寿綾乃という女 第3部 122
それから、誰にともなく、
「…失礼します…」
と、言って、部屋を出た…
正直、限界だった…
あの場所にいるのが、限界だった…
限界=プレッシャーの限界だった…
だから、逃げ出した…
そういうことだ…
そして、病は気からという言葉ではないが、気分も悪くなってきた…
気のせいではない…
明らかに、気分も悪くなってきた…
だから、急いで、家に向かった…
いや、
家ではない…
家に向かおうと、思ってはいたが、すでにカラダがいうことを、きかなかった…
廊下に出て、まもなく、そこで、倒れた…
意識を失った…
目が覚めると、そこは、病院だった…
自宅ではない…
私は、病院のベッドに横たわっていた…
ベッドの上で、仰向けに寝ていた…
そして、目の前には、長谷川センセイの顔…
とっさに、ここが、五井記念病院だと、悟った…
「…おや、目が覚めたようだ…」
目が覚めた私を見て、長谷川センセイが、言う…
「…しかし、相変わらず、おキレイですね…」
長谷川センセイが、笑う…
私は、とっさに、どう返答していいか、わからなかった…
普通なら、
「…センセイ、お上手ですね…」
とか、
「…センセイ、冗談は、やめて下さい…」
と、抗議するところだが、さすがに、今、目が覚めたばかり…
とても、そんな気分には、なれなかった…
なにしろ、目が覚めたばかりだ…
頭が、ボーッとしていた…
だから、とっさに、そんな気の利いたことは、言えなかった…
むしろ、開口一番、言った言葉は、
「…どうして、ここに?…」
と、いう言葉だった…
当たり前だった…
「…FK興産の社内の廊下で、倒れたんです…それを、見た、社内の方が、連絡してくれて…」
それで、わかった…
それで、思い出した…
私は、あの取締役会で、異常に、プレッシャーを感じた…
だから、取締役会が、終わると、逃げ出すように、部屋を出た…
家に帰るためだ…
そして、その途中で…
思い出すと、恥ずかしい…
実に恥ずかしい…
会社の廊下で、気を失うなんて…
実に、一年ぶりに、近く、会社に出社して、廊下で、倒れるなんて…
まるで、ギャグ…
ギャグマンガだ…
私は、思った…
私は、考えた…
すると、
「…たいしたことは、ありませんでしたよ…」
と、突然、長谷川センセイが、告げた…
「…寿さんの病状です…」
「…」
「…きっと、なにか、すごいプレッシャーでも、あったのかな…例えば、寿さんは、美人だから、いきなり、誰かにプロポーズをされたとか…」
思わず、こちらが、赤面するようなことを、言う…
つい、
「…そんなんじゃ、ありません!…」
と、ムキになって、否定したが、言ってから、しまったと、思い直した…
長谷川センセイが、冗談を言って、私を安心させようと思ったことが、わかったからだ…
だから、
「…センセイ、お気を使わせて、すいませんでした…」
と、詫びた…
が、
長谷川センセイは、それに答えることなく、笑っただけだった…
むしろ、答えるのも、バカバカしいと、思ったのかも、しれない…
冗談を言っただけ…
だから、その冗談に対して、なにか、言っても、仕方がない…
そう、思ったのかも、しれなかった…
私は、考えた…
そして、私が、そんなことを、考えていると、
「…寿さん…あまり、他人様を心配させては、いけませんよ…」
と、長谷川先生が、言う…
…どういう意味だろ?…
とっさに、思った…
「…藤原さんが、ずっと、寿さんを、心配して、こちらにいらして…」
「…ナオキが…」
私は、言った…
つい、言葉に出した…
つい、口に出した…
「…今、ちょっと、席をはずしているけれども、まもなく、戻ってくると、思います…」
