大陸からの使者2 後編
「『豚骨醤油・二郎式』『全マシマシ』になります」
「じろう……? 全……マシ……?」
司馬懿は言葉を失った。
顔がサァーッと青くなっていく。
唐揚げで全力だと思っていた。
それ以上の暴力的な物体が出てくるとは予想していなかった。
これは料理ではない。脂と肉と大蒜の要塞だ。
「私を殺す気か」
「あ、足りませんか?」
朔がもうひとつ、と厨房の方へ声を張り上げようとする。
「――い、いらん! これでいい!」
引くに引けなくなった司馬懿は、意を決して座り直し、箸を手に取った。
(おのれ……!)
野菜の山をかき分け、その下から極太の麺を引きずり出す。
(……ええい、ままよ! ここで引いては狼の名折れ!)
――行くしかない!
彼は、その荒縄のような麺を、口へと放り込んだ。
――ガツンッ!!
脳髄に、雷が落ちたような衝撃が走った。
豚骨を極限まで煮詰めた乳化スープ。
醤油の鋭い塩気。
そして、魔法の白い粉と大蒜が引き起こす、旨味の爆発。
「……うあぁぁ……!」
司馬懿の口から、再び光線が溢れた。
美味過ぎる。
恐ろしいことに、箸が止まらない。
唐揚げで刺激された食欲が、この強烈な塩気と脂を求めて暴走しているのだ。
「美味い……! くそ! なんだこれは!」
そもそもなんなのだ、この形状は。
大陸で「麺」といえば、小麦の生地を薄く伸ばし、手でちぎって湯に入れる『湯餅』か、あるいはワンタンのような平たい断片を指す。
だが、目の前のそれはどうだ。
これほど長く、かつ均一な『紐』として成形するなど、いかなる理法を用いれば可能となるのか、想像もつかない。
しかも、その一本一本が大蛇のごとき太さ。
戦棍の如き質量。
噛みしめた瞬間、強烈な弾力が歯を押し返してくる。
噛めば噛むほど、凝縮された穀物の香りが、濃厚な豚骨の脂と共に口腔内で爆発する。
この麺は喉を通るのではない。
胃袋へと「侵攻」してくる。
山を成す野菜も、危険過ぎる。
これはただの茹で野菜ではない。
乳化した豚の旨味と大蒜の刺激が、逃げ場を失うほどに染み込んでいる。
シャキシャキとした食感を残しながら、噛むたびにジュワリと溢れ出すのは、野菜の水分ではなく「濃縮された覇道の汁」。
この調味の『深度』……もはや軍略の域。
「くそ! 私の知る礼節ある食文化が、この一鉢に蹂躙されていく!」
司馬懿は、魏の最高級の外套を脱ぎ捨てた。
不敵な顔を紅潮させ、髪を振り乱し、ただひたすらに、目の前の「山」と格闘する。
ワシワシと麺を食らい、野菜をスープに沈め、巨大な豚肉にかぶりつく。
くそっ、この肉もほろほろで脂が溶ける。
いったいどうなっている!
「……いや、まだまだ! この程度の山、我が野心の前には平地も同然!」
司馬懿は叫びながら、猛烈な勢いで食べ進めた。
額から大粒の汗が噴き出す。
理性は「もうやめろ」と叫んでいるが、本能が「もっとだ」と吼えている。
そして、ついに。
司馬懿は、最後の麺をすすり終えた。
鉢の中には、茶色く濁ったスープと、わずかな野菜の破片が残るのみ。
司馬懿は肩で息をしながら、勝利の笑みを浮かべた。
(……はぁ、はぁ。勝った……)
胃袋は限界をすでに超えている。
唐揚げの後にこの量は、正気の沙汰ではなかった。
だが、食べきった。
狼の意地を見せたのだ。
司馬懿は、脂でテカテカになった顔を拭い、朔に向かってニヤリと笑った。
「……ふっ、どうだ倭人め。完食だ。……美味かったが、私の底なしの胃袋を満たすには、あと一歩だったな」
それは明らかな虚勢だった。
もう水一滴入らないほど満腹だった。
だが虚勢を張ってよいだけの根拠があった。
これほど手のかかる料理だ。
スープを仕込むだけで一日かかったはず。
今から代わりの料理など、出せるはずがない。
「こんなものではまだ足りぬわ。……で、ではこれにて」
ここで颯爽と立ち去るのが、覇者としての美学……。
うぷっ。
司馬懿は軽く青ざめつつも、笑みを絶やさずに歩き出そうとする。
「ではデザートいきます」
朔の手には、小さなお櫃があった。
彼はそこから、湯気の立つ真っ白な「白飯」をすくい上げると――
ドボンッ。
司馬懿の目の前の、スープが残った鉢の中に、無造作に投入した。
「……は?」
司馬懿の目が点になった。
思考が停止した。
残った汁に、飯を? なんという下品な。なんという……
「『追い飯』と申します。脂と旨味が凝縮されたスープを、米の一粒一粒に吸わせて食らう。……これぞ、二郎式の真骨頂」
