたくて仕方がない。

 平陽は故郷も同じ。いや、もう故郷よりもずっと大切な場所だ。そして何より、たくさんの恩人や仲間の住む都市だ。それがどこぞの妖魔に滅ぼされるのを、見たいか、だと?

(…見たいわけあるか!)

 助けられるなら、助けるに決まっている。自分の命など放り投げて走り回って、助ける。一度死んだ自分の命で璋蓉をはじめとする大切な人が皆が救えるのなら、喜んで差し出す。当たり前だ。―――だが。

(…なんで、こんなやつのためには働かなきゃいけないの…!)

 ぎりと奥歯を葟杞が噛みしめた、ちょうどそのとき。

 ホー、ホケキョッ

 唐突に暢気な鳥の声が響いた。驚いて咄嗟に顔を上げる。

「なんだお前ら。また来たのか」

 バサンが、呆れたように、だが初めて見る嬉しそうな表情で、鳴き声の方を見た。綺麗な(うぐいす)が三匹、ちょんちょんと地面を飛び跳ねながら近づいてきている。

 バサンはまだ残っていた枇杷をくるりと剥いて、無造作に投げてやる。小鳥が礼を言うように可愛らしく鳴き、果肉をつつき始める。

 あまりにも場違いで平和な光景に、緊張の糸が切れた。身体中に入っていた力がどっと抜け、もう何もかも放棄して今すぐ床に倒れ込みたいと思った。

「……俺は小鳥も木々も川も地下の水も、大地全てを護りたいだけだ」

 ぽつり、声が落ちた。無造作に投げられた枇杷のように。

「その中には当然、人間も入っている。俺にとってはこの小鳥も人間も、まったく同等の存在だ。同じ命を持つ生き物だ。しかし、意図的に悪事を行うことがままある人間が、俺は好きではない。だから言動にどうしても軽蔑が表れるのだろう。…だが」

 バサンが再び顔を上げた。

「天界の官吏として、守るべきものは、護る。命あるものは全て、護る」

 深く澄んだ紺青色が、ただまっすぐに、葟杞を見つめて―――告げる。 

「―――俺は、そのためにここへ来た」

 自分に向き合って座るバサンを、葟杞は初めて、何の感情も交えずに見た。

 絶世の美貌、その額にはねじれた(すぐ)の一角。傲岸不遜なこの神獣を、西方の伝承はこう語る。この世で最も美しく、最も恐ろしく、最も優しく、最も誇り高い獣――と。

(………この、ひとは)

 葟杞はこの五年間、歓楽街の中で生きてきた。裏通りに入れば、おかしな薬を売る者、人買い、強盗、春を(ひさ)ぐ者、金で人を殺す者、何でもいる。表だって商人や貴族の不正や横暴なんて日常茶飯事。それが善人悪人問わず、『人』が集う商都・平陽だ。葟杞自身は幸運にも恵まれた環境にあるが、嘘や(かた)りや悪事は山ほど見てきた。

 だから思考ではなく、わかる。

(…何一つ誤魔化せない人だ)

 この神獣は唯我独尊で文句ばかり垂れ流して常に傲慢で自分の気に入らないことを認めず―――ただの一度たりとも自分を偽ったことがない。

 なぜなら彼は彼の矜持によって、真実以外を口にすることができないから。

 すぅっと頭が冷えていく。詰めていた息を密やかに吐き出し、ゆっくりと息を吸い、もう一度吐いた。

「…一つだけ、お聞きしたいんですが」

 色々と許し難いことはあるが、とりあえず一旦脇に置いておく。葟杞は冷静に、ただ確認すべきことを問うた。

「何だ」

「その、大罪人というのは、間違いなくこの平陽にいるのですか?」

「いる」

 バサンは断言した。

「俺の怪我は、その大罪人にこの角を叩き込んで、欠片を入れ込んだときに出来たものだ。だからわかる。―――奴はここにいる」

 充分すぎる回答だった。葟杞は顎を引き、挑むように神獣に視線を据えた。

「わかりました。あなたのご案内のお役目、お受けいたしましょう。…ですが、一つ条件があります」

「………条件?」

「はい」

 怪訝に片眉を上げるこの神獣にとって、不愉快な条件でことはわかっていた。だが、これだけは譲るわけにはいかない。葟杞にとって命令されることを忌避するのと同じくらい、大切なことだ。

「あなた様が人間をお嫌いなのはよくわかりました。あなたが心の中でどう思おうと、そして通りすがりの人間を馬鹿にしようと、それは構いません。―――ですが、私といる間は、私がとても大切に想う方々を見下すような言動は、やめていただきたい。あなた様が矜持を傷つけられるのと同じくらい、私にとって苦痛なことですので」

 一拍置いて、バサンが、ぽかんと顎を落として目を丸くした。初めて見る間の抜けた面だった。造作が良いのでこんな表情も様になるのが、なんとなく悔しい。

 やがて彼は「くっくっくっ…」と口元を押さえたかと思うと、腹を抱えて笑い始めた。あまりにも笑い転げているので、葟杞はむっとしながら尋ねる。

「……………何がそんなに可笑しいんでしょうか」

「神獣たるこの俺に交換条件を突きつけた人間は初めてだ。しかも俺の人間嫌いを知ってその条件。ああ、それと俺を怒鳴りつけたのもお前が初めてだな。…いやいや、まったく大したやつだ。百年は生きてるが、こんな面白い人間に会ったのは初めてだ」

「………。それは私を馬鹿にしてらっしゃるんでしょうか」

 笑いながら言われても、全く褒められている気がしない。葟杞が憮然と問うと、バサンはひょいと体を起こし、破顔した。

 夏の太陽のような、満面の笑み。

「―――ますます気に入った。これからよろしく頼む、葟杞」

 ぼっと頬が熱くなる。

(くっ…このっ! 無駄に顔が良いんだから!)

