一二話前半 ラクスアグリ島
湖沼
「…すごい…」
言葉を失っているコアに代わって、ペトラが呟いた。
前方に広がる景色は、二人が見たことのない壮大な自然だった。
もくもくとした白い雲と暖かそうな青空。
砂浜、岩、それを超えると土の大地となり豊かな緑の木々が山になっている。
そしてそんなラクスアグリ島の住民のように、青い蝶がいたるところで舞っている。
大人の両掌ほど大きく、その羽は向こう側が見えるくらい透き通った蝶。
その蝶が双子を通り抜けたので、双子はつい後ろを振り返った。
「コア、この人、あのお姉さんじゃない?」
ペトラがそう言うが、コアは今のペトラの姿を見て首を振った。
「…いや。スラに似ているけど、違う人じゃないか?髪の色が違う」
双子を通り抜けた蝶は双子の後ろで立っていた女性の指先に止まった。
スラと同じ琥珀色の瞳に、小麦色の金髪をした背の高い女性だ。
〈この人がラクスアグリ島の第一調査隊の一人。ミュウ・朝香・スウィフト隊員です。〉
コアたちの間で飛んでいる黒い蝶が言った。
いつの間にかそこにいた黒いシジミチョウに、コアとペトラは声を上げて驚いた。
もはや癖になったのか、つい〝ブリッツ〟散弾式を向ける。
黒いシジミチョウはくすくすと軽やかに笑った。
〈お二人とも。それではお互いに撃ち合ってしまいますよ。それに、この島のすごい所は表層に見える資源ではありません。〉
細かく羽を動かして泥蛇はミュウのもとへ近寄った。
コアとペトラは顔を見合わせ、ひとまず銃口を下げる。
ミュウは青い蝶をしげしげと眺め、全身を観察している。
そこへ軽武装した軍人が一人近寄って来た。
すると、青い蝶はパッとミュウの指先から離れてどこかへ飛んで行ってしまった。
『カルロス、あなたが近づくと逃げちゃうわ』
くすくすと笑われながらミュウに言われてしまい、カルロスと呼ばれた男性は軽薄な微笑で返した。
『それ、アリシャとシンにも言われた。天敵知らずの蝶が俺を猛獣だと思ってるって。俺、ゴリラにでも見えてんの?』
『いいえ?ハンサムだと思う。あとこういう場合の捕食者はカマキリとか蜘蛛とか、その方が正しいわ。それに、小さい生き物は音に敏感よ』
ミュウは隣に来たカルロスの肩に下げるショットガンのベネリM3を指差した。
カルロスはぴーん、と思いついて「ミュウ、持ってみて」とベネリを彼女に近づける。
ミュウは両手を腰に当てて拒否した。
『もう。軍人が簡単に武器を渡さないで』
『身長ならそんな変わらないだろ。違いがあるとしたらベネリだけ』
『…そんなわけないでしょ。色々違うわよ、失礼ね。それに身長だってそっちの方が大きいじゃない』
『二センチね。蝶からしたら誤差だろ。…にしても、最初は感動するくらい幻想的だと思ったが、昆虫の類がこの蝶しかいないってのも気味悪いな』
二人は街角で駄弁るような口ぶりだが、その目つきは慎重だ。
そこへ、軍人のカルロスより背の高い大柄な男性が小走りでやってきた。手にはススキに似た植物があり、ミュウとカルロスに声をかける。
『見て。二人とも。この蝶の蛹だよ。羽化間近だ。蛹の状態はアゲハ蝶の蛹に似ていてさ…』
見て見てと蛹を近づける彼に、カルロスはひらりとかわしてミュウに「だそうです」と交代する。
『ちょっとカルロス。これは良い発見よ。ねえ、シン。これ、アリシャに渡したら喜ぶわよ』
『勿論そうするつもり。あ、カルロス、どうして蛹の発見が良いことかって言うとね』
『分からん。俺はあんたら研究員の護衛が任務なの。俺が知らないからってなんでもかんでも教えようとしないでくれ』
シンという男性はそう言われてしまい、しゅん、と目元を下げた。そんなシンの背中をミュウが苦笑してぽんぽんと軽く叩いた。
仲の良い三者の間を泥蛇は縫って飛ぶ。
〈これから潜水艇の〝イング〟に帰るようです。そこに第一調査隊が揃っていますので彼らについていきましょう。〉
調査装備を整えて歩き出した三者を、コアとペトラは戸惑いながらも追いかけた。
「なにあれ⁉︎なんか建物があるよ⁉︎」
