寿綾乃という女 第3部 32
「…今、ここで、長谷川センセイの姿を、拝見するまで、すっかり、忘れていました…」
私は、言った…
本音だった…
これまでは、長谷川センセイが、五井家の人間だということは、すっかり忘れていた…
長谷川センセイは、五井記念病院の私の担当医…
ただ、それだけの存在だった…
だから、長谷川センセイが、五井家の一族であることは、すっかり、私の頭の中から、消え去っていた…
「…たしか、私の記憶に間違いがなければ、長谷川センセイは、五井西家の出身でしたね?…」
私が、問いかけると、今度は、長谷川センセイが、
「…」
と、黙った…
しばし、
「…」
と、沈黙した…
それから、少しして、開き直るように、
「…そうですが…それが、どうかしましたか?…」
と、口を開いた…
明らかに態度が、急変した…
だから、
「…いえ、ただ…」
と、わざと言った…
わざと、
「…いえ、ただ…」
と、だけ、言って、後は言わなかった…
長谷川センセイの気を引くためだ…
「…ただ、なんですか?…」
長谷川センセイが、食いついた…
私は、しめたと、思った…
だから、
「…五井は、決して、一枚岩でないことを、聞いたことがあるので…」
と、わざと言った…
わざと、匂わせたのだ…
効果は、てき面だった…
長谷川センセイの顔色が、また、変わったのだ…
今度は、明らかに、痛いところを、突かれたというような表情に、なった…
そして、私の言葉に、
「…それは…」
と、言った…
そして、それっきり、言葉を濁した…
言葉を続けなかった…
だから、
「…それは、なんですか? …センセイ?…」
と、聞いた…
わざと、聞いた…
すると、長谷川センセイが、
「…五井と言えば、大所帯です…」
と、冷静な調子で、言った…
いや、
わざと、落ち着いた感じを演出させたのかも、しれない…
それまでとは、打って変わって、至極、落ち着いた態度になった…
そして、
「…そんな大所帯が、一枚岩であるわけがないじゃないですか?…」
と、言って、笑った…
実に、楽しそうに、笑った…
だから、私も、長谷川センセイに、合わせて、
「…ですよね?…」
と、相槌を打って、笑った…
そして、互いに、笑いながら、相手の顔を見た…
きっと、私も目は、少しも、笑ってなかったに違いないし、それは、目の前の長谷川センセイも、また同じだった…
むしろ、私を、警戒するように、見た…
あるいは、
私を探るように、見た…
それから、
「…寿さん…」
と、長谷川センセイが、私に語り掛けた…
「…なんですか? …センセイ?…」
「…五井には、あまり関わらない方が、いい…」
と、長谷川センセイが、諭すように、言った…
まるで、小さな子供に言うように、言った…
「…どうして、ですか?…」
私は、聞いた…
当たり前だった…
当然、理由が知りたいからだ…
「…それは、寿さんが、部外者だからです…」
「…部外者?…」
「…寿さんが、ボクのことを、どこまで、調べているかは、わからないですが…」
と、長谷川センセイが、ゆっくりと、考えながら、言う…
言葉を選びながら、言う…
「…ボクは、たしかに、五井西家出身ですが、五井西家を代表するものでは、ありません…」
「…代表するものではない? …それは、どういう…」
「…要するに、五井西家出身というだけで、血が薄いんです…」
「…血が薄い?…」
「…先祖が、五井西家出身というだけで、たいした繋がりはない…」
「…」
「…以前、この五井記念病院の理事長だった、菊池冬馬のことで、寿さんに、そのことを、話したことがありましたね…」
…そうだった…
以前、この五井記念病院の理事長を務めていた、菊池冬馬は、五井東家出身だった…
本来は、次期、五井東家当主だった…
私は、それを、思い出した…
「…冬馬とボクは、同じ学校だった…でも、決して、親しい間柄でも、なんでもなかったと、言いました…覚えていますか?…」
「…ハイ…覚えています…」
「…それは、ボクと冬馬が、対等な立場では、なかったのも、大きな理由です…」
「…対等な立場? …ですか?…」
「…冬馬は、五井東家出身で、当時、五井東家の次期当主と、目されていました…それに、比べ、ボクは、五井西家出身といっても、爺さんのその父親が、五井西家出身で、血も薄い…だから、同じ学校に通っていても、おそらく、冬馬は、当時、ボクが、五井西家に繋がる人間とは、知らなかったと、思います…」
「…」
「…変な話、ボクの立場は、天皇家の末端と同じです…」
「…それは、どういう意味ですか?…」
「…例えば、皇族の方を、思い浮かべれば、いい…皇族の方たちが、旧皇族の方たち…つまりは、戦前、皇族だった方たちとの集まりが、ときより、催されると、聞いたことがあります…」
「…」
「…そして、その集まりに出席するのは、旧皇族の方たちを代表する方たちでしょう…例えば、戦前、皇族だったとしても、血が薄くなり、もはや、旧皇族とは、なんの縁もゆかりもないものも、少なくないはずです…当然、そういう方たちは、出席できない…いうなれば、それが、ボクです…」
「…それが、長谷川センセイ?…」
「…そうです…だから、ボクが、五井西家出身といっても、名ばかりというか…おそらく、今の五井西家の方々に、ボクを知っている者は、いない可能性の方が高い…」
「…センセイを、五井西家の方々が、ご存じない?…」