朔はさらに、手鍋から熱々の「割りスープ」を少量、その上から回しかけた。
ジュワアァ……ッ。
ただならぬ香りの湯気が立ち上る。
スープを吸って黄金色に輝く米粒が、大蒜の香りと共に、再び司馬懿の食欲中枢を直接殴りつけてきた。
「ば、馬鹿な。こんなのが……うまいはずがない!」
司馬懿の顔が真っ青になった。
計算外だ。新たな料理を作る必要などなかったのだ。
残ったスープこそが、最強のおともになるなど。
「いや、わかっているはずです。これが醍醐味であることを」
「ぐ、ぬぬぬ……ッ」
「あ、もしかして満腹でしたか?」
「――そ、そんなわけがあるか!」
司馬懿の手が、勝手にレンゲを握った。
脳は拒否している。胃袋も悲鳴を上げている。
だが、右手が止まらない。
スープをたっぷりと吸った飯を、口へと運んでしまう。
「うは」
――美味い。
麺とは違う。
米の甘みが、塩辛いスープを優しく包み込み、しかし大蒜のパンチはそのままに、喉の奥へと滑り落ちていく。
激ウマ。
「くっ、止まらん……! なぜだ、なぜ手が勝手に……!」
司馬懿は今、楊修と同じことになっていることに気づかない。
涙目になりながら、飯をかき込んだ。
熱いスープが追加されたことで、胃の中で米が膨張していくのが分かる。
レンゲは止まらない。
最後には鉢を持ち上げ、米一粒、スープ一滴残さず、喉へと流し込んだ。
「……ぷはぁ」
「追いスープいきます」
なみなみとスープを足されたとたん、カラン、とレンゲが落ちる音が響いた。
司馬懿は、椅子にもたれかかり、天井を見上げていた。
その顔は、満足感と敗北感、そして極限の満腹感で、毒気が抜かれたような表情を浮かべていた。
「……参った」
司馬懿は、かすれた声で呟いた。
「私の……負けだ。底なしなどと豪語したが、ただの意地だったのだ。貴国の『脂』は、私の想像を遥かに超えていた……」
朔は、静かに一礼し、冷たい水を差し出した。
「お見事な食べっぷりでした、仲達殿」
「こんなにうまいもので腹一杯にしたのは、生まれて初めてだ」
司馬懿は自嘲気味に笑ったが、その表情は晴れやかだった。
楊修への対抗心も、野心も、脂と共に綺麗に洗い流されていた。
「だが、悔いはない。……この暴力的なまでの満足感。これこそが、私が求めていた『覇道の味』だ。楊修が狂ったのも、やっと納得がいった」
◇◆◇◆◇◆◇
翌朝。
出航の準備を整えた司馬懿は、少し腹周りがきつくなった外套を羽織り、朔と向き合っていた。
「うまかったぞ。いずれ都で楊修に会った時、この話を風に乗せて届けてやろう。奴が悔しがる顔が見ものだ」
「またお会いできるのを楽しみにしています」
「ぜひ。また全マシマシを食わせてくれ」
二人はがっしりと握手をすると、司馬懿は船へと乗り込んだ。
魏の船団は、朝日の中、ゆっくりと帆を上げた。
「やれやれ……ここまで派手にやられるとは」
軽く手を振りながら、見送ってくれる邪馬台国の者たちを、なんとはなしに眺めていた時だった。
司馬懿は、ふと、朔の隣に立つ女性に視線を向けた。
濡羽色の髪をなびかせ、静かに佇むその姿。
「……ん?」
最初は、ただの美しい娘だと思った。
だが、その瞳が司馬懿を見た瞬間。
ゾワリ、と。
心臓を冷たい氷の指で直接撫でられたような、凄まじい悪寒が走った。
(……なんだ。この、胃の底が冷えるような違和感は……)
司馬懿の体から、昨夜の二郎の熱気があっという間に霧散していく。
――恐怖。
それも、理屈ではない、生存本能が警鐘を鳴らす類のものだ。
(この目……どこかで……)
記憶の底から、泥をかき分けるようにして古い景色が浮かび上がってくる。
まだ司馬懿が幼き日。
父・司馬防が都で京兆尹(都の知事)についていたころ。
董卓が権力を我が物とし、洛陽の街を己の欲望で支配していた、あの頃だ。
その董卓の傍らに、まるで鬼神のように控えていた一人の武人。
(あの、人外の輝きを放つ瞳……。天下を睥睨し、あらゆる命を路傍の草のごとく見下ろしていた、あの絶望の眼差し……!)
まさか。
ありえぬ。
「……呂布だ」
司馬懿の顔から血の気が失せていく。
呂布は下邳で曹操様によって処刑されたはず。
ましてや、ここはこの遥か東の果て、倭の国。
「……まさか……ありえぬ」
司馬懿は震える手で船の手すりを強く握りしめた。
遠ざかる岸辺。
朔の隣で、相変わらず慈愛すら感じさせる静かな表情で佇むその女性。
しかし司馬懿の目には、彼女の背後に、天を突くような鬼神の幻影が重なって見えていた。




