act.17 夫婦と血
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「あなた、今更何を言っているの?」
こういうときこそ持つべきものは姉だ。ということで、次の日の朝早くからハノンの元を訪れたアルカナは、ピアキィに関する悩みをぶちまけた。不老不死云々の話はピアキィのデリケートな部分だから言えないが(それ以前に信じてもらえるとも思えない)、彼の気まぐれに放出される色気にもうどうすればわからない、と聞きようによっては惚気ともとれる文句を延々と吐き出したアルカナに、ハノンは呆れたようだった。
アルカナは口を尖らせた。
「いまさらって…」
「だってアルカナ、あなた結婚してから半年も経っているのよ?顔を近づけられたくらいで恥ずかしがっていて、それじゃあ夜のお供もまとみに付き合えないのではなくって?」
「よ!」
アルカナは今度こそ沸騰するところだった。
「よ、よ、よ、夜って!」
「あの閣下のことだから、さぞかし女性慣れしていらっしゃることでしょう?」
「…ハノン、アルカナ。君たちはまったく、男のいるところでそういう話をするもんじゃない」
ツヴァルクが苦笑した。ハノンは夫の襟にリボンを巻いてやりながらくすくす笑った。以前は自分の夫に対して愚痴ばかりだった姉だったけれど、なんだかんだいいつつ仲は改善されつつあるらしい。彼女は夫をからかうように妹に振り返った。
「それで?ピアキィ閣下はどうなの?やっぱりお上手なのかしら」
「し、し、知らないわ!そんなこと!」
「あら。それは妻として知っておくべきことでしょう」
ねえ?ハノンがツヴァルクに笑いかけると、彼女の目論見だったのだろう、彼は慌てふためいてハノンから視線をそらした。しかし焦ったのはツヴァルクだけではない。アルカナもあたふたしながら首を横に振った。
「そんな!だ、だって私、その、ピアキィ様とそんな雰囲気になったこと…ないし…って、こんなこと言わせないでよ!」
その返答がよほど意外だったらしい。ハノンとツヴァルクは目を丸くして顔を見合わせた。
「え、それ、本当に?」
ツヴァルクが気まずそうに尋ねてきた。ハノンも怪訝そうな顔をしている。二人の空気がぴりりとしたものに変わったので、アルカナはわけもわからず眉をひそめるしかなかった。
「なに?」
「アルカナ、あなた…下世話なことを聞くようだけれど、ピアキィ様はもしかして、ほかに女性がいたりしない、わよね?」
ハノンに問われて、アルカナはようやく、ピアキィと自分がいわゆる夫婦の仲ではないのが、常識的ではないのだと思い当たった。ピアキィは寝台を共にしていても、アルカナに手を出すようなことはなかったし、アルカナもアルカナでそんなことを考えてみたこともなかったのだ。もしかして私、女性として見られていないのかしら?アルカナは考えたが、その割にキスをしてきたり抱きついてきたり、ピアキィはなにかにつけてアルカナにまとわりついている気もする。
とにかく自分の矜持とピアキィの面子を守るためにアルカナは言い訳した。
「ま、まあ、だけど、初夜のときは私が熱を出して寝込んでしまったし、手を繋いだりはするんだし…あの、単にタイミングの問題じゃないかしら?最近はお仕事もお忙しいみたいだし」
「手を繋ぐなんて、子供のままごとじゃないのよ?」
ハノンは一笑した。
「いいこと、アルカナ。女性との噂に絶えないお方なんだから、あなたがしっかり手綱を引いていなければ駄目よ。いざとなったらあなたから押し倒しておしまいなさい。ぐわっと」
「な、な、何を言うの!お姉様!」
「ハノン、君じゃないんだから。アルカナに妙なことを吹き込むなよ」
普段は貞淑な妻が淑女らしからぬことを言うものだから、ツヴァルクは頭が痛いらしい。アルカナは姉の知られざる一面を見てぽかんと口を開けた。「君じゃないんだから」ということは…そういうことなのだろうか。
考え出すと止まらない。アルカナは姉夫婦を見ていられなくなって、そそくさと部屋を飛び出した。その背中を見送って、当の夫婦はぽつりとつぶやいた。
「意外だ」
「意外ね」
それからツヴァルクは、髪をなでつけながらソファの背にもたれた。
「まあ…閣下のご様子を見ていると、"大事にしすぎて手が出せない"という風に見えるけどね」
