薬味入り鯛茶漬け
本日2話投稿していますのでご注意ください。
遠くの空で、春の野焼きの煙がたなびいている。
朔が太陽の家(塩田ハウス)で、雪のように白い塩を山と生み出してから、数日が過ぎていた。
その衝撃は、未だ宮殿全体を興奮の余韻で包んでいた。
かつては、塩は金銀にも匹敵するほどの貴重品であり、西の安芸の国から、屈辱的な条件でわずかな量しか手に入らず、王宮の食卓ですらその使用は制限されていた。
ましてや、都から遠く離れた村々では、塩気のない貧しい食事が日常であり、干し肉や塩漬け魚といった保存食は、夢のまた夢であったのだ。
そんな邪馬台国が、むしろ他国へ売り渡せるほどの塩を手に入れた。
国の財政は一気に大幅黒字の見通しとなり、朔の名は、もはや単なる料理人ではなく、国を救った『賢者』として広く知れ渡り、畏敬の念をもって語られるようになっていた。
そんなある日。
朔に料理人持ち回りの、夕餉の当番が回ってきた。
序列第二位となって初めての当番であり、厨房内の視線は、以前とは全く違うものに変わっていた。
嫉妬や敵意は影を潜め、代わりに、この男が次に何を見せてくれるのかという、緊張感を伴った期待が満ちている。
朔はいつものように、まず女王・卑弥呼の私室へと向かった。
彼女に、その日の気分や体調を尋ね、献立を決める。
卑弥呼の許しも得ており、彼が序列第二位となってからも変わらない、二人だけの習慣である。
「陛下。今宵の夕餉、何かご希望はありますか」
私室に通された朔が問いかけると、卑弥呼は、空に浮かぶ灰色の雲を見つめながら、小さくため息をついた。
彼女は毛皮の肩掛けを羽織っているが、それでも寒そうに、かすかに身を震わせていた。
今日は確かに、春にしては肌寒い日だった。
朔の目から見ると、彼女の部屋は無駄に広すぎて、焚いた暖が行き渡っていないようにも見えるのだが。
「……サクか。今日は久しぶりに冷えるな」
彼女の声は、いつもの張りはなく、少し沈んでいるように聞こえた。
「どうも体の芯が冷えてしまって、重たいものはあまり気が進まぬ。……何かこう、腹の底から温まるような、それでいてすっと体に染み渡るような、軽いものは作れぬか?」
それは贅沢な食材や、凝った調理法を求めるものではなかった。
ただ、冷えた体を優しく温めてほしいという、素朴で人間的な願いだった。
朔はその言葉に、即座に一つの料理を思い描いた。
熱い汁をご飯にかけるだけの、単純な料理。
だがその単純さの中にこそ、体を温め、心を満たす優しさがある。
彼は、この日のために準備しておいた特別な食材たちの顔を思い浮かべた。
「わかりました」
朔はいつものようにただ頷き、その場を立ち去った。
◇◆◇◆◇◆◇
厨房に戻った朔は、すぐさま調理に取り掛かった。
まず、今朝釣り上げられた鯛の中から、目の色が良いものを切り身にし、ひとつひとつ炭火でごくわずかに炙り、香りをつける。
その切り身を塩と胡麻、若い「醤」で漬けにし、絶妙な塩梅に味を調える。
次に、回転式精米機で精米した白米を、鉄の羽釜でいつもより少しだけ固めに、しかしふっくらと艶やかに炊き上げた。
そして、この料理の魂となる「出汁」。
昆布と鯛の骨から、時間をかけて丁寧に引いた、黄金色に澄み切った一番出汁を用意する。
薬味には、雪の下から掘り出したばかりの「野蒜」を極細かく刻み、塩漬けにしておいた「梅の実」の果肉を叩いてペースト状にしたものを用意した。
最後に、一番重要と言っても良い、すりおろした生姜も添える。
◇◆◇◆◇◆◇
その夜、卑弥呼の私室は、いつもより多くの灯火が焚かれ、暖かく保たれていた。
それでも、窓の外を吹き抜ける風の音は、寒さの厳しさを伝えてくる。
「失礼します」