 心の中で毒づきながら、葟杞はぷいとそっぽを向いて言った。

「こちらこそよろしくお願いいたします。…それで、私は何をすればいいんですか? バサン様」

「バサンでいい。敬語もいらん」

 打って変わった親しげな態度に、葟杞は不審げにバサンに目をやる。神獣は立て膝に頬杖を突きながら、目を細めて、笑った。

「ここではお前が…、相棒だ。相棒は対等であるべきだろう」

 それの表情はなぜかとても優しくて―――奇妙な熱がこもっていた。どきりとするほど美しいのに、胸が痛く苦しくなる。

「…いえ、あの、無理です」

 我知らず首肯しそうになり、葟杞は慌てて否定の言葉を口に出した。

「神獣様相手に敬称も敬語も外せと言われても困ります。できません」

「なぜだ? 俺も神獣ではあるが、一つの命。命に貴賤も上下もなく、同じ仕事をするのに敬語なぞおかしいだろう。だいたいさっきは思いっきり普通の口調で怒鳴っていただろうが」

「あれは! 完全に勢いですすみません! ………でなくて! その貴賤がないとか言われればそうかもしれませんが、それでもやはり神獣と人間では対等にはならないでしょう。しかも私は案内役であって、相棒ではないと思います」

「細かいことを気にするな、お前は」

 呆れたように眉を顰めたバサンに、葟杞はもっと呆れた。どう考えても細かいことではないだろう。だが、彼が自分の理屈を曲げないことはよくわかっている。これ以上は無駄と、葟杞は早々に説得を諦めた。

「とにかく…いきなりは無理です。申し訳ありません。それで、何をするつもりなのか教えてください。必要なものがあればすぐに準備いたしますから」

 きっぱりと話を戻すとバサンは不満げな顔をしたが、それ以上しつこくは言ってはこなかった。

 それにしても妙なおひとである。人間嫌いのくせに葟杞の話もきちんと受け入れてくれた上に、対等だ相棒だなど。葟杞の理解を越えている。

 とりあえずわかるのは、どうやら気に入られたらしい、ということだけ。

 葟杞は重くなってきた頭を傾げ、天を見上げた。雲一つない、やわらかな薄い青の空を、渡り鳥の群れが列をなして飛び過ぎていく。危機が迫っているとは到底信じられない、暢気な春の空だった。




「なるほど。あいわかった。必要なものは手配しよう」

 韓は葟杞の文から目を上げ、しかと頷いた。

 バサンの世話役を仰せつかってから日に一度、韓に報告をすることになっている。今日も葟杞はどきどきしながら呂氏の屋敷の門を潜り、韓の室で先程の話をまとめた文を手渡していた。話すと長くなるので、先に書いておいたのだ。

「だが…、この『ひゅどら』とかいうものは、斯様に恐ろしいものなのか? 平陽ほどの大きさの都市を丸ごと毒の海に変えてしまうなど……」

 ヒュドラ。それがバサンの追う大罪人だった。

 竜の一種で、何十もの頭と不死の一頭を持つ巨大な怪物だという。その住み処は肉を腐らせる毒が充満し、生き物も土地さえも殺してしまう。それだけでも十分恐ろしいというのに、バサンの追う者は何らかの手段で元々持ち合わせていなかった、住み処や姿を隠す術、毒の沼を産み出す術、更には人間を操る術さえ得ている、おぞましい妖魔である。

 今ひとつ実感が沸かないのか眉根を寄せる韓に、葟杞は言った。

「彼の神獣が嘘を吐いたことはありません。紛れもなく真実だと私は判断しました。もちろん、裏を取る手段はありませんが…」

「ああ、いや、疑うているわけではないのだが…。すまん、年を取るとどうも新しいものが苦手でな。しかもそれが西方の神仙やらの話となれば尚更だ」

 苦笑する韓に葟杞は慌てて「いえ当然のことでございます」と目礼をした。下手な若者よりよっぽど柔軟な思考を持つ韓ですらこうである。普通の人間なら冗談と笑い飛ばす類の話であることは葟杞もわかっている。うむ、と韓は顎髭を撫でた。

「そもそも一角獣を目の当たりにしておる今、信じぬわけにはいかんしな。ひとまず、儂の書状だけでも今用意しよう。座って待ってなさい」

 そう言って韓は隣の書房へ向かった。その姿が見えなくなると、ふう、と我知らず息をが漏れた。まだ(ひる)にも遠い巳の刻なのだが、既に一日経過したような気がする。実際のところはバサンと話をしていただけなのだがひどく消耗していて、普段なら立ったまま待っている葟杞だが、韓の言葉に甘えて椅子に腰掛けることにした。

 と、そこへ侍女が茶と胡桃の焼き菓子を持ってきて、葟杞は驚いた。葟杞は呂氏の佣人であって客ではない。もてなされる立場ではない。

「あの、どうして…」

「奥方様のお言いつけよ」

 年上の侍女はにこりと笑った。葟杞の心臓がどきんと跳ねる。

「次に来たら出してやれって。あなた、これが好きなんでしょ?」

 うそ、と思わず呟いた。まさか奥方様がそんなことを覚えてくださってるとは。胸がいっぱいになって言葉が出ず、葟杞は頬を上気させたままこくりと頷いた。

 そんな葟杞の頬を侍女がうりうりと突つく。

「相変わらず葟杞はかわいいわねー。あたしが男だったら絶対お嫁にもらうのに」

「そんな…また冗談ばっかり」

「いやぁ本気よ? 今からでも嫁に来ない? あたしどうにかして男になるからさ」

 軽妙な台詞回しに思わず笑みが零れる。つられて葟杞も冗談口を叩いた。

「相変わらずお元気そうで何よりです、木蘭もくれん姉さん」

「元気すぎて、相変わらず嫁に行けそうにないわ」

 片目を瞑る仕草の似合うこの美人な韓付きの侍女は、名を木蘭という。度々韓の元に出入りする葟杞にとっては大好きな姉のような人であり―――非常に頼りになる存在でもあった。

 手を合わせて菓子と茶を頂きながら、葟杞は訪ねた。

「木蘭姉さん、ここ三日ほどで、なにか不審な動きをしている人はいませんか?」

「不審な動き? たとえば?」

 さっと仕事の顔になって、木蘭は聞き返す。

「何か挙動がおかしかったり人が変わってしまったような…、あと急に体調を崩したとかで表に出てこなくなった人とか…。とにかく普段と違う動きをしている人です」

 木蘭はただの侍女ではない。平陽でも五指に入る最高級酒楼の元妓女で、現役のときに培った広い情報網を駆使して主に裏の動きを監視する、奥方様の腹心・韓の目と耳でもある有能な部下の一人なのだ。

 そうね、と木蘭は顎に手を当てた。

「三日ほどでと言われると、特に目立つものはないわね。刺史様がいつも通り馬鹿殿で、昨日も泣きながら着の身着のままで逃げ出してきた侍女を保護したくらい」

 衣着せぬ物言いに葟杞は眉を下げる。全く怖いもの知らずな人だ。

 刺史とはこの玄国二十八州の州を治める長官で、皇族が任命されることが多い。平陽のある(けい)州の刺史も例に漏れず皇族で、それも現皇帝の弟である、(けつ)公であった。