この家にやってきたとき、ピアキィがトリノのことを妙に気にしていたのは記憶に新しい。アルカナは知らないだろうが、階段の上から一連の様子をうかがっていたツヴァルクには、彼女がトリノを助け出すときの、ピアキィの不機嫌そうな顔がしかと見えていた。
「でも、あの方、ちょっと底知れない感じがするわ」
ツヴァルクに茶を淹れるハノンは気味が悪そうに言った。
「アルカナの髪のこともそうだし…それに結婚式の時だって、妙なものを飲まされていたってお父様が仰っていたじゃない?見た限り元気そうだから安心したけれど…変なことに巻き込まれていやしないかって、それが心配だわ」
「いずれにしても、あの方ならアルカナを守ってくださるだろう、多分」
ツヴァルクは肩をすくめた。
「とはいえ、その"変なこと"に巻き込むのが、ピアキィ閣下ご本人ではなければいいけどね」
◆
「もうっ、もう!お姉様ったら、お義兄様の前であんなはしたないことを言って!」
アルカナは肩を怒らせて廊下を闊歩していた。憧れの姉だったのにちょっぴり幻滅だ。
大体、一夜を共にするだけが夫婦ではないだろう。アルカナは社交界に疎いから、世の中のお嬢さん方のことは知らないが、夫を支えたり相談に乗ったり、妻の仕事はほかにもあるはずだ。
いきり立って、ここにトリノが通りがかったら憂さ晴らしができるのに、などとろくでもないことを考えていると、背後から声をかけられた。
「アルカナ」
「きゃあ!」
今最も聞きたくない声を聞いてしまって、アルカナは飛び上がった。振り返ると案の定、眠たげなみかん色の目をこするピアキィの姿があった。彼はあわただしく部屋を出てきたせいか、やや乱れたアルカナの髪を手で梳いて、のんびり「おはよ」とつぶやいた。アルカナは先の会話を頭の端へ追いやろうとして失敗しながらぎこちなく返した。
「お、おはようございます」
「…?なんか顔赤いけど、風邪?」
「い、いえ、お気遣いなく。風邪じゃなくて…」
どう言い訳したものかと声を上げたそのとき、ぎゅうと抱きしめられた。アルカナはさまざまな意味で窒息するかと思った。寝ぼけているらしいピアキィは、そんなアルカナの心中などお構いなしに頭上でむうと唸った。
「ねむい」
「ぴっぴぴ、ピアキィ様!ここ、ここは私の家ですよ!?誰かに見られたら…」
「ここを自分の家だと思ってくつろいでいいって言ったのはお前だろ」
そう言いつつピアキィはアルカナを解放した。寝ぼけ眼で着替えたのか、ベストのボタンを掛け違えているし、リボンも歪んでいる。アルカナはようやくくすりと笑った。昨日は柄にもなく緊張しているようだったのに、今朝はすっかりいつもどおりのピアキィである。ようやっと落ち着きを取り戻したアルカナは、ピアキィのベストのボタンを外しながら尋ねた。
「よくお眠りになられなかったんですか?」
「んー」
ピアキィは視線をさまよわせて、それからおなじみのクッと詰まるような笑い声を上げた。
「横にお前がいないと眠れないんだよ」
「なッ」
アルカナは危うく手にしたリボンでピアキィの首を絞めるところだった。
「なに言ってるんですか!普段からお仕事に出て何日もお帰りにならないことも多いでしょう?」
「よほど忙しくなけりゃ帰ってきてるよ。お前は爆睡してて気付いてないみたいだけど」
「えっ!?」
なんということだ。夫の帰りに気付かないなんて妻失格もいいところだ。アルカナは大慌てでピアキィに頭を下げた。
「す、すみません!私ったらぜんぜん…」
「まあ、深夜遅いし?アルカナに俺の帰りを健気に待つなんて芸当、できるわけないか」
「でっ」アルカナは大声を上げた。「できますよ!」
「へえ?」面白がるような返事だ。
「できます、できますったら!なによ、そんなふうに言われたら私、まるで忍耐のない妻みたいじゃないですか!」
「ちがうの?」
「ちがいますとも!」
ピアキィはいつの間に目が覚めたのやら、嬉々としてアルカナに詰るように言ってその髪を弄っている。そのいたずらっぽいみかん色の瞳にどぎまぎして、アルカナは視線をそらした。
「私、てっきりピアキィ様は…」
あのリーゼルとかいう女と一緒なんだと思っていました、そんな憎まれ口を叩きそうになって、アルカナはあわてて口をつぐんだ。目を細めてこちらを見るピアキィに、ここで彼を不機嫌にしてしまうのはよろしくないだろう、アルカナはとっさに別の言葉を紡いだ。
「…執務室のほうでお休みなんだとばかり」
「ふうん」
