第7話
「いらっしゃいませ」 と、店内に高く澄んだ声が響き渡るや、夢乃もすかさずそれに続いた。
ファッションモール内の一角に構える洋服店は、さほど広くはない。ただ立地に恵まれていることもあり、客足が途絶えることは稀である。
店内の壁一面には、白とオレンジを基調としたブランドロゴがプリントされており、随分と華やかだ。
主に、二十代女性をターゲットとした若者向けのアパレルショップ。
お客に洋服をコーディネートしたり、商品を陳列したりと、スタッフがあちこちで自分のやるべき仕事に就いている。
その時、「すいません」と、同店のブランドに身を包んだ茶色のカーリーヘアの女性。
「試着さしてもらっていいですか?」
「かしこまりました。では、こちらへどうぞ」
と言って夢乃は、女性を試着室へと先導した。
二、三分後にカーテンが開くや、水色のフリルのロングスカートを身に着けた女性が登場した。
「どうですか? サイズ等、いかがでしょうか?」
「ばっちりです。穿き心地もめっちゃいいです」
カーリーヘアの女性は、鏡の前で何度もくるりと回りながら念入りにチェックしている。
「そのブラウスともよく合っていて、とてもお似合いです」
じゃあ、と彼女は小さくはにかみ、「これでお願いします」と告げた。
「ありがとうございます」と言い、夢乃は会計のためにレジスタッフに引き継いだ。
あれから夢乃は、頭の片隅に何か痼りのようなモノを抱えながらの日々を過ごしていた。こうして仕事に追われている最中でさえも、脳内をチクチクと刺激され、存在を主張してくるのだ。
そう——あの面会の時の、海斗の一声に。
もう、このままでは何事もうまく進まないだろう。
夢乃は、このモヤモヤを払拭しなければならない、と意を決した。
それから数時間後。
「夢乃ちゃん、そろそろあがって」
との店長の声に、夢乃はそそくさと店をあとにした。
ESTのファッションモールを出ると、そのまま駅へと向かう。
どこに目を向けても巨大なビルが立ち並ぶ繁華街の雑踏を、夢乃は迷うこともなく闊歩していく。
二十代の派手なカップルが、手を繋ぎイチャつきながら横切っていった。
夢乃は、ふんっと鼻を鳴らし、冷ややかな視線を向けた。
嫉妬など微塵もしていない。
今の夢乃は恋愛にはさほど興味はなく、それに振り回されることのほうが煩わしく感じてしまう。海斗には結婚を匂わせるようなことを口にしたものの、実際のところ良いきっかけでもあれば、くらいの感覚でしかない。
タイトなジーンズにフリルのブラウスを合わせる夢乃のコーディネートは、言うまでもなく自身が働く店のブランドのものだ。
梅田駅から阪急電車に乗り豊中駅へと向かった。
『都愛』の扉を引き、夢乃は店内へ入った。
「お母さん、おつかれ」
「おつかれさま。あら、夢乃。今日は早いやないの」
「ん、うん。寄り道しんとまっすぐきたからー
」
あらそう、と言う都子は、オープン前の店内で店屋物をつついていた。
「じゃあ、なんも食べんときはったん?」
「別に、お腹空いてないもん。大丈夫、合間にでも適当に食べるしー」
と言いながら夢乃は、開店準備に取り掛かった。
都子のお店でアルバイトを始めてから、早くも二年となる。
先日のことが頭をよぎった。
突如、襲いかかってきたあの日から、都子の心の傷は多少なりとも癒えているようで、夢乃はほっと胸を撫で下ろした。もうこのまま倒れてしまうのではないのか、と危惧したほど。
だからこそ、胸中で煮えたぎる思いをぶつけると、都子の心の傷を再び抉ってしまうのではないか——そんな懸念も夢乃の中にはあった。
「じゃあ、ママ。お会計頼む」
はーい、と都子は空になったグラスを手に取った。
「ごちそうさまです」
客がグラスを掲げる。都子もそれに応じ、コツン、と客のグラスに合わせた。それに倣って夢乃も続く。
社長、と伝票を計算しながら呼ぶ都子。
「このあとは、まっすぐ帰りはるの?」
「あぁ、帰る。明日は早よから打ち合わせや」
顔に深い皺を刻んだ、六十歳に差しかかろうとしている不動産会社の社長。