 即位四年にして父帝を越える名君の誉れ高い異母兄とは違い、桀公は道楽好きの無能公子として有名であった。特に奎州においては璋蓉の夫をはじめ有能な部下によって州政が盤石であるがゆえに、頭であるはずの刺史の放埒さはどうしても悪目立ちする。

 だが、それは以前から変わりないことである。まだ目立つ動きはないか。

「それが最近の仕事に関係あるの?」

「はい。何か気になることがあったら、ぜひ知らせていただけますか」

 ヒュドラを発見するため、バサンはいくつか策を立てていた。その一つが、今の『挙動の不審な者を見つける』である。

 奴はまず少数の人間を深く狂わせ、操って争いを起こして大きくしていくという。なれば不穏な動きの者を見つけるのは、事前に惨劇を防ぐための必須事項だった。

 葟杞の頼みに、木蘭は力強く首肯した。 

「もちろん。奥方様と、かわいい葟杞のためだったら何でもするわ」

「…――ありがとうございます、木蓮姉さん」

 その言葉の重みがわかるのは、同じ思いを抱く同志だからだ。

 木蘭も奥方様に救われた、同志だ。一介の侍女には必要ない情報網を未だに維持しているのは、葟杞と同じく『仕事』をする立場にあるからでもある。だが一番は、奥方様の役に立ちたいからだ。どうにかして、恩を返したいのだ。

「葟杞、待たせたな」

 そのとき扉を開けて、韓が戻ってきた。

「取り急ぎだが、ひとまずこれで主な場所は大丈夫だ」

「ありがとうございます」

 押し頂いて拝領したのは、証文付の仮の通行手形だ。平陽内全てを自由に動くために必要で、本来は役府から発給してもらうものなのだが、韓の名があればひとまずは問題ない。

 バサンは平陽滞在中はどうやら全く人間と同じように行動するつもりらしく、まず注文されたのがこの手形であった。予想外に人間社会に詳しくて驚いたが、以前にも西方でこういう潜入調査をしたことがあるらしい。人間嫌いのくせに意外である。

「正式なものは一両日中には用意できるだろう。旦那様にお願いしておく。方士の件もな。それと衣の方はさっき遣いをやったから、おぬしが戻るまでには届いておるだろう」

「迅速なご手配、感謝いたします」

「何の。平陽のためとあらば当然だ。…――葟杞、頼んだぞ」

 韓が低い声で、言った。出自も今の身分も雲泥の差のある葟杞に対して、まるで頭を下げているような声。

 こういう人達だからこそ、葟杞は身を粉にしても尽くしたいと思うのだ。

「――はい。ご尊命、しかと承りました」

 葟杞は手を組み合わせて跪き、深く叩頭した。必ず惨劇が起こる前に止める。その決意を新たにしながら。

 韓と木蘭の前を辞して星火大路に出ると、葟杞は詰めていた息を吐き出した。やはりお屋敷はいつ行っても緊張する。そして南へ向かって歩き始めた。

 ちなみに、呂氏本家は平陽に二つの邸宅を持っている。葟杞がいたのは通称『星屋敷』と呼ばれる星火大路に面した屋敷で、城にほど近い場所にあるため雁翔館や璋璋茶館のあるところからは歩きで一刻ほどかかる。

 一口に星火大路と言っても、古都平陽を南北に貫く大通りである。北端の平陽城西大門から南端の外周壁にある星火関門まで歩けば、健脚でも四刻はかかる。

 ゆえに貴族や金持ちは騎馬や馬車、または(きよう)と呼ばれる輿(こし)に乗るのが普通だ。異国人の中には駱駝(らくだ)に乗る者もいるし、金があれば賃料を取って指定の場所まで運んでくれる賃馬車に乗る手もある。しかし庶民は金がないから庶民なわけで、徒歩が基本だ。葟杞ももちろん歩いて移動する。

 これだけ長さのある通りなので、場所によって色は異なる。城に近いこの辺りは大店商家の(みせ)がずらりと並び、貴族の邸宅もちらほらあるため、客層も金持ちが主だ。だから葟杞はこの辺りは落ち着かない。早く帰ろうと歩く速度を上げる。

 絹織物屋の傍で驚くほど彫りの深い異国人の下男達が駱駝の世話をしながら、故郷の言葉でさかんに笑いながら喋っていた。内容はわからないが楽しそうで、葟杞は少し和んだ。

 彼らははるばる砂漠を越えてここまでやってきたのだ。バサンのように。そして――彼の追う罪人のように。

(…どうして平陽なんだろう?)

 ふっと、唐突に疑問が沸いた。

 西から玄国へ至る砂漠の街道沿いには葟杞が知っているだけでも、両手に余るほどの都市や町がある。西方にもいくつか大きな国があると聞くから、そこにも都市はあるだろう。わざわざ平陽まで来なくても、もっと手近で襲えたところはいくらでもあるはずだ。

 バサンは「自分の担当の都市が滅んだ」とは言ったが、その都市以外でそのようなことがあったとは言っていない。おそらく件の都市以外でヒュドラが狙ったのは、平陽だけだったのだろう。その理由は、何だ?

(………規模が大きくて、人の多い都市が好きとか?)

 ぞっとしない話だが、大食漢の化け物なら食いでのある都市を好むのかもしれない。

 だが――それなら尚更、途中でどこも襲われていないことが不自然である。

(…それに、平陽は狐狸妖怪がそうそう手を出せないはずなのに…)

 神代より長く首都であった平陽には、古くから方士達によって様々な呪術的防衛策が施されている、という話は、バサンが墜落してきたときに葟杞が聞いた音から事実と考えて間違いないだろう。

 具体的なことは機密中の機密なので知るよしもないが、平陽の形が関係しているのは有名な話だ。木蘭が近くの山頂から見た平陽についてこう語ったことがある。

『平陽は高いところから一望すると、竜河と街道と五角の城壁が見事に草原に浮かび上がっていて、本当に壮大で美しいのよ』

 平陽は南に欽明(きんめい)湖、西に少昊(しようこう)山脈と砂漠へ続く大街道、北に敖古(ごうこ)山とその連峰、そして東に城壁を包むように流れる竜河(りゆうが)に抱かれる巨大な盆地にある―――正五角形の都市なのだ。

 この都市を造ったのは『神祖』と呼ばれる皇帝だと伝えられ、その神祖の昔から平陽は、この中原どころか西方でも未だ他に類を見ないこの特殊な形であったという。

 最古の史書『神人紀(しんじんき)』によると、神祖は、天帝より命を受けて地上に降り立った半神半人の神使で、各地を巡って人民をまとめ上げ――中原を蹂躙していた魔物の軍勢とその王を斃して、初めての統一王朝をうち建てた。

