氷の女王にカスタードシューを 後編
「お手数おかけします」
朔はそう言って、箱を侍女に渡した。
手土産に甘い物を持参したが、あんな調子である。
隙あらばと伺ってはいたものの、とりつく島もなく、とても渡せたものではなかった。
「………」
受け取った侍女は、箱から漂う甘く香ばしい匂いに、思わず鼻をひくつかせた。
朔はぺこりと頭を下げ、三人を追って謁見の間を出た。
四人は長い石造りの廊下を、とぼとぼと歩いた。
石畳を叩く足音だけが、寒々しく反響する。
窓の外には、鉛色の空と、見渡す限りの雪山が広がっていた。
この寒空の下、何千という人々が立ち往生し、凍えているのだ。
その事実が、鉛のように心にのしかかる。
「……申し訳ございません、姉上」
タケヒコが沈黙を破った。
その声は低く、苦渋に満ちていた。
「私の事前調査が足りませんでした。まさか、あそこまで理屈の通じぬ御仁だとは」
「……謝る必要はない、タケヒコ」
卑弥呼は前を見据えたまま、短く答えた。
だが、その横顔には隠しきれない疲労の色が浮かんでいた。
「あの老女は、心を閉ざしているだけではない。権力という殻に閉じこもり、自らの不幸を呪い、周囲をも不幸にすることで留飲を下げているのだ。そのような相手に、正論など届くはずもない」
「……姉上、いっそ私が別ルートの開拓を指揮しましょうか?」
「ふむ。数年がかりの事業になるが、そちらのが良いかもしれぬ」
冷たい風が吹き抜ける中庭を横切り、ようやく城の出口である大門が見えてきた。
ここを出れば、またあの絶望的な商人たちの顔を見なければならない。
彼らに何と説明したものか。
卑弥呼が憂鬱そうに門に手をかけた、その時である。
「――お待ちくだされぇぇぇぇ!!!」
背後から、複数の野太い声と、ガチャガチャと甲冑がぶつかり合う音が響いた。
振り返ると、数人の屈強な兵士たちが、血相を変えて全速力で走ってくるではないか。
「どうか待たれよ! 卑弥呼殿! 皆の者!」
「……何事でしょう」
タケヒコが冷静さを取り戻し、低い声で問いただす。
兵士たちは肩で息をしながら、必死の形相で訴えた。
「女王陛下がお呼びで! 直ちに謁見の間へお戻りいただきたく」
「え? いえ、もう話すことはなにも……」
「 陛下が『あの者たちを逃がしたらお前たち全員の首を飛ばす』と仰せでございまして! どうか!」
なにとぞ、と兵士たちが一列になって、土下座する。
「……は?」
これはただ事ではない。
四人は首を傾げ、顔を見合わせつつも、再び謁見の間へと引き返した。
◇◆◇◆◇◆◇
重い扉が再び開かれる。
玉座の上の雰囲気は、先ほどとは一変していた。
トヨ女王の口元には、黄金色のクリームがべっとりと付着していた。
それがすべてを物語っていた。
手には食べかけのシュークリーム。
そして、先ほど朔が「ゴミ」として侍女に渡した桐の箱が、女王の膝の上に大切そうに抱えられていた。
「……戻りましたが」
卑弥呼が礼節とともに声をかけると、女王は声を張り上げた。
「お主ら! これは何じゃ!?」
怒号のような声だが、その表情は怒りではなく、驚愕と歓喜に打ち震えていた。
「侍女たちが隅で騒いでおったから取り上げてみれば……なんじゃこれは! 岩のような見た目をしておきながら、噛めばサクッと香ばしく、中からはとろけるような黄金の蜜が爆発しおった!」
「あ、それは『カスタードシュークリーム』と申しまして……」
朔が呆気にとられながらも、用意してあった説明をする。
タケヒコもユズリハも、あまりの剣幕に瞬きを忘れ、その光景を見守っている。
「かすたあど……! まるで春の陽だまりを食べているようじゃ。わらわは長年生きてきたが、これほど心が躍る菓子に出会ったことはない!」
女王は夢中で残りの半分を頬張った。
への字に曲がっていた口元は緩み、頬は少女のように上気している。
食べ終えた女王は、指についたクリームを名残惜しそうに舐めると、高らかに宣言した。
「これじゃ! 星が告げていた『吉事』とは、まさにこのことだったのじゃ!」
「……え?」
邪馬台国の四人が、呆然とする。
「卑弥呼よ! 先ほどの話、撤回するぞ!」
「撤回と? まさか」
卑弥呼が耳を疑う。
「門を開けい! 街道も開放じゃ! 今すぐじゃ! 予言通り、吉事は舞い込んだ!」
女王は杖を振り回し、周囲の兵士たちに指示を飛ばした。
そして、女王は卑弥呼の方に向き直ると、先ほどまでの威圧感が嘘のようにもじもじと指先を合わせ、上目遣いで言った。
「そ、それでの……卑弥呼よ。一つ、折り入って頼みがあるのじゃが……」
「頼みとは」
「その……これを作った職人にの、また送ってくれぬかと……頼んでもらえぬか? いや、もし迷惑でなければ、この城に来て作り方を教えてくれると、わらわは非常に嬉しいのじゃが……」
あまりの変貌ぶりに、卑弥呼たちは顔を見合わせ、思わず吹き出しそうになるのを堪えて微笑んだ。
本当に欲しいものには、強く出れないタイプのようである。
城を出る頃には、空を覆っていた分厚い雲が裂け、そこから一条の光が地上へと降り注いでいた。
まるで天が祝福しているかのような光景だった。
ズズズ……と地響きのような音が谷間に響き渡る。
何事かと顔を上げた商人たちの目の前で、一ヶ月もの間、絶望の象徴としてそびえ立っていた巨大な鉄の門が、軋んだ音を立てて動き始めたのだ。
「み、見ろ!」
「開いた……! 門が開いたぞ!」
誰かの叫び声を皮切りに、凍りついていた空気が一気に熱を帯びた。
門の隙間が広がるにつれ、そこから溢れ出るのは、ただの街道の景色ではない。彼らにとっての明日への希望そのものだった。
「おおおぉぉぉ!!」
「さすが卑弥呼様だ!」
谷を揺るがすような大歓声が巻き起こった。
見知らぬ者同士が抱き合い、涙を流して互いの肩を叩き合う。
寒さに震えていた老商人は、崩れ落ちるように膝をつき、天を仰いで感謝の祈りを捧げた。
焚き火にくべられようとしていた商品たちは再び荷台へと戻され、死んだようだった馬たちの目にも生気が戻っていく。
その喧騒の中を、卑弥呼たちの馬車がゆっくりと通り抜けていく。
商人たちは馬車の前に道を開け、深々と頭を下げ、あるいは手を振って、最大の敬意と感謝を示した。
数カ国の王たちを悩ませ、数万の民を凍えさせた氷の壁。
それを溶かしたのは、高尚な外交文書でも、国が買えるほどの高価な宝石でもなかった。
それは、卵と糖、そしてほんの少しの偶然と真心が詰まった、黄金色のカスタードシューだった。