長谷川センセイの言葉が、最後まで、終わらないうちに、病室のドアが開き、ナオキが、部屋に入って来た…
私は、ナオキの顔を見ると、ホッとすると、同時に、なんだか、恥ずかしかった…
なぜなら、あんなことが、あったから…
伸明や和子や、マミさんのいる前で、ナオキが好きと、告白したのも、同然だったからだ…
だから、恥ずかしかった…
どうしようもなく、恥ずかしかった…
ナオキの前で、こんな気持ちになったのは、初めてだった…
私にとって、ナオキは、空気のような存在…
つまりは、いて、当たり前…
身近にいて、当たり前の存在だった…
だから、取り立てて、意識することもない…
それが、初めて、意識したというか…
とにかく、女子中学生か、女子高生が、好意を寄せている男のコに、
「…好き…」
と、告白した、翌日に会った…
そんな感じだった…
だから、ナオキの顔を見ても、一瞬、なにを話していいか、わからなかった…
だから、ナオキを前にして、戸惑った…
おそらくは、生まれて、初めて、ナオキを前にして、戸惑った…
すると、長谷川センセイが、
「…美男美女…お似合いのカップルですね…」
と、言いながら、笑った…
そして、続けて、
「…でも、これが、藤原さんでなく、伸明さんでも、同じかな…やはり、美男美女のカップル…寿さん…イケメンに恵まれている…」
と、長谷川センセイは笑って、言って、病室を出て行った…
私とナオキに気を使ったのは、明らかだった…
きっと、私とナオキを二人きりにしようと、気をきかせたのは、明らかだった…
が、
ひょっとすると、それだけでは、ないのかも、しれない…
事実、ナオキは、長谷川センセイが、病室を出て行くのを、ジッと、見ていた…
そして、長谷川センセイが、明らかに、病室を出て行ったのを、確認してから、
「…あのセンセイ、皮肉を言うね…」
と、呟いた…
「…ちょっと、ナオキ…どういうこと?…」
私は、つい、聞いた…
つい、今の今まで、ナオキに対して、恥ずかしがっていた感情は、どこへやら…
すぐに、元に戻った…
すぐに、いつもの私とナオキの関係に戻った…
「…きっと、あのセンセイ…この前、綾乃さんが、ボクと、諏訪野さんのどっちを選んだのか、人づてに聞いたに違いない…」
「…ナオキ…どういうこと?…」
「…つまり、あのセンセイは、あのとき、なにが、あったか、知っていると、ボクや綾乃さんに、言いたかった…それを、遠回しに言っただけ…」
「…そんな…」
「…そんなもこんなもない…それが、事実…それが真実…」
「…」
「…あのセンセイの狙いは、五井家に認められること…」
「…どういう意味?…」
「…あの長谷川センセイは、五井西家の出身…と言っても、末端…もはや、五井西家とも、なんの関係もない…でも、血が繋がっている…だから、本家の伸明さんや和子さんに、認めてもらいたい…だから、綾乃さんの情報を流した…」
「…エッ?…」
「…綾乃さん、気付かなかったの?…」
ナオキが、聞く…
真顔で、聞く…
私は、どう言って、いいか、わからなかった…
私は、どう答えていいか、わからなかった…
「…ナオキ…それ、誰に聞いたの?…」
「…誰だと思う?…」
ナオキが、子供のように、いたずらっぽい顔で、聞く…
「…ひょっとして、伸明さん?…」
「…いや、マミさん…」
意外な名前だった…
まさか、ここで、マミさんの名前が出るとは、思わなかった…
「…きっと、マミさん…綾乃さんを騙していたのが、心苦しいんだろ…だから、ボクに、教えてくれた…」
「…ナオキ…どういう意味?…」
「…今回の件の内幕…」
「…内幕?…」
「…今回の筋書きを描いたのは、意外や意外…」
「…誰?…」
「…長谷川センセイ…」
「…ウソ?…」