 そしてこの平陽を造成したという。強固な城壁によって蛮族を、方術によって魔物を排する、永久(とこしえ)なる都として。

「……あ」

 思考に沈んでいた葟杞は、目印の赤い大きな提灯を通り過ぎてから声を上げて足を止めた。これ以上は後で、と慌てて引き返してバサンのところへ急ぐ。

 池亭に到着すると案の定、バサンがじろりと葟杞を睨んできた。

「遅い」

 開口一番が叱責。こういうところは相変わらずである。だがそれよりも葟杞は彼の顔に驚いて、咄嗟に言葉が出なかった。

「なぜそんなに時間がかかる。たかが紙切れ一枚だろう」

 今更その美貌に驚いたわけではない。文句をつけるバサンのその額が―――つるりと平らだったのだ。

 三刻ほど前に会ったときには燦然と存在していた角はどこかへ消え、代わりに模様のような円形のものがうっすらと浮かんでいる。確かユニコーンの角は、崖から落ちて地面に刺さっても折れないくらい固いはずなのだが……どこに消えたのだろう。

 呆気に取られる葟杞にバサンが眉根を寄せた。

「なんだ、俺の顔に何かついてるか」

「…………いえ、角がなくなられいるたので、驚いて。収納可能なんですか」

「半日程度ならな。動くだけでまともに力は使えんが」

 (しか)め面で頷くバサンは、こうなると本当にただの美形である。正直、街中を歩くのに角をどうやって隠そうか、異国人がしている『ターバン』というものを巻いてもらおうかと悩んでいたが、全くそんな必要はなかった。

 これはこれで一安心だが――今度は別の問題が起きる。葟杞は尋ねた。

「顔は変えられないんですか?」

「無理だ。なぜだ?」

「あなた様は目立たぬように動く、と仰いましたが……どう考えても目立ちますよ」

「何が」

「だからあなた様が」

「なぜ」

「…あなた様くらいお美しければ、そりゃあ目立ちますよ」

「俺は普通だ」

「それは天界でのお話でしょう」

 全く要領を得てないバサンに、葟杞は険のある溜め息を吐いた。

「ご自覚ください。あなたの(かんばせ)は人間として見たときに飛び抜けてお美しいんです。女が放っておきません。確実に群がります。今までもそういうことはあったでしょう?」

「…なぜわかる」

 片眉を上げて訝しげに問うてくるバサンにもう一度嘆息。

「女が美形を好きなのは古今東西変わりませんから。女の本能みたいななものでしょう」

 たぶん、と胸の内で付け足す。男は顔ではなく人柄だ、という確固たる信念を持つ葟杞は、美形だからといって騒ぐ女達を理解できない質なのだ。

 バサンは今ひとつ納得していない表情だが反論はなかった。こればかりはまあそういうものかと理解してもらうより外にない。葟杞は話を変えた。

「まずは平陽の構造を把握しながら調べたいとのお話でしたね。どこからご案内しましょうか?」

「貴族達が住んでいるところからだ」

「わかりました。ではお召し替えをお願いします」

「ああ。…本当に人間はこういうところが面倒くさい」

 けだるげにバサンが愚痴を垂れるのを無視して、葟杞は韓が先程手配してくれた衣を、近くの離れに取りに向かった。貴族街に入れる程度に高価で、しかしできるだけ地味なもの、と全て藍色で揃った商人用の略式礼服を選ぶ。

 ふと見るとその横に一枚布の(うすぎぬ)もあり、葟杞は感謝しながら手にとった。さすが韓、抜かりはない。

「なんだこれは」

 衣を受け取ったバサンは、一番上に載せられた透かし模様の織り込まれた大きな正方形の紗を広げ、眉根を寄せた。

被布(ひふ)という流行の装身具です。頭から被ってください」

「要らん。視界が悪くなる」

 そう言うと思った、と葟杞は即座に用意していた台詞を返す。

「女達に騒がれたいのなら、お使いにならなくて結構です」

「……ふん。なるほど、顔を隠すためか」

 バサンは鼻を鳴らして文句を引っ込めた。よほど女に騒がれるのが嫌いらしい。バサンが着替える間に、葟杞も先程の離れで商家の下働きの衣に着替える。玄国では職や身分で衣装の形式が細かく決まっているため、商人の付き添いが勾欄の佣人の衣を着ていると不自然なのだ。といっても下働きの服は細部が多少異なるだけで、ほぼ同じなのだが。

 手早く用意を調えて外に出ると、ゆったりとした衣に背子(はいす)を羽織り、被布をかぶったバサンが池亭の方から歩いてきた。

「何か問題はあるか?」

 遠目からだと、商人としては不自然な髪の短さと無駄に美しい顔が紗で遮られて見えない。寄るとさすがにわかるが、かなり目立たなくなった。これなら雑踏を歩いても問題はないだろう。改めて用意してくれた韓に心の中で手を合わせる。

「いえ、ありません」

「まったく、なぜ人間はやたらと服を重ねるんだ。理解できん。鬱陶しいし動きにくいだけだろうが」

 ぶつぶつ文句を垂れるながら襟元を弄るバサンに、財力の象徴だからですよ、と心の中で答えたが口には出さなかった。嫌味が返ってくるのが目に見えていたからだ。

 では行きましょう、と星火大路に出るために庭院を歩きながら、葟杞はさっきの疑問をぶつけてみることにした。。

「一つ、気になったことがあるのですが」

「何だ」

「どうして平陽が狙われたんでしょうか? もっと簡単な都市は他にあると思うのですが」

「………なぜそう思う」

 鋭く目を眇めるバサンに葟杞は少々戸惑いながら、先程考えたことを話した。

「…お前も気付くとはな」

 聞き終わったバサンは少しばかり感嘆したようにそう零した。若干癇に障る褒め言葉でだがこの程度は気にしていられないので聞き流す。バサンは険しい表情で腕を組んだ。

「俺も妙だと思っていた。ヒュドラは途次キャラバンや家畜などは食い荒らしていたが、都市どころか町も村も襲わなかった。確かにここは通り道にあったどこの都市より大きいが、ここの結界は俺がかつて見た中では群を抜いて、強い。わざわざここを選ぶ理由が、正直俺にもわからん」