朔は、漆塗りの盆の上に一つの椀と湯気を立てる小さな土瓶を乗せて、女王の前に進み出た。
傍らには、ユズリハが静かに控えている。
椀の中には、こんもりと盛られた、輝く白米。
その頂には、胡麻に彩られた醤油漬けの鯛の切り身が、たっぷりと乗せられている。
その傍らには、鮮やかな緑色の刻み野蒜と、赤い梅肉、すりおろし生姜が彩りとして添えられていた。
「また美味しそうなものを持ってきたな。それはなんというものだ」
「はい。今宵の一品は、『鯛の出汁茶漬け』です」
卑弥呼は、その美しい見た目と、ふわりと漂う優しい香りに、まず目を細めた。
「……ほう。茶漬け……。してサクよ。これは、どのように味わうのだ?」
朔は土瓶を手に取り、説明を始めた。
「はい。まず、この出汁の香りをお楽しみください」
彼は、土瓶の蓋を少し開け、立ち上る湯気を、卑弥呼の方へと向けた。
「これは昆布を一晩水に浸し、決して沸かさぬよう、ゆっくりと火にかけてそのうま味を引き出したもの。そこに、新鮮な鯛の骨を加え、さらに時間をかけて煮出し、二つの海の恵みを一つに合わせました」
卑弥呼はその香りを深く吸い込み、思わず、ふぅ、と安堵のため息を漏らした。
「これはおいしそうだ」
笑顔で頷いた朔は、次に、椀の中のご飯を指した。
「ご飯は私が精米した白米です。今日はこの出汁を吸っても形が崩れぬよう、いつもより少し固めに炊き上げております」
卑弥呼は、その雪のような白さに改めて目を見張った。
「あのうなぎの時の米か。あの時も驚いたが、こうして見ると、実に……」
そして、朔は、ご飯の上に鎮座する鯛を示した。
「こちらが主役の鯛です。今朝釣れた新鮮なものを切り身にし、炭火で香りを纏う程度に炙り、塩と醤で漬けにしました。塩気とうま味、そして香りが、この出汁とよく合います」
「醤……それに漬けるとこのような色に?」
卑弥呼は薄茶色をまとった切り身を指差す。
「はい。私がつくった調味料です」
卑弥呼は、その豊かな香りとわずかに炙られたその身の美しさに、ごくりと喉を鳴らした。
最後に、朔は薬味に触れた。
「添えたのは、雪の下から掘り出したばかりの野蒜と、塩漬けにしておいた梅の実を叩いたもの、そして体を強く温めてくれる生姜」
卑弥呼は瞬きをした。
「……体を温める食べものが?」
そんな食べ物は侍医も知らない。
「はい、この生姜というものにはそういった作用がありまして。私やユズリハは毎日飲んでいます」
朔が振り返ると、ユズリハが、バカ、言うな、という顔をしていた。
あ、言っちゃダメだった? なんで?
「生姜のほかにも、野蒜の爽やかな辛味と、梅の酸味が、全体の味を引き締めます。お好みで、少しずつ混ぜながら召し上がってください」
説明が終わると、朔は卑弥呼の目の前で土瓶を傾け、中の黄金色に輝く熱い出汁を、ご飯の上からそっと、円を描くように回しかけた。
「おぉ……!」
瞬間、湯気と共に醤の芳醇な香りが、一気に立ち上った。
部屋全体が、えもいわれぬ良い香りに満たされる。
卑弥呼は木製の匙を取り、まず、その黄金色のスープを一口、そっと口に含んだ。
「……あぁ……♡」
彼女の唇から、自然と吐息のような声が漏れた。
温かい。優しく温かい。
昆布と鯛の、幾重にも重なった深く清らかなうま味が、主張しすぎることなく、舌の上で優しく解けていく。
完璧な塩加減が、そのうま味を最大限に引き立て、喉を通った後には、五臓六腑に、じんわりと温もりが広がっていく。
次に卑弥呼は、ご飯と鯛の切り身、そして薬味を一緒にすくい上げ、口へと運んだ。
ふっくらと、しかし一粒一粒がしっかりとした白米が、極上の出汁を吸って、口の中でほどけていく。
そこに、鯛の切り身の凝縮されたうま味と、程よい塩気が加わる。
