鹿の赤身肉の汁と塩昆布がゆ 後編
その黙々とした作業を、ユズリハはいつものように、数歩離れた場所から静かに見守っていた。
だが今日の彼女の眼差しには、ただの監視ではない、明確な問いの色が浮かんでいた。
やがて、ユズリハは初めて、朔の調理中にその沈黙を破った。
「……サク。お前は、恐ろしくないのか」
朔は、手を止めずに答えた。
「何が?」
「女王陛下のご乱心だ。以前、同じ日に料理を捧げた者は、その場で全てを叩きつけられ、追放された。まさかお前は、オシヒト殿の策謀に気づいてないわけでもあるまい」
「前向きに頑張ると決めたから残念ではあるけど、追放されればもとの村に戻るだけだ」
朔は、そこで初めて手を止め、彼女の方を振り返った。
「ただ、自分には女王陛下が、ただ荒れ狂っているようには思えない」
彼は、鍋の中で煮える汁物を見つめた。
女性は周期的に気持ちが落ち着かなくなる日があるのは、知識として知っていた。
「この夕餉は支えになるはずだ。食べさせてあげたい。追放を叩きつけられようとも、せめてこれを差し出してから追放されるよ」
朔は笑ってみせた。
ユズリハは、言葉が出なかった。
この男は他とは違う。
狂乱する女王を臆するどころか、むしろ気遣っているのだった。
◇◆◇◆◇◆◇
夕刻。
朔は完成した料理を一人用の膳に乗せ、北の宮へと向かった。
その後ろを、ユズリハがいつもより近い距離で、静かについてくる。
宮の前は、異様な光景だった。
侍女たちは青ざめ、衛兵たちはうろたえ、そして、宰相であるタケヒコですら、扉の前で為すすべもなく立ち尽くしていた。
中からは物が割れるガシャァン、という甲高い音と、卑弥呼の金切り声が、断続的に漏れ聞こえてくる。
ユズリハがタケヒコに、静かに目礼した。
「タケヒコ様。サク殿をお連れいたしました」
タケヒコは朔を見た。
「……すまぬな。今日は食事だけ置いて戻ってほしい」
「承知しました。これくらいなんでもありません」
朔は膳を捧げ持ち、嵐の中心へと足を踏み入れた。
ユズリハもまた、その背後を守るように、続く。
部屋の中は、惨状だった。
壁には高級な白磁の器が叩きつけられ、調度品はひっくり返されている。
その中央で、髪を振り乱し、獣のように鋭い目でこちらを睨みつけている、卑弥呼がいた。
「……まだ来るか! 耳が聞こえぬか、さっさと失せよ!」
その憎悪に満ちた声に、ユズリハが前に進み出ようとするのを、朔は手で制した。
朔は何も言わずに、膳を部屋の隅の卓にそっと置いた。
そして、深々と頭を下げ、そのまま静かに退室しようとした。
その背中に。
嵐の中心から、不意に静かな声がかけられた。
「……待て」
朔の足が、止まった。
ゆっくりと振り返ると、卑弥呼が荒い息を整えながら、自分をじっと見つめていた。
「……その顔……サクだな?」
「はい」
卑弥呼は部屋に残っていたユズリハや侍女、タケヒコらに向かって、鋭く命じた。
「……皆、下がれ。朝まで、誰もこの部屋に近づくな」
「はっ」
皆が恭しく頭を下げ、退室し始める。
朔もそれに習った。
「サク。そなたはここに残れ」
(……は?)
朔は心のなかで首を傾げる。
傾げすぎて、頭が落ちそうだった。
(……なんで俺だけ?)