ペトラが指を差して叫んだ。
岸辺から離れた高台。そこには三階建ての建物があった。
角に丸みがある特徴的な直方体で、ミュウ、カルロス、シンの三人が近づくと自動で扉が開いた。
つい足を止めた二人に、泥蛇も一緒に止まって説明する。
〈あれが沈没都市の中でも二機しかないファイナルヴィークル特殊大型潜水艇〝イング〟です。
搭載されるAIの名前でもあり、〝MSS〟に近いAIの一つと呼ばれています。
あの潜水艇の性能は小型の沈没都市と呼べるほどなのです。
海では潜水艇、陸ではこうして建物のような姿に変形できます。〉
ほら急いで、といわんばかりの羽ばたきで、泥蛇はミュウたちの後を追いかける。
〝イング〟を見て目を輝かせているコアの腕をペトラがむりやり引っ張って連れて行く。
〝イング〟に一歩入ると、場面は食堂に変わった。
そこには褐色肌の女性と小柄な男性の二人が食事の用意をしている。
シンが褐色肌の女性に蛹のついた植物を見せた。
『アリシャ。これ見てごらん』
アリシャと呼ばれた女性は目からキラキラと光が出そうなほど輝かせ、「わー!蛹だー!」とそれを受け取った。
『ちょっとトマス!これ保管してきていい⁉︎食事の用意放り出していい⁉︎』
パンを焼いていたもう一人の食事当番は、くすくすと笑って頷いた。
『いいよ。三人に手伝ってもらうから。行っておいで』
トマスは帰還した三人に目配せした。
最年少のアリシャにはシンも甘いようで、彼も「そんなに喜んでくれて嬉しいよ」と彼女に蛹がくっついた植物を渡した。
アリシャは「先食べてていいから‼︎ありがとう!みんな!愛してる‼︎」と叫んで研究室へ飛んで行った。
アリシャは飛んで行ってしまったが、食堂には計五人。
コアは「第一調査隊はこれで全員?」と泥蛇に尋ねる。
コアの声が聞こえているようなタイミングで、カルロスが「キキはまだ回復しないのか?」とここにはいない隊員の名前を口にした。
『風邪とは違うんだから。本人にも原因が分からないのにそんな言い方したらまた悪口を言われるよ』
少し棘を感じるようなカルロスに、シンがそう窘めた。
『悪口というか、あれは脅迫だったね。〝お前が怪我したら塩で消毒するぞ〟だっけ?』
シンに加えてトマスもカルロスにチクリと刺しておく。
カルロスは怒っているわけではないが、納得できない様子で食事の用意を手伝う。
『もともと、この任務に選ばれる女子に生理はないって聞いていたけど。間違いないよな、ミュウ』
カルロスはスープの入った器をミュウに渡す。受け取った彼女は非常に困った表情を浮かべた。
『ええ。〝ジーカリニフタ〟の処置は受けているはずよ。実際、その処置を受けてから生理なんて来なかったってキキは言ってたわ』
「〝ジーカリニフタ〟?」
聞き慣れない言葉に、コアとペトラは首を傾げる。
〈意図的に生殖機能を終了させる施術のことです。女性の場合は生理を止めることを指します。〉
「え⁉︎すっごーい!私もやりたい!」
「あ!馬鹿!そうだ思い出した!内陸の武装宗派が沈没都市の支援員を襲う理由の一つだよ!」
素で感激している浅はかなペトラの肩を、コアがペシン!と叩く。
コアの叱責に、泥蛇は即座に肯定した。
〈ええ。内陸へ支援に行く女性はほとんどその処置をしていますので。気軽に処置してしまうと〝ジーカリニフタ〟を宗教的に受け入れられない武装勢力に狙われる理由が増えるだけですね。
それに、それを行う人は〝子供を作るより資源を残せる〟能力を持つ人が推奨されています。
ペトラさんは壮健で母性もおありですから、沈没都市に行かれても〝ジーカリニフタ〟は推奨されないと思われます。〉
「え?母性ある?初めて言われた…」
喜びと驚きで感情が迷子になっているペトラとは反対に、コアは内心「…さらっと〝ジーカリニフタ〟を受けるほどの人材じゃないって言われてる…」と片割れへの評価に複雑な気持ちを抱いた。
次いで、コアはハッとミュウたちに意識を戻す。
「…じゃあこの第一調査隊の女たちも…」