「そんなに強い結界なんですか?」

 驚いて聞き返すと、「ああ」とバサンが眉間に皺を寄せた。

「人間の都市でここまでの結界は見たことがない。それに、どうも妙な感じがする。相当特殊な結界のようだな」

「……妙、とは…?」

「………………、言葉にできん」

 苛立ったようにバサンが頭をがしがし掻く。商人の(なり)をしたバサンがそんな仕草をしながら通用門にやって来たことに目を白黒させる門番に苦笑しながら挨拶し、二人は星火大路に向かって白壁沿いを歩いていく。

「とにかく普通の結界でないことは確かだ。昔ならいざ知らず、今は天界の武官達が退治しているから、妖魔どもも多くはいない。別段、ここまで強いものは必要ないと思うが…。それに一番わからんのは、奴がどうしてこれほどの結界を通り抜けられたのかだ」

「……? 破った、ではなく? あの朝、そのような音を聞いたのですが」

「あれを聞いたのか?」

 バサンがぐるっと振り向いて目を剥いた。驚きつつ、葟杞は頷いた。

「はい、おそらくは。昔から気配には敏いですが、具体的にそういった音を聞いたのは初めてでしたので、確証はありませんが……」

「いや、間違いはないだろう。……そうか、なるほどな」

「……………あの…?」

「気にするな。それより、結界の話だ」

 ものすごく気になったが口は挟めなかった。

「結界は破られてはいない。奴も俺も、ここの結界を破れるほどの力はない。通り抜けただけだ。そんなことができるのは、天界でいえば相当上位のやつくらいだ」

「………ちなみにバサン様はどれくらいのお力をお持ちなんですか?」

「俺は………まあ、上の方だ。……文官としてはな。…武官も入れれば中程度だ」

 基準がわからず思わず質問すると、バサンはものすごく嫌そうに応じた。矜持によって嘘は吐けないが、極力言いたくないというのが丸わかりの態度だ。

 しかし、文官。また俗な単語が出てきたものである。天界にも文官と武官が存在するのか。問うてみたかったがバサンがあまりにも憮然としているのでやめた。代わりに違う質問を投げる。

「でも、結界って通り抜けたりできるものなんですか?」

「俺は当然だ。結界は天界に属する力で創られているからな。ここでは方士と呼ぶのか? そういった者は、我々に力を授けられたか、先祖に我々がいるか、どちらかだからな」

「えっ! そうなんですか?」

 突然目を輝かせた葟杞に不思議そうに眉根を寄せつつ、バサンは首肯した。

「そうだ。天界の力を持つ者同士であれば、種族は違っても通常は敵とは見なされず、拒まれることはない。結界の要の人間の許可を待たずに無理矢理突っ込んだから、かなり痛んだがな。……しかし、天界と連絡が取れんのは、やはり解せんな。普通は結界のある都市でも、出入りする天界の官吏が随時報告ができるようになっているはずだ。通り抜けられた以上、それも可能のはずなのだが…」

 ちょうど屋敷沿いの小路と星火大路が交わるところに到着し、一旦話は中断する。

 いつも通り人の多い星火大路を横断し、平陽を東西に走る三条大路に入って、東へ向かって歩き出す。ちょうど昼時のためほとんど人影はなく、紗の向こうでバサンが話題の核心を突いた。

「そして何よりおかしいのは――間違いなく弾かれるはずの妖魔であるヒュドラが、この強力な結界をすり抜けたことだ。…考えられる可能性は、魔法師(ソルスィエ)を喰った、くらいか」

「そる…?」

「向こうの方士のことだ。場合にもよるが、方士のような天界の力を持つ者を喰うことで、喰った者の能力を得ることがある。本来ヒュドラという種族には、姿や住み処を隠す力も毒の沼を産む力も、人を操る力もない。他の妖魔も喰ったのだろうが、おそらく方士もどこかで取り込んだのだろう」

 バサンは至って平然と話すが、葟杞はざっと青ざめた。方士であろうと人間だ。それを――喰うやら取り込むやらと表現されると、生理的に吐き気がこみ上げてくる。だが自らの思考に沈んでいるバサンは葟杞の様子にまったく気付かず、一人で話を進める。

「だが、たとえ天界の力を得ていたとしても妖魔である以上、これほどの結界を通れば俺よりよほど酷い有様になるはずだ。だから、なぜ敢えてここを狙ったのかはやはりわからん。…この近くで俺に追いつかれ手傷を負ったために、とりあえず見えた好みの大きさの都市に飛びついた、というのが最もありそうな理由か」

「怪我を負っているんですか」

「胴を何度も角で貫いてやった。…それでも逃げられたがな」

 唇の端を歪めて、バサンが笑んだ。自嘲の笑みだ。高慢ちきな態度を見慣れた葟杞は言葉を失ってそれを見つめる。――この誇り高い神獣が自分を嘲笑うなんて。

 だが、とバサンはすぐに表情を戻して続けた。

「これほどの結界なら、入ってしまえば奴の気配なら完全に遮れる。だから隠れ場所としては適しているとも言える」

「そうなんですか」

 葟杞は目を瞠った。強い結界にはそういう裏の面もあるのか。

「ああ。…しかし、どれも推測の域を出ない。本当のところは奴に聞かねばわからんな」

 それはそうだ。怪我をして餌を求めて近くの都市に飛びついた、というだけでは奇妙な点が多すぎるが、結論を出そうにも材料が圧倒的に不足している。そうですね、と葟杞が相槌を打ったのを最後に、二人はしばらく無言で東に向かって歩いた。

 やがて、整然とした大通りに行き当たった。

「ここが貴族街か?」

「いえ、もう一本向こうの小路からになります。ちなみにここは平陽の南北の中心にあたる未央(びおう)大路です」

「広いのにえらく閑散としてるな」

 未央大路はかつては象が二頭横並びで通ったという逸話もある、平陽一幅の広い大路だ。しかし実のところ星火大路もさほど変わらない幅があるのだが、ここは人がほとんどいないので実際以上に広く感じる。

「ここは平陽を東西に分ける中央道ですが、公用の建物のみで、家や(みせ)はないんです。役府や軍の施設以外では、廟や社寺しかありません」

「中央道なのにか? なぜそんなことをする? 普通、ここが一番賑わうものだろう」

「この玄国では、中央道は神様と皇帝陛下がお通りになるところなんです。だからお二方のための施設しか許されていません。また、ここをまっすぐ上がってあの平陽城に入れるのは、お二方と、お二方の許しを得た方のみと定められています」

 大路の北の突き当たりには、荘厳な城が聳えていた。

 平陽の要、平陽城である。

 古来よりその色鮮やかな優美さと雄大な荘厳さを併せ持つ稀代の城として名高い。かつて国府であったその城には現在も、平陽の(ちん)()――都市の役府と、奎州の州府を兼ねるが置かれ、政事の拠点となっている。