ピアキィはつまらなさそうに言って鼻を鳴らした。期待はずれの答えだったらしい。彼は舌打ちせんばかりにむっつりとした表情で、アルカナから手を離して歩き出した。焦ってピアキィの後を追う。彼の望む言葉を選ぶのは難しい。
「ピアキィ様?」
うかがうように声をかけても反応しない。これはまずい兆候だ。どうしたものかとオロオロしながら言葉を探していると、頭上でクスクス笑う声。見上げるなり、ピアキィの指がアルカナの額を小突く。かの人の表情はしてやったりとアルカナに微笑みかけていたので、不覚にもどきりとした。
「単純」
言い置くなり、ピアキィはスタスタと先を行ってしまう。しばらく呆然としてその背中を見送っていたアルカナだったが、出し抜けに顔を噴火させると、「なッ、そっ、あの、」と言葉にならない声を上げた。
「…ピアキィ様!」
ついぞそれしか言えずに、アルカナはばたばたとはしたない音を立ててピアキィを追いかけた。夫は心底面白そうにケタケタ笑った。
◆
二日目ともなれば、ピアキィも少しはハイネント家に打ち解けたらしい。のんきな父を除くハイネントの面々はいまだ世界王の甥に恐縮しきっているようだが、少なくともピアキィは昨日までの愛想笑いも減ったし、無理にしゃべろうともしなかった。無表情で無口なのがピアキィの本性だというのを知らないハイネント家の一同は、ピアキィを怒らせたのではないかとびくびくしている。それを見るのもなかなかに面白いので、悪戯心がわいてアルカナは種明かしをしなかった。
「ピアキィ様、お茶のおかわりはいかがですか?」
「ん」
ピアキィと母と三人で過ごす午後のお茶の時間、やはり口数少なくピアキィは茶碗をアルカナのほうへ押しやった。母がハラハラしている。アルカナはすました顔でお茶を注いだ。そしてミルクのつぼをピアキィに差し出す。彼は一口飲むなりちょっぴり眉をひそめた。
「ちょっと苦い」
「お砂糖いります?」
母は気が気でない様子だ。ピアキィはミルクを注ぎながらぽつりと言った。
「いらない」彼は茶菓子のクッキーをかじりながら付け足す。「アルカナの淹れた茶のほうが美味いな」
もはや母は卒倒寸前だ。
「あら、ありがとうございます」
アルカナはクスクス笑った。「ピアキィ様、あまり母をいじめないでくださいませ」
「なんのこと?」とぼけているのだ。夫は口端を上げた。
「それに、私よりもピアキィ様のほうがお茶を淹れるのは得意じゃありませんか」
アルカナのこの一言で、とうとう母はこの世の終わりだとばかりに叫んだ。
「なんてこと!」
こういうとき、「頭を抱える」なんていうけれど、本当に両こめかみに手を当てて嘆く人間なんていたのだな、アルカナは実の母を観察しながら思った。
「アルカナ!あな、あなた…ピアキィ閣下にお茶なんて、淹れさせたとでも?」
「俺が勝手に淹れたんですよ」
涼やかにピアキィは言った。「夫婦ならそう珍しくもないでしょう」
「でも、うちの娘などに、あなたのような高貴なお方が、まるで使用人のようなことをしていただくなんて恐れ多いことですわ!」
ぴり、隣からほとばしった冷ややかな空気に、アルカナはドキリとした。母の言葉はピアキィの琴線に触れたらしい。ちらりとピアキィを見ると、彼の微笑は絶対零度の冷たさを放っていた。
しかし母は気付かない。
「そもそも、我が家のような下級貴族の娘が…ピアキィ閣下のような尊いお方に嫁いで、ゆ、許されるものなのでしょうか?それも、アルカナは貴族の娘とは思えない突拍子もないことを時々やらかしますし…華やかな宮廷でうまくやっていけるのでしょうか?」
ピアキィの機嫌が急降下していくのに気をとられて、アルカナは母の言葉を怒る間もなかった。まさかこの家でピアキィが大暴れするとも思えないが、彼のほうこそ「突拍子もないことを時々やらかす」男である。アルカナはあわてて口を挟んだ。
「私にお呼びがかかったことには、ピアキィ様なりのお考えがあるんだと思います。私達がとやかく言うことではないでしょう?」
「あら、輿入れを一番嫌がっていたのはあなたじゃない、アルカナ」
この母は空気を読むということを知らないのか!アルカナはげんなりした。隣のピアキィは今や笑みすら拭い去っている。アルカナはここから逃げ出したい衝動に駆られた。
「へえ」ピアキィの低い声がかかる。「そんなに嫌だったんだ?」
「えっと…そのう」
アルカナは口ごもった。
