第一話 婚約破棄の夜、私は厨房にいました
王太子殿下に婚約破棄を告げられる夜、私は宮殿の厨房で木苺パイを食べていた。
現実逃避ではない。
焼きたてを一口どうぞ、と料理長が言ってくれたのだ。断る理由はなかった。木苺は甘酸っぱく、薄いパイ生地は指先で触れるだけで崩れそうなほど軽い。
大広間の扉の向こうでは、いま、私が断罪されている。
「コレット様、本当にこちらにいてよろしいのですか」
厨房の隅で、見習い侍女のニナが青い顔をしていた。
年は十四。そばかすのある頬に、まだ子どもの丸みが残っている。私が宮殿の衣装室へ出入りするようになってから、何度か糸切り鋏を貸してくれた子だ。
「よろしいも何も、私は建国祭の夜会を欠席しています」
「でも、大広間に、コレット様が」
「いるわね」
「いるわね、ではなく!」
ニナは小声で叫んだ。
厨房で働く人々も、表向きは鍋や皿に向かっているが、耳だけはこちらに向けている。大広間から漏れてくるざわめきは、それほど大きかった。
糸巻きが、私の膝の上でかすかに震えた。
絹糸の芯に銀を通した、私の手製の糸巻きだ。片方の端はここにあり、もう片方の端は大広間にいる“私”の袖口へ縫い込んである。
音まではっきり聞こえるわけではない。
けれど、強い声、驚き、拍手、悲鳴のようなざわめきは、糸を伝って指先に届く。
「――コレット・アーヴェル」
大広間の方から、王太子レオンス殿下の声が響いた。
銀食器を磨いていた下働きの少年が手を止める。
「君との婚約を、今夜限りで破棄する」
厨房の空気が凍った。
誰かが持っていた皿を落としかけ、料理長に睨まれて慌てて支え直す。
私はパイをもう一口食べた。
おいしい。
こういう時でも味が分かるのだから、人間は案外しぶとい。
「コレット様……」
「大丈夫よ。予定通りだから」
「予定通りであってほしくない言葉です」
ニナの感想はもっともだった。
私はアーヴェル伯爵家の長女で、十歳のときから王太子レオンス殿下の婚約者だった。
母は早くに亡くなり、父は家名を上げることに熱心な人で、私はずっと「王太子妃になる娘」として育てられた。歩き方、笑い方、食器の持ち方、国史、外交、古典語、刺繍、舞踏。覚えることはいくらでもあった。
私自身、努力は嫌いではなかった。
努力したぶん、針目は揃う。裾はまっすぐ落ちる。舞台衣装の袖口は、踊り子の腕がいちばん美しく見える角度に開く。
前世の私は、小さな劇場で衣装係をしていた。
朝から晩まで布と針と糸に囲まれ、主演女優のドレスを直し、代役の衣装を詰め、破れた袖を本番三分前に縫い合わせた。きらびやかな舞台の裏で、誰にも見えない仕事をするのが好きだった。
最後の記憶も劇場だった。
徹夜で直したドレスを衣装部屋へ運び、階段を降りようとして、足元がふっと遠くなった。
次に目を開けたとき、私はこの世界の伯爵令嬢になっていた。
幸い、針仕事は今世でも私の味方だった。
私の魔法は《縫い留め》。
布に動きや言葉や手順を縫い込む、地味な力である。
神官は「家庭向きですね」と言い、父は「王太子妃には不要な魔法だ」と言った。レオンス殿下は、私の刺繍入りの手袋を受け取りながら、「君は本当に細かいことが好きだな」と笑った。
褒め言葉ではなかった。
そして三か月前、王宮に聖女ミナ・ロゼット様が迎えられた。
白金の髪、菫色の瞳、泣きそうに微笑むと誰も責められなくなる声。彼女は癒やしの奇跡を持つという触れ込みで、あっという間に殿下の隣に立つようになった。
よくある話だと思う。
婚約者のいる王子が、可憐な聖女に心を奪われる。古い婚約者は邪魔になる。邪魔なものには、理由をつけて捨てる。
問題は、その理由が私の罪として用意されていたことだった。
ミナ様のドレスを破った。
香油に毒を混ぜた。
廊下で彼女を脅した。
どれもしていない。けれど、証言者は揃えられていた。
三日前、私はその打ち合わせを聞いてしまった。衣装室の隣にある小部屋で、ミナ様の夜会用ドレスの裾を直していたときだ。
壁の向こうから、殿下の側近が言った。
「殿下が婚約破棄を宣言なされば、あとは流れで決まります。アーヴェル嬢は気位が高い。大勢の前で責めれば、必ず取り乱します」
取り乱す予定だったらしい。
なら、本人が出席しなければいい。
私はその日のうちに、礼典課へ欠席届を出した。母の命日に墓参へ行くため、と正当な理由を書き、受領印ももらった。
そのうえで、代理出席用の人形を登録した。
王宮では、遠方の貴族が挨拶だけを届けるため、魔導具や使者を代理に立てることがある。珍しいが、違法ではない。礼典課の老書記は、私の人形を見て目を丸くしたあと、きちんと登録番号をくれた。
登録番号、四九番。
だから私は今夜、招待客ではない。
衣装室から頼まれていた裾直しの納品ついでに厨房へ寄り、料理長の好意で木苺パイを食べているだけだ。
糸巻きが、また震えた。
「君は、聖女ミナのドレスに刃を入れた。彼女の香油に毒を混ぜた。さらには、私に近づくなと彼女を脅した」
殿下の声はよく通る。
舞台に向いているな、とどうでもいいことを考えた。
「王太子妃となるべき者が、嫉妬に狂い、このような卑劣な行いをするとは。私は君を、もう信じることができない」
厨房にいる数人が、そっと私を見た。
私は首を横に振った。
「していませんよ」
「分かっております!」
ニナが泣きそうな顔で言った。
その声に、少し胸が温かくなる。
大広間では、殿下の声に続いて、細い女の声が聞こえた。たぶんミナ様だ。
「私、コレット様を責めたいわけではないのです。ただ、もう怖くて……」
糸が震える。
同情のざわめき。
誰かのため息。
断罪の場としては、なかなか整っている。
「コレット」
殿下が言った。
「何か申し開きはあるか」
私はパイの皿を置いた。
膝の上の糸巻きに、指を添える。
大広間にいる“私”が、縫い込まれた礼儀作法に従って、ゆっくりと顔を上げたのが分かった。
あの子には、返すべき言葉を三つだけ入れてある。
一つ、相手の話を最後まで聞くこと。
二つ、嘘をつかないこと。
三つ、本人確認を促すこと。
沈黙が落ちた。
やがて、糸が細く震える。
私の縫った身代わり人形は、王太子殿下に向かって、たいへん礼儀正しく言った。
「お言葉ですが、殿下。わたくしは本日、欠席しております」