 だがバサンは平陽城を一瞥すると、ますます首を捻った。

「神なんぞ地上の道は通らんぞ。適当なことを言って皇帝が一番いい道を独占したいだけではないのか」

「……………」

 言われてみればそうかもしれない、とは思う。だが口にする勇気はなかった。納得いかない顔をしたバサンと共に未央大路を横断して三条大路の続きを東へ歩いていくと、すぐに一本の細い小路に突き当たった。

 どこに視線をやっても人の背丈よりずっと高い、趣向を凝らした瓦や屋根飾りが載った真白の漆喰塗りの塀が立ち並び、今まで歩いてきた場所とは金の掛け方が違うと一目でわかる。そして、鎧を着けた兵士がそこかしこに屹立している。平陽鎮府所属のの武官と、各家のお抱え私兵だ。

「ここが貴族街か」

 バサンがふんと鼻を鳴らした。こんな飾り立ててどうするんだ、とか、こんなに兵がいる必要はないだろう、とでも言いたいのだろう。正直なところこればかりは葟杞もバサンの感想に同意する。金も人ももっと有益な使い道があるだろうに。

「もし、旦那様」

 そのとき、手近にいた中年の兵士が慇懃に声をかけてきた。鎧からすると鎮府の武官だ。

「こちらからお声掛けする無礼をお許しください。お手数をおかけして申し訳ございませんが、お手形を拝見させていただいてよろしいでしょうか」

 言葉や物腰は丁寧だが、怪しみ値踏みしているような目つきは全く隠せていない。しかし、流行の品とは言え被布で顔を隠し、お付きはたった一人の娘子だけで、輿や馬車ではなく徒歩でやって来たバサンは普通の人間の感覚から言えば確かに怪しい。予想された状況である。

「はい、こちらでございます。どうぞお確かめくださいませ」

 葟杞が韓に貰った手形と証文を渡すと、(あらた)めた武官がはっと顔色を変えた。

「これは呂家の…! しっ、失礼いたしました! どうぞご自由にお通りください!」

 慌てて拱手して叩頭する兵士に「ありがとうございます」とだけ礼を言い、立ち止まっているのも不審なのでとりあえず葟杞は歩き始めた。バサンも面倒なことだと思いっきり書いてある顔で、葟杞の後を追う。

 平陽内に関所はない。しかし実際には、貴族街に入るにはこうして各家か鎮府が発行する手形が必要だった。だから葟杞も貴族街には数えるほどしか入ったことはない。

 だが葟杞は一度来た場所は全て記憶しており、奥方様の以前の仕事のときに貴族街の道はほぼ全て通っている。道案内に不自由はない。

「今歩いている三条大路より城寄りと、先程の喜鵲(きしやく)小路より東がいわゆる貴族街になります。ちなみにここより南は、商人の多く住む地域ですね。まあ平陽では貴族も商人も似たようなものですが」

「…ああ、なるほど。商都ではそうなるか」

 簡潔な説明にバサンは頷いたが、実際のところはもう少し事情は複雑である。

 長く続いた先王朝の祖は、皇帝の権限強化のため、既に戦乱でほとんど力を失っていた貴族の領地のかなりの部分を国有として没収し、その国有土からの収入を官吏として働く者に分け与える、今日の官僚制度を築き上げた。

 そのため貴族も今までのように領地からの収入で遊び暮らすわけにはいかなくなり、官僚となって働くか、他の事業を行って稼ぐかの二択を迫られた。その結果、昔からの貿易都市という土地柄の平陽で今も生き残っている貴族のほとんどが、商いで大なり小なり成功を収める貴族兼商人となった、というのが正確なところだ。

 三条大路を東に向かって流しながら、葟杞はバサンに尋ねた。

「今日はどの辺りへ行かれます? 平陽では城に近いほど、そして大路に面しているほど格が高くなります。貴族街で最も格が高いのは(おう)()大路沿いですから、まずはそこからご案内しましょうか?」

「いや、ここでいい」

 微妙に食い違った答えに葟杞は眉を寄せた。だがバサンは気付かずか気にせずか、通りがかりの小路の物陰に入ると、行儀悪いですよと葟杞がたしなめる間もなく――地面にぴたりと掌を押し当てた。

(―――…! な、にこれ…!)

 全身がぞわりと総毛立った。

 見た目には何も変化はない。だが――見えない何かが地中を伝ってバサンの手に集まっていく、得体の知れないものの気配が、葟杞にははっきりと感じ取れた。本能的に体が竦む。

 数拍の後、バサンは「ふむ」と顎に手を当てながら立ち上がった。いつの間にか角が現れて、被布が妙な具合に膨らんでいる。

「ヒュドラの痕跡は微かだがあった。だがここは通っていないな」

「………痕跡? というかまず、何をなさってたんですか、今の…」

 腹に力を込めて、なんとか喉を動かして問いかける。バサンは事もなげに答えた。

「水に含まれる情報を探っていた」

「………水の、情報?」

「ああ。ユニコーン(われわれ)は泉のものゆえ、淡水ならある程度操れる。情報を得るくらいなら土中の水分程度で問題ない。この辺りの土にはヒュドラの匂いのようなものはあるが、通った痕跡はない。滞在している池を通じて周囲を調べていたが、あちらは何もなかった。…やはり貴族街の方にいるようだな」

 そういうことか。今のが『力』というものらしい。葟杞は我知らず詰めていた息をそっと吐き出した。

 怖かったわけではない。言葉では困惑が近いか。目に映らないものが蠢く気配というのは気持ちのいいものではなく、また突然であったので驚いた。――このひとは神獣なのだ、と改めて実感する。人の形をしていても、人ではないのだ。

 ひとつ呼吸をして気を落ち着かせ、葟杞は指摘した。

「角が出てますよ」

「仕方あるまい。この角は神力の源だ。消したままでは力は使えん」

 言いながらバサンは掌でぐっと角を押し込んだ。まるで手妻(てづま)のように、額から角がきれいに消えていく。岩さえ砕くほど固いはずなのにそんな収納の仕方をするのか。思わず脱力する。

 しかし、力を使うた度に角が出るということは、調べる間は隠れている必要がありそうだ。そもそも、地べたを触る時点で人目を避けなければならないのだが。常識というものがない神獣様に、溜め息を一つ。