ユズリハも戸惑いの表情を浮かべた。
彼女の任務は、朔の傍を離れないこと。
だが、女王の勅命は、絶対だ。
彼女は一度だけ朔を見ると、静かに一礼し、タケヒコと共に部屋を出ていった。
ガチャン、と重いかんぬきの音が響く。
嵐が吹き荒れる密室に、朔は、女王と、二人きりで取り残された。
静寂が、部屋を支配した。
卑弥呼は、近くにあった座布団の上にどさりと腰を下ろした。
その動きは、ひどく億劫そうで、疲労しきっているのが見て取れた。
「……立て、サク」
「はい」
「ここに、座れ」
彼女が指差したのは、ほかでもない。
彼女が座る、すぐ隣の場所だった。
朔は、一瞬といわずためらったが、その有無を言わせぬ眼光に、逆らうことはできなかった。
「し、失礼シマス」
朔は女王のすぐ隣に、息を殺して正座した。
「……それは、何だ」
卑弥呼は、卓の上の膳を、顎でしゃくった。
「今宵の夕餉です。陛下の体調を思い、自分なりに考えて調えました」
「……説明せよ」
朔は覚悟を決め、自分が作った一品一品の意図を、静かに語り始めた。
「こちらの汁物は、鹿の肉と根菜を白湯で煮込んだもの。血の巡りを良くする一品です」
朔がその料理に込めた、体を気遣う思いを、一つ一つ、言葉にしていく。
「白米は消化の良いよう、粥にしました。上にのっているのは、旨味を熟成させた塩昆布で、橘の果実酢を数滴振ってあります」
「……ほう。昆布か」
卑弥呼は、いつもより言葉少なに、その説明を聞いていた。
やがて、全ての説明が終わると、彼女は、ふう、と長い息を吐いた。
そして震える手で、匙を持とうとして……やめた。
「……もう疲れた」
ぽつりと、彼女は呟いた。
「匙を持つ力も、残っておらぬ」
彼女は顔を上げ、じっと朔の目を見た。
そして、信じられない言葉を、命じた。
「サクよ。そなたが食べさせよ」
「……ファ?」
朔の思考は、完全に停止した。
だが、目の前の彼女の瞳は真剣だった。
そこには、権力者の戯れや気まぐれの色はない。
「サク」
「わ、わかりました」
朔は、腹を括った。
彼は、震える手で、粥の入った椀を取り、匙でそっとすくい上げると、卑弥呼の口元へと、ゆっくりと運んでいく。
「……どうぞ」
卑弥呼は、素直に小さな口を開け、その粥を迎え入れた。
温かい粥が、ゆっくりと喉を通っていく。
朔は、機械のように、次の一匙を運び続けた。
「……おいしい」
「でしょう」
「この昆布はよくできている。ずっと食べたくなる味だな」
卑弥呼はされるがままに、赤子のようにただ静かに、それを食べ続けた。
食事を半分ほど終える頃には、卑弥呼の肩から、力が抜けているのが見て取れた。
あれほど険しかった眉間の皺は、いつの間にか消え、その表情は、穏やかで、どこか無防備なものへと変わっていた。
わずかにだが、笑みすら浮かぶようになってきている。
「汁物を」
「はい」
「もっと近くに寄れ。こぼされると困る」
「はい」
寄り添った卑弥呼の身体から、良い香りがする。
朔がスプーンを慎重に卑弥呼の口元に運ぶ。
繰り返すこと、数回。
卑弥呼は、なぜか、だんだん朔に寄り掛かるようになってきた。
そのサラサラとした黒髪が、腕にかかる。
サクは無の心を研ぎ澄ませ、ひたすらオートマチックにスプーンを動かす。
やがて、卑弥呼はこくり、こくりと、舟を漕ぎ始めた。
「ん……」
そのまま、朔の肩にもたれかかるようにして、食事の途中で眠ってしまう。
すー、すー……。
「……えーと」
朔は、匙を持ったまま、そのあどけない寝顔を見つめる。
助けを求めるように周囲に視線を泳がすと、扉の隙間からタケヒコとユズリハがその一部始終を見ていたらしいことに気づく。
タケヒコはこらえきれずに笑っていた。
「まさかお眠りになるとは……気に許しすぎですな」
そう言うタケヒコの目は、優しげだった。




