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――あれから一週間後。私が中庭の掃き掃除をしていると、同僚のアンジーに声をかけられた。
「ねえねえシーラ、今度の幽霊の塔の当番、またシーラになるって」
その言葉に苦笑してそちらを向いた。一応素知らぬふりをしないと。
「今の担当はアンジーでしょ?それに私、王子様にクビだって言われたんだけど」
「その王子がシーラに戻ってきて欲しいんだってぇ」
長い三つ編みを指先でくるくると回しながら、「あの腰抜け、泣きながら言ってたよ」と彼女はここにはいない人を嘲笑う。 私はそんな彼女に小さく頷いて箒を片付け、教えてくれてありがとうと伝えてから支度を始めた。
いつもの食事に加えて簡単な医療用具や清潔なタオル、それから掃除用具。それらをワゴンに乗せて森へと入り、一週間ぶりの幽霊の塔へ。
失礼しますと挨拶をして扉を開けると、ひっ!と小さな怯えきった声が聞こえた。
部屋の中は随分荒れている。臭いも酷い。思わず眉を顰めてため息をついたが事態が好転するわけではないのでさっさと仕事に取り掛かる。
例の元王子は部屋の片隅で膝を抱えて震えていた。空のような瞳には以前のように不遜とも言える自信はなく、身を守るように壁にぴったりとくっついている。
「……手当をしますからこちらへどうぞ」
換気として窓を開けてからそう伝えると、彼は怯えた表情をそのままに、緩慢とした動きでベットの上に座ると小さく頷いて私の前で服を脱いだ。
そこにあるのは以前はなかった無数の傷だ。
「ご……っ、ごめんなさい…」
これらへの処置は骨が折れると考えてため息をついたが、それを敏感に受け取ったその人はか細い声で謝罪を口にした。怯える幼子のように謝罪を繰り返す彼には最早、初日の威勢もプライドもない。粉々に壊されてしまったのだ。
私がここを離れて一日目。やってきたのは歪んだ性癖の男色家だった。騎士団に所属していたが怪我を負い引退に追い込まれ日々鬱屈していたその男は日頃の鬱憤を晴らすかのように気位が高く世間知らずで美しいと評判の元王子を辱めた。彼の下半身の傷はその時のものだ。そのまま三日目まで同じ行いを繰り返したのだが、最早抵抗せず啜り泣く彼に
『なんだ、もっと抵抗してくんなきゃ人形相手にすんのと変わんねえよ、使えねえな』
と興醒めした様子で捨て去るように塔を出ていった。
そして彼の次に現れたのは嘗ての婚約者である公爵家の令嬢を盲信する若者だ。彼女の復讐と大義名分を打って嫉妬と憎悪を入混ぜた行いを繰り返す。食事は残飯、風呂の時はバスタブに顔を押し込み、暇さえあれば殴る蹴るの暴行。それらを二日間行い、彼もまたここの仕事を辞退した。
『簡単に殺してやるものか、精々生き地獄を味わえば良い』
とは去り際の言葉だ。
そして六日目。それが先程のアンジーだ。女性ならば暴力に訴えられないと安心したのだろう。だが、彼女は笑顔でこういった。
『こんにちは、モルモットさん。早速だけど実験を開始するわね』
彼女の家系は非常に研究熱心な錬金術師だ。部屋に入ると弱った彼に無理矢理麻痺の毒を嗅がせ、そこからは毒を使った実験という名の拷問が始まった。
『どうしてこんなことを?そんなの貴方が女に騙されるなんてヘマをしたからじゃない。
ねえ、今の貴方って王族じゃないのよ。でも平民でもない。これってどういう意味かわかる?貴方は奴隷以下ってことよ。いつ死んでもいいけど公に処刑なんかしたら王家の命は軽いって勘違いしちゃうかもしれないし、“病死”だってわかる人にはわかっちゃうから適当に生き長らえさせてるだけ。でもお金をかけたくないから私達にはお給金さえ支払われない。きっとわざと殺しちゃってもそんなに怒られないわ、多分お皿を割っちゃった時の方がまだ厳しく注意されるんじゃないかしら?
使用人も平民も貴族も王族も、みーんな、貴方にはこう思ってるわ、
鬱陶しいからさっさとくたばれ、ってね』
この言葉で彼の中の何かが壊れた。それまで自分が世界の中心だと言わんばかりに振舞ってきたのも流石に限界だったのだろう。
男としての尊厳を折られ、憎しみによる容赦ない暴行を受け、拷問の果てに自分の存在意義が皆無なのだと知らしめられる。
幼い彼には耐えきれるはずもなかった。
その後は死の淵を彷徨うような毒を盛られようが燃えるような痛みを伴う毒を盛られようが、一切反応を示さない。ただ、一言。
『最初の使用人……シーラに変わってくれ』
としか言えなかった。そんな彼を『こんなんじゃデータが取れないわ。ネズミ以下の役立たずって初めて見た』と呆れたように罵った後に、ここを離れたのだ。
そうして、今に至る。
手当を終えた後に彼には食事をとってもらった。死なない程度にしか与えられなかったその身体は酷く痩せ細っている。以前投げ捨てたパン粥も豚のソテーも、夢中になって食べ続けた。
「……美味しかった」
「ありがとうございます」
食べ終わった彼が呟いた言葉に私は返事をする。
まぁ、この一週間食べることが出来たのは残飯だの虫だのネズミだのでろくなものがなかったのだから当然と言えば当然だろう。
「……コックではなく、君が作ってくれていたのだな」
「ええ」
そんなことに城のコックの手をさけないとしてこの塔に登る人間が決めたものを持ち込む。だからこの一週間、本来人間が食べるものを持ち込まない彼らを責めることは出来ないのだ。アンジー辺りから聞かされたらしい王子は目を伏せてまた涙をこぼす。
そんな彼にお茶を注いで差し出した。
「脱水になりますからしっかり飲んでくださいね。それが終わったら身体を清めましょう 」
「……シーラ」
その間に自分はこの部屋の清掃だ。湯の用意をするために背を向けた私に、か細い声がかかる。振り返れば、彼は目元を擦りながらこう言った。
「―――ありがとう」
「勿体ないお言葉」