「…どうした?」

 首を傾げるバサンは感覚が人間より動物寄りだから、絶対に気にしていない。だが平陽内は多数の馬車が走り回っているのだ。実際、イロイロ落ちている。貴族街は屋敷の周囲を清潔にし各々の面目を保つために掃除はまめにされているが、それでもきれいとは言い難い。ゆえに地面を直に触るのは、大変非常識な行動なのだ。

(…まあ、仕方ない)

 ヒュドラという大罪人によって、平陽にかつてない滅亡の危機が迫っている。葟杞の知る限り、それを阻止できる見込みがあるのは、「全ての存在を護る」と告げたこの神獣バサンのみである。

 とことん付き合ってやると決めたのだ。平陽を護るために。

 葟杞は頭を切り換えて、潔くバサンの案内と非常識行為の始末役に徹する覚悟を決めた。




 昼過ぎまで貴族街をあちこち歩き回った後、葟杞は一旦雁翔館へ帰ってきていた。その頭の中は驚愕でいっぱいだった。

(………まさかこっちの疲れを心配するなんて…)

 神獣様曰く。

『人間は身体が脆弱だから休憩が必要なんだろう。特に女は。次の目的地が動き始めるのは夕方だ。俺もまだ完全に本調子ではないから、池で少々休む。お前もどこかで寝るなり食うなりして身体を休めておけ。倒れられたら困る』

 もちろん単純に時間が空くから、という時間的な都合もあるし、自分が休みたいというのも本当だろう。だが、彼は嘘や出任せを言わない。徹頭徹尾、本音だ。葟杞の身体のことを案じているのも、本音なのだ。

 態度が軟化したとはいえ、基本的に自分の要求をそのまま突きつけ、叶えられないと文句をこぼす傲慢さに変わりはない。貴族街での探索も、あの屋敷の中に入りたいだの、大通りでしゃがみこんで土を調べたいだの、人間のやり取りは遠回しすぎて面倒くさいさっさと突破しろだのと散々振り回してくれたので、確かに葟杞はぐったり疲れ切っていた。肉体的にというより、精神的に。

 疲労の原因の大半は彼なので、葟杞は気遣いを受けて当然の立場ではある。が、あの傲然とした神獣様本人からその疲労を真っ正面から案じるような行為をされると、なんだか八月に雪が降ったかような、珍妙なものを受け取った気分になる。

 そういうわけで葟杞は一旦雁翔館へ帰ってきたわけだが、ちょうど用がある人がいたので好都合だった。バサンには休めと言われたが、常に早朝から深夜まで雁翔館の仕事から勉学までみっちりこなす葟杞にとって、この程度の肉体的な疲労はどうということはない。

(……早く、奴を見つけなくちゃ)

 ぎゅっと唇を引き結ぶ。愛する平陽を一日でも一刻でも早く救うためには、とにかく動いてさっさと解決するしかない。

 雁翔館の内部の廊下をいくつも曲って辿り着いたのは、『楽屋処』という(たてふだ)のかかった一室だった。いつも通り、扉は開いたままだ。金銭を扱う勘定処では考えられないが、人の出入りが激しいここでは開けっ放しが基本なのだ。

 ひょこりと中を覗くと、ちょうど目当ての人物がぐったりしながら茶を飲んでいた。方々に走り回って今ようやく落ち着いた、というところか。近くからはまだどったんばったんと慌ただしい音が鳴り止まないが、不寝番明けの寝起きを無理矢理駆り出された彼はお役御免となって休憩しているらしい。こんなときに邪魔して悪いが、こちらにも時間がない。葟杞は遠慮がちに声をかけた。

「お疲れ様です、張兄さん」

「…おお? 葟杞?」

 動くのも億劫そうに首だけで振り返ったのは、今朝も食堂で会った張だ。何か役に立てることがあれば言えよと声を掛けてもらっていたが、まさかこんなに早く本当にお願いすることになるとは。

「葟杞もおつかれさん。お前がこっちに来るなんて珍しいな」

 張は驚きつつ、よっこらせと身を起こすと葟杞に笑いかけた。

「すみません、あの、少しだけ、いい…?」

「もちろんいーとも。ここ座りな」

 いつもの軽い調子で隣の座布団をぺしぺしと叩く張にほっと肩の力を抜き、葟杞は楽屋処に入ってその座布団に正座した。張は葟杞の顔をしげしげと眺め、目を細めた。

「……ちょっとマシになったな」

「え?」

「顔。今朝はこーんなシワが寄ってたからな」

 と、張は両手の人差し指で眉間に深々と溝を作った。多少の誇張はあるだろうが、確かに相当苛々していた自覚はある。葟杞はそんな顔を晒してたと思うと今更ながら恥ずかしくて真っ赤になって俯いた。

「…すみません…」

「いや謝ることないって。なんか一個は問題解決したみたいでよかったなーって思っただけだよ」

 くしゃりと葟杞の頭を撫でて、張が慈しむように笑う。やっぱりその仕草はとても温かくて、今、少しだけ泣きそうになる。喪いたくないもの。

 葟杞の表情に気付いたのだろう。張は何気ない動作で手を引いて、ずずっと茶をすすりながら尋ねた。

「んで、何か聞きたいことでもあんだろ? どうしたんだ?」

 用もないのに雁翔館で最も(せわ)しい楽屋処に遊びに来る葟杞ではないとわかっての質問だ。葟杞もはっと気持ちを切り替えて、訊ねる。

「張兄さん、西地区で一番人が消えそうなところって、どこだと思う?」

「…西地区ぅ?」

 怪訝そうに張が顔を歪めた。

 平陽では貧民層の住む裏通り地区を、通称『西地区』と呼ぶ。平陽をなす五角形の、右の角から右下の角までの辺り、つまり西から南西の辺りにあるからだ。

 西地区の中でも北寄りには妓楼が立ち並ぶ色街があるため、男はよく足を向けるが、女はあまり近寄らない。男でも色街以外には普通は立ち入らない。治安が悪いからだ。

 色街近辺は顔役達が目を光らせているからまだ安全だが、西地区全体としてはやはり平陽の中で群を抜いて治安が悪い。ただこれは平陽全体と比べてであり、国都以外の他都市の貧民地区と比べればかなりまともな方ではある。

 そして平陽の西地区は一括りに貧民地区と言っても、他都市とは若干わけが違う。

 西地区には住民の長屋と、商隊に旅ごとに雇われる用心棒や()(しゆう)などの下働き、流浪の芸人などの『流れ者』が一時滞在する安宿が、ごたまぜに混在している。家と安宿の数はほぼ同数で、平陽在住の者も商隊などに雇われて生計を立てている者がほとんどだ。

