26話 整理整頓
――――――――――――――――もう二度と、彼女は立ち直れないのではないかと思う程、彼女は酷く落ち込んでいた。年が明けて一月十五日、センター試験が終わった次の日のことである。
三年生が受験に向けて特別な時間割で生活するようになってから、図書委員の先輩には一回も会わなくなった。進学コースや特進コースに在籍していれば、それだけで会う機会は減る。三年生ともなれば、特進コースと進学コースの居城、一号館にこもりっきり。下級生は必然的に会えなくなる。
会えなくなって良かった、と思っている自分と、心の支柱を失ったからもう二度と立ち上がれない、と思っている自分が居る。俺が恋い焦がれていた人は、とうとう人のものになってしまった。それも、あの人がずっと好きだった人のものに。
「大丈夫。帝都は二次試験の配分の方が高いから。栞の得意な英語と国語だよ」
「……倫理……倫理が……ああ……私には倫理観が無いのでしょうか……赤哉くん……」
当人たちに見せつける気持ちは一つも無いのだろうが、こうも堂々とイチャイチャされると腹立たしい。俺はきっと、九月のあの日からずっと折り合いがつけられずにいるのだ。先輩を抱きしめた感触も、先輩の泣いた顔も、先輩の泣いた後の強がった笑顔も、全部覚えていて、生温く俺を縛っている。
「ねえ、そういうの、他所でやってくれない?」
卑しい。本当に。自分が逃げればいいのに、他人に責任を転嫁する。俺は自分のことが大嫌いだ。面倒事が大嫌いなくせに、人のことには首を突っ込んで引っ掻き回すし、自分に都合が悪くなったら逃げ出す。先輩の時もそう。弱みに漬け込んで、隣に置こうとした。
「薄情者め!まだ一年生だからってうかうかしてると痛い目みるぞ、二本木!」
好きな人が幸せになることが、こんなにも真っ黒な感情に塗れたことだとは、知らなかった。人生で初めての失恋だった。付き合っても居ない時からもうずっと勝ち目はなくて、それでも頑張って、頑張って頑張って、手が届くかもしれないと思った瞬間、先輩が赤哉さんのものになった。それがどれだけ醜い感情で、悲しい思いで飾り付けられたものか。
「まあまあ栞。……悪かったね。橙馬たちの顔をみたらちょっとは落ち着くかと思ったんだが」
困ったように笑う赤哉さんを見て、ますます腹が立った。俺だけがずっと、闇の中に取り残されている。俺だけが立ち止まっていて、周りにはもう誰も残っていない。もうずっと前からそんな気がしていた。
「帰ろう、栞」
「うん。……ごめんな、二本木」
先輩の顔はどこか曇っていた。その顔を見て初めて、俺の眉間に皺が寄っていたことに気が付いた。
「なあ、死んだ顔してるぞ、大丈夫か」
と声を掛けてきたのは、緑音さんだった。三年生の穴埋めの為に、下級生の業務頻度が増え、早一ヶ月。緑音さんは当番じゃない日も、ずっと図書館に入り浸っていた。次の委員長が緑音さんなのは確定事項と言って良いだろう。
「……面倒事は嫌いなんだけどさあ、今、自分が一番面倒臭いんだ。……どうしたらいいと思う?」
「問いかけが莫大過ぎてどう答えていいか分からないから噛み砕け」
こうやって面倒見がいい所も、潔く白岩帯と別れちゃう所も、緑音さんの魅力なのだろう。他の誰かのことの方が大事なのは、先輩と同じだけど、緑音さんは先輩よりも器用だ。変に人との関係を拗らせないし、生き方のコスパが最高に良い。
「失恋から立ち直れないんだよねえ。……でもそれだとあまりに、あっさりしすぎ、っていうか」
「ああ、白川先輩のことか」
察しが良いのは赤哉さんと同じだ。委員長には察しの良さが求められる、ということか。
「別に好きなままでいいんじゃね?それで、“本田赤哉”って存在を十分に知ると良い」
意外な答えだった。緑音さんからそんな答えが出るなんて。恋愛経験豊富な黄色さんならまだしも、緑音さんは黄色さんみたいに遊んでいない筈だ。
「諦めがついたら、いくらでも話は聞いてやるから」
緑音さんの笑顔には父性があった。俺のことを本当に案じているかのような。ような、ではない。きっとそうだ。俺のことを案じて、自分の知り得る全てのことを教えてやる、と言わんばかりの笑みだった。
「……わかった。そうする」
好きなままでいる以上は、俺の根底的自己矛盾と向き合わねばならない。面倒事が嫌いなくせに、面倒な考え事をしているという、自己矛盾。これが無くなる日は、明日なのか、一週間後なのか、それとも何年も先のことなのか。それは俺にも知ることはできないし、周りの人間なんてもっと知ることはできなかった。




