鹿の赤身肉の汁と塩昆布がゆ 前編
朔が石鹸による衛生環境の改善を達成してから、3週間ほどが過ぎていた。
石鹸は『我が国の重要な生産物』と卑弥呼から通達があり、王宮内の土地に石鹸を生産するための国営工房がつくられた。
「工場」という概念すら存在しないこの時代において、それは革命的な試みだった。
朔は料理人としての仕事の傍ら、自らが設計した効率的な生産ライン(巨大な鉄鍋での鹸化・木製の型枠での成形・乾燥棚での熟成)を、宮殿から選抜された職人たちに、根気強く教え込んでいった。
慣れた人員が増えてきたら、貴族に任せ、民営化を図るのだ。
そうすれば、就業者数は増え、国はどんどん潤うことだろう。
朔がそのことを卑弥呼とタケヒコに伝えると、二人はすでにその構想まで思い描いていたようであった。
さすがは弥生時代を代表する一国の王である。
さて、そんな朔の今後の発明を促すため、卑弥呼は自身の庭園の場所に朔の個人工房を建てて与えた。
「何人も私の許しなく、そなたの邪魔をすることは許さぬ。中で何をしようとそなたの自由だ。思う存分、そなたの知恵を探求するが良い」
そんな卑弥呼の言葉に、朔が大喜びだったのは、言うまでもない。
朔はさっそくそこに、設備をクラフトして置いていった。
■ 調理エリア
- 精密火力調整機能付き竈
通常の竈に加え、空気の流入量を細かく調整できる特別な竈。
- 多目的粘土窯
熱を効率的に蓄積・反射するドーム型の粘土窯。
■ 加工・製造エリア
- 回転式・精密石臼製粉機
回転運動を利用した石臼。石同士の間隔を調整でき、全粒粉からきめ細かい白米粉や小麦粉、さらにはセモリナ粉に近い粗さの粉まで挽き分ける
- 改良型圧搾機
クルミ、亜麻仁、椿、胡麻などから油を搾るための、テコの原理を最大限に利用した強力な木製圧搾機
- 大型燻製器
熱源と燻煙室が分離された「冷燻」と、熱も加えながら燻す「温燻」の両方が可能
- 発酵・熟成室(地下)
工房の床下に掘られた、温度変化の少ない半地下式の貯蔵庫。壁は石や粘土で補強され、換気にも配慮されている
- 食品乾燥棚
竈や窯の余熱と、計算された空気の流れを利用して、果物、野菜、キノコ、海藻、あるいは干し肉などを効率よく乾燥させるための棚。
■ 道具製作・メンテナンス・計測・その他
- 小型たたら炉と鍛冶設備
鉄鉱石から鉄を作り出し、それを加工するための小型の「たたら炉」・
金床・大小様々な鉄槌
- 精密砥石一式
- 標準化された計量器
「リットル」や「グラム」に近い容量・重量を持つ土器、天秤ばかり
- 清潔な水場と排水設備
◇◆◇◆◇◆◇
そうやって、朔にとっては忙しく、そして楽しく過ぎていったある日のことだった。
その日の朝、王宮の厨房は異様なまでに静まり返っていた。
原因は、ほかでもない。
北の宮、女王・卑弥呼の私室の方角から時折聞こえてくる、物が割れる甲高い音と、侍女たちの悲鳴にも似たさざめきのせいだった。
「……始まったな。今月は、少し早いか」
「ああ、今日は北の宮に近づかない方がいい」
料理人たちが、青ざめた顔でひそひそと囁き合う。
今日は彼らが恐れる、周期的に訪れる「神が荒ぶる日」。
女王の御心が、何の前触れもなく嵐のように荒れ狂う、厄災の日だった。
以前、その厄災の日に夕餉当番を務めた料理人は、卑弥呼の怒りを買い、その場で追放されていた(本人の性格の問題もあったようだが)。
「今日の夕餉の当番は誰だ」
皆の視線が、恐る恐る当番表へと向けられた。
そこには、筆頭である「オシヒト」の名が、墨痕鮮やかに記されていた。
その事実を確認した瞬間、厨房の空気がさらに重くなった。
序列第一位の料理長自らが、最も危険な日に当番を務める。
誰もが、固唾を飲んでオシヒトの動向を見守っていた。
(おいおい、冗談じゃないぞ……)
オシヒトは腕を組み、苦虫を噛み潰したような顔で、北の宮の方角を睨んでいた。
今までこれに当たったことは何度かあるが、思い返したくない苦汁の思い出ばかりだ。
プライドの高い彼にとって、万が一にもまた女王から罵倒されるようなことがあれば……。
(……なぜ、よりにもよって今日なのだ……)
オシヒトが、苛立ちと恐怖の間で葛藤していると、ふと、厨房の片隅で、静かに自分の調理台を磨き上げている男の姿が目に入った。
その瞬間、オシヒトの脳裏に、悪魔的な名案が閃いた。
違う、これは好機だ。
彼はわざとらしく咳払いをすると、厨房全体に響き渡るような、威厳に満ちた声で言った。
「皆、聞け!」
料理人たちの視線が、一斉に彼に集まる。
「本日の夕餉の当番だが、私は少々体調が優れない。誰かと変わってもらう必要があるが、このような、陛下の御心が定まらぬ日にこそ、評価された者の料理が必要であろう。……サク!」
突然、名を呼ばれ、朔は顔を上げた。
オシヒトは、朔をまっすぐに見据え、丁寧な、しかし有無を言わせぬ口調で続けた。
「序列十三位、サク殿。そなたに本日の夕餉の当番を特別に命じる。先日の見事な力を、今こそ発揮せよ。……これは、料理長としてではなく、女王陛下のお心を第一に慮っての、特別な采配。お分かりだな?」
それは、あまりに理不尽で、卑劣な命令だった。
最も危険な役目を、「そなたならできる」という、逃げ道のない賛辞で飾り立てて、押し付ける。
厨房にいた誰もが、その策謀に気づいていた。
ユズリハの眉が僅かにぴくりと動いたが、彼女は何も言わなかった。
「………」
朔は、何も答えなかった。
ただじっと、オシヒトの顔を見ていた。
その目は、怒りでも恐怖でもなく、ただ全てを見透かしたような、静かな色をしていた。
やがて朔はゆっくりと立ち上がると、頷いた。
「わかりました」
そのあまりに落ち着いた態度に、逆にオシヒトの方が、たじろいだ。
◇◆◇◆◇◆◇
その日の午後、朔は厨房の隅で調理を始めた。
まず朔は、血の巡りを良くするための汁物を用意した。
鹿の赤身肉と、数種類の根菜を、骨の出汁でことことと煮込んでいく。
次に、精神を安定させる効果のあるとされる、青菜をさっと塩茹でにし、香りの良いクルミの油で和えた。
米は胃に優しい粥にして、その上に細く糸状に刻んだ塩昆布をのせる。
そして最後に、心を落ち着かせる香りを持つ、カミツレに似た野草を燻し、その香りを移した白湯を、飲み物として用意した。
その黙々とした作業を、ユズリハはいつものように、数歩離れた場所から静かに見守っていた。
だが今日の彼女の眼差しには、ただの監視ではない、明確な問いの色が浮かんでいた。
やがて、ユズリハは初めて、朔の調理中にその沈黙を破った。




