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我的愛人  作者:
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涙あれども語り得ず ~風~

 看守の足音が近づいてくる。

 無意識下、常に張り巡らせている神経が鋭敏にその刻を察知した。

 ──いよいよか。

 浅い眠り。薄暗い空間。圧し掛かる静寂。鉄扉の解錠音。

 独房を出、顕㺭は前を行く看守の矮小な背中をじっと見つめる。

 判決を下されてからすでに五ヶ月。どうせここから生きて出られぬならば、いっそ即座に殺してくれて構わぬものを。冷たい鉄格子の中で何度そう思ったことか。

 デタラメな裁判、くだらぬ判決理由。何を今さらこの期に及んで五ヶ月も生かしておく必要がある?

 監獄から外に出た途端、身体に沁みついていたなまぬるい澱んだ空気が、凍てつく清冽な風によって一瞬のうちに清められてゆく。

 まだ明けきらぬ夜。太陽の昇る頃には、もう自分はこの世にいないだろう。顕㺭はその感触を名残惜しむように、両脚でしっかりと確かめながら大地を踏みしめる。

 向かうのは自身の死出の旅立ちの場である死刑場。


「何かいい残すことはないか」

 レンガの壁に向かって立たされた顕㺭に執行人が静かに問うた。顕㺭は静かに目を伏せ、聞き取れぬほどの小さな声で呟いた。

「家あれども帰り得ず 

 涙あれども語り得ず 

 法あれども正しきを得ず 

 冤あれども誰にか訴へん」


 頬を優しくかすめる微風が顕㺭の声を何処へと攫ってゆく。

 その微かな感触はまるで彼の女の手を思わせる。

 執行人はさらに問うた。

「他には」

「何も」

 顕㺭は即答し首を横に振る。今さらこれ以上何を言うことがあろうか。

 執行人は顕㺭の名を確認し、硬く冷たい地に跪くよう命じた。


 さあ、もうすぐだ。自分の生命を撃ち抜く弾丸が放たれる。

 それは己の人生の終焉の刻に鳴る、鎮魂の鐘の音なのだ。

 風が一瞬凪いだ。

 執行人が銃爪に指をかける。そしてカチリと引く音が聞こえたその瞬間、一陣の強風が静寂に包まれた死刑場を吹き抜けた。


「待っているわ! 顕㺭!」

「婉容!」

 今まさに死出の旅へ行かんとしている顕㺭の耳を甘く優しく撫でてゆくように。その魂をすかさず奪ってゆくように。

 顕㺭は確かに聞いた。風の中に、あの懐かしい最愛の婉容の声を。

 そしてようやく悟ったのだ。彼女はもうこの世にはいないことを。そして自分がこの世に生を享けた意味を。

 ──ああ……僕は君と出逢うためだけにこの世に生まれてきたんだ……!

 執行人の放った一発の小銃弾は夜明けの静寂を突き破り、確実に彼女の後頭部を撃ち抜いた。


 清王朝皇族粛親王家第十四王女・愛新覚羅顕㺭。中国名・金璧輝。日本名・川島芳子。

 三つの名を持ち、世にも数奇な運命をたどった彼女は、祖国中国を裏切った漢奸として、1948年3月25日午前6時40分、北平第一監獄において死刑に処せられ、その一生を終えたのである。

超ドシリアスな展開で自分でも驚きです。そして偶然にも顕㺭の命日に完結となりました。


なお、この話は完全にフィクションです。

登場する人物・関係性・建造物などは実在のものとは一切関係がありません。


長々とお読みくださりまして、ありがとうございました。

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