「…ウソ…」
ナオキが、笑った…
「…だったら、誰?…」
「…伸明さん…」
「…エッ?…」
思いもかけない名前だった…
まさか、ここで、伸明の名前が出るとは、思わなかった…
まさに、まさかだった…
「…いや、伸明さんが、シナリオを描いたのかは、正直、ボクにも、わからない…ただ…」
「…ただ、なに?…」
「…伸明さんは、五井家当主だ…」
「…それが、どうかしたの?…」
「…誰よりも、その当主の重みを理解している…」
「…どういう意味?…」
「…伸明さんに、とって、恋愛よりも、五井家が大事ってこと…」
そう言うと、寝ている私の元に、顔を寄せ、キスをした…
私は、つい、ナオキを受け入れてしまったが、キスをした後、
「…どういうつもり?…」
と、怒った…
「…綾乃さん、どうして、怒っているの?…」
「…誰かに見られたら、困るでしょ?…」
「…誰も、見ちゃ、いないよ…」
「…壁に耳あり障子に目あり…世の中、なにが、あるか、わからないわ…」
私が、言うと、ナオキが、考え込んだ…
それを見て、私は、
「…どうしたの? …そんなに、真剣な顔をして? …単なる、ことわざじゃない…」
「…今回の件さ…」
「…今回の件…」
「…FK興産と、五井の提携…」
「…そういえば、ナオキ…FK興産の業績…そんなに悪かったの?…」
「…いや…そこまで、悪くは、なかった…」
「…悪くなかった? だったら、なんで?…」
「…綾乃さんが、ボクの元から、いなくなったのが、大きい…」
「…どういう意味?…」
「…綾乃さんは、ボクの精神的支柱だ…ボクの支えだ…」
「…」
「…その綾乃さんが、オーストラリアに癌の治療に行って、ボクの元から去った…そして、FK興産の業績も悪化した…」
「…」
「…そして、どうしていいか、わからなくなったときに、諏訪野さんに、相談に乗ってもらった…その結果、FK興産は、五井と資本提携した…」
「…」
「…つまり、振り返ってみると、諏訪野さんに、はめられたのか、しれない…」
私が、以前、考えたことと、同じことを、言った…
「…証拠はあるの?…」
「…ない…」
「…でも、ナオキ…アナタ、伸明さんと仲がよくて…」
「…この一年で知り合ったひとだ…綾乃さんのように、十五年前から知っているわけじゃない…」
「…」
「…男も女も同じさ…」
「…どう同じなの?…」
「…一回や二回、寝ただけじゃ、なにもわからない…」
「…ちょっと、ナオキ…いきなり、なに?…」
「…冗談さ…ホントは、仲良くなっても、たまに、いっしょに飲みに行く程度では、どんな人間か、わからないと、言いたいだけさ…」
「…」
「…ただ…」
「…ただ、なに?…」
「…すべては、伸明さんの都合のいいように、展開した…FK興産は、五井と資本提携…正直、早晩飲み込まれる可能性が、高い…そうすれば、FK興産は、五井グループ…諏訪野さんの当主就任の手柄になる…」
「…ナオキ…誰に、そんなことを、聞いたの? ひょっとして、マミさん?…」
「…綾乃さん…ボクだって、バカじゃないよ…」
「…でも、あんなに、気が合って…」
「…それと、これとは、別…」
「…別?…」
「…綾乃さんは、美人で、気立てがいいから、好き…でも、ボクだって、美人なら、誰でも、好きなわけじゃない…それと、同じ…」
「…どういう意味?…」
「…諏訪野さんは、好きだし、気が合う…だけれども、ホントは、どんな人間かは、わからない…」
「…」
「…それは、たぶん、諏訪野さんにとっても、同じ…」
「…なにが、同じなの?…」
「…綾乃さんと、結婚しないわけ…」
「…私と結婚しないわけって?…」
「…たぶん、諏訪野さんは、怖いんだと、思う…」
「…なにが、怖いの?…」