 つまり―――年間を通じて相当数の人の出入りが生じる。

 葟杞達にとって重要だったのは治安よりも、出入りが多すぎて人が消えても気付かれにくい、ということだった。

 バサンは言った。

『ヒュドラは少数の利用価値のある人間以外は、全て餌とする。そして腹が減ると人間をさらうよう命じる。背に腹は代えられない場合は家畜も食うが、これだけ人間がいる場では有り得んな』

 ゆえにバサンは、貴族街ではヒュドラの痕跡と噂を集めて奴自身と奴が利用している人間を、西地区では餌とされるために掠われた人間を、それぞれ捜すことを決めた。両面から調べれば正解に辿り着く確率は上がるだろうし、もし片方が空振りでももう一方から追うことが可能となる。

 この張は芸人との付き合いが広範で、女芸人の宿に遊びに行くこともままあり、西地区にも詳しい。葟杞もさすがに西地区には一度しか足を踏み入れたことがないので、むやみやたらと探すより、ある程度情報を仕入れてから動くのは当然の準備である。

「…人が消えそうなところ、なぁ…」

 唐突かつ不可解な問いかけに、しかし張は何の疑問も抱かずに考え込んだ。璋蓉の仕事のときは聞かないことが当たり前になっているのだ。本当に、有り難い。

「……まあ格子通りより西とか南はたいがい似たり寄ったりだけどなー…、うん」

 こめかみに指を当てて考え込んでいた張が、ようやく一つ頷いた。

「一番怪しいのは、(きつ)()小路の辺りだな」

「吉佐小路…?」

「そう。あの辺りは二階は長屋で三階は自分ん家、なのに長屋に一部屋だけ宿もある、とか建物の中までもごちゃごちゃで、特にややこしい。住んでる奴らも隣の建物が宿なのか家なのかわかっちゃいないから、誰が住人で誰が流れ者なのかとか、気に留めるやつもいない。だから、誰が消えようと、それこそ闇に消えることになるな」

 葟杞は頭の中に叩き込んである平陽の詳細な地図を記憶の棚から引っ張り出してきた。吉佐小路は西地区でもかなり南の方の、小路ばかりが細々と入り組んだ辺りだ。張の言う通りなら、当たりを引く可能性は高そうだ。

 ちなみに雁翔館からだと徒歩で二刻ばかりかかり、かなり距離がある。葟杞は思わず呆れた声を漏らした。

「兄さん、いつもそんなところまで行ってるの?」

「まあそんなこともあるさ。いい女は色んなとこにいるからな。…けど」

 にやりと笑った張が――不意に真顔になって声を低めた。

「お前、まさかあんなとこに一人で行くわけじゃないだろうな。いくら奥方様の仕事ったって危なすぎるぞ」

 きょとん、と葟杞は目を丸くした。ややあって、「ああ」と気付いて笑う。

 心配、してくれてるのだ。この人も。

「大丈夫よ。今回は一人で動いてるわけじゃないから」

「本当か? 一人じゃないっつっても、女二人とかじゃないだろうな。それ意味ないぞ」

「違うわ。本当に大丈夫だから、心配しないで」

 真剣に確認する張に、にっこりと葟杞は首肯した。身の危険はあるかもしれないが、少なくとも張の心配しているような危険はないだろう。

 なにせ今回の同行者は人間でなく神獣様である。どう考えても只人が勝てる相手ではないから人間相手の危険を考慮する必要はなく、そもそも葟杞に危険が及ぶ前にバサンがキレて勝手に応戦し、それを止めたり後始末するのに苦労する、という方が現実味がある。想像してみてぞっとした葟杞は、そういう事態が起こらないことを切に祈った。

「教えてくれてありがとう、張兄さん」

 まずは情報の礼を述べ、葟杞は付け加えた。

「あと、可能な範囲でいいから、あの辺りで消えた人がいないかどうか色々聞いてみてもらえない? 一人二人じゃなくて、もっとたくさんだと思う」

「わかった。楽屋処(ここ)の奴らにも声掛けとくか?」

「うん、そうしてもらえると助かる。お願いします。…あ、でも自分で探すのはやめてね。聞くだけにして。……できれば兄さんも、しばらくあの辺りには行かないでほしいの」

 最後の言葉に、張がむっと片眉を上げた。

 身勝手なことだとわかっている。集団恐慌や情報漏れを防ぐため、西地区の住民には危険に晒されていることを知らせることはできない。だが――張や他の雁翔館の仲間がもしも消えてしまったら、たとえヒュドラから平陽を護れたとしても、葟杞は死にたくなる。理由を言えないから不審がるのは当然だが、お願いだから行かないでと葟杞は張を切迫した目で見つめた。張も葟杞の真意を(はか)るように見つめ返す。

 やがて、張が一つ溜め息が落とした。くしゃっ、と温かい手が、また葟杞の頭を撫でる。

「まっ、わかったよ。お前が言うんならそうしとく」

 やわらかな笑顔で信頼を口にされ、葟杞はぎゅっと目を瞑る。

(……喪いたくない)

 自分はちっぽけな人間だな、と葟杞は思った。平陽を守りたいのは、ここに在る全ての人を護りたい、なんてそんな壮大なもののためではない。ただ、ここにいる大好きで大切な人々を護りたいだけなのだ。…バサンに比べれば、なんて小さな理由。

 だが、彼は葟杞を選んでくれた。――どうしてかは、未だにわからないけれど。

 自分の手で大切な人々を護ることができて、その大切な人々が息づくこの平陽を護れるのなら、こんなに嬉しく誇らしいことはない。

 カーン、カーン、と舞台の幕間休憩の鐘が鳴った。ここも忙しくなる。その前に出た方がいい。

「…張兄さん、ありがとう。じゃあ、そろそろ行かなくちゃ」

「おう、気ぃつけてな」

 張がひらりと手を振った。まだ少し案じる色を目に宿したまま。

 だから葟杞は笑顔で言った。

「はい。――行ってきます」

 さよなら、ではなく、行ってきます。行って、帰ってくるための言葉。それを笑って言えることがどんなに幸福か――故郷から売られてきた葟杞は、知っている。

 この小さな幸福がこの平陽にも数え切れないほど、在る。

 ヒュドラとかいう化物を退治したいだとか、そんなことは夢にも思わない。語り物は好きでも、自分が主人公になりたいだなんて考えたこともなかったし、今もそんなことに興味はない。

 ただ、自分がこの小さな幸福を守りたいように、無数に在る小さな幸福達を、守りたい。葟杞は心からそう願った。


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