「ゆっくり身体休めて、お仕事頑張ってくださいね。また顔見せてくださいな」
ほな、と社長は席を立ち、片手をひらひらと振った。
「来週あたり顔出すわ。またな、夢乃ちゃん」
ありがとうございました、と夢乃は都子と声を揃え、二人並んで社長を見送った。
客がいなくなった店内はがらんとしていて、一層静けさが増していた。
開店間もなくして、バタバタと忙しさを見せたが、やがて客足も落ち着き、先ほど見送った社長を最後に店は空っぽとなった。
夢乃は、ふわふわとしたほろ酔い加減の身体を椅子に預けた。
そしてグラスを手に取り、水で喉を潤した。
朝からぶっ通しで働いてたせいか、さすがに疲労感が増している。
「おつかれさま。少々早い時間やけど、もう閉めよか」
「ん? もう閉めんの?」と、夢乃は都子を見た。
「うん。たまにははよ閉めて、ゆっくりしよやないの」
そう言って、二人は店仕舞いに取りかかった。
そろそろ後片付けも終わりが見え始めた頃、夢乃は何気なく時計に一瞥をくれた。
——午後11時12分。
夢乃が待ち望んでいる深夜ドラマには、充分間に合いそうだ。
それでも今は、そんなことよりも心にわだかまる思いをぶつけようと、ずっとその機会を窺っていた。
——今だ。
そう思った。
「ちょっと話あんねんけど•••••••••」
「どしたんよ? やりたい仕事見つかったから店辞めたいとか?」
首を横に振る夢乃。
「そんなんちゃうよ。夢乃のことやない」
「なんやの?」
夢乃は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出してから言葉にした。
「お父さん••••••どんな人やったん?」
微かに声が震えた。
「どしたん、急に?」
「いや••••••夢乃、そういやお父さんのこと全然知らんなぁて」
「夢乃が生まれてすぐに、あの世に逝きはったさかいな」
うーん、と都子は天井を仰ぎ、遠い記憶を手繰るように目を細めた。
「まぁ、レディーファーストでいつも優しい人やったんよ。しっかり者で、何かと引っ張っていってくれはるんやけど、どっかでいつも抜けてるとこあってな。よう空回りしとったわ」
「ある時な、京都の実家におるって、私言うてんのに——」
「——うっかり自宅に迎えにきた。聞いたよ、その話」
都子の言葉を遮るように、夢乃が先回りして言った。
「あら、そうやった••••••」
都子はパチパチと瞬きし、拍子抜けたような表情を浮かべる。
「違う。そんな話やなくて——」
わずかに眉をひそめる夢乃。
「お父さん、過去になんかあったん? 言いにくいこと、とか••••••?」
「はあ••••••」
都子は小さく溜息を吐いた。「海斗から?」
「え、まぁ。急に意味深なこと言い出すから」
都子は、ふうっと長い息を吐き、額に手を当て苦々しい表情を浮かべた。やがて観念するかのようにカウンターに腰掛けた。
「ここに座って」
何か吹っ切れたような口調だった。
夢乃は、都子の左隣の椅子を引いた。
二人の間に静かな沈黙が落ちる。
夢乃は辛抱強く、都子が口を開くのを待った。
「その前に」都子は言った。
「一つ、約束があるんよ」
「なに?」
「海斗には、絶対に内緒な。——できる?」
優しく問いかける都子。
夢乃は、こくりと深く頷いた。
「わかった。約束する」
「いずれその日がきたら、必ず海斗には私から伝えるさかい。今は、その時やないんよ」
夢乃は黙って頷いた。
「お父さんな」
柔らかな声音だった。
「海斗と夢乃のお父さんな••••••実は——」
「ほんまはな、海斗と夢乃が大きくなったら言おうて決めてたんよ。そやけど、中々その機会もなくてな。言い出されへんまま今日まできてしもたわ。許してな」
都子の口から語り尽くされた話は、壮大で壮絶ながらも、どこか現実味に欠けていた。
まるで映画を観ているようで、自分とは無縁のどこか遠い国の話に思えた。
重苦しい空気は解消されないまま、ふうっと一息吐いた夢乃は、不意に時計に目がいった。
夢乃が心待ちにしていた深夜ドラマは、もうエンディングを迎える頃だった——。