「…だから、たぶん、冬馬もボクを五井西家に関係がある人間だとは、最期まで、知らなかったと、思います…」
「…そんな…では、どうして、センセイは、この五井記念病院に、やって来たんですか?…冬馬さんに、誘われたからではなかったんですか?…」
「…それは、純粋に、ボクの腕を見込まれてのことです…そして、ボクと冬馬は、学校が同じ…当時、冬馬は、この五井記念病院に理事長として、やって来たから、自分の実績を、挙げたかった…ボクは、自分で言うのも、なんですが、自分の担当する外科手術では、この世界で、少しは、名も知れていました…だから、ボクをスカウトして、この病院に招けば、冬馬は、自分の実績になると、考えていたんだと、思います…」
「…そんな、私は、てっきり…」
「…てっきり、ボクが、五井西家出身だから、その縁で、この五井記念病院にやって来た…そう、思ってたと、言いたいのでしょう…」
長谷川センセイが、楽しそうに笑った…
実に、意外…
意外な展開だった…
長谷川センセイが、五井西家出身といっても、そんなに血が薄いとは、考えてもみないことだったからだ…
長谷川センセイが、五井西家を代表する人物だとまでは、思ってはいなかった…
が、
そこまで、血が薄いとは、思っても、みなかった…
だから、余計に、驚いた…
驚いたのだ…
そして、そんな私の表情を見て、
「…これで、いいですか? …寿さん?…」
と、長谷川センセイが、言った…
もう、これで、この話題は、終わりと、いうように、まとめるように、言った…
が、
ここで、食い下がるわけには、いかなかった…
この病院に入院しているに、違いない、諏訪野伸明のことを、聞かないわけには、いかなかったからだ…
だから、慌てて、
「…話は、変わりますが、さきほと、この病院で、諏訪野伸明さんを、見かけました…」
「…諏訪野さん?…」
「…現五井家当主です…たしか、長谷川センセイも、諏訪野さんと、面識があるのでは?…」
「…寿さんが、この病院に入院したときに、見舞いにやって来たと、聞きましたが、ボクが、お会いしたかどうかは、ちょっと…」
「…ちょっと、なんですか?…」
「…正直、記憶にないんです…ただ、五井家の本家の方たちが、寿さんの見舞いにやって来たので、この病院でも、話題になりました…だから…」
「…」
「…それに、ほら…」
「…ほら、なんですか?…」
「…ボクが、五井西家を代表するような、人間なら、諏訪野さんや、五井の本家を代表するような方たちと、当然、面識があるはずです…だから、ボクが、寿さんの担当医だと、わかれば、話もしますよ…でも、それが、なかった…」
「…なかった…」
「…つまり、それこそ、ボクが、五井西家を代表するような人間でない、証拠です…」
長谷川センセイが、胸を張って、断言した…
そして、そう言われれば、私も、なにも、言い返せなかった…
おそらくは、その通り…
その通りだからだ…
だから、
「…」
と、沈黙した…
長谷川センセイに、かける言葉が、見つからなかったからだ…
そして、そんな私の胸の内を見透かしたように、
「…きっと、寿さんは、ボクが、諏訪野さんが、この病院に入院しているのを、知っていたか、聞き来たかったんでしょ?…」
と、聞いた…
長谷川センセイの質問は、まさに、的を得た質問だった…
事実、その通りだからだ…
だから、私は、
「…ええ…」
と、だけ、言った…
すると、即座に、
「…噂では、聞きました…」
と、長谷川センセイは、答えた…
「…噂?…」
「…ハイ…噂です…」
「…」
「…寿さん、ボクは、この病院のただの勤務医です…五井西家と血が繋がっていると、いっても、この五井記念病院の上層部の方たちと、懇意にしているわけでも、なんでもありません…」
「…それは、どういう意味でしょうか?…」
「…つまり、ボクは、情報は、持っていない…」
「…情報?…」
「…たとえ、五井家当主が、この病院に身を隠していたとしても、それを、真っ先に知る立場では、ないと、いうことです…」
長谷川センセイが、断言する…
私が、聞きたかったことを、先に言った…
おそらくは、自分の身の潔白を証明したかったからに、違いない…
だから、私が聞くであろうことを、先回りして、言ったに違いなかった…
そして、それを、言われると、私は、どうして、いいか、わからなかったさ…
なんて、答えていいか、わからなかった…
そんな私の態度を見た、長谷川センセイが、
「…では、寿さん…いつまでも、ここで、立ち話もしているわけには、いきませんので、後で、お会いしましょう…」
と、言って、立ち去った…
たしかに、いつまでも、ここで、立ち話をしているわけには、いかなかった…
私は、ともかく、この長谷川センセイは、この五井記念病院の勤務医だ…
だから、仕事が、待っている…
たまたま、偶然、このロビーで、私に出会ったに過ぎない…
たまたま…
正直、たまたまが、ホントで、あるか、どうかは、疑わしかった…
実は、長谷川センセイも、諏訪野伸明の姿を私同様、追っていた可能性もある…
その可能性に気付いた…
長谷川センセイも、諏訪野伸明の姿を追っていて、それで、私に鉢合わせた可能性もある…
が、
それを、今、長谷川センセイに、問い詰めたとしても、認めることは、あるまい…
それは、わかっている…
私は、そんなことを、考えながら、長谷川センセイの後ろ姿を、目で追った…
白衣を着た、長身の後ろ姿を目で、追った…