〈はい。まず改めて第一調査隊のメンバーをご紹介しますね。〉
泥蛇はミュウたちの映像とは別に、第一調査隊それぞれのデータを二人の前に映した。
気象・海洋学者(五〇歳)シン・ゲーパルト・ニコライ
火山・地脈・水文学者(四五歳)トマス・フスティツィア・ブランカ
植物・動物学者(三五歳)ミュウ・朝香・スウィフト
鳥類・昆虫学者(三一歳)アリシャ・コン・エンド
総合医療(五五歳)キキ・ローテスアイゼン
護衛(三七歳)カルロス・キューケン・ピット
〈ドクターであるキキ・ローテスアイゼン隊員は島に踏み入れたその日から生理になってしまったんです。
〝ジーカリニフタ〟を受ければ女性も男性も、もうその機能は戻りません。
これは島に入って第一調査隊に起きた、最初の異常でした。〉
目の前のミュウたちはみんな冷静ではあるが、困惑は隠しきれていなかった。
あり得ない事態といえるのはもう一つ。
『なんで訓練期間の定期健診にも出向前の最終検診にも引っかからなかったんだろうな。全部〝MSS〟のシステムなのに』
そうぼやくカルロスに、やはり周りの研究員も答えが出せない。
(そう。それだよな)
コアもカルロスの言葉に頷く。
〈この時点ではキキ・ローテスアイゼン隊員の虚偽報告も疑われましたが、もとより責任感の強い彼女のことを他の隊員はよく知っています。
都市からそのような疑惑も上がらなかったことから皆さんは彼女のことを信じる方針に決まったのです。
…なにより、虚偽報告なんて沈没都市の住民はしませんから。〉
「ここまで見る限り、〝MSS〟に欠陥があるってだけで、プレリュードに繋がるものはないように見えるけど?」
異常は確かにあったのだろう。しかし、ラクスアグリ島の中でのみ起こるものならば、自分たちがプレリュードに巻き込まれた理由が見当たらない。
コアの質問に、泥蛇は僅かに嘲笑を含めて微笑した。
〈〝MSS〟に欠陥はありません。なかったから、我々が誕生するに至ったのです。〉
コアやペトラがなにか尋ねる前に、泥蛇は第一調査隊の記録を大きく流した。
場面がどんどん変わり進んでいく。
回復したキキも含め、メンバーが頭を揃えて話し合っている。
穏やかで、最終的にはキキの快気祝いにゲームをした夜になった。
しかし、その日から徐々に崩れていく。
シンが他の隊員と口論する場面が多くなる。差別的な発言が多く、特に女性陣を怒らせていた。
アリシャがカルロスを引き留めている。訓練期間では完璧に制御できていた性欲が収まらないと彼に助けを求めていた。カルロスはやんわりと断り、キキのもとへ連れて行っている。
誰かが少し我慢して保っていた平和が――腐るように崩れていく。
悪循環を繰り返し、三週間が経つ。
キキやカルロスは何度も帰還を視野に入れたが、隊員の揉め事など都市の住民であれば収める力があって当然だった。帰還の要請など彼ら自身が受け入れられるはずもなく。
最悪の事態となった。
場所が医療室で止まった。
そこにはミュウとキキがいる。
キキの手に持つ3Dエコー写真に、コアとペトラはあっと声を上げた。
「え⁉︎ミュウの…ってこと⁉︎」
ペトラはコアの肩をバシバシと叩いて尋ねる。
コアは叩かれても反撃せず、泥蛇に視線を送った。
「俺達がガキだからって、隊員と致している映像をとばしたワケじゃないよな」
〈うふふ。そんなことしませんよ。必要であれば分かる程度にお見せします。〉
「…じゃあ…」
〈嗚呼、神秘的に見えるかもしれませんが、そこは科学的ですよ。彼女はひとりでに妊娠したのではありません。都市に恋人がいらっしゃるので、その男性との子供です。〉
コアは驚きと不快感で眉を寄せ、3Dエコー写真に視線を戻した。
二つの影が胎児だと、キキは言っている。
「ティヤとスラか。男の隊員との子供じゃないならなおのこと…なんで最終検診に引っかからなかったんだよ」
自分でそう言ってコアは冷たい息を飲んだ。恐る恐る、もう一度、泥蛇に視線を送った。
「それでも…〝MSS〟に欠陥はないって言ったな」
〈ええ。〉