時折、シャキリ、と感じる野蒜の食感と、爽やかな香り。
そして最後にやってくる、梅肉の鮮烈な酸味と生姜の引き締め。
甘み、塩味、うま味、酸味、香り、食感、そして、温度。
その全てが一つの椀の中で、完璧な調和を保ちながら、互いを高め合っている。
それは、豪華絢爛な宴の料理とは、全く違う種類のご馳走だった。
あのような派手さはない。
だが一口ごとに、疲れた心と体が内側から、ゆっくりと確実に癒されていく。
まるで、母親の温かい腕に抱かれているかのような、絶対的な安心感。
「なんと美味な……これが醤の味か」
卑弥呼は我を忘れて、その一椀を夢中で食べ進めた。
額には心地よい汗が、うっすらと滲んでいる。
体の芯から、ぽかぽかと温もりが湧き上がってくるのが分かった。
「すごい、身体が、ほてってくる……」
「そうでしょう」
朔はわかっていたかのように、卑弥呼に微笑む。
卑弥呼は嬉しくて仕方がない。
あれほど感じていた、体の重さや気分の塞ぎ込みが、嘘のように軽くなっているのだ。
あっという間に、椀は空になった。
卑弥呼は朔に目を向ける。
「……サクよ」
「はい」
「『おかわり』を所望する」
サクは笑顔で頷く。
今回からは、おかわりをすぐ渡せるように用意して、持参してきていた。
朔が別の椀に用意しようとすると、卑弥呼は自らの空になった椀を朔に差し出した。
「ここへ。半分ほどで良い。早く食べたい」
朔は戸惑いながらも、言われた通り、盆の上の土瓶から彼女の椀へ、残っていたご飯と具材、そして熱い出汁を手早く注いだ。
卑弥呼は、それを嬉しそうに受け取ると、ゆっくりと、二口、三口と味わった。
「サク」
突然、卑弥呼が朔を見てにっこり微笑んだ。
そしてその椀を抱えたまま、今度は朔の方へずい、と寄ってきた。
「陛下……?」
「サク。一口だけやろう」
卑弥呼は、悪戯が成功した子供のような、輝く笑顔で言った。
「そなたにもこの温かさを分けてやる。さあ、口を開けよ」
彼女は自分が使っていた匙で、ご飯と鯛、そして出汁をたっぷりとすくい上げると、それを朔の唇の前へと差し出した。
ユズリハが、はっとする。
「へ、陛下……!?」
朔の思考は、完全に停止した。
女王陛下が、使っていた匙で自分に食べさせようとしている?
あーん、というやつか!?
ありえない。不敬罪どころの話ではない。
彼の顔は、瞬時に真っ赤になり、全身が石のように硬直した。
「何をためらっておる。私の命が、聞けぬと申すか?」
卑弥呼の有無を言わせぬ、しかし、どこか楽しげな声。
「い、嫌……」
ユズリハのかすかな声は、しかし誰にも聞こえない。
朔は観念した。
もはや選択肢はない。
ここまで来てしまうと、食べない方が不敬罪である。
朔は目を固く閉じ、恐る恐る口を開けた。
「嫌……!」
温かい匙が、そっと朔の唇に触れる。
そして口の中に広がる、あの優しく滋味深い味わい。
それは自分が作ったはずなのに、何か特別な、甘美な味が加わっていた。
「ふふふ……どうだ? うまいであろう?」
卑弥呼は、満足げに笑う。
朔は口をもぐもぐさせながら、ただ呆然と目の前の、頬を上気させて楽しそうに笑う女王の顔を見つめることしかできなかった。
――その帰り道。
「ふぅ~」
朔はやりきった表情で、ぐーんと伸びをし、夜空を見上げる。
空では満天の星々が輝いていた。
「よかったな。喜んでくれて」
朔は穏やかな笑みを浮かべ、少し後ろを歩いているユズリハを振り返った。
しかし返事はない。
「……ユズリハ?」
「……むかつく」
ユズリハは朔を鬼睨みしていた。
「……は?」
「このバカ! 鼻の下を伸ばすな!」
「あだだだ!? なふぇうぉ!?」
朔はユズリハに頬をつねられ、呻くのだった。