「…綾乃さんが…」
「…私が?…」
「…綾乃さんが、どんな人間か、わからない…だから、怖い…」
「…」
「…諏訪野さんは、お金持ち…だから、失うものも大きい…常に守りに入っている…五井を守る…五井家を守る…たぶん、諏訪野さんの行動原理の基本は、そこ…」
「…」
「…だから、危ないものには、手を出さない…」
「…ナオキ…アナタ、どうして、そう思うの?…」
「…ボクも金持ちだからさ…」
「…エッ?…」
「…諏訪野さんとは、比べ物にならないけれども、金を、持っている…だから、その金を失うのが、怖い…だから、諏訪野さんの気持ちがわかる…よくわかる…」
「…」
「…ただ、何度も言うように、今回は、結果だけ見れば、諏訪野さんのもっとも、望んだ展開になった…」
「…」
「…だから、諏訪野さんを疑うわけじゃないが、疑いたくなる…」
ナオキが、言う…
そう、言われると、ナオキの気持ちがわかった…
痛いほど、わかった…
そして、なにより、証拠がないのが、悔しい…
証拠があれば…
と、思う…
が、
仮にあったところで、仕方がない…
FK興産は、五井と資本提携した…
ナオキも自覚しているように、遅かれ早かれ、五井に飲み込まれるだろう…
私は思った…
私は、考えた…
「…ときが、経てば、わかる…」
「…」
「…いや、わからないかも、しれない…ただ…」
「…ただ、なに?…」
「…FK興産が、完全に五井に飲み込まれ、ボクも綾乃さんも、お役御免になったとき、諏訪野さんが、ボクたちに、どう向き合うか? それで、諏訪野さんの本性がわかる…」
「…本性?…」
「…男も女も一度や二度寝ただけじゃ、なにもわからない…結婚して、あるいは、結婚しなくても、いっしょに、暮らして、初めて、どんな人間か、わかる…それと、同じさ…」
「…」
「…誰かがダメになったとき、あるいは、ボクや綾乃さんが、諏訪野さんにとって、必要がなくなったときに、諏訪野さんが、ボクや綾乃さんに、どう対応するか? それで、諏訪野さんが、どんな人間か、わかる…」
言われて、見れば、まさに、その通り…
その通りだった…
そして、おそらく、その通りの展開になる…
数年後、FK興産が、五井に飲み込まれた後、答えが出るだろう…
伸明が、どんな人間か、わかるだろう…
いや、
伸明だけではない…
諏訪野マミもまた、どんな人間か、わかるだろう…
苦境に陥ったとき、手を差し伸べてくれるか否か…
それで、その人間が、どんな人間か、わかるからだ…
いや、
それならば、私の癌の治療のときに、和子は、快く、私にオーストラリアに行く費用と手術の費用を負担してくれた…
これは、和子の善意では、なかったのか?
これは、私とナオキを引き離すためと、思ったが、そうでないとすれば、どうなる?
考えた…
いずれにしろ、ときが経てば、わかる…
FK興産が、五井に飲み込まれれば、わかる…
そういうことだ…
私が、そう、思っていると、
「…綾乃さん…今を生きよう…」
と、言って、再び、寝ている私にキスをした…
「…先のことは、わからない…今を生きよう…今を楽しもう…」
そう、言って、何度も、キスをした…
私は、黙って、それを受け入れた…
たしかに、ナオキの言う通り…
悩んでも、仕方がないからだ…
答えが出ないことを、いつまでも、うじうじ考えても仕方がないからだ…
ただ、ただ、今を楽しもう…
そう、思って、黙って、ナオキのキスを受け入れた…
私の愛するひと…
信頼できるひとが、身近にいる…
それで、いいのかもしれない…
それ以上、なにも、望む必要はないのかも、しれない…
伸明のことは、気になるが、今を楽しもう
…
精一杯楽しもう…
そう、自分に言い聞かせた…
<了>




