寿綾乃という女 第3部 57
が、
これは、好都合…
実に、自分に好都合かも、しれないと、気付いた…
なにが、好都合かと、言えば、この五井記念病院で、一人でも、多くの、私の味方を作ること…
それが、できるかも、しれないと、気付いた…
もちろん、長谷川センセイは、重要…
重要だ…
が、
しかしながら、一人でも、多くの味方というか、協力者が、いた方が、都合が良い…
なにかと、都合が良いと、気付いた…
もちろん、研修中の看護師だ…
こういっては、なんだが、長谷川センセイとは、身分が、違う…
身分が、違うというのは、もしかしたら、例えば、諏訪野伸明が、いるに違いないVIPの病室に行けるか、否か…
この五井記念病院の医師で、この病院に勤務していると、言えば、顔パスで、入れるかも、しれないが、研修生では、難しい…
そういうことだ…
しかしながら、いないよりマシ…
失礼ながら、いないよりマシだった…
一人でも、多く、協力者が、いた方が、いい…
仮に、長谷川センセイに、聞けないことや、長谷川センセイに断られても、この彼女に頼めば、なんとか、なるかも、しれないことが、もしかしたら、あるかも、しれないからだ…
もちろん、現実は、そんなふうに、都合が良くいくとは、限らない…
しかしながら、一人でも多く、協力者がいた方が、都合がいいのは、確かだった…
だから、眼前の彼女を見て、
「…アナタ…お名前は?…」
と、聞いた…
私が、いきなり、名前を聞いたから、相手は、ビックリしたようだ…
だから、
「…いえ、こんなに長くお話をしているのに、名前を知らないのは、なんだか、申し訳なくて…」
と、付け加えた…
すると、笑いながら、
「…長井です…」
と、答えた…
それから、
「…この看護師のユニフォームに名札がありますよ…」
と、笑った…
…エッ?…
内心、焦った…
言われてみれば、当たり前…
実に当たり前だった…
すっかり見るのを忘れていた…
バカといえば、バカ…
愚かと言えば、愚か…
こんな簡単なことに、気付かないなんて…
が、
私に言わせれば、理由がある…
それは、顔…
この長井という名前の彼女が、顔=ルックスの話ばかりするから、つい、彼女の顔ばかり、見てしまっていた…
つい、他の場所は、一切見ず、顔ばかり見てしまった…
なんと愚かな…
自分で、自分に呆れた…
心底、呆れた…
こんな調子では、これから先が、思いやられる…
自分で、自分の先行きに思いやられる…
そう、思った…
そう、思ったのだ…
すると、目の前の長井さんが、
「…でも、これで、安心しました…」
と、笑った…
…安心?…
…なにを、安心したんだろ?…
意味がわからなかった…
だから、
「…安心って?…」
と、私は、聞いた…
聞かずには、いられなかった…
「…男のひとのことですよ…」
長井さんが、笑った…
「…男のひと?…」
「…だって、寿さん…今、おっしゃったでしょ?…」
「…なにを、私が、言ったの?…」
「…ルックスは、重要だけれども、入り口に過ぎないって…」
「…」
「…大切なのは、性格って…」
「…」
「…つまり、それは、私にも、チャンスがあるってことですよね…」
「…そう…そうね…」
曖昧に返答した…
「…っていうか、運よ…」
「…運…ですか?…」
「…世の中、なるようにしか、ならない…そういうことよ…」
私は、投げやりに、言った…
自分でも、意外だった…
自分でも、なんで、こんな投げやりに言ったのか?
わからなかった…
が、
彼女は、わかったようだ…
一瞬にして、真面目な看護師の顔になった…
そして、すぐに、
「…すいません…」
と、私に詫びた…
「…寿さん、ご病気だったのを、忘れてました…」
と、付け加えた…
とっさに、私の体調に思いを寄せたのだろう…
さすがだった…
私が、美人うんぬんというより、
「…世の中、なるようにしか、ならない…そういうことよ…」
と、投げやりに言ったことで、自分の体調に言及したと思ったのだろう…
いかに、美人に生まれても、この先、余命いくばくもなければ、そんなことは、どうでも、よくなる…
いかに、平凡に生まれようと、健康でいるのが、一番だからだ…
そう、私が、言いたいと、思ったのだろう…
私が、癌にかかっているのを、この娘は、知っている…
前回、長谷川センセイの検診を受けたとき、いっしょに、いたからだ…
もう一人の女性と、いたからだ…
おそらく、彼女もまた、眼前の長井と名乗った娘と同じく研修生なのだろう…
私は、思った…
私は、考えた…
だから、
「…そういえば、長井さん…この間、私が、長谷川センセイに、診てもらったときに、長井さんと、いっしょにいた方…彼女も研修生?…」
と、聞いた…
話題を変えたかったからだ…
いつまでも、ルックスうんぬんの話を、されては、困るからだ(苦笑)…
が、
突然、
「…彼女は、もう辞めました…」
と、言われて、絶句した…
「…エッ?…」
と、思わず、絶句した…
「…ウソ?…」
「…ホントです…」
長井さんが、真顔で言う…
「…この看護師って、仕事…キツイんです…」
と、ぶっちゃけた…
「…私は、大学を出て、大学のとき、奨学金をあちこちから、借りていたから、それを、返すために、辞めるわけには、いかないんです…」
彼女の言葉に、
「…」
と、絶句した…
「…」
と、言葉もなかった…
