第8話
海斗は窃盗の罪で、呆気なく起訴された。
同時に、被告人として裁判を待つ立場となる。
余罪がないことから、大阪拘置所への移送は間もなく行われた。
そして、旅立ちを翌日に控えたある日、突然刑事からお呼びがかかった。
事件の取り調べはとうに終えている。今さらなんの用だろうか。
腑に落ちないまま、それでも異議を唱えることなく、刑事に促されるまま取調室へ向かった。
「おう。誕生日おめでとうな」
部屋に入るや、待ち構えていた青山が開口一番にそう言った。
「ありがとうございます。覚えてくれてたんすね」
戸惑いながらも礼を述べる海斗は、不意に胸の奥が軽くなるのを感じた。自然と頬が弛む。
こんな地獄のような世界で、人の優しさに救われるとは思ってもみなかった。
それだけで、その日は少しだけ世界が違って見えた。
「約束やからな。ケーキもなんも出されへんけど、辛抱してや」
と言い残し、青山は早々に部屋を出ていった。
数分も経たないうちに扉が開いた。
「海斗くん、元気かいなあ?」
その荒々しい声を聞いただけで、来訪者の正体を悟った。
「不自由な生活にもだいぶなれてきたんとちゃうんかあ。えぇ? どないやあ」
立花刑事の口から放たれる言葉は、相変わらず凶器のようだ。
「はい。嫌っすけど、ちゃんと慣れてきてます」
「住めば都やぁ言うて、よう耳にするからのう」
立花は唇の片端をわずかにあげた。
「お別れやあ、海斗くん。いよいよ大阪拘置所への旅立ちやのう。この週末やあ」
その時がきたか、と胸の内で嘆く海斗は、瞬時に心が沈んだ。
先へ進むほどに、暗闇の奥に潜む怪物の輪郭だけが大きくなっていく。正体が見えないことこそ、何よりも恐ろしかった。
「ひとつなあ」
立花は言った。
「頭の片隅にでも置いとってほしいんやけどお」
海斗は興味を引かれたように目を瞬かせた。
「中でのう、チンピラみたいな奴に喧嘩売られるかもしらん。刑務官にどやされるかもしらん。そうなったにしてもよお、腐らんと真面目に務めあげろお」
「決してえ、中におる奴らに同調して、同じようにやっとったらあかん。ろくなことにならんぞお」
海斗は小さく頷いた。
「ゴールは必ずやってくる。それまでちょいと辛抱やあ」
「あぁ、それからなあ」
立花は何かを思い出したように付け加えた。
「出所して身の回りのこと片付いたらでええからあ、わしんとこに顔出せえ。わかったなあ」
「はい。お世話になりました」
その言葉を最後に、南署での生活は終わりを迎えた——。
◇◇◇
四畳ほどの独居部屋。
窓はあるものの景色は遮られ、全くと言っていいほど外の様子は窺えない。
限られた空間には小机や寝具に加え、洗面台や剥き出しの便座までが所狭しと並んでいる。
圧迫感に押し潰されそうになり、胸がぎゅっと縮こまった。
ただ建て替えたばかりだからか、部屋は驚くほどきれいだった。唯一の救いは、それだけだった。
ここのルールは細部に至るまで厳格に定められており、それに背こうものなら調査や懲罰が科され、生活はさらに厳しく制限されるのだ。
こんな日常だって、一ヶ月もすれば当たり前になってしまうのだろう——。
その予感は、呆気ないほど早く現実となった。
一ヶ月もしないうちに、この生活を淡々とこなす自分がいた。
そしていよいよ運命の日を迎えた。
この一日で海斗の人生が決まる——そう言っても過言ではない。
一世一代の大勝負。
布団の中で何度祈りを捧げたことだろう。最早、数えきれないほどだった。
海斗はスーツに身を固め、裁判所行きの護送車に乗った。裁判を受ける者が乗車するこの空間は皆険しい面持ちだった。しかし、自らの人生を懸けた戦いに臨む者らしく、誰一人として目の奥の闘志だけは失ってはいなかった。
無論、海斗もその一人だった。
法廷に足を踏み入れた瞬間、空気が一変した。
傍聴席から向けられる無数の視線が背中に突き刺さる。皆、黙然としているのだが、その沈黙こそが何よりも重い。重すぎる。
これまで生きてきた人生を秤にかけられる錯覚に陥った。
逃げ出したい——。
そんな衝動が胸をよぎった。
だが、もう逃げ場はない。
やるしかないのだ。
海斗は声を震わせながらも、自らの犯した罪を深く謝罪し、被害者に対して生涯をかけて償っていく決意を述べた。
覚悟を胸に臨んだ裁判。その行方は——。
執行猶予なのか——。
それとも、実刑なのか——。
だが——
次の瞬間、世界から光が消えた。
——「主文、被告人を懲役二年四月に処する」
◇◇◇
息苦しいほど静まり返った車内には、数十人が等間隔で腰をおろしている。誰ひとり口を開くことなく、俯いたまま微動だにしない者、窓の外に虚ろな目を向ける者——それぞれが自分だけの世界に沈み込んでいる。
海斗は窓の外に目を向けた。
二、三歳ほどの女の子が、抱っこして、と言わんばかりに母親の服を摑んで甘えている。その傍らをランドセルを揺らしながら登校する小学生。
皆、それぞれの世界を懸命に生きているのだな——。
窓の向こうに広がるのは、どこにでもある何気ない日常。その一コマ一コマが、今の海斗には眩しく、新鮮で、ただただ羨ましく映った。
海斗は食い入るように窓の外を見つめ、流れゆく景色を目に焼き付けていく。
阪神高速を堺出口で降りたマイクロバスは、やがて住宅街に紛れ込んだ。
角をいくつか曲がった、その時だった。
——見えた。
ぐるりと周囲を囲む塀は、天に向かって高く聳え立っている。
正面の門を潜った。ふと見上げた先に掲げられた文字が、海斗の胸を貫いた。
——『大阪刑務所』
吸い込まれるように、鉄扉を一つ、また一つと潜っていく。
やがて、バスはその先で静かに停車した。




