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異変

スパイの自害事件から、十日が経過していた。


 しかし拍子抜けするほど、世界は何事もなかったかのように静かだ。

 だが――その静けさこそが、かえって不気味だった。


 カズトは零、そしてセレナと並び、学園の正門をくぐる。


「あれから結構経つけど、ムカデの動きが全然ないのが逆に気になるな」


「クレイが情報を持ち帰ったとはいえ、すぐに事が動くとは限らないわよ。あいつら、動くときは準備を整えてから一気に来る。中途半端は嫌う連中だもの」


 かつて組織の中枢にいた零だからこそ、敵の“沈黙”が意味するものを理解している。


「だからこそ油断は禁物ですね。どんな卑劣な手段を使ってくるのか。正直、想像もつきません」


 セレナの表情が、わずかに曇る。

 情報が足りない以上、下手に動くよりも、日常を装って相手の出方を待つしかない――それが、今できる最善だった。


 廊下を進みながら、カズトは隣を歩く零の横顔を盗み見る。


(零は……十二歳から、あの世界で生きてきたんだよな)


 理不尽と暴力が当たり前の世界。

 その中で生き延び、なお戦い続けてきた彼女の過去を思うと、胸の奥が重くなる。


 その視線に気づいたのか、零が不意に顔を向けた。


「なに? 私の顔に何かついてる?」


「いや、なんでもない。行こう」


 言葉を切り上げた、その瞬間だった。


 中庭の方角から、耳障りな騒音が流れ込んでくる。


「騒がしいですね。揉め事でしょうか」


「この学園、ほんとにくだらない揉め事が多いわね。シオン会長の苦労が知れるわ」


 視線の先。

 人だかりの中心で、数人の生徒が何かを囲み、下卑た笑みを浮かべている。


 近づくにつれ、状況ははっきりした。


 噴水近くの地面に、中等部の生徒がひとり突っ伏している。

 それを囲むのは、高等部の制服を着た生徒数名。


「おいおい、そんなとこで寝てたら風邪引くぞ? 起きろよ、無能」


「剣も振れねぇ、魔法も使えねぇ。そんなやつがこの学園にいる方が間違いなんだよ」


 泥に汚れた制服。

 倒れた生徒は、反論もせず、ただ拳を強く握りしめて耐えていた。


「またかよ」


「本当に嫌い。ああいう、弱い相手を群れて叩く連中」


 零の足元に、無意識のうちに魔力が集まっていく。

 身体強化――いつでも飛び出せる状態だ。


「零。セレナ様を頼む」


 零の肩を抑えて、短く告げ、カズトが前に出た。


「あ"?」


 上級生たちがこちらを見て、嘲るように口角を上げる。


「なんだよ。王女様の犬じゃねぇか。奴隷の分際で、俺たちの教育に口出しする気か?」


「これのどこが教育なんだよ?すぐにその足をどけろ、その生徒、怪我してるだろ」


 カズトの声には、揺らぎがなかった。


 次の瞬間、彼の身体から魔力が溢れ出す。

 雷の気配を孕んだ魔力が、空気を震わせ、パチパチと火花を散らす。


「聞こえなかったのか? どけろって言ってる」


 上級生たちの顔色が、一斉に変わる。


「ひっ、なんだ、このプレッシャー……」


「ちっ、雷魔法が使えるって噂、本当だったか。覚えてろよ!」


 捨て台詞を残し、彼らは逃げるように散っていった。


 カズトはすぐさま、倒れていた生徒に駆け寄る。


「大丈夫か? 今、手を――」


 泥まみれの制服の下から現れたのは、小柄な少女だった。

 胸元には、下級貴族を示す簡素な紋章。


 差し出された手を見て、少女は怯えたように肩を震わせる。


「ありがとうございます。すみません、私のような者のために」


 か細い声。

 だがその瞳の奥には、単なる被害者とは違う、深い絶望の色が張り付いていた。


「なぜ、こんなことを? しかも、こんな目立つ場所で」


 セレナの問いに、零も頷く。


「高等部の生徒が、わざわざ目立つ場所で中等部の生徒をいじめてるのもにも違和感を感じるわ。何か理由があるの?」


 少女は震える手で、服の内側から古びた銀のペンダントを取り出した。

 そこには、下級貴族の家紋が刻まれている。


「突然、これを奪おうとしてきたんです。面識もない方たちなのに」


「家宝、ですか?」


「はい。代々受け継がれてきただけの、特別な価値なんて、ないはずなのに……」


「まずは治療を」


 セレナが跪き、優しく肩に触れる。

 清らかな光が広がり、傷が次々と癒えていく。


「ありがとうございます、セレナ様」


「礼は不要です。ですが、この件は看過できません」


 少女の指が、ペンダントを強く握りしめる。

 その不自然な力に、零が小さく眉をひそめた。


「ねえカズト。この子、まだ怯えてる」


 確かに。

 癒されたはずの少女の視線は、絶えず周囲を彷徨っていた。


 やがて少女は深く頭を下げ、震える声で名乗る。


「私の名前は、マリーです。じ、実は最近、誰かに、ずっと見られている気がして……」

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