「…ほら、仮に、私が、今、看護師を辞めても、奨学金を返すために、すぐに働かなきゃ、なりません…就職先も、すぐに、見つかるかどうか、わかりませんし、それなら、このまま、看護師を続ければ、看護師の資格も取れるし…」
と、続けた…
私は、それを、聞いて、つくづく、大変だなと、思った…
そして、ハッキリ言えば、同情した…
この若さで、奨学金の返済に苦労するとは…
私は、大学も出ていないし、奨学金の返済が、毎月、どれぐらいか、わからない…
そんなことは、考えたこともないからだ…
ジュン君は大学生だったが、親が、金持ちだった…
父親が、ナオキだったから、お金があった…
なんといっても、藤原ナオキは、従業員千人の会社のオーナー社長…
おまけに、株式を公開したから、金は、何百億円とある…
もっとも、その大半が、ナオキが、オーナー社長として、持っている、FK興産の株の価値に過ぎないが(苦笑)…
いずれにしろ、金持ちに変わりはない…
だから、この長井さんのようなケースは、考えたことが、なかった…
なぜなら、私の身近に、これまで、そんな体験をした人間が、いなかったからだ…
いや、
あるいは、いたのかも、しれない…
FK興産でも、大卒の社員は、多い…
っていうか、今は、それが、主流だ…
しかしながら、そんな話は、今まで、聞いたことが、なかった…
きっと、それは、ただ、私が、聞いたことがないだけ…
きっと、今の彼女のように、奨学金の返済に、四苦八苦している人間は、いたに違いない…
男女を問わず、いたに、違いない…
そして、それを、思えば、私は、幸運…
実に、幸運だった…
実に、恵まれていた…
高校時代に、ナオキと会い、ジュン君と三人で、暮らした…
何度もいうように、ユリコが、失踪したからだ…
ナオキの妻であり、ジュン君の母親である、ユリコが、突然、失踪したからだ…
だから、私は、急遽、ユリコの代わりに、ナオキとジュン君の家庭に入った…
幼いジュン君の面倒を見るためだ…
たしかに、苦労は、したが、そこに金銭的な苦労は、なかった…
生活の苦労は、なかった…
決して、お金に恵まれているわけでは、なかったが、日々の生活に困ることは、なかった…
だから、恵まれていると、思った…
眼前の彼女に比べて、恵まれていると、思った…
そんなことを、考えると、つい、
「…大変ね…」
と、言った…
言わずには、いられなかった…
社交辞令では、なく、心の底から、気の毒と思った…
が、
眼前の彼女は、違った…
全然、へこたれた様子はなかった…
「…それは、大変と、言えば、大変ですけど、私より、ずっと多くの諸学金を毎月、返さなきゃ、いけない友達も、いっぱい知ってますよ…」
と、あっけらかんと、言った…
「…だから、そのひとたちに、比べれば、私は、マシな方です…」
と、力を、込める…
「…それに…」
と、言って、言葉を止めた…
「…それに、なに?…」
「…ほら、私、今、ずっと、ここで、寿さんと、話しているでしょ?…」
「…ええ…」
「…それは、彼女のおかげなんです…」
「…どういう意味?…」
「…彼女が、すぐに辞めちゃったから、この病院も、気を使ってくれて、休み時間をいっぱいくれたんです…だから、ここで、寿さんと、話していられる…」
彼女が、苦笑した…
「…もっとも、研修期間が終われば、こんなふうには、いかないと、思いますが…」
と、笑った…
私は、それで、どうして、彼女が、こんな長時間、私と長話をしていられるのか?
合点がいった…
そして、私が、そんなことを、考えていると、
「…でも…」
と、ちょっと、言いづらそうに、言った…
が、
それ以上は、口にしない…
私は、だから、つい、
「…なに?…」
と、聞いた…
聞かずには、いられなかった…
「…ほら、ここに勤務していると、若くても、病気になられた方が、たくさんいらっしゃいます…それに比べれば、健康な私は、恵まれているって…」
実に、言いづらそうに、言う…
途端に、私のことだと、気付いた…
私、寿綾乃のことだと、気付いた…
…たしかに、その通り…
…その通りかも、しれない…
健康に代わる、ものは、なにもない…
健康が、一番…
生きてゆく上で、一番大事…
健康に勝るものは、なにひとつない…
これは、私が、病気持ちだから、わかる…
癌という病気持ちだから、心の底から、実感する…
そして、それを、思えば、人生は、公平…
公平だ…
私は、田舎で、母と二人暮らしだったときは、お世辞にも、裕福とは、いえない暮らしだったが、従妹の寿綾乃になりすまして、上京してからは、金銭的な苦労は、最初だけ…
ナオキと出会ったからだ…
だから、最初を除けば、お金に苦労したことはない…
現に今、億ションで一人暮らしだ…
が、
その反動というか、寿綾乃になりすました報いというか…
今、癌に苦しんでいる…
だから、辻褄が合うというか…
人生は、公平なのかも、しれないと、思った…
どんな美人やイケメンに生まれても、恵まれた人生を、送れる人間は、一握り…
いくら頭が良く生まれても、その頭の良さを生かして、人生で成功する人間は、ごく一握りに過ぎない…
誰もが、大半は、平々凡々な人生を歩んでゆく…
そして、私は、これまで、少しばかり、人様より、恵まれた人生を過ごしたのかも、しれないが、今は、癌になり、癌に苦しめられている…
だから、それを、思えば、公平…
誰もが、大抵が、恵まれた人生は、送れない…
この私も、そう…
そうだ…
だから、そういう意味では、人間は、公平かも、しれない…
今さらながら、そう、気付いた…