「なら…それなら…この事態を想定して…――いや。こうなるように〝MSS〟が仕向けたと?」
コアの言葉に、ペトラも息を飲んだ。
思わず言葉を失う双子だったが、映像からひどい騒音が聞こえて注意を向けた。
医療室に入って来たトマスはキキと話し、次第に口論になっていく。
勢い余り、医療室に置かれていたハサミで、トマスはキキの首元を刺してしまう。
それを見て、呆然としていたミュウは我に返った。診察台から飛び降り、医療室から逃げ出した。
〈さあ!彼女を追いかけますよ!〉
泥蛇は声を弾ませて、ミュウを追いかけた。
ペトラは殺人が起きた意味が分からず、狼狽えている。
コアがペトラと手を取って黒い蝶の姿の泥蛇を追った。
「な、なんで、なんで殺しちゃったの…?」
走りながら、ペトラは息の切れ間で呟く。
コアは足の速いミュウを見失わないよう、必死にペトラの手を引っ張った。
彼も都市の住民があんな感情的な暴力を振るうとは思わず、異様な恐怖を感じていた。
(大陸では自分のために人を殺す。沈没都市の人間はAIの理念を守るために――)
口論の内容はこうだった。
ミュウの妊娠が分かり、キキはカルロスたちに連絡をしようとした。
それをトマスは一度制した。
『待ってくれ。あなたはコレをどうする気だ?』
トマスの言い方が気に障ったキキは少し敵意を込めた眼差しになる。
『人の命に向かってコレとはなんだ。どうするも何も、まずはミュウの身体を第一に考えるだけだ』
『それなら今すぐ堕胎させろ‼︎』
トマスの張りつめた声が医務室に響いた。ミュウはその声に固まり、キキも面食らった顔から、怒りと軽蔑の表情となる。
『なんてことを軽々しく。どういうつもりだ、トマス』
『どういうつもり?
僕は君たちの〝ジーカリニフタ〟を受けたという主張は信じるよ。
結局本部から虚偽の報告は来ていないんだ。間違いはないんだろう。
でも、だとしたら異常はこの島にある。
島のせいでできた子供なら産ませては駄目だ』
トマスを黙らせるために、キキはハサミを手に取って彼に向けた。
暴力に訴えたキキに、トマスは言葉を失う。
彼女は殺気に近いくらいの怒気を込めて、トマスをきつく諫めた。
『トマス。いいかい。ここには〝MSS〟が無いんだ。
価値の天秤をあたしたち人間が傾ける時は、死ぬほど考えて答えを出さなきゃいけない。
例え、最後に決める答えがどれだけ簡単なものだったとしても』
キキの気迫に飲まれていたトマスだが、怒りに顔を歪ませ、ハサミを持つ彼女の手を抑え込む。
そのまま体当たりをして、キキを壁際に叩きつけた。
『き、キキ‼︎』
目の前で起こった暴挙に、ミュウはハッと我に返って叫んだ。
トマスはゆっくり診察台に近づく。彼の表情はいっそ優しいのに、眼光は恐ろしいほど殺気を帯びている。
『もし、堕胎を罪に感じるなら、君は僕を恨んでいいよ。
でも分かるだろ?
僕らの任務は沈没都市の未来がかかっている。
任務に支障を来す障害は全て罪だよ。
僕はただ…――この世界で証明された理念を守りたいんだ』
喉が潰れたように声のでないミュウが目を閉じた時。
キキがトマスを後ろから抱きつき、彼の足を払って床に引き倒した。
『逃げな‼︎簡単に決めていいことじゃない‼︎大丈夫、なにを選んでもあたしがついてる‼︎
―――――逃げな‼︎』
そうして。
キキは喉にハサミが振り下ろされるまで、トマスを押さえ続けたのだ。
ミュウはカルロスたちの帰路とは異なるルートでラクスアグリ島の中心部に走った。
「どこまで行く気だよ!」
彼女を追いかける二人は不安そうに先を飛ぶ泥蛇に声をかける。
青い蝶たちに紛れてどんどん先へ行く泥蛇は―――ようやく止まった。
怪物の口のような、大きな洞窟の前で。
ミュウはその洞窟に入って行く。
まだ調査前であるその洞窟ならばすぐ追ってこないだろうと。
振り返らず、洞窟の闇へ消えていった。
コアとペトラはその不気味な闇を前に立ち止る。
泥蛇はひらひら、と速度を緩めて羽を動かした。
〈ここがこの島の本当の入口です。〉