「嫌というわけでは…そ、そう、だってピアキィ様と私じゃ、つりあいが取れませんもの」
「ふうん?」
ピアキィは不服そうだった。どうやら失言だったらしい。ピアキィはすぐに母へと向き直ってしまった。
「ハイネント夫人。何と言われても、アルカナはもう私が頂いたのですから、それについては誰の文句も聞くつもりはございません。彼女はもう我が家の人間ですので、それを貶める発言はお母上といえども謹んでいただきたい」
母は青ざめた。とっさに謝罪しようと口を開くが、言葉も出ないらしく、おどおどと口を開閉するばかりだ。アルカナはめげずに口出しした。
「お母様、ピアキィ様はこんなことを仰っていますけど、私は元気でやっていますし、ピアキィ様もよくしてくれます。そう、仲のよい女官の方もできましたし、私、高等祭司のアズラーノ様の娘さん…ファレイア様というのですけど、その方のお世話をさせていただいているんですよ」
「ま、まあ」
母はなにも粗相はないかと心配しているようだったが、ピアキィの様子を慮って、賢明にも何も言わないことに決めたらしい。
「それでね、そのファレイア様…今はもう四歳になるかしら、ピアキィ様によく懐いているんですよ」
「まったく忌々しいことにね」
ピアキィはむっつりと言い放った。「最近はアルカナにも懐きやがって」
「私はうれしいですけど」
アルカナはポットの蓋を開けながら言った。「ピアキィ様のご家族みたいなものじゃないですか…あら、お茶がもうありませんね」
「トリノを呼びましょう」
母が言ったが、隣のピアキィの眉がぴくりと動いたのに気付いて、アルカナは首をかしげピアキィを見た。
「トリノがなにか粗相をしました?…しましたね、来たときに。あの子のドジは一回死なないと直らないんですよ」
「まあ!うちの使用人が…」
「アルカナとは仲がいいの?」
不意にピアキィがそんなことを言うものだから、アルカナは面食らった。こちらの交友関係なんて聞かれたこともなかった。彼はみかん色の瞳をじっとアルカナに向けている。笑みはかけらもない。アルカナはなんだか戸惑ってしまって、口ごもってしまった。
「えーと…」
「あの子、小さい頃はアルカナの遊び相手でしたのよ」
その場の空気などものともせずに口を出す母は間違いなく大物だ。ピアキィの視線が愛想良く逸れた。母には悪いがアルカナはポットを抱えて逃亡を図った。
「わ、私、お茶のおかわりを持ってきます!」
「アルカナ」
いつもよりも低い声のピアキィは、そそくさと逃げんとするアルカナの腕をつかんだ。ぐんと引かれる勢いにまかせて視界が回る。足がもつれて、あ、転ぶ、と思った瞬間に、手からポットが滑り落ちた。
悲鳴を上げる間もなく、がっしゃんとけたたましい音が響いた。指先にちりりと痛みが走る。音を聞きつけたのか、ぱたぱたと扉の向こうから足音が近づいてくる。
「何かありまして?」
応接間に入ってきたのは姉だった。彼女は床に膝をついたアルカナと、その腕を取ったままのピアキィ、奥で呆然としている母、最後に粉々になったポットを見て取って、いつものように優雅に微笑した。
「まあ、アルカナったら。そそっかしい子ね。怪我はない?」
「あ、指が…」
ハノンがアルカナの脇にしゃがみこんで、痛みのにじんだアルカナの右手を取った。
「陶器を扱うときは気をつけなさいな。あら、血がでているわ。手当てしなくちゃ、…?」
「お姉様?」
目を見開いて、姉は妹の指を見つめたまま硬直している。怪訝に思ってアルカナも自分の指を見た。親指と人差し指に真っ赤な血が垂れていた。小さい頃はおてんばだったから、怪我など日常茶飯事だったが、最近ではすっかりご無沙汰だ。こんな怪我もひさしぶりね、そんなことを考えていると違和感を覚えた。
痛くない。
血をぺろりと舐めると、その下の肌があらわになった。我に返ったらしい母が「下品な」とかなんとか言っている声もよく聞こえない。アルカナは呆然と傷を見つめた。…いや、正確には「傷だったところ」を、だ。
そこには傷なんてなかった。ただまっさらと、最近ことさらに丁寧に手入れしてきたアルカナの指。
確かに痛んだのに、血が出たのに、肝心の傷が、ない?どうしてだろうとただただそればかりを思うアルカナの頭上で、誰かがくすりと笑った。見上げると、うつくしい金髪にみかん色の瞳を併せ持つ青年が、まるでミュウを足蹴にした時のような、ほの暗い微笑みを浮かべていた。